これがニューシネマだという空前絶後の思い違いはやめて頂きたい。
1972年。リチャード・コンプトン監督。ジョー・ドン・ベイカー、ポール・コスロ、 エリオット・ストリート、アラン・ヴィント。
ベトナム帰還兵のダニー、シューター、ファットバック、キッドの4人は、出し合ったお互いの貯金9千ドルを元手にカリフォルニアで牧場を持とうと旅立つ。途中、車が故障して困っていた女性を輪姦してしまう。いつしか、現実の社会と戦場から帰ってきた自分たちとの溝の深さに戸惑い始めていたのだ。やがて金を使い果たした彼らは盗みを働き、追い詰められていく。 (Yahoo!映画より)
朝の挨拶はこれで決まりだね。
今回は誰も観ないような映画に対して目くじら立てて独りで怒っています。紛うことなきエネルギーの無駄。
ていうか最近、こんなラインナップばっかりで本当にごめんなさいね…。ちなみにこの後も『エクスタミネーター』(80年)、『ロンゲスト・ヤード』(74年)、『スパルタンX』(84年)といったナウくてヤングな読者が興味を持たないことおびただしい二昔前のマチズモ映画の評が控えております。
この負の連鎖を断ち切りたかったらレビューリクエストをしてね。未来はあなたの手で変えていかなくちゃ。違いますか。
あ、そうそう。
以前、当ブログを病的なまでに熟読することでお馴染みのやなぎやさんから頂いていた『イースタン・プロミス』(07年)のレビューリクエストや、kurukurucureさんから頂いた「ジャケットで映画を語る特集」にも近日お応えするつもりです(記事はもう完成してます!)。
なんだかんだで読者様の声に耳を傾ける優良ブロガー。それが私だというのか!
というわけ本日は我慢して『ソルジャー・ボーイ』を読んでください。僕も我慢しました、この映画のダメさには。
手と手を取り合って、みんなで我慢していきましょう。そして同時に爆発できたらいいよね。
◆悪行珍道中の末路にあぜんっ◆
『ディア・ハンター』(78年)、『ランボー』(82年)、『7月4日に生まれて』(89年)などベトナム帰還兵を描いた映画は数多く存在するが、本作はその中でもかなり最初期にこの題材を取り上げている。だから偉いというわけではないのだが。
何事によらず、最初にやったから偉いという考え方は好きじゃない。「発明」それ自体は評価および祝福すべきことだが「その順番」を讃えてどうする。
まぁとにかく本作は、かなり最初期にベトナム帰還兵を描いた作品とされています。
事程左様に、この世には「ベトナム帰還兵もの」というカテゴリーがあるんだ。無いと思っていたキミ、あるんだ。
そこで描かれているのは社会に適応できない帰還兵と彼らに対する世間の冷たさである。
といっても、別に『ソルジャー・ボーイ』は鬱々とした内容ではない。アーカンソーからカリフォルニアを目指す仲良し帰還兵4人組のロードムービーが主になっているからだ。
そしてこの4人がどうしようもない不届き者なのである。
復員センターで除隊手続きをしながら猥談に花を咲かせ、仲間の一人の実家で夕飯にお呼ばれしたあとも、そこの家族に「ご馳走さんでした。おいしい料理をありがとうございますぅ」も言わない。ザッツ無礼千万。
さらには車の故障で立ち往生している女を乗せて輪姦した上にうっかり死なせてしまうが「今のは事故だからノーカンな」などとどえらい発言をしてへらへら嗤っている。
ゲスもここまで極まると天晴れである。
行く先々で悪行の限りを尽くす4人だが、彼らを乗せたキャデラックがガス欠になった。小さな町のガソリンスタンドに寄った4人だが、早朝だったのでまだ開店していない。ところが4人は「開店時間なんて待ちきれないぜ!」と言ってガソリンを盗もうと機械を壊し始める。その様子を向かいのアパートから目撃した町の住人が「ダメじゃないか、そんなこと!」と怒鳴ってショットガンをぶっ放してきたので、これに応戦する4人。
トランクから機関銃と手榴弾を取り出して、町人を皆殺し、町も全壊させて映画は終わる。
ポカンっ。
あぜんっ。
町人を虐殺して「おっほ」などと笑っているソルジャー・ボーイたち。「おっほ」やあるか。
◆ニューシネマの皮を被った、よくない映画◆
この映画はよくないと思う。
映画的にもよくないし、まずは何といっても倫理的によくない。
べつに女を輪姦して殺したり、小さな町を全壊させた彼らの行いがよくないと言っているのではない。そんなアウトサイダー映画はゴマンとあるし、むしろ私も大好きなぐらいだ。『バルスーズ』(74年)とかね。
本作の倫理的問題はアメリカン・ニューシネマの皮を被っているという点にある。
虚ろな主人公、渇いた空気、空虚な人々、冷たい世間。そしてやり場のない怒り。
そうしたニューシネマ的モチーフで糊塗している本作だが、その実 テロや殺人に興じるベトナム帰還兵たちが自らの力を誇示しているだけである。
彼らには、戦争によって理性を奪われ、人間としての尊厳を踏みにじられ、夢も希望も破壊されたという「悲しみ」が決定的に欠落している。
たとえば『ランボー』という映画。これはアクション映画でも何でもなくて遅れてきたニューシネマだ。
ベトナム帰還兵のランボーが死んだ戦友の故郷を訪ねるが、町の人々からは冷視され、警察からは拷問を受ける。
「この人殺しが!」
とかくこの世は世知辛い。だからランボーはぶちぎれて大暴れする。
「俺が何をしたと言うんじゃああああ!」
だが決して人は殺さない。わざと急所を外して追手の警察をナイフで切りつけるか、天に向けてマシンガンをラタタタタとぶっ放すだけ。
ベトナム帰還兵がどれだけ酷い差別を受けてきたかという歴史的背景を知らない人には『ランボー』はただのキチガイ暴走映画に映るだろうし、そこに漂う悲しみも感じ取れないだろう。
「エイドリアーン!」と叫びながら天に向けてマシンガンをぶっ放すランボー。
だが『ソルジャー・ボーイ』とかいうふざけた映画には、そうしたニューシネマ的バックボーンが皆無。
ただ殺人マシーン4体の無軌道なぶっ殺し珍道中が描かれているだけ。先述したように、それ自体は何の問題もないが、それをニューシネマのフォーマットに落とし込んで「彼らは悪人ではなく戦争の犠牲者なのです!」というツラをしていることに問題があるのだ。
これは明らかにニューシネマの倫理に抵触している。ニューシネマの倫理とは「破滅の美学」と「体制による個の圧殺」だ。
どっちもない!
レビューサイトを閲すると「これは『タクシードライバー』(76)に通じるニューシネマだ!」などとチャランポランなことを書いているレビューがあったが、何をどう見誤ったらそう感じられるのか、逆に興味があります。
個人的にはどちらも嫌いな映画だけど、『タクシードライバー』の方がよっぽどニューシネマだよ! ロバート・デ・ニーロ演じるトラヴィスは怒りと孤独によって狂気と化した男なのだから。
だが本作には、怒り、狂気、孤独、悲しみ…。
なんにもない!
ただDQNの生態が能天気なロードムービーに乗せられているだけ。
「アメリカは俺たちを愛してくれなかった…」なんてキャッチコピーがついていたり、「戦場の英雄たちの虚しい青春の末路が戦争が奪ったものは何だったのかを問いかける」などと尤もらしく紹介されているが、これがニューシネマだという空前絶後の思い違いはやめて頂きたいし、自己憐憫もいいとこである。
つい頭にきてエンドロールの画面に向かって「死ね!」と毒づいたが、本作を撮ったリチャード・コンプトンはとっくに死んでいた(07年没)。
ごめん…「死ね」は言い過ぎた。
悪行の限りを尽くすソルジャー・ボーイたち。いい年こいたおっさんが、何がボーイじゃ。
◆全編通して一本調子◆
映画的瑕疵をいくつか論う。
どうでもいいけど、「論う」と書いて「あげつらう」と読ませるのって無理があるんじゃない?って昔から思ってます。浸透しないんじゃないかなぁ、この読み方…。
第一に、ショットもカットも弛緩しているので地獄みたいにモッタラモッタラと進む。たった92分の映画だけど、途中で3回ぐらい居眠りしちゃった(もちろん巻き戻して観てますよ!)。
カメラの質がテレビ映画のそれなので映像はチープ、クソみたいな田舎道をぷんぷん走ってるだけの鈍臭いショット、無味乾燥のダイアローグなど、文句を言い出すとキリがないのだけど、致命的なのは全編通して一本調子というか、ハッとする瞬間がどこにもないことである。
たった34万ドルで撮られた『イージー・ライダー』(69年)の方がよっぽど見栄えがよく、前衛的で、緊張感が漲っている。
そんなわけで、『ソルジャー・ボーイ』はニューシネマ好きこそブチ切れるべき映画だと思います。ちなみに本作はTSUTAYA発掘良品でガツンと展開中!
発掘せんでええ、こんなもん。埋めとけ埋めとけ。