シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム

おれは、ボウイを知らないあなたのことが、大好きだ。


2022年。ブレット・モーゲン監督。ドキュメンタリー映画。

世界的ロックスター、デヴィッド・ボウイの生涯を追ったドキュメンタリー映画の最新版。これを見ればデヴィッド・ボウイのすべてがわかる!
…な~んてあるわけねえだろバーカ!


あすあす、ご苦労さん。
大学の新入生合宿研修の夜に、初対面の奴らとマジカルバナナしてて「リンゴと言ったら赤い♪」ときたので「赤いといったら共産党」つったら変な空気になってアウトにされたから「アウトといったらサイダー」つって何かの挽回を試みたけど、またぞろ変な空気になったとき、高校から一緒だった友人が「おまえや。アウトサイダーは」と言ってくれたおかげでみんなケロケロ笑って場が和んだもののさ~~…
「おれ、もうちょっと評価されてもよくない? 『赤いといったら共産党』でアウトになっても挫けず、咄嗟に『アウトといったらサイダー』で巻き返しを図ろうとした、この張りきり。合宿の夜ならではのファイト。もうちょっと評価されてもよくない? 友人の『おまえや。アウトサイダーは』にぜんぶ掻っ攫われてるやん。漁夫の利やん。むちゃむちゃ噛ませ犬やん。おれ。友人を際立たせるための添え物やん。シンデレラに出てくる義理の姉さまやん。『ゴッドファーザー』(72年) で首絞められて殺されたルカやん。『るろうに剣心』で我がで骨折した尖角やん。『ポケッツモンスツー赤・緑』のゴールデンボールブリッジの1人目やん。しからずんば2人目やん。お弁当に入ってる味せえへんスパゲティやん。布施明の『君は薔薇より美しい』における『歩くほどに、踊るほどに、ふざけながら、じらしながら、あーあーあーあーあーき~み~は~~』のとこやん。むしろその後の『テテッテッテッテテテテン♪』やん。『変わった~~』を飛ばすための滑走路やん。居酒屋のお通しで出されるキャベツやん。やみつきキャベツならともかく、ただのキャベツやん。なんやねんアレ。いらんねん。誰が喜んで食うねん。見たことないぞ。「うまい~」ゆうてバリバリ食うてるやつ。『こちらのキャベツおかわり自由ですので~』やないねん。するかあ。イモムシやん。蝶ちょになったろか。舞い狂ったろか」って思ったから、爾来おれは、物語の中の噛ませ犬っていうか、あまり目立たず、主人公を引き立てるキャラクターをこそ注視するようになったのよ~~~~。
『北斗の拳』でいうレイ。『けいおん!』でいう律っちゃん。『ツイン・ピークス』でいうオードリー・ホーン。劉備および五虎大将軍がみんな死んじゃったあとに諸葛亮が主人公になった『三国志演義』における姜維。『ハートキャッチプリキュア!』でいうキュアサンシャイン。

ほんでマジカルバナナてなんやねん。
ようよう考えたらよォ。
どのへんがマジカルやねん。
「叩いて被ってジャンケンポン」もわけわからんわ。時系列おかしない? 先にジャンケンすることでピコピコハンマーで叩く側とヘルメット被る側を決めるんやろ? ほなジャンケンしてから叩いてかぶろうちゃうの?
なんやねん「叩いて被ってジャンケンポン」て。先叩いてもうてるやないか。なんで叩いて被ったあとにジャンケンすんねん。今さら何を決めんねん、そのジャンケンで。事後やろ。戦後処理としてのジャンケンか? ポツダム会談か。

そんなわけで本日は『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』です。



◆モノリスをさがして◆

 美大時代のおれはデヴィッド・ボウイに狂っていた。ついぞアートの何たるかを知らず、その理解の糸口を求めるように映画、音楽、文学、絵画を渉猟していたころだ。そのすべてを包摂していたのがボウイだった。
「デヴィッド・ボウイを」のあとに続く述語は「聴く」だけではない。
デヴィッド・ボウイを観る。
デヴィッド・ボウイを読む。
デヴィッド・ボウイを考える。
ボウイとはアートの思念体であり、芸術人類学がネクストステージに進むための秘密の鍵かもしれない。
ボウイは1999年の時点で、21世紀がコンピュータネットワークの台頭により“スターの形骸化”と引き換えに大衆の自己顕示欲が新たな世界(ビジネスモデル)を形成することを言い当てていたし、アートの価値がメディアや大衆によって相対的に変容(ありていに言えば低下)することも看破していた。

ぜんぶその通りになった。

スター不在の浮世ではYouTuberやTikTokerといったくだらない一般人がトレンドリーダーとなり、映画や音楽はサブスクリプションやストリーミングによって呆気なく消費されてしまう。あるいは、ボウイが別の惑星からやってきた両性具有のバイセクシャルなロックスター「ジギー」に扮して幾年なりや、今やすっかり男と女の境界をなくそうという社会運動!
彼の目に“世界”はどう映っていたのだろう?
その答えを知るために、人はボウイを聴き、読み、考え、そして観る。ボウイが遺した音楽や映像作品、それに膨大な思想や発言は、人類の叡智というものを究極的に哲学化した“ネクストステージへの鍵”かもしれんのだ。大袈裟だと思うか? 勝手に思ってろ。『2001年宇宙の旅』(68年) のラストシーンで、モノリスによってボーマン船長は人類を超越したスター・チャイルドへと進化を遂げるだろ?

デヴィッド・ボウイとはモノリスなのかもしれない!!!

 『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』は、そんなモノリスを探し続けた美大時代の4年間が鮮烈にフラッシュバックしたドキュメンタリー映画だった。
覚悟はいいか、面倒臭えぞ。



 本作は全編にわたってボウイ本人によるナレーション(インタビュー音源)によって進行する。
なんて素敵だというんだ。「関係者」などという、およそ当人の本質とは最も無関係な訳知り顔野郎―通称ダレヤネンによる「ボウイはああだったよ」「こうだったよ」がないのはドキュメンタリー映画として全幅の信頼に値する。
しかもデヴィッド・ボウイ財団が隠し持っていた、マニアも初見の秘蔵映像のつるべ打ち。さらぬだに、既存の写真や映像素材をサイケデリックな美的センスで編集/加工した監督ブレット・モーゲンの手腕により、「ボウイのドキュメンタリーなんてさんざ見てきたわ」というスターマンたちも、その“ボウイ風”の目くるめく映像世界に陶酔する。
畢竟、カットアップに近い手法で切り貼りされた発言/映像/編集によって「ボウイを考えるヒント」が随所に散りばめられた“視覚的にも楽しめるボウイ攻略本”のようなすばらしい作品だった、と声を大にして唱えておく。

ちなみにカットアップというのは、テキストをランダムに切り刻んで再配置する、ダダイスム由来の文学技法のこと。『裸のランチ』や『ブレードランナー』で知られるビートニクの祖ウィリアム・S・バロウズの得意技だったな。
たとえば、思いついたまま単語を書き連ねた紙をハサミで切り取り、その単語が書かれた切れ端を目隠しした状態でデタラメに並べ替えると思いもよらぬ思考や着想が得られる…という寸法だ。この手法はボウイも多用していたし、ボウイの影響下にあった日本のロックバンド、THE YELLOW MONKEYの歌詞にも顕著(特に初期)。なんせ、おれ自身も映画批評で頻繁に使ってる裏技なんだよね。
偶発性が生み出す、理性では導き出せないワードやメロディ。
音楽をやったり文章を書いてる人は、ぜひ試してごらんよ!

カットアップ手法で作詞活動をするボウイ。

◆「理解したい」という意思すらもが傲りになる◆

映画が始まって1曲目に流れるのは 「Hallo Spaceboy」。尖ったセンスだ。
この曲は95年に発表されたコンセプト・アルバム『アウトサイド』の収録曲なのだが、ボウイ史を概観するうえではちょっぴり重要な楽曲で。
というのも、ウーン…。順を追って説明しような。
まず、ボウイの代表曲のひとつに「Space Oddity」という69年の曲があるわな。スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』に着想を得た、キャリア初期の名曲だ。そんな「Space Oddity」の歌詞には「トム少佐」という宇宙飛行士のキャラクターが登場する。

管制室からトム少佐へ
プロテインピルを所持し
ヘルメットを装着せよ
管制室からトム少佐へ
カウントダウン開始 エンジン点火
神のご加護があらんことを
「Space Oddity」


「Space Oddity」


「Space Oddity」は恐ろしくヒットした。と同時に「トム少佐」もボウイの楽曲に欠くべからざるメインキャラクターとなった(ボウイの楽曲には「ジギー」、「アラジン・セイン」、「痩せた青白き伯爵」などさまざまな架空のキャラクターが登場する)。
ところが、その後のボウイが80年に発表した「Ashes to Ashes」という曲は「大昔の曲に登場する、あの男を覚えているかい?」という歌詞から始まる。この曲のなかで、じつはトム少佐がただの薬物中毒だったことが明かされるのだ。まるでボウイが「Space Oddity」を演奏していたグラム・ロック期の自分を否定するかのように。実際、ボウイ自身も70年代は薬物を使用していた。
そして話は「Hallo Spaceboy」に戻る。
この曲は、宇宙にさまようトム少佐に別れを告げる内容だ。鎮魂歌とも言える。トム少佐とはボウイ自身だったのだろう。スター・チャイルドを夢見た、ただの薬物中毒者。
かように、ボウイは自らの生き様に“オチ”をつける。
オチといえば、曲名に「Star」を含むトラックが4曲も入ったロック史の金字塔『ジギー・スターダスト』で文字通りロック界の☆(スター)となったボウイの遺作が、闘病中に制作し、死の直前にリリースされた2016年の『ブラックスター(★)』だったことも忘れてはいけません。

★=黒星=死。

単なる偶然だろうか。僕はそうは思いません! 『★』は遺作になることを念頭に置いて作られたアルバムであり、われら地球人に配当されたスターマンからの遺産なのである。
人生の幕の引き際に至るまで、すべてがパーフェクト。すべてが計算ずく。自らの死すらも、アートの、そしてエンターテイメントの“手段”として利用した男だった。憎いほど、最期まで粋。あまりに粋すぎた。

火星からやって来たロックスター・ジギーに扮したコンセプトアルバム『ジギー・スターダスト』(72年) 期のボウイ。

 本作にはさまざざなボウイ語録が収録されている。あまりに深すぎて名言かどうかさえサッパリなんだが、誰でも理解できるレヴェルのものを2つばかり紹介してみよか。

「自分なりの基盤を作る。火曜は仏教徒になり、金曜はニーチェを信仰する」

これはボウイの音楽性を端的に現した発言だ。
デヴィッド・ボウイの楽曲をジャンル化した場合、初期こそロックやグラムの括りに分類されるものの、それ以降のキャリアはほぼカテゴライズ不能である。フォーク、ブルース、ソウル、R&B、ファンク、ゴスペル、ニューミュージック、AOR、グランジ、アート・ロック、エレクトロニカ、レゲエ、インダストリアル、テクノ、現代音楽、エキゾチカ、ディスコ、ハードコア。
しまいにゃあ雅楽
白人音楽や黒人音楽の枠ではボウイは捉えきれず、民族音楽をも超越して、たとえばジャパニーズ・サウンドひとつ取ってみても奈良~平安時代まで遡っての琴や、NHKのアナウンサーが報道番組でニュース原稿を読みあげるような日本語の音声をそのまま取り入れたりもしている。
そして、それらを「変化」や「多様性」などというお行儀のいい言葉ではなく、いわばただの気まぐれやポーズとして、あくまで道化を演じ続けるための“無知の演技”として手段化しているのだ。

ファッション! 右向け
ファッション! 左向け
うー、ファッション!
俺たちは雇われ自警団
そして俺たちは街にやってきた
ビッ! ビッ!(警笛)
俺の言うことを聞け 俺の言うことを聞くな
俺に話せ 俺に話すな
俺と踊れ 俺と踊るな
ファ…ファ…ファ…ファ…ファッション!
「Fashion」


「Fashion」

オーケー、次のボウイ語録だ。

「アーティストなど存在しない。人々の想像の産物だ。ディランもレノンも、僕もジャガーも。虚構だ。誰ひとり存在しない。トワイライト・ゾーンさ」

うむ。意味はわかる。意味はわかるが、本来こういう発言ってアーティスト側ではなく音楽批評家や文化評論家が切り込むべき領域だよな。
デヴィッド・ボウイは誰よりも批評=解説を必要とする難解なアーティスト(芸術家)でありながら他者の批評を封殺してしまう。
なんとなれば「ボウイってあーだよね。こーだよね」と人が口にしたとき、その遥か以前にその事柄はボウイ自身の口によってより高い解像度で自己言及されているからだ。
この批評家殺しとも呼べるパフォーマンスによって、あたかも批評家のボウイ論がまるで頓珍漢な発言であるかのように世間へと伝わり、結句「デヴィッド・ボウイ」はより深遠で、より神聖な霧の奥へと姿を消してしまうのよぉ~~。

 はるか古より伝わる悲報だ。
人は、ただボウイのアートに翻弄されるしかない。それ以外の手段はすべて奪われた。ボウイを考える思考回路でさえも。かろうじてボウイがインタビューで発する「ジャック・ケルアック」や「マン・レイ」や「コルトレーン」や「バロウズ」という音の響きを、窮地に立たされ怖気づいたレッサーパンダがようやく手にした最後の手掛かりのように後生大事に記憶に留めておくことぐらいしかできないのである。
これはおれの持論だ。

「天才は世に現れない」

“本当の天才”は世間の凡人には、まったく、何ひとつ、1ミクロンたりとも理解できないので、そもそも商業路線に乗らない。ゆえにメディアに取り上げられることもない。世に埋もれたまま死んでいく。いま現在、世の中で持て囃されてる「天才」は、あくまで“天才風”に映る才能をもった凡才に過ぎない。凡なる大衆から「あの人、天才だ!」と思われるための“技術”を使ってるだけだ。技術。才能じゃない。技術で天才を演じてるだけ。
本当の天才がスターになった歴史など、ついぞおれは知らん。
デヴィッド・ボウイを除いて。
ボウイは、われわれ凡人とはまったく別の感覚、別の思考、別の感性で生きていた。「理解したい」という意思すらもが傲りになるほどの別次元だ。
天才の見分け方はインタビュアー(他者)との対話である。大体の場合、会話のレベルが釣り合わず、ちぐはぐなやり取りになるんだよな。ところが本作のおもしろさは、そこをメタ的に取り扱っている点だ。まあ、本作に限らないのだけど、ボウイという男は“インタビュアーにも理解できる言葉”を選びながら話を組み立てている。言い換えるなら、わざと発言のレベルを落としてるわけ。なるべく平易な言葉を。感覚的にスッと入ってくる言い回しを…。
だが、発言レベルを「凡」にチューニングしてしまうことで、とかく伝えたいことが却って伝わりづらくなってしまう…ということを幾度となくおれは経験している。不遜に聞こえるかもしらんが、映画批評も然りなのだ。
だいたいなぁ~~、映画なんてもんは歴史の浅い芸術だから、もともと難しいもんなのだ。歴史の浅さゆえに批評言語が確立されてないからな。そんな「映画」を批評するうえでは難語を駆使しないとロクに伝わらんのだが、批評を読むのはあくまで一般層。難語は避けねばなるまい。なるべく平易な言葉を。感覚的にスッと入ってくる言い回しを…。
で、いま現在『シネマ一刀両断』の、このクオリティである。
ありがとう。

正味、このブログでは書きたいことの4分の1も書けてない。もはや美学と化している。本当に書きたい事ほどあえて書かないという批評精神がよ。今のおれは“批評しないという批評”という神秘の域に達してる。きらきら光ってる。
だからさ~、かかる事情を知らないヤツがたまたまシネ刀を読んで「まったくの的外れ。浅い」みたいなコメントを残していくのがいちばん腹立つのよね~。
がんばって浅く書いとんねん。
わかるか。
わざと的を外しとんねん。
ごめんな、愚痴吐いて。
「まったくの的外れ」? うむ。ほな訊くけどね、たとえばおれが的のど真ん中をスパーン!と穿った批評を書いたとして、その文章が理解できるほどオマエはどこまで映画に精通してますか。
「浅い」? ほっほーん。たとえばおれの映画論が深度1000mの深さまで切り込めたとして、その水圧にオマエの肉体はついてこれますか。絶対ムリでしょ。わかってますよ。パーン!ってなるでしょ。
「あ~ごめんムリ~」ゆうてパーン!って。
フグ破裂したみたいにパーン!ってなるのが分かってるから、あえて的を外したことを浅く書いてんですよ。おまえの映画リテラシーにも耐えうる範囲の批評をな。
…なんてことをうっかり口走ってしまうほど、ボウイのメタ自己批評言語にはエッジが立っておりましたって話。
腹立つ!!!



◆おれは、ボウイを知らないあなたのことが、大好きだ。◆

 どうしよ、これ。収拾つかんですよ。
まあ、もういいか。当ブログの記事って3章構成だけど、言いたいことなんて大体2章目で書いてるし、3章目ってほとんどお茶濁してるだけなんだよな、毎回。
だからこの3章目もお茶濁そっ♪


過日、ある知人とボウイの話をしていて、「おまえはどの時代のボウイが好きですか」と問われた。この質問には「ただし『ジギー・スターダスト』(72年) 期以外で答えよ」という意味が含まれてることを当然のように嗅ぎとったオレは“ベルリン三部作”を挙げることにした。
ベルリン三部作とは、当時ドラッグに溺れていたボウイが“健全な覚醒”を図ってドイツ・ベルリンへと居を移し、そこでの瞑想的な暮らしの中からブライアン・イーノとの共作を通じて獲得した『ロウ』(77年)『英雄夢語り (ヒーローズ)』(77年) 『ロジャー (間借人)』(79年) なる全く新しい音楽言語である。


この時期の代表曲といえば『英雄夢語り (ヒーローズ)』に収録された「Heroes」だろう。近年では映画『ウォールフラワー』(12年) 『ジョジョ・ラビット』(19年) でも使用されている。ベルリンの壁の傍らで落ち合う恋人たちを歌った歴史的名曲だ。
歴史的名曲。
オイ。大袈裟に言ってるわけでも、いわんや比喩でもないぞ。「Heroes」はベルリンの壁崩壊の転機となった大変な曲なのだが、ああチキショウ…長くなるからこの話はいいや。


「Heroes」

 『英雄夢語り (ヒーローズ)』はすばらしい名盤だが、おれのお気に入りは『ロウ』なのだ。「ベルリン三部作の中で」という括りを越え、「ボウイの全28枚のスタジオ・アルバムの中で」という括りさえ越え、「生涯オールタイムベスト10枚」の中にすらぶち込んでやろうと思っている。
この決断は勇気がいるぞ~~?
なにしろトータルランタイムが38分しかなく、そのうちの半分、つまりB面が全曲インストゥルメントゥルなのだ。
あるいは先進的すぎるサウンドゆえに、時期、境遇、精神状態など、一定の条件が整ったときにしか『ロウ』の音は聴こえない。
たぶん今のおれにはまったく聴こえないだろう。不謹慎なシャレだが「聾(ろう)かな?」みたいな。いつ聴いてもいいと思えるわけではないから、その意味では「オールタイムベスト」ですらないわけよ。
どないやねん。

『ロウ』(77年)

でも、血湧き肉躍る心臓ブチ抜き体験なんてもんはいつだって一定の条件が整ったときだけじゃん。そうじゃん? 高校の美術教師と芸術談義で大喧嘩した翌週に観た『エル・トポ』(70年) や、すべての価値観の底部に“死”を置いてしまえばおよそ人生のほとんどがコメディに転じることを考えはじめた19歳の10月にたまたま読んだ太宰治の『もの思う葦』とかさ。
『ロウ』もまた「美大で芸術を学ぶことそれ自体が反芸術の身振りではないかしら。おれはアホか?」と自家撞着に陥り、心がロウに、そして体も蝋になっていた時期に聴いていたアルバムなのだ。
だから当時のおれには『ロウ』の音が65%ぐらいは聴こえていたと思う(これでも遠慮してる方よ)。だが残りの35%はまったくの未知。イライラしたから美大の教室で「Art Decade」を大音量で鳴らしてたら色んなヤツから苦情がきた。「ええっ!Art Decade(アートの時代)って曲なのに?」と思ったが、美大=アートの学び舎で流してさえ、ボウイの『ロウ』は理解されないのか…と思うと妙に溜飲が下がったというか、なんかもう全てがアホらしくなってサッパリしたもんだ。


お気に入りの『ロウ』から「Sound And Vision」(2014年リマスター版)。


 ボウイがベルリン三部作のあとに出した『スケアリー・モンスターズ』(80年) は80年代の夜明けを告げることに成功した。
このアルバムの「Ashes to Ashes」の中で、かつてのスター「トム少佐」が薬物中毒者だったことが明かされ、「Fashion」は80年代という新たなディケードが虚飾にまみれた時代であろうと看破した。
その次にリリースしたアルバムが、全世界で爆発的なヒットを記録した『レッツ・ダンス』(83年) だ。丁度ここらが“ボウイを知らない人が知ってるボウイ”だな。大島渚の『戦場のメリークリスマス』(83年)に出演した年でもある。
来るべき80年代という怪物の動きをすべて見切っていたボウイは、悠々と“アーティスト”から“ポップスター”へと衣装替えすることで、自らを薬物中毒へまで陥らせた“アーティストの苦悩”をすべて降ろすことに成功した。重い荷物を降ろしたことで肩もずいぶん軽くなっただろう。
踊った。そして人々を躍らせた。
「Let's Dance」はディスコブームが飽和化を極めた1983年、賞味期限ぎりぎりのタイミングで、マイケル・ジャクソンの「Beat It」やアイリーン・キャラの「Flashdance... What a Feeling」やデュラン・デュランの「Hungry like the Wolf」に紛れる形で滑り込み、その撃ち逃げは見事成功した。当時のボウイにとっては目論み通りなのだろう。平坦に大衆化された「Let's Dance」は凄まじいスピードで消費された。
大いなるゴミだ。

だがおれは、果てなき芸術問答に留飲を下げ、すべてがアホらしくなってサッパリした身。そんなおれに、当時おれ自身が最も嫌っていた商業主義の権化とも呼べる『レッツ・ダンス』はえらくクリアに聴こえたもんだ。
たとえば、レオス・カラックスの『汚れた血』(86年) や、その直接的な影響下にあるノア・バームバックの『フランシス・ハ』(12年) でも使われた「Modern Love」のリフは掛け値なしに格好いいし、とりあえず困ったときに入れるカラオケの十八番でもあります。
その他、中華街ポップとも称すべき中国歌謡「China Girl」の気怠さや、ポール・シュレイダーの『キャット・ピープル』(82年) の主題歌として制作された「Cat People」の都会的な妖しさといったらない。タランティーノの『イングロリアス・バスターズ』(09年) の挿入歌にも使われていたね。


「Modern Love」

そんな『レッツ・ダンス』のトリを飾ったのが、クイーンとの共作曲「Under Pressure」。ボウイとフレディ・マーキュリーがワンフレーズずつ交互に歌う、言わずもがなのロックアンセム。日本でいうところの桑田佳祐&Mr.Childrenの「奇跡の地球」。
その地球規模版。
この「Under Pressure」は“装置”としてズルいのよ。この曲が収録されてるせいで、ジギー期のボウイに熱狂していた古参ファンにとって『レッツ・ダンス』は批判したくても批判できない…それこそ先に述べたような「批評封じ」の魔力によって、おもっくそ商業主義に走った『レッツ・ダンス』をも“ボウイの音楽的変遷の過渡期”として区切らねば(いわば「評価せねば」)ならない…という線分のジレンマが周到に仕掛けられているの。
ボウイを語るときに発するわれわれの言説は、すべからくボウイによって予知され、操作されている。
自由研究のために捕獲され、虫籠に入れられた気の毒な蟻だ。ボウイの想定通りの枠=世界のなかで、そこから脱しようともがいてみたり、慎ましく巣を作るなどしている。


「Under Pressure」を贅沢にも2017年のリマスター版で聴いてみたい。

 デヴィッド・ボウイ。
かつてないほど時代を席巻したロック界のカルト・スターだった。にも関わらず、『レッツ・ダンス』以降のキャリアはあまり知られていない。
いや、“かなり”知られていない。
キャリア初期から盲目的に追い続けてきたマニアックな古参ファンでさえ『レッツ・ダンス』以降は急速に興味を失い、新譜のタイトルすら知らないというのだ。おもしろいだろ。こんな現象ほかにあるけ? 普通、新譜を聴かずとも、かつてはせんど聴き狂ったミュージシャンだ。音楽雑誌やテレビやラジオ、せめてチェックぐらいはするよな。何らかの経路で“知識”くらいは入ってくるだろ?
それすらナイんだよ。
「ボウイファン」の大部分は、ファンにも関わらず80年代後期以降の活動をほとんど知らない。
それもそのはず。『レッツ・ダンス』の翌年にリリースされた『トゥナイト』(84年) 以降のアルバムは古参ファンをしてさえ……否、古参ファンなればこそ「駄作」と言わしめるような作品のつるべ打ちであり、あたかもカルト・スターとしてのボウイに熱狂していた人々が実はただのミーハーだったことを自白するかのように、かつてのファンたちはボウイを見限った。
なるほど、『ネヴァー・レット・ミー・ダウン』(87年) は今聴いても最低なアルバムだし、『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』(93年) は何度聴いても前頭葉に残らない。この頃のボウイは完全に行き詰まっていた。「ティン・マシーン」なんてまぬけなバンドを組み、同名義でリリースしたアルバム2枚も“ロックンロールの古めかしい反復”として栄光の陥没点へと滑り落ちていった。

だが、理解すべき時はきた。
たしかに80年代はボウイの停滞期だったが、同時にこうも考えられる。当時の人々の感性が停滞してたのかもよ?
これって「天才あるある」なんだよな。天才の作品が時空も次元も超えて一周も二周もして、もはや常人の理解を超え、逆に「駄作」と評され世に埋もれちゃうパターン。「あるある」どころか、ほぼそれかもね。
美大時代にブックオフ東寺駅前店の250円ワゴンで見つけて購入した『アウトサイド』(95年) は凄まじく退屈なアルバムだったが、10年経ってやっと気づいた。
凄まじく退屈だったのは当時のおれの感性の方だった。
インダストリアル・ロックという概念さえ知らなかったのだ。『アウトサイド』は猟奇殺人を追うネーサン・アドラーという探偵を描いたコンセプトアルバムで、そのライナーノーツは「ネーサン・アドラーの日記(ベビー・グレース・ブルーの儀祭殺人事件)」と題されていた。まるで『ツイン・ピークス』じゃねえか。長編小説の頁をめくるように、じっくりと“読まねば”ならないアルバムだったのだ。
ちなみにこのアルバムに収録されている楽曲は、デヴィッド・フィンチャーの映画『セブン』(95年) やデヴィッド・リンチの『ロスト・ハイウェイ』(97年) でも使用されている。

『アウトサイド』の世界観。

 続く『アースリング』(97年) は大嫌いなアルバムだ。なんて忌々しいんだろう!
当時流行っていたドラムンベースやジャングルを取り入れたテクノ系で、これを聴くぐらいなら浜田雅功の「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント〜」を聴いていた方がよっぽど楽しいといった心持ち。
次作『アワーズ…』(99年) 。90年代を丸く包括したアルバムである。音も設計も発想も、すべてが丸い。ゆえに人がスッと理解できる唯一にして最後の、そしてべつだん楽しくもないアルバムともいえる。難儀なもんだろ?
続くは『ヒーザン』(02年) 。“異教徒”を意味するアルバムタイトルだ。「懐かしい」なんて言ったら不謹慎かもな。この時期はアメリカ同時多発テロ事件によって世界中のミュージシャンが同事件に着想を得た(退屈きわまりない)コンセプト・アルバムを競うように発表してたのよ。『ヒーザン』もまた9.11を彷彿させるような歌詞や音楽性だったが、アルバムの制作時期が事件前であることから偶然タイミングが一致しただけだったことが証明された。
また予知したのかボウイは! としか言いようのない状況が巻き起こっていくぅ。

後期の4枚。

そして次作『リアリティ』(03年)
バラエティに富んだ、タフなアルバムだ。
ことに印象的なのはジャケットデザインで、そこには『リアリティ』という題にも関わらずデフォルメされたボウイの抽象画が。

衝撃を受けたおれ、「なんて逆説だ!」と叫んだものだが、さて、いま改めて見てみるとスッと腑に落ちた。
バーチャルリアリティの仮想空間そのものじゃん。
逆説でも何でもなかった。ただの“やがて訪れる未来”のアートワークでした。どこまで先を予見していたのか。背筋も凍る。


『リアリティ』。この絵は抽象か具象か?

ボウイ、56歳。
この歳に動脈瘤を患ったことで創作に対して消極的になり、一部の映画出演を除いて半隠居生活へと入りメディアから姿を消す。人はボウイを忘れた。さまざまな伝記書籍が発売され、過去のアルバムは何度も何度もリマスター化された。ネット上ではあたかもボウイを過去の偉人のように神話化し、ロック界の伝説として語り継いだ(おれもその内の一人だ)。
そして10年が経った。
2013年。忘れもしない。ボウイの66歳の誕生日に突如「Where are we now?」なる新曲が配信され、そのわずか2ヶ月後に10年ぶりとなる新譜『ザ・ネクスト・デイ』が発売された。
涙が出た。


「The Next Day」のMVは、イエス・キリストに扮したボウイが下品なパブで歌い散らかすという禁断の中身(世界中の宗教団体から抗議された)。ゲイリー・オールドマンとマリオン・コティヤールが出演している。「リッスン!」。


「The Stars」には長年ネタ的にボウイと同一人物説が囁かれていたティルダ・スウィントンが満を持して出演。『アウトサイド』以降のエログロ・シュールな世界観を心身症的なリンチワールドでまとめ上げたMVは過去最高の出来栄えだがなかなかに過激(年齢制限付き動画)。
「ウッフッフッフ~、ウッフッフッフ~」。

当時、この作品は世界的な話題となり、ボウイを慕う様々な(本当に様々な)著名人が大喜びし、ファンも批評家もこぞってボウイのカムバックを祝福した。

「最高傑作だ」
「完全復活」
「ありがとー」
「ボウイは不滅だ」
「新たな神話の始まり」
「ザ・ネクスト・デイ」
「ボウイ最高」
「ありがとー」

だが、おれは思ったね。
これは“表現者の強情”なのかも。
かつての実験精神はなく、かといって退嬰的な印象も受けない、いわば10年越しに『リアリティ』を高いレベルで焼き直したような、バラエティに富んだ大人のロックアルバム。良くも悪くも中道。だが滅びゆく音。
そしてジャケットワーク。ロック史上極めて有名なアルバムジャケットのひとつである『英雄夢語り (ヒーローズ)』を自己引用し、その中央部を正方形で白抜きした挙句、なんとも味気ないフォントで「The Next Day」

こちらが『英雄夢語り (ヒーローズ)』(77年) のジャケット。



で、こっちが『ザ・ネクスト・デイ』



これほど強烈なセルフパロディを、ついぞおれは知りましぇええええん!
つまるところ、このアルバムは太宰で言うところの『斜陽』。北斗の拳で言うなら死兆星を見てしまったレイ。表現者にとっての最後の意地なのだ。余命幾許もない芸術家が吐血しながらも最後に見せた“強がり”。と同時に、そんな身振りが看破されていることへの“恥じらい”から来る自虐の後奏曲なのだ。
少なくともおれはそう受け止めた。だから涙した。「ボウイは不滅」? 滅びの音が聴こえないのか。「ネクスト・デイ」? ラスト・デイの始まりだよ。

2016年。
新譜『ブラックスター(★)』(16年) がリリースされたのは、ボウイの69回目の誕生日にして、死の2日前である1月8日だった。
あえて多くは語らないが、アルバム名の意味と発売日のタイミングからして、緞帳(どんちょう)が降りる寸前に客席へと放たれた“道化師からの遺言書”としては有史以来完璧な作品ではないかしら。自らの人生―キャリアの終焉さえも演劇化し、その死を“物語”としてドラマタイズするセルフプロデュースというか何というか…。
ボウイという傀儡師がボウイという操り人形を動かしていた、あまりに壮大で、あまりにいりくんだ自作自演。
そこに囚われた者の気持ちがわかるか!?
未だにおれはボウイについて論考するたび、「この思考の経路すら予めボウイによって周到に敷かれたレールの上に乗せられてるだけではないかしら」と邪推しては、どうにかそのレールから脱しようと更に思考を先鋭化させても、それすらもがボウイの想定した舞台のうえで決められたセリフを口にしている町人Aの身振りではなかろうか…という堂々巡りの無限退行を演じているピエロのような気持ちををををををををををををををををを!!
ああぁぁったまオカシクなるうううううううううううう!!!!!


もしも、あなたがボウイを知らない“幸福な人民”なのだとしたら、おれは心の底から「おめでとう」と言いたいし、意味はわからんが、脈絡もなく「ありがとう」とも言いたい。
おれは、ボウイを知らないあなたのことが、大好きだ。
そんなあなたにこそ警告したい。デヴィッド・ボウイは聴かない方がいいし、『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』も観なくてよろしい。よく言うだろ。知らぬが仏。これは皮肉でも反語でもない。老婆心だ。真心だ。Thank you for your kindnessだ。
実際、美大時代にボウイと出会わなければ、こんなおれだってきっともっと真人間になれたのかもよ!!?


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