なんでもかんでも野球に例えるデンゼル漫談映画。
2016年。デンゼル・ワシントン監督。デンゼル・ワシントン、ヴィオラ・デイヴィス、スティーヴン・ヘンダーソン。
1950年代の米ピッツバーグ。トロイ・マクソンは、妻ローズと息子のコーリーと暮らしている。彼はかつて野球選手だったが、人種差別によってメジャーリーガーの夢を絶たれ、今では苦しい生活を送っていた。ある日、コーリーがアメフトのスカウトマンに見出され大学推薦の話が舞い込んでくる。しかしトロイは進学に反対、夢を見過ぎたと責め立て、家の裏庭のフェンス作りを強制的に手伝わせる。息子の夢を完全に潰してしまったトロイ。親子関係に亀裂が走り、ふたりを見守っていたローズとも激しく衝突することになるが…。(Amazonより)
ぷるるっふゥー。みんなどう!
めっきり寒くなってきたので、最近はビールから焼酎のお湯割りに鞍替えしてどうにかやってます。
ていうかレビューストックが尽きそうで、毎回記事をアップするたびに「あぁ…弾ひとつ減った」って、なんか損した気分を味わっている今日この頃です。
ていうか大体この時期から年末にかけては毎年半ギレで過ごしてるので心身ともにクタクタになるんです。まずハロウィンにキレるでしょ。その次にクリスマスにキレて、年末のカウントダウンにキレて、初詣にもキレますからね。人々が浮かれるイベント事が大嫌いなんですよ。騒ぐ暇があったら精神統一をして映画を観ろと言いたい。
さて本日。昨日の予告通り『気ままな情事』を取り上げるつもりだったけど、さっき読み返してみたら壊滅的に面白くなかったので止めじゃ止めじゃあー!
たとえよく書けてたとしても、誰が1964年のイタリア映画なんかに興味あんのじゃあー!
やめて正解じゃ、こんなもん。
というわけで代打は『フェンス』です。元野球選手の落ちぶれ生活が描かれた苦い映画ですよー。
◆俳優が監督業をすると大体失敗する◆
男53歳、メジャーリーグの夢破れて現在はピッツバーグでごみ収集作業員として安月給を稼いでいる。家族は18年連れ添った妻、それに34歳と17歳の息子が二人。長男はミュージシャンになるために家を出ていき、高校生の次男は野球選手になるのが夢。親友と呼べる人間は毎朝いっしょにごみ収集をしている同業者のみ。
家の周りにフェンスを立てるために毎日庭にいるが、だいたいは妻と親友相手に酒を飲みながらくだを巻いている。それによく死神と戦う。枕頭に現れた死神を殴り合いの末に組み伏せたらしいが、真偽のほどは不明。
弟は第二次大戦で脳が半分吹き飛んでおかしくなってしまった。鳴らないトランペットをいつも肩からぶら下げている弟は、聖ペトロが番をする天国への門を開くために鋭意努力しているが地獄の番犬を追い払うことに忙しくてなかなか門を開けられないらしい。
デンゼル・ワシントン演じる主人公の経歴や家族関係が彼の口からノンストップでまくし立てられる開幕20分、観る者は徐々にデンゼルの話術に惹きこまれる。もしくはうんざりするかもしれない。
そしてこの映画が彼の家の庭を主舞台とした会話劇であることに気づく。デンゼル・ワシントンとヴィオラ・デイヴィスがブロードウェイで披露した演劇をデンゼル自身が映画化したもので、彼にとっては3度目の監督作品である。
周知の事実かどうかはわからないが、俳優が監督業に手を出して成功した例は少ない。
ロバート・レッドフォード、ケビン・コスナー、ジョディ・フォスター、ベン・アフレック、ジョージ・クルーニーなど、何かにつけてメガホンを取りたがるハリウッドスターは多いが、えてして駄作、よくて凡作、たまに「俳優にしてはよくやった」止まりの作品が大部分を占めるわけで、傑作ともなるとほぼゼロに近い。私の知る限りはチャールズ・ロートンの『狩人の夜』(55年)ぐらいだ。
考えてみれば当然の話だが、俳優は「撮られるプロ」であって「撮るプロ」ではない。
ごくまれに撮る才能を持って生まれたのに間違えてカメラの前に立ってしまったウェルズやイーストウッドのようなキメラもいるが、ありゃあ例外だ。キメラだから。
私は、俳優が監督業に手を出すのは非常に厚かましいことだと思う。「事の重大さを理解しろ!」と叫んでカチンコで頭をカチンコしたくなるわけだ(だからブラッド・ピットのような思慮深くて頭のいい俳優は監督業ではなく製作のみに徹する)。
◆戯曲を映画化すると大体失敗する◆
したがって大好きなデンゼル・ワシントンが撮った『フェンス』にも少々厳しいことを言わねばなりません。つらいです。僕はこれまでデンゼルの悪口を言ったことがないんです。だってあまりに偉大な俳優だもの。
デンゼル兄貴っつったら、そりゃあオメェ、黒人初の映画スターとして皆さんおなじみのシドニー・ポワチエの血脈を引いた名優で、80年代以前の映画界における黒人俳優の扱い(奴隷かチンピラか娼婦の役ばかり)に革命を起こしたことで知られるスターなんだしよ。
だが「映画監督デンゼル・ワシントン」となると話は別。
周知の事実かどうかはわからないが、戯曲を映画化して成功した例は少ない。
『熱いトタン屋根の猫』(58年)、『渇いた太陽』(62年)、『真夜中のパーティー』(70年)、『デストラップ・死の罠』(82年)、『摩天楼を夢見て』(92年)など、何かにつけて映画化される戯曲は多いが、えてして駄作、よくて凡作、たまに「戯曲にしてはよくやった」止まりの作品が大部分を占めるわけで、傑作ともなるとほぼゼロに近い。私の知る限りはフランソワ・オゾンの『8人の女たち』(02年)ぐらいだ。
考えてみれば当然の話だが、戯曲とは「演劇」であって「映画」ではない。
映画と演劇の違いはカメラの有無である。映画はクローズアップやディープフォーカスといった撮影技法を用いることで「作り手が見せたいもの」を作為的に提示することができるが、演劇はカメラを使わないので「ここを見て欲しい」といって舞台上のある一部を強調することができず、もっぱら観客は見たいところを自由に見ることのできるメディアだ。
また、演劇は舞台という完結した世界の中で一切が進行していくが、映画の場合はカメラを横に振った瞬間にそれまで映ってなかった景色が映るわけで、フレームの外側にも世界は地続きに存在している。
さらに言えば、カメラは「映す」だけのものではなく「隠す」ためにも使われる。何かを目にして驚愕する人物にカメラを向けるとき、カメラは人物を「映す」と同時に、その「何か」を隠してもいるからだ。「映っていないもの」も含めて映画なのである。
いま簡単に挙げた映画と演劇の構造的な違いを(本作も含めて)戯曲を映画化した作品の大部分はまったく分かってないので、ただ役者同士が狭い部屋で演技合戦をするさまにカメラを向けただけの撮りっぱなし状態が起きる。
本作も例にもれず、夫婦役のデンゼルとヴィオラが終始圧巻の芝居を披露するという完全芝居主体のコンセプトなので、どこにも映画の息遣いが感じられない作品になっております。
何気ない撮影技法が一瞬のサスペンスを生起せしめたり、ちょっとした演出がキャラクター理解の一助になったりといった工夫はどこにも見当たらないのである。
たとえばデンゼル演じる頑固オヤジは、おかしくなった弟や大喧嘩した息子のことでひどく気持ちがささくれ立っているが「俺は怒ってるんだぞ!」という顔をしながら「俺は怒ってるんだぞ!」と言ってしまっていて。
私はこういうのを感情のトートロジーと呼んでます。
トートロジー、つまり同語反復なのである。同じことを二回やってるだけ。
怒った顔をするのであれば怒りのセリフはいらないし、なんだったら両方いらないのだ。そんなことをせずとも手ブレで撮れば彼の苛立ちは十分表現できるのだから。
※手ブレ撮影には人物の怒りや不安感を表現するという効果があるよね!
「俺は怒ってるんだぞ!」という顔をしながら「俺は怒ってるんだぞ!」と言ってしまう。
そうした映像言語がどこにもなく、ただ家の庭でくっちゃべっているさまを能天気に見せ続ける139分。
長ぇよ!
私は長い映画が嫌いなのではなく「無駄に長い映画」が嫌いなのだ。なぜなら何を撮るかにこだわるあまり何を撮らないかを考えていないからだ。長い映画ばかり撮ってしまう監督というのは、とどのつまり引き算でモノを考えられない奴のことだ。
往々にしてそういう映画は「映す」ものとしてだけカメラが使われており「隠す」という使い方にはまるで無頓着なのである。そして「隠す」術を知っているのは映画監督だけ。だから俳優がメガホンを取るのは基本的に反対なんです。
◆フェンスに込められたダブルミーニング◆
勢いあまって当初予定していた以上に叩いてしまったが、とはいえ本作は完全芝居主体の映画なので、われわれはただ黙ってデンゼルとヴィオラが見せる畢生の芝居に打ち震えていればよい。生まれたての小鹿のように。
人種差別のせいでメジャーリーグに行けなかったデンゼルは、野球選手をめざす次男や貧乏ミュージシャンの長男に対して「夢を見てないで手に職をつけろ」と怒鳴って子供たちの夢を潰そうとする。
「俺は夢破れて落ちぶれた。子供たちにはこうなってほしくない」と語るが、その裏には嫉妬心が渦巻いている。自分が低賃金で汗水垂らして働く一方で、子供たちが夢に向かって羽ばたくさまが気に食わないのだ。
「羽ばたいてんじゃねえ!」とばかりに次男に野球をやめさせたデンゼルは、歯向かう次男に「うるせえ、この家では俺がボスだ!」と一喝し、わーっと庭に走りに行ってフェンス作りに没頭する。なんだこのオヤジ。
子供たちを縛りつけるデンゼルがやたらに固執するフェンス。これは家族を支配するための柵だろう。夢も金もないこの男にとって、自分の努力を証明できるものは家だけ。だからフェンスで家の周りを囲うことで、その中でのみ彼は王になれるのだ。
また、フェンスは白人社会から身を守るための柵でもある。
人種差別によって夢を絶たれたデンゼルは白人社会を憎悪しており、それゆえに子供たちが差別を受けても力強く生きていけるように「夢を見てないで手に職をつけろ!」と繰り返す。毎日庭で柵を立てるデンゼルは、きっと自分の家を白人社会から隔絶しているのだろう。
フェンスは支配するための柵であると同時に支配されないための柵でもあるのだ。
そんな夫をときに厳しく、ときに愛をもって支える妻ヴィオラ・デイヴィスが抜群の存在感を放っている。
90年代後期から脇役としてさまざまな映画に出ていたが『ダウト~あるカトリック学校で~』(08年)でようやく世間がヴィオラの才能に気づき、以降は『ヘルプ 心がつなぐストーリー』(11年)や海外ドラマ『殺人を無罪にする方法』(14年-)などで大ブレーク。間違って『スーサイド・スクワッド』(16年)にも出た。
たいていの出演作で見られる彼女の得意戦法は「涙と鼻水を垂れ流して苦悩をぶちまける」というヴィオラメソッドであり、そのエモーショナルな心情吐露で観る者を容赦なく同情の海に引きずり込む。
あ、そうそう。どうでもいいけど「ヴィオラママになっろーう、弱酸性ヴィ・オ・ラ!」というギャグを夜なべして考えたので、ぜひヴィオラに進呈します。
いっぱい使ってね。
感情爆発女優。必殺のヴィオラメソッドは誰にも真似できない。
一方のデンゼルはなんでもかんでも野球に例えちゃう男。
反抗する息子をデンゼルが目を細めて睨みつけ(通称デンゼル・アイ)、「おまえはバットを振ったが空振りした。ワンストライクだ。三振するんじゃないぞ」と脅す。これはまだわかる。むしろちょっと粋な例えだと思う。
だが、浮気していたことを告白したデンゼルがショックを受けるヴィオラママに対して、例えが入り組み過ぎて要領を得ないことを言った。
「俺は生まれつき欠陥があるのかも。バッターボックスに立つ前からツーストライクの男だ。だからインサイドをカーブで攻められてもいいようにしっかり準備しねえと。見逃しだけは許されない。アウトになるなら思いきりバットを振っての三振だッ」
野球詳しくないから何言ってっか全然わかんねえ。
例えが入り組みすぎなんだよ!
やはりデンゼル・ワシントンと言えばこの角度! セルフ顎クイ!
テーマや物語はかなりヘヴィだし、画的にも退屈、しかも139分とけっこう長い作品なのでとっつきにくさを覚える人も多いかもしれない。
実際、かなり拙い作品なので間違ってもオススメなどしないが、みんな大好きデンゼル兄貴が阿修羅のごとき独壇場を演じているので、映画ではなく演劇と思って鑑賞するぶんには最高度の芝居がお楽しみ頂けます。
いろんなことを野球に例えてべらべら喋るデンゼル漫談映画、それが『フェンス』だ。デンゼルが初めて最低男を演じた記念碑的な作品でもある。