シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

累 かさね

美女二人がチューしまくって顔がコロコロ入れ替わるといった中身。

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2018年。佐藤祐市監督。土屋太鳳、芳根京子、浅野忠信。

 

伝説の女優の娘・淵累は卓越した演技力を持ちながら、自分の醜い外見にコンプレックスを抱いて生きてきた。彼女の母親は、キスした相手と顔を取り替えることが可能な謎めいた口紅を娘にのこす。一方、舞台女優の丹沢ニナは、容姿に恵まれながら芽が出ずにいた。やがて二人は出会い反発し合いながらも、互いの短所を補うために口紅の力を使うことにする。(Yahoo!映画より)

 

どうもおはようございます。

アンダーグラウンド体質の私にとって日増しにアクセス数が伸び続けるといった現象は有難いことでもあるのだけど居心地の悪さも感じるところで…。誠に勝手ながら一度ブログ自体をクールダウンするために一計を案じました。最近になってその効果が表れてきたのか、日々順調にアクセス数が落ちております!

一日に数十万単位でPVを稼ぐブロガーの方々ってすごいですよね。肝っ玉がすげえ。

えらいもんで、多くの人に見られるようになってくると書きたいものが書けなくなってくるんですよね。良くも悪くもセルアウトっていうか、ニーズに応える文章になってきちゃう。「書いてる」というより「書かされてる」という義務感に駆られる物書きも多い。ノイローゼになって宇宙に行ってしまった物書きもいる(いません)

さて自分はどうかと言うと、そこに立ち向かう根性はないわぁーつって、このたび自分にとって『シネマ一刀両断』を居心地のいいブログにすべく店舗縮小! スタッフも解雇! ついでに坊ちゃんも解雇!

見事に心の安寧をゲットした私は、今日も今日とて映画評を書いて参ります。てなこって本日は『累 かさね』

いつも読んでくれている方々に『かさね』てお礼申し上げます。重なってないけど。

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◆オマエは誰で今どっち?◆

旬の若手俳優も定期的にチェックしておかないと精神ロートルになってしまう…という強迫観念から今回は『累 かさね』を鑑賞。えらいでしょ?

チューした相手と顔が入れ替わる、という大胆な設定の同名漫画を原作とした女同士のドロドロバトル。今をときめく土屋太鳳芳根京子のW主演である。


女優に憧れているが醜い容姿にコンプレックスを抱えている累(芳根京子)が、亡き母親の十三回忌の法要に現れた芸能マネージャーの浅野忠信に見出されて舞台の代役を務めることに。累と代わるのは絶賛スランプ中の売れっ子女優・ニナ(土屋太鳳)で、類まれな芝居の才能をもつ累は母の形見「顔面交換リップ」でニナと顔を入れ替えてスターダムにのし上がる…という中身やで。

『イヴの総て』(50年)『フェイス/オフ』(97年)を足して『シンデレラ』で割ったような映画である。顔面交換リップの基本設定はこちら。

 

①この口紅を塗るとキスした相手と顔が入れ替わる。だが12時間経過すると元の顔に戻る。

②体型は入れ替わらない。

③顔面交換中にどちらかが死ねば交換作用は永久に定着する(?)。


これ自体がなかなか面白い設定だが、それ以上に面白いのはこれが極めて映画的な設定だということ。

主演二人は「根暗な累」と「高飛車なニナ」の二役を演じ分け(というか共有)せねばならず、そのうえ女優役の土屋太鳳に至っては芝居の芝居までこなさねばならない。あまつさえ「芝居が下手なニナ」と「芝居が上手いニナ(中身は累という体)」まで演じ分けねばならないという超複雑な入れ子構造…。

一人何役なんだよ。

そう聞いて、あなたは今「画面に映ってるのは土屋太鳳だけど中身は今どっちだっけ?」と混乱することを恐れているね。大丈夫。主演二人は互いのキャラクターのクセや話し方まで細かく演じ分けているから混乱することはないんだ。さらに言えば、両者の佇まいだけで「中身は今どっちか?」ということが直感的に伝わるような撮り方までされている。

W主演という触れ込みだが要求されたモノの多さは圧倒的に土屋太鳳の方で、「三流演技の芝居」と「喝采に値する名演の芝居」を説得力をもたせてこなさねばならないわけだが、これを見事にやってのけた。

「喝采に値する名演」はもちろん難しい。我々観客に「この程度で名演?」と思われた時点で一発アウトだからな。でもそれ以上に難しいのは「三流演技」の方なんだ。わざと下手に演じるのは簡単だが、観客にそう思われた時点で芝居の芝居をしていることが露呈してしまうわけだから。そう思われないための三流演技を三流でない役者がすることはとてつもなく難しいんだ!

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12時間で効果が切れるので毎日チューする二人。頻繁に顔が入れ替わります。


というわけで本作のMVPは間違いなく土屋太鳳。

だけど個人的な理由からMVPは芳根京子へ譲られることになる。

なぜなら貌がいいから。

私のなかで、芳根京子は昨年末あたりから「10年後が気になる若手俳優ランキング」の第2位に君臨している(1位は教えてあげない)。

取り立てて華があるわけではなく、なんならギリ凡庸といった貌をしているし、今後の作品選定次第では一瞬で埋没してしまいそうな寄る辺ない若手女優だが、なかなかどうしてスクリーンに映える貌だと思う。鼻の形がスペシャルなのかな?

高畑充希や松岡茉優といった技巧派とは決して相容れぬ世界にいる女優で、極論カメラに愛されてるから芝居をしなくても芝居が成立するという生まれながらの女優。10年すると大化けする方にニベアのリップクリーム50本を賭けてもいい。

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MVPを取られた芳根京子さんであります。


◆演劇表現の功罪◆

さて。ようやく映画評に移るが、とにかく美点と欠点が目立ちすぎるぐらい目立ったイビツな完成度だった。

開幕15分で感じたことは性急な展開大仰な台詞回し

十三回忌のファーストシーンが終わり、代役として劇場に連れて来られた芳根に対して土屋があからさまに「性格の悪い女優」として食って掛かるシーンは状況がうまく呑み込めない。顔面交換リップの説明もなく、顔が入れ替わった土屋のリアクションも薄いので「どういう世界観なの?」と混乱することおびただしいのだ。極めつけは、いかにも原作マンガをそのまま援用しましたと言わんばかりのクサいセリフと、それを大声でハキハキと発する土屋&浅野忠信のセリフ回し。なんというか、観てるこっちが小っ恥ずかしくなるような作り物然とした世界観である。

だが、土屋と顔を入れ替えた芳根が演劇界のシンデレラストーリーを築きはじめる映画中盤でようやく「あること」に思い当たる。

あ、わざと演劇風の演出をやってるのか、と。

この映画がおもしろいのは、顔面交換リップで顔だけでなく人生まで入れ替わった二人が「女優ニナ」という一つの人格を奪い合ううちに実存の危機に立たされることだ。

累はニナの顔を乗っ取って嘘の人生を歩もうと企み、ニナは自分の顔を取り返して嘘の人生を断ち切ろうとする。やがて映画は「本物」と「偽物」の区別を曖昧にし、「現実」と「嘘」さえ混然一体となった暗黒の混沌を迎える。

他人の顔と入れ替わる…というモチーフが必然的に招き寄せた「嘘」や「偽り」といったキーワードを、性急な展開や大仰な台詞回しといった演劇的要素で丸ごと映像化したからこそこの映画は「嘘っぽい」のだ。

二人のプライベートな時間を映したシーン以外ではまるで演劇の舞台美術のような造形が犇めき合うのもそうした理由による。ある意味、演劇とは大仰で、嘘っぽくて、小っ恥ずかしいものだからな。

ただ、あえて「演劇的嘘っぽさ」をやったとは言え、実際これは映画なのであって、映画として観た場合にその「嘘っぽさ」が雑味になってしまっては元も子もない。

作り手の意図は十分理解できるし、頭では「なるほどな」とは思いながらも、視覚としては大いに違和感があって…。端的に言えば見づらい、不自然、気持ち悪い。

コンセプトがやや空回りした感は否めねー!

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このショットも映画というよりは演劇に近い大仰さ。

 

演劇表現を取り入れることに傾注しすぎて「映画」がお留守になってらっしゃるのだ。

すべてのキャラクターが心の声とか説明台詞を終始大声で垂れ流している状態で、これは演劇的ではあっても映画的ではない。百の言葉をひとつの顔や仕草で表現するのが映画ではないのか。そもそも言葉を使うのは映画ではなく文学の領域。セリフに頼らないとキャラクターの心情やストーリーの状況も語れないなら「小説でやれ」という話で。

演劇もまた言葉に従属した芸術だが、舞台役者が大声で説明台詞を発するのはどこをどのように見せるかという意図を持たないから。*1


「映画」のお留守はまだまだある。

累が「一杯付き合ってよ」と言ってニナにワインの入ったグラスを差し出したあとに土屋が意識を失ってブッ倒れるというシーン。ニナは意識を失うまえに「睡眠薬を盛ったわね…!」と言うが、肝心の「ワインに口をつけるショット」を撮り逃している。

そのため、モンタージュ的にはニナは睡眠薬入りのワインを飲んでないのに何故かブッ倒れたという絵になってしまうのだ。開いた口が塞がらない。


クライマックスでは念願の大舞台で『サロメ』を演じるニナ(だけど中身は累)が情念の踊りを5分近く披露するが、当然それを演じているのはニナ役の土屋太鳳。

土屋太鳳が踊っちゃうとそれはもう土屋太鳳じゃん。

ちょっとややこしいけど、言ってることわかりますか?

土屋は芳根になった体で踊りまくっているので、我々観客も「実際に踊ってるのは土屋だけどストーリー的には芳根が踊ってるんだよね?」と理解するわけだが、土屋太鳳が踊っちゃうとさ…それはもう土屋太鳳じゃん。

ダンスを得意とする土屋太鳳という女優が「太鳳、ここにあり~~!」とばかりに太鳳イズム全開で踊りまくるので、こっちとしては「中身は芳根、中身は芳根…」と必死で思い込もうとするのだが…やっぱり無理があるのよ。

どう見てもタオだもん。

太鳳が太鳳スマイル浮かべて太鳳イズム全開で太鳳ダンス踊っとるだけやないか、と。

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土屋太鳳じゃんう。「中身は芳根ですから!」とか言われても…。無理だよ。利かねえよ。


◆まとめ◆

ほかにも「おかしいだろコレ!」と思う箇所が正確に3点あるのだが、紙幅を考慮して割愛する。

とは言え、ひどい映画かと言われれば存外そうでもない。カット割りまくりでゴマかしていた顔面交換の瞬間はクライマックスでは継ぎ目なくCGで見せてくれるし、入れ替えた顔が12時間後に戻ってしまうというタイムリミット・サスペンスも良好。

二人の顔を見間違えそうになるショットを意図的に紛れ込ませたり、ニナの顔になった累が「私はニナよ」と言うだけでそこには二通りの意味が生まれる…といった題材的な旨味も熟知していて、観る者を撹乱する重畳的なミステリ要素も楽しい。

「今言ったのは本当の事なの? それとも比喩なの? そもそもオマエ誰だっけ!?」みたいなことを考えながら頭の中でひとつずつ整理して辻褄が合っていくことに喜びを感じながら筋を追っていく…という楽しみ方ね。

映像表現に関しても、人格分裂モノには欠かせない鏡の演出ぐらいは押さえてるし、亡き母の写真のコラージュで『恐怖分子』(86年)のオマージュがあったりして…思いのほか気の利く映画ではあります。


何より土屋太鳳と芳根京子が燦々と発する悪夢的光彩に尽きるのとちがうか?

「芝居」で勝負した土屋太鳳と「貌」でスクリーンを支配した芳根京子の好対照な魅力が正面衝突したある種の事件性をこそ露悪的に記録していて、私のように若手俳優に明るくない人間が「最近はこんな奴らがいるのか」とチェックする分には思わぬ収穫を発見できる作品。

「旬の人気女優がすべて晒してここまでやってますよ!」というピーキーな躁鬱展開の煽りに乗っかって興味半分で観た観客こそがいちばん楽しめる類の映画なのではないかしら。下世話な映画と言われればそれまでなんだけど。

実際、主演二人は劇中で20回ぐらいチューしてるし、美女同士のキスマニアといった変態性欲の持ち主にとってはたまらない作品ではないでしょうか。

僕は違うけどね。

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「顔が醜い役」としてはあまりに説得力のない芳根京子(逆に有難くもあるのだけど)。

 

(C) 2018映画「累」製作委員会 (C) 松浦だるま/講談社

*1:演劇はどこをどのように見せるかという意図を持たない…演劇は見せたいものを見せたいサイズで見せたいタイミングで見せる、という芸術表現を持たない。映画、絵画、文学のように「カメラ」が存在しないので「見せる」という作り手の意図は叶わず、あくまで「見てもらう」という受動的なメディアである。映画であれば主人公の手をクローズアップすれば観客は否応なく「手」を見ることになるが、カメラが存在しない演劇では観客がそれぞれに好きなところを見るので「手」を見せる術がない。ゆえに「この手にある王冠を見よ!」といった説明台詞が疑似的にカメラの役割を果たし、その不在性を補完することになる。ゆえにカメラの優位性を放棄してまで説明台詞を乱発する映画は愚の骨頂。