グランドホテル方式はここから生まれたんや。
1932年。エドマンド・グールディング監督。グレタ・ガルボ、ジョーン・クロフォード、ジョン・バリモア。
過去の想い出を引きずるバレリーナ、彼女の真珠の首飾りを狙う、カイゲルン男爵を自称する泥棒。事業が危機にある入り婿社長のプライジング、彼の速記者フレム、余命あと僅かなクリングラインの五人による、一日半の人間模様を描く。(Yahoo!映画より)
はい皆おはようございました。シャンプーや洗剤を詰め替える時ってどこまで頑張る?
わたしは詰め替え用の袋がアスパラガスの先っちょみたいになるまで絞りに絞りまくるよ。握力オリエンテッド! って言いながら。
今日は特に話すことがないな。そもそも、自分の日常を切り売りしてまでイイネを貰おうとするSNSの在り方ってブザマだと思う。イイネを集めることに生き甲斐を感じている人は、一度ベルマークの収集をしてみてはどうか。ベルマークほど手作業の不毛性を体現したものはないが、やってみると存外楽しいというではないか。収集、整理、保管。…保存。あと保管とか。
お年寄りなんかは、遮二無二集めたベルマークのコレクションをこたつの上にひらげては終日打ち眺めてることに喜びを見出してるらしい。もちろんベルマークを送れば任意の商品を寄付できるので、まるで何らかの平和運動に参画したような気持ちにもなれるという寸法だ。
また、交換商品にも様々あり、珍しいモノだとトロフィーなんかを取り寄せることもできるというのね。
何のトロフィー?
トロフィーなんて、そこが一番大事なのに。まさか…カタストロフィ?
だが、ベルマーク運動はあくまで財団への寄付という形でしか参加できないので、たとえトロフィーを取り寄せたところで、それは学校や公民館などに置かれるだろうし、下手すると「これ、何のトロフィー?」と訝しがられて速やかに破棄されるかもしれない。それこそカタストロフィだよね。
そんなわけで本日は『グランド・ホテル』について書きました。
◆ガルボとジョーン、犬猿の共演!◆
さて、本日は『グランド・ホテル』。
ホテルといえば高嶋政伸がやっていた『HOTEL』(90-98年)というTVドラマが懐かしいわけでありますが、その元祖(元祖? 元祖! 元祖?)ともいえるホテルコンテンツの金字塔が本作。古典映画を見出した人間が『嘆きの天使』(30年)や『未完成交響楽』(33年)なんかと一緒に「ついでに観とこかぁ」なんつって手を出しがちな映画よね。…いや、別にそんなことないか。
1930年代の映画にしては圧倒的な知名度を誇る本作だが、その理由はグランドホテル方式という物語類型を確立した作品として映画史にその名を刻みつけたためである。
この言葉の意味を単に「群像劇」として理解しているタブロイド思考のカタログ野郎どもが非常に多く、実際Wikipediaでも間違った記述がされているので改めて意味をおさらいしようと思うが、グランドホテル方式とはホテルのような閉鎖空間に集った面識のない人々をオムニバス風に描いた群像劇のことだ。
有名どころでは、ジャン・ルノワールの『ゲームの規則』(39年)やジョン・フォードの『駅馬車』(39年)をはじめ、『大脱走』(63年)、『大空港』(70年)、『ポセイドン・アドベンチャー』(72年)、『タワーリング・インフェルノ』(74年)、『オリエント急行殺人事件』(74年)、『コットンクラブ』(84年)、『ミステリー・トレイン』(89年)、『クラッシュ』(04年)、『明日、君がいない』(06年)、『バンテージ・ポイント』(08年)、『イングロリアス・バスターズ』(09年)、『グランド・ブダペスト・ホテル』(14年)など、挙げ出せばキリキリにキリがない…と言いながら思わずキリキリ挙げてしまうほど沢山ある。
日本でも三谷幸喜がそのものずばりの猿真似映画『THE 有頂天ホテル』(06年)をやってのけたり、ここ10年だけでも『シーサイドモーテル』(10年)、『桐島、部活やめるってよ』(12年)、『マスカレード・ホテル』(19年)、『殺さない彼と死なない彼女』(19年)など、やはり挙げ出せばキリがない…と言いながらキリキリ挙げちゃって申し訳ないほど沢山あるよなーキリキリ。
ホテル!
それは人生の縮図。ベルリン五つ星の「グランド・ホテル」にチェックインした身分も境遇も異なる客同士の悲喜こもごもが交差する2日間!
詳しい内容は次章に譲るとして、なんといっても本作の目玉はMGMのトップスター、グレタ・ガルボとジョーン・クロフォードだが、二人の共演シーンは1秒たりとも存在しない。先輩にもケンカを吹っ掛ける勝気なジョーンは、わずか1歳年上のガルボの方が格上だったために拗ねて共演を断り、それを知ったガルボも「あらそう。そこまで言うからにはよっぽど芝居に自信があるのでしょうね」と言ってジョーンの芝居を試写室でチェックするという冷戦状態で、終始互いに牽制し合いながらのピリついた撮影となった。これがいい刺激となり、ガルボVSジョーンの対立構図は大きく書き立てられ、世界中でセンセーションを巻き起こした。
ちなみに劇中でガルボが演じたのは落ち目のバレリーナ。一方ジョーンは傲慢な社長の秘書で、どちらもジョン・バリモア演じる自称男爵の宝石泥棒に恋をするというのだから映画の中でもバチバチの関係ってわけ。
サイレント期から活躍する「スウェーデンの美のスフィンクス」ことグレタ・ガルボは、AFIが発表した「映画スターベスト100」においてマリリン・モンローやエリザベス・テイラーを下して第5位にチャートイン。なお、ふかづめが発表する「古典女優十選」では堂々の第1位に輝いているっ!
代表作は『肉体と悪魔』(26年)、『椿姫』(37年)、『ニノチカ』(39年)など。
ガルボほど「神秘的な」という形容詞が似合う女優もまたといまい。
一切のプライベートが謎に包まれており、気の抜けたオフショットも撮らせなければ、メディアへの露出もゼロ。根っからの人嫌いなのでサインを求められるとにべもなく断る。握手もせず「密です!」といって足早に立ち去る。けんもほろろとはこのこと。
だが、映画俳優がプライベートやオフショットを公開することに一体何の意味が?
雲中白鶴のガルボは“銀幕に息づく虚構の像”。すなわち映画内に生き、映画外の痕跡を抹消することで自己現象化に成功したきわめて稀な非肉体的な像である。
対して、映画俳優たちがことごとくSNSを始めては庶民に媚びたり、くだらないコマーシャルで愛想を振りまいてはアホの中高生から「かわいい」だの「かっこいい」だのと持て囃されて忽ち消費される現代の絶望的なまでのはしたなさを思うと映画俳優もすっかり離乳食化したというか、銀幕という名の海では決して生きられない淡水魚のようなセコい存在になったと言わざるをえない。とても残念なことです。
スウェーデンの美のスフィンクス、グレタ・ガルボ!
一方のジョーン・クロフォードは「大女優」という語から連想されうる女優の典型的人物だ。
自分が一等賞だという自負があったし、若い芽を見たらすぐ摘み取った。執念深く、成功に貪欲で、気に入らない役があると社長に直談判するほど度胸が据わっていたのだ。バカな人間とは関わらなかったし、そのことで後ろ指をさされたとしても下等生物のどよめきとしか思わなかった。
まあ、それゆえに「大女優ってなんか傲慢なイメージあるわー」と思う人もあろうが、それは違う。傲慢でいられる確かな実力を持ち合わせているから大女優なのだ。先後関係を履き違えてはなりませんよ。
ちなみに「映画スターベスト100」ではグレース・ケリーやヴィヴィアン・リーを抑えての第10位。また、ふかづめが発表する「古典女優十選」では堂々の圏外を記録している。
代表作は『ミルドレッド・ピアース』(45年)、『大砂塵』(54年)、『何がジェーンに起ったか?』(62年)。
なお『何がジェーンに起ったか?』の撮影中は、格上女優のベティ・デイヴィスと「ぶす」、「そっちがぶす」と罵り合いを続け、第35回アカデミー賞では主演女優賞ノミネートをベティに奪われたことにむかつき過ぎてベティの受賞反対を声高に叫ぶ妨害活動「ジョーンの乱」を展開した。もはや『何がジェーンに起ったか?』というより『何がジョーンに起ったか?』として彼女自身の精神状態を心配した方がいいような気もするね。
Ms.私以外は全員ヘタ、ジョーン・クロフォード。
そんな神秘のガルボと野心のジョーンを取り巻くのはジョン・バリモア、ライオネル・バリモア、ウォーレス・ビアリーら男優陣。
ジョン・バリモアとライオネル・バリモアは実の兄弟であり、ライオネルを大伯父に持ち、その弟ジョンを祖父に持つのが『チャーリーズ・エンジェル』(00年)や『50回目のファースト・キス』(04年)で知られる恋多き人騒がせ女優ドリュー・バリモアである。
監督はエドマンド・グールディング。ガルボの『アンナ・カレニナ』(27年)や、俳優時代のレーガン元大統領も出演した『愛の勝利』(39年)などを手掛けた人物だが、やはり代表作は『グランド・ホテル』。
そして製作を全面的にバックアップしたのが37歳で夭折したアーヴィング・タルバーグ。サム・ウッド、エルンスト・ルビッチ、クラレンス・ブラウン、ヴィクター・フレミングなど20~30年代の名匠の作品を数多く手掛けたおっさんであり、映画業界の内幕を描いた『ラスト・タイクーン』(76年)ではロバート・デ・ニーロ扮する主人公のモデルにもなった映画プロデューサーである。
兄ライオネル・バリモア(左)と弟ジョン・バリモア(中央)。ほいでジョンの孫がドリュー・バリモア(右)。
◆映画は既に死んでいる◆
映画は忙しなく対応する電話交換手の俯瞰ショットに始まり、メインキャラクターたちがフロントで電話をかけるシーンが交差する。電話の相手は、愛する妻、仕事仲間、劇場興行主、強盗団の一味など。
妻に電話したライオネルは、医者から「末期だね。3ターン後には死にますよ」と余命宣告を受けたことで、30年間も馬車馬のようにこき使われた仕事を辞め、自分へのご褒美にと人生最期にグランド・ホテルで豪遊してやると嘯いてみせる。
そんなライオネルの上司であるウォーレスは会社倒産の危機に瀕しており、他社と合併して生き残りを図ろうとしていた。
一方、バレエ劇場に電話をした老メイドは現在スランプ真っ最中のプリマドンナであるガルボが失意に暮れて部屋から出てこないと伝える。
そんなガルボの部屋から宝石を奪おうとしている自称男爵のジョンは「首尾よくホテルに潜入した」と仲間の盗賊団に報告する。
四者の人生模様がスマートに描き出された定石通りの開幕だ。
そも、電話というのは離れたところにいる他者とピーチクパーチク喋るための通信機器だが、こと映画に関しては“話し相手が見えない”という意味において一人称のモチーフであり、いわば堂々と独り言が呟けるすぐれて映画的な装置である(携帯電話は別)。
電話を掛けるメインキャラたち。
この“映画の定石”をしっかり打てるところに古典映画を観る悦びがある。
当くそブログでも折に触れて苦言を呈しているが、携帯電話が当たり前のようにスクリーンを汚し始めたゼロ年代以降、映画から遠隔通信という演出がひとつ失われたことで、却って古典映画が純映画たる道理が一層際立つ…という皮肉な現象が「現代映画」なる語を孤立させたように、過去から現在へと至る映画史というもの自体がそもそも存在しない以上「現代映画」などというものも本来存在しないため、われわれは現代にはびこる「反映画的な映像の連続体」のことをひとまず「現代映画」と呼んでいるわけだ。
つまり「古典映画」と「現代映画」は対になりえない、まったく別次元の概念。
すなわち映画は既に死んでいる…という悲しき事実を受け入れて頂いたところで話を続けるのだが、私がそう大したことのない『グランド・ホテル』に対してある種の敬意のようなものを抱いているのは、この映画が定石としての電話を祝福しているからである。映画監督であれば誰もが撮りたがる…というより撮らざるをえない“ホテルの外観”ではなく、あえて“電話交換手の俯瞰撮影”へと優先されたファーストショットに見る電話への敬意。そんな電話への敬意に対して“定石として電話を祝福したことへの敬意”を示していきたいのよねー。
大体においてエジソンが映画を発明し、グラハム・ベルが電話を発明したわけでありますから、二人が生まれた1847年から85年後の本作がこのショット=電話交換手を映した映画に始まった…ということは何とも感慨深いというか、「へえ」なる感と共にちょっぴり涙ぐんでみたりもするのであります。
ま、こんな話をしたところで誰の共感も呼ばないだろうし、ヘタしい共感どころか理解すらされてないだろうが、それは一向に構わんよ。理解や共感とは最も遠いところにあるのが映画だからな。
ガルボも掛けちゃう。
◆回転扉は今日も回るのです◆
やば。まだ開幕4分なのに既に4000字も書いてしまったわ。
さて。それぞれの電話が終わったあと、ホテルのロビーにぷらっと現れたのが速記者のジョーン。社長ウォーレスの秘書になるべく面接を受けに来たのだ。その後、それぞれの人間交差点に青信号が灯ります。
どうにか合併契約をまとめようと嘘八百で交渉を乗りきるウォーレスは、秘書に雇ったジョーンにも愛人契約を結ばせようとする豚クズ。不遜と保身の成金スペアリブであった。
ジョーンとウォーレス。
しかしジョーンは、身分を偽って男爵を自称する泥棒紳士ジョンに恋をする。ジョンは根っからの悪人ではなく、借金を帳消しにする代わりに宝石を奪ってこいと盗賊団に脅されて渋々ガルボの部屋に忍び込んだ不自由な泥棒だ。
さてガルボ。ベッドの中でさめざめ泣いては過去の栄光にすがる落ち目のプリマドンナだが、宝石を盗もうと部屋に忍び込んだジョンと鉢合わせ!
「あっ、好き!」
「俺も好き!」
恋の一撃必殺が火を噴いた。非常に甘ったるシーンが続くので、なんだかイライラしてきます。
「私もういちど頑張れるかも」
「俺も泥棒なんかやめて愛に生きるかも」
勝手にやってるといいかも。
不法侵入者に一目惚れしてその日のうちに身体を許すパリピのガルボ。不法侵入してその日のうちに永久の愛を誓うナンパなジョン。これが30'sハリウッドのシンデレラストーリーだというのか。くだらねえわ。
おっと、忘れちゃいけねえのがライオネル。余命3ターンの豪遊じいさんである。親切なジョンによくしてもらい、ポーカーを楽しみカクテルを痛飲!
物語の結末部では、ガルボとの駆け落ちの資金を作るためにウォーレスの部屋に忍び込んだジョンが過剰防衛で殺害されてしまう。翌朝ウォーレスは逮捕され、その死を知らないガルボはジョンが駅で待っているものと思い込んだままホテルを後にし、生前ジョンが金に困っていたことを知ったライオネルは悲しみに暮れるジョーンを励ますために全財産を彼女に譲ることを決め、二人でパリに向かう。
彼らを送り出した回転扉は新たな客を迎え入れ、今日も人生のようにぐるぐる回る…。
ガルボとジョン。
ウン。よく洗練された群像劇だわ。
ジョーンとガルボは、ともにジョンを愛する恋敵にも関わらず互いの存在を認知していない。したがってジョーンは自分が恋に破れていることを知らないままジョンを愛し続け、一方のガルボもジョンが殺されたことを知らないまま駅に向かう。おそらく駅に着いたガルボは泥棒稼業の性だと思ってジョンを諦め、未だどこかで生きてると思い込んだまま、彼との愛を永遠の思い出に変えるのだろう。
嗚呼、夢を見続ける女たち…!
まさに誤解やすれ違いから広がる群像劇ならではの情緒といえるよなー。
余命幾ばくもないライオネルが生きる喜びを味わう…という皮肉な逆説によって“人生”を太筆で描き出す『グランド・ホテル』は実に明快で気持ちのいい作品だ。
金を求めたジョンは殺され、金より誇りを選んでウォーレスの秘書を辞めたジョーンが最終的に大金を手にする…という何とも言えない後味。そしてホテルの部屋に籠りっきりのガルボは自殺する寸前にジョンと出会ったことで生きる意味を見出し、彼の死と引き換えに再び活力を手にするのだ。棺に入れられたジョンと、ホテル(ガルボにとっての棺)から出ていく彼女の対比がなんとも小粋よなー。
そして“出ようとする者“と“入ろうとする者”の去来を同時に叶える回転扉のモチーフを支えたのは、ジョンの棺がホテルから運び出されるラストシーン。部下から電話を受けとった支配人が妻の出産を知って大喜びするのだ。死ぬ者もいれば生まれくる者もいる。犯罪者になる者もいれば、夢を見たまま旅立つ者もいる。
「ホテルとは人生の縮図である」とはよく言ったものだ。誰の言葉だろうか。たぶんホテル関係者の言葉だろうから、高嶋政伸だろうか。
左からライオネル、ジョーン、ジョン。