マンが白い。
2009年。マイケル・マン監督。ジョニー・デップ、クリスチャン・ベール、マリオン・コティヤール。
1933年、大恐慌時代のアメリカでジョンは紳士的な態度と鮮やかな手腕の銀行強盗として注目を集めていた。ある日、彼はクラブのクローク係として働く美しいビリーに目を奪われる。二人はダンスを楽しみ、共に食事を堪能するが、いつの間にかビリーは彼の前から姿を消す。 (Yahoo!映画より)
おはようございます。
ブルーノ・ガンツが死んでしまったという訃報が入ってきました。『ベルリン・天使の詩』(87年)やら『ヒトラー 〜最期の12日間〜』(04年)やらで知られるスイスの役者です。俳優人生のなかで天使とヒトラーを演じるってすごいよね。正反対の二人なのに。
ていうかヒトラー関連の映画って多すぎませんか。少し前に『帰ってきたヒトラー』(15年)が話題になったし、最近でも『ヒトラーを欺いた黄色い星』(17年)とか『ヒトラーと戦った22日間』(18年)とか。「もうええ」ってなりますわ。もはやナチものってエンターテイメントだからなぁ。
そんなわけで本日はヒトラーとは一風異なる悪党の映画を取り上げます。人呼んで 『パブリック・エネミーズ』。バリバリだぜ!
◆禁酒法時代のロックスター◆
昨日の『マイアミ・バイス』(06年)に続き、勢い余ってまたぞろマイケル・マンである。ごめんなさいね、マンばっかり。
「社会の敵ナンバーワン」として国家から敵視される一方、人民からは「義賊」として人気を博していた実在の銀行強盗ジョン・デリンジャーの映画化である。
彼を題材にした映画はいくつも作られているが、最も有名なのはジョン・ミリアスの『デリンジャー』(73年)だろう。『デリンジャー』という映画は鼻毛がすべて消滅してしまうほどの傑作であるから機会があればぜひご覧あれ。機会がなくてもぜひご覧あれ。そして鼻毛の消滅を祝福するんだ。
そして本作。
デリンジャー役にジョニー・デップ、彼を追い詰めるFBI局員メルヴィン・パーヴィスをクリスチャン・ベールが演じているので、ひとまず面食いの女性は観ておいた方がいい。面食いでない女性も観ておいた方がいい。そして今こそ鼻毛を抜け。
もちろんベビーフェイス・ネルソンやプリティボーイ・フロイドといったお馴染みの犯罪者やFBI長官J・エドガー・フーヴァーも出てきて無法者VS警察の熾烈な攻防が描かれるのだが、デリンジャーが愛した最後の女ビリー・フレシェットとのロマンスに比重を置くあたりがマンならでは。
『現代女優十選』で第10位に選ばれたマリオン・コティヤールがビリーを演じている。
こんなところにマリオン! 思わぬところでコティヤール!
ジョニデを追うベールとその恋人コティヤールは『ダークナイト ライジング』(12年)でも共演。
男に生まれたからには一度はやっておきたいことランキング第39位、それはやはり銀行強盗ということになってしまうのだが、実際にやるとお巡りにとっちめられてブタ箱行きになってしまうので映画で疑似体験するほかありません。
私はボニー&クライドやビリー・ザ・キッドといった実在の強盗犯が大好きである。
というより、ただの強盗を英雄視する世の中の動きがおもしろくて「米犯罪史はエンターテイメントである」という不思議な言葉も残しているぐらいなのだが、とにかく西部開拓期や禁酒法時代の潮流は数多のアンチヒーローを生み出したのだ。
デリンジャーもまたその一人。
デリンジャー・ギャングという強盗団を結成しては津々浦々で銀行を襲うのだが、一般市民に危害を加えたり金を巻き上げたりしないことから「庶民に優しい犯罪者」ということで瞬く間にロックスターのような存在になった。
そうそう。ロックといえばデリンジャー・ギャングはロックバンドともよく似ていて、結成期のオリジナルメンバーを「ファースト・デリンジャー・ギャング」と呼び、新メンバーを迎えると「セカンド・デリンジャー・ギャング」という呼び名に変わるのである。
ロックバンドもメンバーが入れ替わるたびに1期、2期…と区切っていくので、そう考えるとデリンジャー・ギャングは強盗団っつーかバンドなのである。もはやね。
現にデリンジャー・ギャングは全米を回って強盗を繰り返したわけだ。
全国ツアーである。
銀行=ライブ会場。強盗=コンサート。
もはや銃を持つか楽器を持つかの違いぐらいしかない。
まぁ、ロックバンドは警察には追われないけど。
実際のデリンジャー(左)とそれを演じたジョニデ(右)。バリバリだぜ!
◆マンが白い◆
今度のマンは白い。
はっきり言って相当白いよ。今度という今度は。
『マイアミ・バイス』評で「マンは青い」というパワーワードをしきりに連呼した通り、マン作品のベースカラーは青。あと、あえて触れなかったが橙色も頻出する。そんな青や橙を美しく配色した夜景描写に定評のある「夜の監督」なのだが、今度のマンは白い(今日のパワーワードはこれ)。
禁酒法と大恐慌の風が吹き荒れる1930年代のアメリカを舞台にしているので、クラシックに忠実であろうとするマンがモノトーンをベースカラーに選んだのは妥当な判断なのだが、どうもマンに白は似合わないという気がしてしまう。
マンの多くの作品がそうであるように、本作もまた「ストーリーにノレない」とか「キャラの描き込みが浅い」といった感想がレビューサイトに多数寄せられており、『マイアミ・バイス』ほどではないにせよ評価は芳しくない。
この映画が世間に低評価を下された原因は3つある。
ひとつはジョニー・デップを起用したこと。ジョニデ効果によってマンなど分かるはずもない一般層が劇場に流れ込んだのだから、その大部分が「ストーリーにノレない」とか「キャラの描き込みが浅い」といった感想を抱くのも止む無し。スターを起用すればするほど最大公約数のものしか伝わらない。
二つ目の原因は上映時間。143分という、マン作品においてはごく普通の尺だが、今回は『マイアミ・バイス』に輪をかけてストーリーラインが埋没している―いわば起承転結がほぼ存在しないプロットなので、さすがの私も「長ぇな…」と感じた。うんざりした。
そして三つ目の原因こそが白である。
この映画は全編に渡って白い。白さゆえに強盗団のコートやハットの黒がモノトーンとして際立つのだが、それにしても今度のマンは白い。
『ウインド・リバー』(17年)評でも少し触れたが、白は膨張色なので画面が間延びしてしまい、うまく処理せぬことには白というだけでショットが死んでしまう。あらゆる色のなかで最も使いづらい色だ。で、現に本作のショットはだいぶ死んでらっしゃる。
白は映画を虐殺するということをマンは知らなかったのかもしれない。なぜならマンは青いから。
いろんな理由をつけて悪評を書いてらっしゃる方も、おそらく「白すぎて画面が退屈!」といった感覚的な不満を抱いていたはずだ。
スーツの黒味が白く飛んでいるし、格子すら白い。
だがある一点においてのみ、この映画の白さは擁護されるべきだろう。
それはFBIに追われて真夜中の林に逃げ込んだジョニー・デップがフッと漏らした白い吐息である。強盗団の隠れ家に踏み込んだFBIによって蜂の巣にされたスティーヴン・グレアム(ベビーフェイス・ネルソン役)が事切れる瞬間に漏らした吐息や、木陰からライフルを構えるクリスチャン・ベールの吐息も雪のように純白で、あたりを覆う暗闇のなかに刹那的な美しさをちらつかせている。
このシーケンスにおける白い吐息は「生者の特権」として激しい銃撃戦のなかで何度も吐かれては闇に消えていく。その消えゆく吐息がやがては全員死ぬことを予感させるからこそ美しいのである。
◆犯罪王の末路◆
マンはキャラクター心理とか行動原理といったメロドラマを忌々しく唾棄する人なので、ジョニー・デップとクリスチャン・ベールの信念や執念といったものはまったく描かれないし、この二人がライバル関係であるということすら不可視の領域(映画の外側=史実)で密やかに示されるのみ。
早い話が、追う者・追われる者の宿命的な対決を扱っているにも関わらずビタイチ熱くなれない映画である(ゆえに低評価を受けている)。
思い返してみると、本作とよく似た構成の『ヒート』(95年)は世界中の男を熱くさせたが、それとて「ただの錯覚」なのだ。『ヒート』は熱い映画などではない。むしろ『クール』だ。アル・パチーノとロバート・デ・ニーロが伝説的共演を果たしたというトピックと、マンにとってキャリアハイとなる銃撃シーンの迫力によって半ば思い込みのように「男が憧れる熱い映画」として神格化されているに過ぎない。
『ヒート』や『ファイト・クラブ』(99年)を「これぞ男の映画!」と言っている人は端的にバカだと思う。むしろどっちも冷めた映画ですよ。
『ヒート』が冷めきった傑作であるように、本作もまた徹頭徹尾冷めきっている。
唯一メロドラマじみた手つきが認められるのは、映画館で『男の世界』(34年)のクラーク・ゲーブルに自分を重ね合わせるジョニー・デップと、映画館の外で待ち伏せしているFBIが映画を観終えて劇場から出てきたジョニー・デップを背後から射殺するラスト20分だろう。
この犯罪王の有名な末路は『デリンジャー』でも再現されていたが、このシーンに関してだけは『パブリック・エネミーズ』に軍配が上がる。とっておきのスローモーションと視線劇だけで厳粛に構成された完璧なモンタージュ。そしてコティヤールと国外逃亡するという計画が淡い夢と消えたジョニー・デップの死顔。極上のメロドラマである。
彼を仕留めたのがクリスチャン・ベールでなくその部下のスティーヴン・ラング(『 ドント・ブリーズ』の盲目老人!)というのがまたいい。
ジョニデを射殺したスティーヴン・ラングと顔を見合わせるクリスチャン・ベール。
ベール「おまえが見せ場さらってどないすんのん」
そのスティーヴンがマリオン・コティヤールと語らうラストシーンでは、愛する者の死を知ったコティヤールが一粒の涙を流す。
この時点まではマンらしからぬ湿潤のメロドラマが炸裂しているのだが、映画はここで終わらず、席を立ったスティーヴンが重い扉を開けて出ていく姿が最後のショットとなる。ガシャーン!というけたたましい音を響かせて閉じられた鉄のドア。その冷たいイメージを引きずったままエンドロールが流れ始めるのである。
マンならでは!!
この血の通ってない感じというか、あくまで人情を拒否する冷酷さが淡々とスクリーンに還元される143分。受け付けない人にはトコトン受け付けない作品だろうが、イーストウッドとかロシア映画のような無機的な作品を好む人ならエンジョイできるかもしれない。
ただし30年代のギャングを扱っているという時代考証の都合から、マンお得意のコンバット・シューティング(実戦的射撃術)は封印されている。ヤケクソみたいな乱射がやかましく画面を賑わせるのみ。
『シークレット ウインドウ』(04年)のジョニデ。この髪型いいねぇ。