シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

KIDS/キッズ

90年代のド真ん中を撃ち抜き、時代の空気を真空パックした背徳の不良少年譚。

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1995年。ラリー・クラーク監督。レオ・フィッツパトリック、ジャスティン・ピアース、クロエ・セヴィニー。

 

日本公開当時、そのスタイリッシュさが話題になったNYのティーンエイジャーの性を描いた作品。街を闊歩する彼らの考えていることと言えばSEXとドラッグのことばり。たった一度のSEXからエイズにかかってしまったヒロインが、その時の相手の少年を探して街を徘徊する…。(Yahoo!映画より)

 

はい、おはようね。

以前から逡巡していたのだけど、mixiで書いた随筆をこちらに載せてやろうかと画策しております。随筆っていうのは徒然なるままに書いた散文のこと。いわゆるところのエッセイ。もっと分かりやすく言えば文章の粗大ゴミ。

映画とは無関係の極私的な雑文なので、曲がりなりにも映画評ブログである『シネ刀』に載せるのはどうかなぁ…と躊躇っていたのだけど、すでに音楽の記事とか書いてしまってるからね。わりと何度も。

ちなみに当ブログで過去に書いた随筆はこちら。どれも映画に絡めた内容にしてますが、これからは映画とまったく関係のない随筆もアップしていこうと思います。

お酒を飲みながら読むとたくさん笑えます。きっと50年後も読み継がれていくとおもいます。

 

これはちょっと僕のイヤなところが出てしまいました。

 

そんなわけで本日は発掘シリーズ第二弾、取り上げるのは『KIDS/キッズ』

 

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◆米ユースカルチャーあれこれ◆

先に断っておくが、この映画はアルコール中毒&薬物中毒&セックス中毒のクソガキがヘラヘラ笑いながらエイズをまき散らすといった不愉快きわまりない外道ムービーゆえにそれ相応の言語表現を用いて評を綴っていくので「エグいのはかなん」といったポカリスエットみたいな爽やかな心を持つ読者諸兄は一時退却してポカリでも飲んで頂いてまた明日にでも『シネ刀』に遊びに来られたい。


毎度お世話になっているTSUTAYA発掘良品に『KIDS/キッズ』が入ってきた。米ユースカルチャーを描き続けるラリー・クラークの処女作だ。自堕落なティーンエイジャーを通して薬物、犯罪、HIVの実態を炙り出したドキュメンタリータッチの作品で、あまりに過激な表現から公開当時に大論争を巻き起こした問題作である。ガス・ヴァン・サントが製作総指揮、ハーモニー・コリンが脚本を手掛けている(←ココ重要!)。

 

寡聞にしてラリー・クラークを初めて観たのである。『BULLY ブリー』(01年)『ケン・パーク』(02年)も観ちゃいない。なんとなれば、観る前から「コレたぶん俺が嫌いなやつだ」と感じ取っていたからである。ガス・ヴァン・サントとハーモニー・コリンが関わっている時点で大体察しはつく。

この三人はストリートに生きるティーンエイジャーを描くインディペンデント作家という共通点から強烈な絆で結びついている。パンクやスケボーが好きな若者たちが日々ダラダラとセックスや薬物に溺れていくさまをドキュメンタリーのような生々しいタッチで捉えたインディーズ映画の量産者といっていい。『エレファント』(03年)『ガンモ』(97年)の名を挙げれば少しはピンとくるだろうか?

インディーズ映画、もしくはミニシアター系と一口に言ってもさまざまな作家がいて、たとえばジム・ジャームッシュやハル・ハートリーが「表のインディペンデント」だとすれば、「裏のインディペンデント」はジョン・ウォーターズやトッド・ソロンズといった悪趣味映画監督たち。

そして「裏のインディペンデント」にも二種類の毛色があって、ウンコ食って喜んでるようなジョン・ウォーターズや人間の醜さをブラックユーモアで誇張するトッド・ソロンズがフィクションの側だとすればリアリズムの側に立っているのがこの3人。つまりガス、ラリー、ハーモニーの不良トリオ。

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ハーモニー・コリンの『ガンモ』、ガス・ヴァン・サントの『エレファント』、ラリー・クラークの『ブリー』


彼らの映画は徹底的に不快である。それでいて「不快」という中身を「詩情」という包装紙で綺麗にラッピングしているから尚更タチが悪い。

たとえばガス・ヴァン・サントの『エレファント』ではコロンバイン高校銃乱射事件の犯人2人組が犯行に及ぶまでの様子を詩情豊かに描いているし、同監督の『パラノイドパーク』(07年)では鉄道警備員を殺してしまったスケボー少年の苦悩をダラダラと描いている。

ハーモニー・コリンの『ガンモ』の主人公は汚い風呂場で母親にシャンプーをされながら浴槽に落としたチョコバーをぐちゃぐちゃ食ってミルクで流し込む。猫を大量に虐殺する男も出てくる(そういえば本作『KIDS/キッズ』でも猫を蹴るシーンがある)。不愉快きわまりねーッ。ところが映画は「台風カトリーナが街を襲ったことで人々の日常が狂い始めた(いわば台風のせい)」といったサブテキストを詩的に織り込んでくる。

カメラはそんなティーンエイジャーを批判するでも擁護するでもなく、ただありのままを淡々と映し撮る。そういう世界観なのだ。

うっかり人を殺しちゃったり、うっかりセックスしてHIVに感染してしまう若者の生態をユースカルチャーに乗せて「リアル」に描くガス、ラリー、ハーモニー。


うん、嫌い。

 

三者の諸作品は従来の劇映画とはかけ離れたリアリズムの骨法を持つが、インディーズ映画がセックスと薬物に溺れる無軌道なティーンを描き始めた濫觴は『バッド・チューニング』(93年)『バスケットボール・ダイアリーズ』(95年)、そしてトドメの『トレインスポッティング』(96年)といった90年代の作品群。とりわけポップカルチャーのアイコンにまでなった『トレインスポッティング』に端を発する潮流といっていい。

ちなみにその女子版をやったのが『ヴァージン・スーサイズ』(99年)のソフィア・コッポラ。

総じて言えることはウジウジした自己憐憫ワールド炸裂ということである。

90年代ユースカルチャー映画はクソ!!

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クソの掃き溜め。

 

◆少女はオレンジを投げる◆

『KIDS/キッズ』はそれはもう不快な映画である。不愉快一等賞だ。

いつもつるんでいるレオ・フィッツパトリックジャスティン・ピアースは酒とセックスと薬物に狂ったイカレ餓鬼。

映画はディープキスの接写から始まる。「優しくするから」と約束して半ば強引に未成年の少女と性交渉したレオは、物の見事に約束を反故にして「痛い!」と叫ぶ少女をよそに遮二無二腰を振りまくる。このガキは「ヴァージン・キラー」の異名を持ち、ニューヨーク中の処女を片っ端からたらしこむファッキンキッズなのだ。

少女をヤリ捨てしたレオは、部屋の外で待機していたジャスティンとハイタッチする。二人は街を闊歩しながら下ネタを交わし、喉が渇けばビールを万引き、そして公園に行ってマリファナを買い求め、肩がぶつかった黒人をリンチする。

そんなレオを捜してNY中を走り回っているのがクロエ・セヴィニー。レオとのセックスしか経験のないクロエは女友達の付き添いで病院を訪れ、なんとなく検査を受けたところ診断結果はHIV陽性。

映画は、酒と薬物に明け暮れながら次なる処女を求めるレオとそれを追うクロエの追跡劇を軸に、ド軽薄なティーンエイジャーの生き様を活写してゆく。

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ヴァージン・キラーことレオ。

 

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悪友ジャスティン(左)とそのスケ。


下馬評通りに生臭い作品だったが、自分が思っていたほど嫌悪感は抱かなかった。私はハーモニー・コリンの猛烈なアンチなのだが、それに比べればよっぽど上等な出来だと思う。そもそも私がユースカルチャー映画を嫌うのは「描かれていること」が不快だからではなく「描き方」が不快だからだ。

ハーモニー・コリンやソフィア・コッポラのように映画理論も知らずに雰囲気だけでなんちゃってアート映画を作ってるような自己陶酔のアホンダラは殺意の対象でしかない。逆に言えばガス・ヴァン・サントなんかは全てのショットに「理由」があるので、よく見ると雰囲気とは真逆のメカニカルな映画の組織者だから幾らかマシである。

そして本作のラリー・クラーク。この男が一番まともだと思う。

 

男子グループと女子グループがそれぞれ別の場所で猥談に耽るふたつのシーンのカットバックが印象的だ。男も女も同程度に下品で、その中にあってクロエただ一人がほかの女友達のドギツイ下ネタをかわすように愛想笑いを浮かべている。その渇いた笑みは「あちら側」と「こちら側」を結ぶ「なあなあの線分」。クロエだけが「こちら側」、つまりまともな感覚を持った人間で、残りの奴らは「あちら側」の世界に行っちまったアウトサイダーだ。周囲の友達に合わせようとして猥談に加わりはすれど、クロエが肉体関係をもった男はレオだけ。

そんな彼女がロザリオ・ドーソン演じる尻軽の女友達に誘われて性病の検査を受けるシーンに至って「なあなあの線分」はようやく寸断される。経験人数や避妊具使用の有無を訊かれた二人は対照的な回答を口にしていく。不特定多数の男とムチャなセックスを繰り返すロザリオと、ただ一人の男としか関係を持ったことのないクロエ。

しかしHIVに感染したのはクロエの方だった。

その日を境に「あちら側の友達」と縁を切ったクロエは半泣きでNY中を徘徊する。この事実をレオに伝えるために。

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クロエ・セヴィニー(右)とロザリオ・ドーソン(左)。


私のお気に入りは、レオとジャスティンが家の前で遊んでいる少女に盗んだオレンジをあげるシーンだ。このシーンの何がいいって、少女が貰ったばかりのオレンジを道路に投げ捨てる所作である。

私は二人が少女にオレンジをあげた瞬間「はいはい、クズだけど優しい一面もあります、みたいな演出ね」と思ってとてつもなく不愉快な気持ちがした。不快感の最大瞬間風速を記録したシーンだよ。ちょっとした善行ひとつでほかの悪事をチャラにするかのような甘ったれた映画が大嫌いなのだ。

ところが本作では、クズ二人からオレンジを受け取った少女はキチンとそれを捨てている。クズの施しなんか受けないよ、とばかりに。だからこのシーンは「クズだけど優しい一面もあります」と言っているのではなく、むしろ「優しさすら拒否されるほどのクズです」ということをアイロニカルに示しているわけだ。

こういう小ぶりながらもパンチの利いた演出をサラッとやってのけるのがアメリカン・インディーズの強味かもしれない。悔しいけど格好いいじゃないか。


ちなみに本作はクロエ・セヴィニーのデビュー作となった。

その後クロエは『ボーイズ・ドント・クライ』(99年)を皮切りに『アメリカン・サイコ』(00年)『ドッグヴィル』(03年)『ゾディアック』(07年)などでメジャー街道を突っ走るが、いずれの作品も人間の暗部を鋭く抉ったアンダーグラウンドな怪作。また『ブラウン・バニー』(93年)ではヴィンセント・ギャロのギャロスを実際に舐めるなど数々の問題作に出演してきたサブカル女優である。個人的にはすこし苦手な女優だが、呆然と街をさまよい歩く本作での芝居…とりわけ明滅するクラブのレーザーライトに晒されるショットは滅法すばらしい。

また、ヴァージン・キラーを演じた主演レオ・フィッツパトリックは、本作をドキュメンタリー映画と勘違いした人民から人でなしの烙印を押されてえらい迷惑を被り、その親友を演じたジャスティン・ピアースは本作の5年後に自殺した。パンツをおろして熱心に股間を振り回していたハロルド・ハンターもコカインの過剰摂取で死亡している。

訳ありキャストすぎ!!

 

そんな本作、過激な性描写よりも主人公たちの顔や言動に不快感を覚える。もちろん意図的にそうしているわけだが、それにしてもレオの嫌らしい下膨れ顔なんて絶妙に私を苛立たせてくれる。こんな顔どこで見つけてきたんだ?

とても一般に勧められる作品ではないが、90年代ユースカルチャーを理解する上では欠かせない重要作だろう。当時のニューヨークの空気感とそこで生きる自堕落ティーンのダーティ・ライフを閉じ込めた91分。5年遅くても5年早くても作れなかった作品である。

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