追跡劇から逃亡劇へ反転するロードムービー。
1988年。マーティン・ブレスト監督。ロバート・デ・ニーロ、チャールズ・グローディン、ジョン・アシュトン。
元はシカゴ警察の名うて刑事だったものの、今ではどんな危険な仕事でも請け負うバウンティ・ハンターとして生きているジャック。そんな彼の新たな仕事は、ギャングの金を横領して慈善事業に寄付した男マデューカスを見つけロスに連れ帰るというものだった。まもなくマデューカスは見つかるが、彼の命を狙うマフィアと、逮捕しようとするFBIの双方に狙われながら、ジャックらは珍道中を繰り広げていく。(Amazonより)
はーい、どーもねー。
「優しい人がタイプです」
張っ倒したろか!
なんとつまらない答えなのか。恋愛対象の条件に「優しい」って…。ほぼ全人類にとっての基本条件だよ、そんなもん。
人は誰しも優しさを求めるよね。ぬくもりを感じたいよね。だから「優しい」は大前提。それをベースに細分化された理想のタイプを言えっつーの!
そもそも「優しさ」なんて恋愛対象に限らず人としての基本条件だと思うのだが、如何か。家族や友達、道行く児童、お年寄り、犬、花、木々、かまきり、ソーラーパネル。そうした総てのものに優しくありたいよねぇ。森羅万象を思いやっていきたい。好きなタイプを訊かれてバカな答えをする人々すら愛していきたい。
というわけで本日は『ミッドナイト・ラン』ということで話がついていますね?
この映画は、私の心のなかで日々更新されゆく「夜に観たい映画ランキングTOP30」の15~20位あたりをいつもウロチョロしている作品なのです。昼のシーンも結構あるんですけどね。ほな、いってみよか。
◆詰め込みすぎエンターテイメント◆
ロバート・デ・ニーロを初めて観たのがこの映画。だと思う。当時、洋画劇場漬けだったキッズの私が中学生に昇格し、レンタルカードというものをゲットして生まれて初めて自分の意思で選んだ映画がこれだった。と思う。
懐かしさから今回改めて鑑賞してみて、どうやらこの映画が世の中的にだいぶ名作とされていることを初めて知った。生涯ベスト映画に挙げる人民が多く、デニーロ本人も自身の出演作のなかで最も気に入っている作品だという(その他、松田優作やジャッキーチェンも本作のファンらしい)。
なぜこの映画はそれほどまでに人民から愛されるのか。
「男の友情」といういささか暑苦しいテーマを洒落たユーモア感覚でサラっと描きあげた正統派エンターテイメントだからにほかならねー!
この映画は、くたびれた賞金稼ぎのデニーロが保釈中に逃げ出した会計士チャールズ・グローディンをふん捕まえてロスに連れ帰るまでの5日間を描いたロードムービーである。その道中でグローディンを狙うよその賞金稼ぎ、FBI、果てはマフィアまで追ってきて四つ巴のグローディン争奪戦が繰り広げられ、やがて逃避行を通じてデニーロとグローディンのあいだに奇妙な友情が芽生えていく…といった寸法の映画なんである。
ビデオ屋ではアクション映画の棚に置いてある本作だが、基本的にはトボけたストーリーだし出てくるキャラクターも百発百中でバカ揃いなので事実上はコメディ映画といっていい(もちろんアクションシーンもあるで)。
すなわち笑いと戦闘に満ちた旅のなかで男の友情が描かれていくという、いかにも80年代的な詰め込みすぎエンターテイメントという贅沢仕様。されど小粋なセリフ回しと洗練された脚本が思いもよらぬ感動を誘う…といったステキ味までもが。ドライでもなければウエットでもない抜群の湿度調整で居心地のいい映画空間を造形していると言えるよなー。
真夜中に一人でまったり観て頂きたい作品です。
観るとしたら絶対に真夜中だ。こんなことを言ってもどうせアナタは信じないでしょうが、この世には「夜に観なければならない映画」というのがあるのだ。朝に観ても意味がない。昼に観るのも埒外だ。夜の映画は夜に観てこそなのです。夜を味方につけろ。
わかったら第二章に行け! いつまでこんな所にいるんだ!
溺れるデニーロに木の棒を差し出すグローディンのはたらき。
◆追跡劇から逃亡劇へ反転するロードムービー◆
映画は、元刑事で現在は賞金稼ぎをしているデニーロが保釈金事務所の経営者ジョー・パントリアーノから10万ドルでグローディンの捕獲・護送を請け負うシーンに始まる。期限は5日。
グローディンはマフィアの裏金を横領して慈善事業に寄付した会計士だ。やったこと自体は犯罪だが、じつに立派な志を持っているよなぁー。だが口数が多いのが玉に瑕。
体よくグローディンをとっ捕まえたデニーロだが、グローディンが「僕は飛行機がダメなんだー! 怖いんだー!」などと『レインマン』(88年)みたいなことを言ったので陸路を使ってロスへ戻ろうとするのだが、マフィアとFBIと賞金稼ぎが執拗に二人を追い回すのでロスへ戻るどころかどんどん遠ざかってしまうという珍奇な事態に。
あまつさえグローディンはデニーロの目を盗んで隙あらば逃げようとする。セスナ機で逃げようとする。
「てめぇ、飛行機ダメだったんじゃねえのか! よくも騙しやがったな!」
ぷりぷりぷりぷり…と走り出したセスナにしがみついたデニーロはグローディンをパンチで気絶させてセスナから引きずり下ろし、もう二度と逃げられないように互いの腕に手錠をかける。すると今度は至近距離でグローディンのヨタ話を延々聞かされて神経衰弱したデニーロは「耳元でずっと喋るな!」と怒って手錠を外す。
付けるとうるさい、外すと逃げる。
なんたる二律背反。そんなわけで、文字通り付かず離れずの関係を保ちながら旅を続けるオッサン二人。眺めているだけで幸せです。
逃げようとするグローディンをセスナから引きずり下ろすデニーロのはたらき。
この『ミッドナイト・ラン』のおもしろさはデニーロが散々な目に遭うというところなのだが、少し踏み込んで分析してみよう。なぜデニーロが散々な目に遭うとおもしろいのか?
「追跡劇」に始まった物語が「逃亡劇」に反転するからです。おわり。
対象者を追うことを生業とするデニーロがグローディンを捕まえたかと思いきや、今度は「追われる側」に回るという構図の逆転。デニーロと行動を共にするグローディンを報復のためにつけ狙うマフィア、そのマフィアを潰すための生き証人として身柄を確保したいFBI、懸賞金10万ドルのために同業者デニーロを出し抜こうとする賞金稼ぎ(ジョン・アシュトン)…。この三者三様の追手によって、追跡者だったはずのデニーロはあれよあれよという間に逃亡者へと反転してしまう。
まさにミッドナイト・ラン(一晩で終わるような簡単な仕事)だったはずの依頼が5日間にも及ぶ命懸けの逃避行になっちまうわけだ。
さらにはそんな運のない主人公が、よりによってロバート・デ・ニーロという踏んだり蹴ったりな目に遭うどころか、むしろ人を踏んだり蹴ったりにする側の役者が演じている…という滑稽味。加えて、渦中の人物なのにまったく危機感がなく飄々とお喋りに興じる能天気なチャールズ・グローディンが『天国から来たチャンピオン』(78年)や『ベートーベン』(92年)のようなホッコリする映画にばかり出ているホッコリ役者だという皮肉がオモシロをトッピングしております。
愛すべき脇役たちもチャーミーだわな。
二人の追跡に難航してブチギレ寸前のFBI捜査官(ヤフェット・コットー)は、部下がオフィスに入ってくるたびに「悪い知らせだろ?」と未来を予見する。まるでこの手の映画で部下が報告に来たときは決まって悪い知らせであることを知っているかのように。メタはやめろ。
「どうせまた腹の立つようなニュースだろ?」
マフィアの舎弟二人組はブチギレ寸前のボスから電話越しに怒られながらも腹パンしてふざけ合うような呑気一等賞だし、保釈金事務所のジョー・パントリアーノも待てど暮らせどロスに帰ってこない二人にブチギレ寸前。まんまとデニーロに出し抜かれた同業者ジョン・アシュトンもブチギレ寸前。そしてデニーロものべつ幕なしに喋りまくるグローディンにブチギレ寸前で胃潰瘍を起こす。
唯一ストレスフリーなのはグローディンだけ。このふてこさ。
はたらきの合間。
◆旅の始まりと終わりを告げる空港◆
本作は絶えず一定のリズムとテンションで進行していく126分なので、その世界観をお気に召した奴にとっては生涯ベスト級の映画になり得るだろう。しかしハマらない奴にとっては変化に乏しくて平坦な映画に映るはずだ。
実は私も今回、十数年ぶりに観返してみて「あれ、こんなもんだった…?」と感じたのである。主演二人の逃避行だけでなく、マフィア、FBI、賞金稼ぎ、保釈金事務所…と、5つのシーンがずっとカットバックされるので全体の進行が遅く、それぞれのシーンが有機的に結びついてもいない。おまけに(本作だけでなく80年代の総ての映画に言えることなのだが)あるひとつのショットを除いてその他の撮影がことごとく汚い。
あるひとつのショット。
それでもなお名作たらしめるのは、湿りすぎず渇きすぎない二人の友情が観る者の心を静かに打つからだ。「静かに」というところがミソ。
この映画には男二人が協力して困難を突破するシーンなど無きに等しいし、それどころか気心が知れてきたグローディンは思わぬタイミングでデニーロを出し抜いて逃亡を図る。壊れた腕時計を使い続けている理由を訊かれて「もっと仲良くなったら教えてやる」とぶっきらぼうに吐き捨てたデニーロに対して、グローディンは「これ以上仲良くなるのは不可能だから今すぐ教えろ」と言って強引に訊き出すのだ。
だが、その強引さに折れたデニーロが自分の過去を語りはじめたことでようやく二人は心を通わせる。その腕時計は別れた女房がデニーロにプレゼントしたもので、デニーロは今でも元嫁とやり直すことを願っていたんだなぁぁぁぁ。
ここで語られるデニーロ・ヒストリーはうっかりしてるとホロッときちゃうようなイイ話。ただ、ひとつだけ残念なのは貨物列車の中で焚火をしながら話すという非常識ぶり。
TPO狂っとんのか。
貨物列車の中でイイ話をするデニーロのきらめき。
本作でたった一度だけ交わされるおセンチな会話もいい。
「俺たち、出会うタイミングが違えば友達になれたかな」
「来世で会おうじゃないか」
この「来世(next life)」というセリフが劇中で何度も反復され、その時々で言葉のニュアンスが変わってくる…というあたりが粋なのである。
個人的にグッときたのは、逃走費用が尽きたデニーロが恥を忍んで別れた女房の家を訪ねて金を無心するシーンだ。激しく口論をするデニーロと元嫁の後ろでポカーンと突っ立っているグローディンもいい。
すると、怒鳴り散らしていたデニーロが急に静かになる。目の前に娘が現れたからだ。知らぬ間に中学生になっていた娘の成長の早さに、嬉しさと戸惑いから「あうあうあうあう…」と口ごもるデニーロ。愛おしさと気まずさに満ちた抱擁を交わしたあと、車に乗って帰ろうとするデニーロとグローディンのもとに娘がちょらちょら駆け寄ってきて「これ、使って!」と言ってアルバイトで貯めた小遣いを差し出した。
ちなみにこのシーンで号泣したのは私…ではなく松田優作である。
たぶんこの映画は、追跡者から逃亡者になってしまった滑稽なデニーロのバックボーンが温かく描かれているからこそ人々の胸を打ったのだろう。ただデニーロが道化を演じて散々な目に遭うだけではない。その後ろには彼の「人生」がしっかりと根を下ろしていたのでした。
「10万ドルの懸賞金が手に入ったらカフェを開くんだ」
開けないフラグ。
娘の金を受け取れないデニーロのつつしみ。
そして本作屈指の名シーンが映画最終盤。FBIと手を組んだデニーロが、マフィアにとっ捕まったグローディンと裏帳簿の証拠となるフロッピーディスクを交換するLA空港での取引きのシーンである。警察時代のデニーロが何年も追っていたマフィアの大ボスを見事に逮捕する緊張の一瞬、そのサスペンスの着火剤となるロングショットが実にすばらしいのだが、それ以上に褒めるべきは空港の使い方。
アメリカ映画における「空港」とは、えてしてファーストシーンとラストシーンとで円環構造を持つ(本作も然り)。空港というのはさまざまな人が行き交う場所なので、もちろん映画においては運命の交差や集合の場、そして何より出会いと別れを表象する舞台装置となる。いわば空港という舞台そのものが巨大なメタファーなのだ。
本作のクライマックスを飾る空港では、それまで互いにほとんど面識のなかったマフィア、FBI、賞金稼ぎ、そしてデニーロ&グローディンの四組が一堂に会するだけでなく、この場所から旅をはじめたデニーロとグローディンにとって別れの場にもなっている。
旅の始まりと終わりを告げる空港。
なんかイイよね。情緒あるしさ、こういうの。おセンチだよね。
マフィアからグローディンを取り返したデニーロは、空港の公衆電話から保釈金事務所のジョーに電話をかけ、「今どこだ!? さっさとグローディンを連れて戻って来い!」と怒鳴り散らすジョーに「うるせえ、今からこいつを逃がす!」と宣言して電話を切る。
デニーロはグローディンの手錠を外し「旅の記念品」と称して壊れた腕時計をやって解放してやる。これで10万ドルはあじゃぱーだ。骨折り損のくたびれ儲けだ。
しかしデニーロが10万ドルを蹴ってでもこの善良な賞金首を逃がしたのは、長年遺恨を残していたマフィア逮捕のきっかけをグローディンが与えてくれたからだろう。今回の一件で警察崩れのデニーロは自分の過去に決着をつけたわけだ。グローディンと出会えたお陰でようやく警察時代にやり残したことを綺麗に片づけられたのだから。
そして何より、友達ができた。
気恥ずかしそうに空港を去ろうとするデニーロを後ろから呼び止めたグローディンは最後の最後に吃驚仰天のサプライズを用意していたのだが…これは観てのオ・タ・ノ・シ・ミ!
夜に始まり夜に終わる…最高の夜映画でした。
もう「追う側」と「追われる側」ではなくなった二人の関係。プライスレス。
追記
誰も観てないだろうけど、恐らくキーファー・サザーランドとデニス・ホッパーの『フラッシュバック』(90年)というポンコツ映画は本作をパクってます。