将棋映画という無理筋。されど蔵ぴょん映画としては好い筋。
2017年。大友啓史監督。神木隆之介、有村架純、倉科カナ、染谷将太、佐々木蔵之介。
幼少期に交通事故で両親と妹を亡くした17歳のプロ棋士、桐山零。父の友人である棋士・幸田柾近に引き取られるが、そこから離れざるを得なくなってしまう。以来、東京の下町で一人暮らしをする彼だったが、川向こうに暮らす川本家の3姉妹のもとで一緒に食事をするように。彼女たちとの触れ合いを支えにする桐山だったが…。(Yahoo!映画より)
はい、おはぴょん。
今宵はキュウリの上に生ハムを乗せるといったアプレゲールの嗜みで酒を楽しもうと思います。邪魔する奴はすっぱ抜く。何をすっぱ抜くのかはわからないけど、何かしらをすっぱ抜いてやるんだからね。絶対やで。
そりゃそうと、近ごろ旧作映画ばかり観ているのだけど、今日は息抜きがてらに比較的新しい映画を取り上げます。『3月のライオン 前編』。
主演は佐々木隆之介です。
「うわっ。やりおった、こいつ。神木隆之介と佐々木蔵之介をフュージョンさせやがった」とお思いの方もおられるでしょうが、そうです、フュージョンさせたのです。なぜなら、実際問題、この映画の主役は神木隆之介と佐々木蔵之介だからです!
ヒァウィーゴー。
◆ストップ、前後編商法◆
初手、2六 愚痴。
2000年以降の日本映画には失望が止まらない。
10年ほど前には「テレビ局主導」と「漫画の実写化」という二種類の悪性腫瘍が日本映画を蝕んでいたけれど、とりわけ近年すげえスピードで進行している第三の腫瘍「前後編スタイル」は史上最もタチが悪い。勘弁してほしいどす。
前後編商法の元凶となった『デスノート』(06年)を皮切りに、『GANTZ』(11年)、『寄生獣』(14年)、『進撃の巨人』(15年)、『ちはやふる』(16年)など続々と作られる分裂症的映画群…。
あと、漫画原作ではないが『ソロモンの偽証』(15年)だか『サーモンの偽装』だかといった作品もありましたね。内容はまったく知らんが、たぶんサーモンの食品偽装問題を告発するといったミステリーなのだろう。さらには佐藤浩市が主演をやっていた『64 ロクヨン』(16年)。これはニンテンドー64の開発工程を描いた感動巨編なのかしら。
そして本作。羽海野チカの人気コミック『3月のライオン』が前後編で吼えまくる。悲惨な家庭環境で育った17歳のプロ棋士が日々たゆまずに将棋を指す…といった充実の中身である。
監督は『るろうに剣心』三部作(2012—2014年)で知られる大友啓史。ひとつのコンテンツをケーキみたいに等分して切り売りすることを誰よりも好むやつである。ケーキ屋さんになればいいのに。
ちなみに今回の『三月のライオン』だが、私は原作未読です。
しかも後編を観ていないという裏ぎり。
こんなことを言うと「後編を観たあとにレビューすべきではありませんか?」などと学級委員みたいなことを言ってくる人民1号がいるのが世の常だけれども、まぁたしかに前後半合わせて評論するならそうするべきだろうね。
でも私が今から語るのは『3月のライオン 前編』という映画ですから。後編を観てようが観てまいが一切影響は及ぼさないので、このような学級委員的発言は大きなお世話ザッツオールなのである。
たとえば『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(18年)のレビューサイトでも「続編の『エンドゲーム』(19年)を観るまで何とも言えない。評価保留!」なんて寝ぼけたことを書いていた人民2号がいたけれども、なにを仰っているのか分からなすぎて頭がどうかなっちまいそうです。1本の映画を1本の映画として評価できないとは一体全体どういうことなのでしょう?
ひょっとして続編の出来次第で前作の評価が変わるということ?
だとしたら それはもう映画評じゃねえよ!
おまえの「感想」だよっ。
後編は観ておりません。
◆映画自体が詰んでおります◆
第2手、7六 能書き。
ボードゲームと映画はすこぶる相性が悪い、というお話をしなければなりません。
将棋とは盤上を覗き込む二人がちょこちょこと駒を弄くり合うという知的な遊戯。ゆえに傍目には悲しいぐらい地味で、画にならないことおびただしいのである。
それに将棋を撮るアングルは「鳥瞰」と「ローポジション」と「アップショット」ぐらいしかなく、きわめて不自由な撮影を余儀なくされる。もしこれがポーカーなら「不可視のカード」という道具でサスペンスを演出することができるし、それこそ『ちはやふる』のような競技かるたなら一瞬の身体性が剣劇のようなアクションの装置にもなりうるだろう。
翻って将棋の場合…、悲しいかな動態性と緊張感に見放された題材と言わざるを得ないのでござる。映画とは動態と緊張、つまりアクションとサスペンスですから、これに見放された将棋映画はまさに飛車角落ち=圧倒的不利。いや、そもそも「将棋映画」というモノ自体が無理筋なのだ。
平安時代から存在する日本将棋が120年の映画史においてほとんど作られていないのも納得であるよなー。
そして本作。
唯一の救いは人間ドラマにウエートを置いた作劇。将棋少年・神木隆之介を取り巻く人々の悲喜こもごもが138分かけてモッタラモッタラ描かれているのだ。
幼い神木氏を「将棋をするマシーン」へと変えた義理の父・豊川悦司と、そんな神木氏を虐め抜く義理の姉・有村架純との激烈家庭不和。行き倒れていた神木氏を拾った倉科カナのファミリーは温かく彼を迎え入れてハートウォームな疑似家族を築いていく。
一方、プロ棋界では染谷将太が神木氏と共にC級から上がろうとしており、その遥か上にはA級棋士の佐々木蔵之介や伊藤英明が名人戦への切符を懸けて熾烈なバトルを繰り広げる。その頂点では5冠記録を持つ天才棋士・加瀬亮が余裕の笑みを浮かべながら「それでもボクはやってない」と自身のギャグに磨きをかけておりました。
順位戦のシーケンスでもさまざまな人間模様がこってり描かれており、決して将棋一辺倒ではないので将棋を知らない人民でもお楽しみ頂ける仕上がりになっているで。
主要人物やで。
ただし、そうした人間ドラマの欠点はキャラクターが多すぎること。
主要キャストだけでも8人、そこに端役が15人ほど加わる。
将棋の駒より多いんちゃうか?
たとえば神木氏を応援する高校教師・高橋一生や賑やかし担当の棋士・中村倫也など、もちろん原作マンガには登場するキャラクターなのだろうが映画には必要ないんだから刈り込め、刈り込め!
「映画脚本」としてリビルドされていないのは明らかで、とりわけ第一幕は20人近くもの人物がバタバタと画面を出入りすることで状況説明がなされていくのだが、あまりに出入りが激しいうえに過去⇔現在を行ったり来たりするので状況説明をされればされるほど状況が複雑になっていくという本末転倒なストーリーテリングに…。
またこの第一幕、各キャラクターや各エピソードが点として取っ散らかっていて線を結んでいないので「内容を理解するためのお勉強タイム」でしかない。われわれが求めているのは「説明」ではなく「映画」なのだが。
そして肝心の将棋描写。「将棋」は見せてくれるが、やはり「映画」は見せてくれず。
まるで退屈な将棋みたいにこれといった技も策もなく顔の切り返しを連発する大友啓史アマチュア初段。
また、役者陣は表情だけで戦況や心理を巧みに伝えているにも関わらず、それをモノローグで語らせてしまうという無粋なマネを演じる大友アマ初段。
たとえば、数少ない将棋映画として伊藤大輔の『王将』(48年)という傑作がございまして、その中に和室をブワッと吹き抜ける風が棋譜を飛ばして風鈴を揺らせる…という絶品のショットがある。つまり盤上で繰り広げられる高度な頭脳戦を風によって視覚化してみせる映画作法の粋が滅法すばらしいのあります。
翻って本作では風のひとつも吹かない。襖、閉め切ってますねぇ。
また別の映画になりますが、天才・羽生善治の打倒に終生固執した夭折の棋士・村山聖を松山ケンイチがぷくぷくに太って演じた『聖の青春』(16年)。
この作品では制限の多い将棋映画の不自由を受け入れるかのように「指し手のクローズアップ」という潔いショットが配置されていて、その息苦しいまでに固体化したクローズショットには命を賭して羽生戦に臨んだ村山聖の厳峻な山嶺としての風格が滲んでおりました。
翻って本作では激情の指し手も撮っていない。誰かの風格がちっとも滲まないですねぇ。
加瀬亮と伊藤英明の対局であります。冤罪男VS海猿男。
人間ドラマのパートでも、たとえば東京下町や隅田川の情景がうまく人物の心情とマッチしておらず「ただの美景」と化している。寺の本堂で加瀬と伊藤の対局がおこなわれるファーストシーンの雨も、これといって誰の心情にも重ならず「ただの雨」として惨めったらしく画面を湿らせるのみ。
あるいは気のいい大家族に招かれたときと自宅の孤独なマンションに帰ったときの神木氏の気分の対比もいまいち伝わらない。なぜかしらと考えたところ、大家族の家がセットのように見えてしまい、逆に自宅マンションが生々しいロケで撮られていることが原因ではないか。本来なら逆だろうに。生々しいぐらいに生活感を湛えた民家と作り物然とした自宅マンションなればこそ「家族と孤独」の対比が際立つのでは。
事程左様に、もはや映画自体に大手がかけられた状態で。
どうにもこうにも…これ完全に詰んでますわ。
やけに生々しい独り暮らしの住居と、なんとなく作り物然とした大家族の温かみ。
◆蔵ぴょんかっけええええ◆
前章ではクッソミソのミソッカスに批判したが、まぁ曲がりなりにも映画評を標榜しているので指摘しておかねばならない事項を指摘したまでだ。
とはいえ私も将棋は好きなので楽しむべきところはしっかり楽しんだ。指摘するところは指摘する、楽しむところは楽しむ…といったメリハリを大事にする大人にどうかあなた達もなってください。
欲を言えば物語の中枢をなす「順位戦」では華々しく昇段する者と涙を飲んで陥落していく者たちの情け無用のドラマであれば尚よかったのだが、それでもなかなか分厚いドラマを見せてくれます。
原作を知らない身として面白かったのは実際の棋士がモデルになっていること(確信はないけど)。
加瀬亮はおそらく羽生をイメージしたキャラだろうし、それと分からないぐらいプクプクに太った染谷将太のモデルは『聖の青春』で松ケンも演じた村山聖。佐々木蔵之介は居飛車で粘る戦法を好むことから島朗九段に似せたキャラクターなのかもしれないし、違うかもしれない。
浅学ゆえにその他のモデルは想像もつかんのだが、なんにせよ全ての棋士役が誰かに似せた芝居をしているというあたりが興味深く。
役作りでぷくぷくに太った染谷将太。もはや金太郎。
そんなキャスト陣のなかで最大出力のチャームを叩き出していたのが佐々木の蔵ぴょん。
C級・染谷の師匠にあたるA級棋士で、それと知らずに初対局で舐めてかかった神木氏を得意の泥沼戦法でじっくりといたぶるのである。
自分のペースで調子よく指していた神木氏が、中盤戦になって「しまった! 雑魚キャラと思っていたけど、この人…強い!」と気づいた頃にはもう遅い、ズブズブのズブ沼に引きずり込まれて蔵ぴょんの得意戦法でクラクラ! 佐々木の蔵に閉じ込められてクラックラなんである。
しかし蔵ぴょんは、敵である神木氏の目をスッと見据えて「落ち着け。広い視野をもって最善の手を探せばいいのさ…」とテレパシーでアドバイス(なぜか棋士同士は心の中で会話ができる)。まさに大人の余裕。棋士の色気。
結局最後までクラクラが止まらなかった神木氏は「ありません…」と言って投了。A級の将棋を教わるべく蔵ぴょんに弟子入りしたのでありました。
ほえー、蔵ぴょんかっけえー。
そして海猿…伊藤英明とクラクラ蔵ぴょんのA級同士の対局が幕を開ける。
盤上で激突する蔵ぴょんと伊藤。
真綿で首を締めるようなしつっこい将棋を好む蔵ぴょんが胃を痛めながらも剛腕スタイルの伊藤と真正面からブン殴り合い。繊細男子の蔵ぴょんは体力に乏しく、試合が長引くほどに息を切らして汗だくになる。「胃が痛ぴょん」とも言う。将棋は激しく体力を消耗するマインドスポーツなのだ。
対して海z…伊藤は饅頭をもりもり食べてパワーアップした。何そのシステム。ずるっ!
さすがに今回ばかりは負けるんじゃないか…と懸念する神木氏、および私。
二人の対局をテレビで見ていた神木氏は急いで将棋会館に向かうが、ちょうど会館の入り口で対局を終えた伊藤とすれ違い「フッ!」と冷笑を浴びる。ようやく神木氏が和室に到着すると将棋盤の前で蔵ぴょんが項垂れていた。完全に虚脱している。なんなら落ち込んでいる風にも見える。
ま、負けたのか…。
違うねッ。
勝ったのだ!!
将棋の世界において、勝った人間は負けた人間よりも体力を消耗するので一時的な虚脱状態に陥る。まさに将棋ならではのミスリード。この演出に大友アマ初段の底意地を見ました。やるじゃん、友ぴょん。
そんなわけで、蔵ぴょんは敵の得意戦法に合わせるという圧倒的不利と圧倒的胃の痛みをはねのけて名人戦への切符を手にしたのであります。
蔵ぴょんかっけええええ。
私の乙女心が蔵ぴょんの香車に射抜かれてしまいました。
そしてついに名人戦。相手は桁違いのバケモノ、加瀬亮。
対局前日、そわそわして落ち着かない神木氏に向かって「勝てないことは分かっているが、だからといって対策を怠っていい理由にはならないさ」とにこやかに呟く蔵ぴょん。抱いてええええ。
そして運命の日。激戦の末、窮地に追い込まれて息も絶え絶えの蔵ぴょんはついに投了してしまったのだが、じつはまだ一発逆転の攻め筋が生きていたことが対局後に発覚するのである。そこを打っていれば勝てたのに!
精も根も尽き果てた100年分の後悔みたいな顔で「やっ…ちまったぁ……」と憔悴する蔵ぴょん。痛恨のポカである。例えるなら、そう、三浪したあとの試験で答案用紙に名前を書き忘れるという凡ミスかまして落第したときの絶望感×10。
蔵ぴょおおおおん!
この魅力的なキャラクターを、佐々木蔵之介が、美しく、しなやかに体現しておられます。
そう、佐々木蔵之介は美しい。
そういうことが言えると思います。
ちなみに蔵ぴょんの「やっちまった事件」でなんとなく連想したのは「銀が泣いている」でお馴染みの大正2年におこなわれた阪田三吉と関根七段の対局。それを扱った『王将』では、阪田が「2五銀」で奇跡の逆転勝ちをおさめるものの、じつは前代未聞の奇手として持て囃された「2五銀」は阪田の苦し紛れのヤマカンに過ぎなかったのだ。
いわば「テキトーに指した手がたまたま妙手でうっかり勝っちゃった」という伝説のエピソード。それを裏返したような対局を本作の名人戦に見た気が致しました。
世紀の「やっちまった事件」を引き起こした佐々木の蔵ぴょん。
また、ドラマパートでグッときたのは、両親を亡くした幼い神木少年が生前の父の将棋仲間だったトヨエツから「将棋は好きか?」と訊かれて「…好き」と返したウソ。
そう答えなければ養子として引き取ってもらえないことを知っていた神木少年は、いわば生きるために「好き」とウソをついてトヨエツ家のもとで将棋を打ち続ける…。さらに不幸なことに神木少年は将棋の神童だった。つまり、自らの才能のせいで義理の姉弟から嫉妬と憎悪を買い、ついにはトヨエツ家から出て行かざるを得なくなるのだ。
私の持論のひとつに「才能と呪いは同義である」というすてきなフレーズがあるのだが、まさに我が意を得たりだよ!
なまじ才能があるだけに妬み嫉みの対象となり村八分にされて天涯孤独、白骨死体。だから神木氏は強くなればなるほど将棋が嫌になっていく。されど生活していく為には指し続けるしかない。とはいえ将棋が巡り合わせた素敵な出会いもあったりなんかしちゃったりして。
まさに愛憎相半ばする感情。なんだかチョイとだけ分かる気がするなぁ。私にとっては「絵」がそうだったもの。
大嫌い! 大嫌い! 大嫌い!
大好きっ!
Ah~♡
…こういうことが言えると思います。
さてさて! 気になる後編ではどのようなドラマと熱きバトルが繰り広げられるというのか!?
天涯孤独の神木氏は架純姉ちゃんと和解して充実したハッピーライフを手にすることができるのか!?
ま、観る予定ないけど。
微妙な関係にある義理の姉弟。
©2017映画「3月のライオン」製作委員会