文工団の青春をバキバキのメロドラマで描いた涙のカツアゲ映画。
2017年。フォン・シャオガン監督。ホアン・シュアン、ミャオ・ミャオ、チョン・チューシー、ヤン・ツァイユー。
17歳で文芸工作団に入団するも周囲と馴染めずにいたシャオピン。そんな彼女の心の支えは模範兵リウフォンだった。しかし、ある事件をきっかけに二人の運命は狂い出す。(Movie Walkerより)
おはよう、みんな達。
またタダ読みしにきたのかコノヤロー!
どうしてイライラして読者に八つ当たりしているのかというと布団がなくて毎日寒い思いをしているからです。
そろそろ冬用の布団に換えようと思ってクローゼットを開けたところ、今年の春にしまったはずの布団が見当たらないんですよ。
どうやったら布団がなくなるんだよ!
腹立ってきた。服や靴下がなくなるのは分かりますよ。洗濯機の裏に落っこちたりするからね。でも布団はなくなるサイズじゃないだろ。普通に考えて。
ていうか「布団なくなる」って何。なくならないから布団なんだよ!
布団は家の中にある物の中でも「なくならなさ」にかけては定評があるんだよ、昔から。一番なくならないのは家具や家電だけど、その次が布団だよね。それなのに、何をなくなることがあるん。
いくら考えても腑に落ちない私は、布団がわりに購入した段ボールで簡単な犬小屋を制作、その中に入って少し泣きました。
そんなわけで本日は『芳華 -Youth-』です。
◆青き春、その後…◆
華流は皆さん好きですか?
好きな奴も、そうじゃない奴も、今日はそういう話だから覚悟するっきゃねえよな。
韓流ブームほど派手ではないにせよ、ゼロ年代から華流の波は着実に大きなうねりを上げている。昨今の中国映画はやけにスペクタクルだし、台湾映画に至っては日本映画と見紛うほど作りが似ている。シンガポールの映画業界も元気もりもりらしい。
もっとも70年代末から中華圏ニューウェイブの気運は徐々に高まっていたし、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)や楊德昌(エドワード・ヤン)といった恐るべき鳳雛たちが目覚めはじめた時期でもあるのだが、やはり華流ブームの沸点はゼロ年代。中国、台湾、香港あたりがこぞってエンターテイメント産業に手を出したのは『グリーン・デスティニー』(00年)の国際的ヒットにカネの匂いを嗅ぎ取ったためである。そのなかで最も商業的成功をおさめたのは『HERO』(02年)や『LOVERS』(04年)で知られるチャン・イーモウであろう。
イーモウ以降、華流映画は軟派になったというか、小利口になった。侯孝賢や賈樟柯(ジャ・ジャンクー)のように風と大地を感じさせてくれる純映画人は減り、どいつもこいつもCG依存のスペクタクル映画ばかり撮るようになった。剣振りながら舞っちゃったりなんかして。ハリウッド映画を学習したわけだ。メロドラマも学習したのでヒューマンドラマでは涙のカツアゲ…。
もうイーモウ!
これは私の個人的な理想論だが、中国映画はなるたけ典雅であってほしい。
卑近で大雑把な肥満体的作品など観たくないのだ。中国映画はそういうのじゃない。そういうのはアメリカやインドに任せておけばいい。剣振りながらスローでクルクルすな。故人の手紙を読んでボロボロ泣くとかもやめろ。
さて、そんな中国からまたしても卑近で大雑把な映画が届いておりまーす。
『芳華 -Youth-』は、激動の時代に翻弄された若者たちの青春恋愛ミュージカル戦争大河ドラマという多要素ぶちこみ型の闇鍋映画である。ええ加減にせえ。
物語の舞台は1976年、文革末期の中国。どいつもこいつも毛沢東思想に染まって気がヘンになっていた時代を背景に、文工団に所属するリウフォンという青年とそこに配属されたばかりのシャオピンという少女を中心に軍内のドラマが描かれていく。
文工団というのは人民解放軍の政治部が運営する歌劇団のことで、正式名称を「文芸工作団」と言う。前線の兵士を慰問して「がんば。ふんば」と鼓舞したり、軍のイベントで毛沢東ソングや革命バレエなどを披露しては仲間たちを「よっしゃー」という気にさせることを目的とする芸能部隊である。構成員の大半は若い女で、歌と踊りのレッスンを毎日やっとります。
本作のストーリーテラーはリウフォンでもシャオピンでもなく、彼らのよき友人となるスイツという女性(えらく別嬪)。スイツは新顔を虐めるハオという性悪女からシャオピンを守ってやるグッドガールであった。
このほか、剽軽者のチェンや、文工団きっての美人ディンディンといった愉快な仲間たちが画面に犇めき合い、ポップでセンチな青春群像が紡がれていく。
画面で手前がスイツ(演チョン・チューシー)。
レッスン中のふざけ合い、水飛沫に輝くプール、軍内に持ち込まれたテレサ・テンのカセットテープ、激しい夕立にキャーキャー騒ぎながら走る少女たち。
ミラーボールのように乱反射する青春のきらめきと柔らかいノスタルジーは、必ずやおまえの鼻の奥をツンとさせることだろう。雨のべとつきや肌の匂いまで感じるような触覚性にすぐれたショットが古い記憶を掘り起こし、観る者を学生時代までタイムスリップさせるのだ。文工団という特殊な環境を学校のように撮ったことで普遍的なノスタルジアが宿ったんだろーな。たぶん。
リウフォンとシャオピンはとても仲がいいが、その蜜月が単なる友情なのか、あるいは内に秘めた恋心の交差なのかはわからない。すべてはストーリーテラーである第三者・スイツの視点から語られていくからだ。
果たしてリウフォンが恋心を寄せていたのはシャオピンではなくディンディンであった。辛抱たまらなくなったリウフォンは「好きさー!」とわめいてディンディンを抱きしめたが、その現場を目撃した仲間が上層部にチクったことでリウフォンは取り調べを受ける。文工団といえども人民解放軍の一組織であることには変わりないので、毛沢東への忠誠を忘れて色恋にうつつを抜かすなどタブー中のタブーだったのだ。
そのうえ、保身に走ったディンディンが「リウフォンからスケベされた(しくしく)」と嘘の証言をしたことで彼の立場は極めて危ういものとなり、弁解しても聞く耳を持たない政治部に激怒したリウフォンは文工団を退団、中越戦争の最前線に送られてベトナム軍との激戦で右腕を失っちまいました。1979年のことであった。
青き春は過ぎ去り、ここから映画の毛色はガラッと変わる。
組織のリウフォンに対する処分に納得できないシャオピンは、彼と同じように文工団を退団して野戦病院の看護士になったが、凄惨な戦場を目の当たりにしたショックで心を病んでしまう。戦争終結後、精神病院にいたシャオピンを片腕のリウフォンが訪ねた。
それから間もなくして文工団は時代の波に抗えず解散。スイツは戦場ジャーナリストに転身したのち結婚して子をもうけ、ディンディンもまた華僑と結婚して優雅な外国暮らし。性悪女のハオと剽軽者チェンも元気にやっているようだ。
そして10年後の1991年、街で再会したリウフォンとシャオピンは戦死した友人たちの墓参りをしてバス停のベンチに腰掛けた。二人は恋愛関係にはなかったが、生涯暮らしを共にしたそうだ。
中越戦争に駆り出されるリウフォン(演ホアン・シュアン)。ヘルメットをかぶってないのがリウフォンなんだ。
◆文工団の光と影◆
このように、文工団に所属するヤングたちの15年間を追った大河ドラマである。
映画前半は文工団内部の活動…いわば「学生生活」みたいな日々が瑞々しく描かれ、後半では中越戦争の激しい戦闘シーケンス、および退団・解散によって団員たちがバラバラになっていくさまが描かれる。
通常、この手の映画では前半の青春譚を美化すればするほど彼らの青春を奪った戦争や時代の移り変わりといったものが残酷なほどダイナミックに映えて結末部に切ない余韻を残すものだが、本作がおもしろいのは文工団での青春の日々が必ずしも美化されておらず、むしろ多量のエグ味すら含んだシーケンスに仕上がっていることだ。
前章では「ポップでセンチな青春群像」とか「ミラーボールのように乱反射する青春のきらめき」などと調子のいいことを書いてしまったが、実はその裏では数々の厳しいエピソードが集積していたのでした。
シャオピンはハオ率いる女子グループからイジメを受けていたし、やがてイジメがなくなっても彼女は最後まで文工団に馴染むことはなかった。そのうえ遠く離れた地にいるシャオピンのパパンが病死しちゃいます。シャオピンは戦場で心を病む前にすでに映画前半で精神的不調をきたしていたのだ。それを傍証するかのように「ミラーボールのように乱反射する青春のきらめき」を映した数々の美景ショットの中にシャオピンだけが映っていない。
あくまで画面の主役はスイツ、ディンディン、ハオといった身分的にも環境的にも何不自由のない「恵まれた女の子たち」なのである。
そんなシャオピンが唯一希望を持てたのはリウフォンとの人間的な交流だけだったが、彼が恋したディンディンは魔性の言い逃れ女、「スケベされた」と嘘の証言ぶっこいてリウフォンに罪を着せ、それが原因でリウフォンは退団、戦争に駆り出されて傷痍軍人となった。リウフォンに続いて文工団を退団したシャオピンの動機を、スイツはボイスオーバーの中でこのように推測している。
「シャオピンは退団することに何の未練もなかったのだろう。彼女はリウフォンを傷つけた文工団に幻滅していたのだ」
文工団の闇が意外とすげえ。
文工団は我々観客にとって「多少のイジメはあれど郷愁を感じさせてくれる幸福な場所」のように映るが、シャオピンにとっては生き地獄ザッツオールだったのである。
そして10年後のラストシーンでは、腕を欠損したリウフォンと心のダメージから回復しきらないシャオピンだけが「あの頃」に取り残された時代の残骸として肩を寄せ合う。
観る者はここで本作のストーリーテラーがリウフォンでもシャオピンでもなく脇役のスイツであることの意味を知る。おそらくこの映画はスイツのように文革の荒波を乗り越えた「恵まれた者たち」の懺悔なのだろう。時代に置き去りにされたかつての仲間への追想と言い換えてもいい。
映画は茶目っ気と爽やかさを絡めたスイツのボイスオーバーでスキッと締め括られるが、なぜだか感傷的な余韻がいつまでも私をとらえて離さなかった。
美景ショットにシャオピンの姿はない。
◆涙の地雷原やめれ◆
現在、皆さんは「フーン、結構いい映画なんじゃん?」と鼻でもほじりながらこの長ったらしい文章を斜め読みしていることだろうが、う~ん、さにあらず。
あまりいい映画とは言えないことがすごく悔やまれる類の作品なんである。わかるか。「嗚呼、ホントは手放しに賞賛したい。この映画を褒めることができたらどんなに素敵だろォォ――う」つぅ感じの映画なんだわな。
まずもってメロドラマのゴリ押しがすごい。私は「涙のカツアゲ」と呼んでいるけど、もう意地でもテコでも泣かせようとしてくるのだ。
シャオピンは何かあるたびにすぐ泣き出すし(貰い泣きを誘っている)、感動的な劇伴は終始鳴りまくる(前頭前野と副交感神経に訴えている)。そしてシャオピンのパパンが死んだり、リウフォンが居た堪れない姿になったり、スイツが失恋したりする。
極めつけは文工団の解散シーンで全団員がオイオイ泣きながら合唱する文工団のテーマソング。ガンダーラ ガンダーラ♪ この曲は違いますけども。
いわば感動の呼び水がフィルムの全域を濡らしている状態で、全編これ涙の地雷原。
「泣ける」という可能動詞をこよなく愛する女子大生なら爆泣き必至だが、この手の商業的に仕掛けられた涙の地雷にビタイチ反応しない人間にはただウザったいだけの135分が静かに流れていくだけ。川に浮かんだ兵士の死体のように。
もう一点むかついたのは中盤以降の映像のテンポが性急すぎることだ。
「ダイジェスト版を見せられているのだろうか」ってぐらい話も場面もポンポン飛ぶ。物語理解は追いつくものの、各エピソードは浮つき、平坦になり、人物の感情の流れも寸断されてしまう。
たとえば、スイツがチェンに片思いしていたことが唐突に示され、その直後にチェンは犬猿の仲だったハオとデキていたことがサラッと明かされる。傷心したスイツは失恋の涙をぽろぽろ流して観客の貰い泣きを誘うわけだが……いやいや、待たれよ待たれよ。
このシーンの手前で彼女たちの三角関係が描かれていたならまだしも…いきなり過ぎるだろ。「急な話で悪いけど実はスイツはチェンのことが好きでした!」、「だけどチェンとハオは不仲にも関わらずなぜか結ばれていました!」とか急に言われても泣けるかっつーの、ボゲッ! おととい来やがれ!
映像面は割といいんだけどね。「エモい」って言うのかな。ヤングたちのハリのある肌の美しさ、闊達なるエネルギー、笑顔、水飛沫、光の屈折、何よりダンスである。そうした輝かしい映像の断片がテカテカのデジタル撮影&スローモーションで彩られております。
戦争シーケンスも大きな見せ場である。砲撃で人体がバラバラになるCGは「プレステ2かよ」ってぐらい安っぽかったが、戦場を駆け巡るリウフォン視点の長回しは臨場感があってよい。飛び交う銃声のサラウンド処理も凝っていて迫力満点だ。
おそらく読者のなかには文化大革命とか人民解放軍と聞いて「なんだよそれ、知るかよ。オレには関係ねーよォー。邪魔すんなよォォォォォォォォ!」と反抗期みたいに逆ギレしてくるドアホもいるだろうが、政治色はかなり薄い作品なので気軽に楽しんで頂けると思います。それにスイツのフォトジェニックなボディラインを堪能するだけでも値打ちもんである。
ちなみにリウフォン役のホアン・シュアンはかなりの売れっ子らしく、マット・デイモン主演の米中合作バカ映画『グレートウォール』(17年)や、染谷将太や阿部寛が出ている日中合作『空海 KU-KAI 美しき王妃の謎』(17年)で引っ張りだこらしい。
なるほど、かなりいい顔をしているが近い将来スキャンダルを起こしそうな顔でもある。余計なお世話か。
リウフォン役のホアン・シュアンと、彼を裏切ったディンディン役ヤン・ツァイユー。
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