不思議なことが次々起こる。何がどうなっテルマ?
2017年。ヨアキム・トリアー監督。エイリ・ハーボー、カヤ・ウィルキンス、ヘンリク・ラファエルソン。
ノルウェーの田舎町で、信仰心が強く抑圧的な両親の下で育ったテルマには、なぜか幼い頃の記憶がなかった。そんな彼女がオスロの大学に通うため一人暮らしを始め、同級生の女性アンニャと初めての恋に落ちる。欲望や罪の意識に悩みながらも、奔放なアンニャに惹かれていくテルマ。しかし、やがてテルマは突然の発作に襲われるようになり、周囲で不可解な出来事が続発。そしてある日、アンニャがこつ然と姿を消してしまい…。(映画.comより)
おはようございます。本日の呟きはこちらとなっております。
過日、ある人から「屁理屈を言うな」と言われたので「屁理屈の定義を理屈で説明してください」と返したら「それが屁理屈なんだよ!」と言われてしまい、ぐうの音も出なかったので「すてきな理屈に屁が出そうです」と負け惜しみを言って逃げた。
というわけで本日は『テルマ』をお送り。キミだってそれを望んでるはずだ。
◆発作少女の周囲で怪現象が…◆
アバンタイトルがおもしろい。雪山で鹿狩りをする父が、鹿に向けた銃口を幼い娘の後頭部に定め、少し考えて思いとどまる…というものだ。
アバン明けのファーストシーン。大学の敷地を見下ろすカメラが行き交う人々を漫然と捉えるが、少しずつズームするうちに一人の女性に焦点が当たっていたことが分かる。幼き日に父に銃口を向けられた娘である。
親元を離れてオスロの大学に通うエイリ・ハーボーは内気で友達がおらず、よく発作を起こしてぶっ倒れる。発作の前兆として鳥が騒いだり木々がざわめいたりするのだが、しばらくすると何もなかったかのように起き上がって独りキャンパスライフを続行するのである。
同い年のカヤ・ウィルキンスと仲良くなったエイリは、やがてカヤと愛し合うようになるが、二人の関係に亀裂が生じたあとにカヤが忽然と姿を消す。その間にもエイリはたびたび発作に見舞われ、そのたびに鳥が騒いだり、木々がざわめいたり、電気が明滅したりする。ついに精神を病んで休学届けを出したエイリは故郷で両親と暮らし始めるのだが、そこでも不思議なことが起きた。
父親が自然発火したのである。
パニックに陥った父親は「あっつー」と言いながら湖に飛び込んで鎮火を図ったものの、水面から上がった途端にまた発火してしまい「もうむり」と言って死んでしまった。
このように、わけのわからないことが次々と起きる映画が『テルマ』である。
このヒロインは何者なのか。なぜカヤが姿を消したり父が燃えたりするのか。そして父はなぜ幼いヒロインを殺そうとしたのか。何がどうなっテルマ。
娘殺しを思い留まる父親。
◆監督の趣味ごった煮映画◆
先に言ってしまうとこのヒロインは超能力少女なのだが、本作はスーパーナチュラル(超常現象)モノの外形を借りた青春映画である。
ホラーやスリラーの雰囲気をまとっているとはいえ、生まれつき持っている能力や家庭環境に抑圧されて自分が何者なのか分からないヒロインが自我と自由を手にする物語なのだ。
キリスト教の過保護な両親は酒を禁止して祈りを強要し、一日一回の電話報告を義務付ける。また、エイリは幼少期に超能力が暴走して生まれたばかりの弟を死なせてしまったことが明かされ、そのため父親は「悪魔の手先めー!」とクリスチャン特有のノリで幼いエイリを殺しかけたのだ。
観てりゃあ誰でも気づくが、これはブライアン・デ・パルマの『キャリー』(76年)である。
監督のヨアキム・トリアーは『キャリー』のほかにも影響を受けた作品をぺらぺら喋っていて、その中には『フューリー』(78年)、『AKIRA』(88年)、『デッドゾーン』(83年)といった超能力映画を弾丸列挙している。
トリアー「僕は超能力が大好きなんだよねぇ」
へぇ、って感じである。
また「自分は何者なのか?」といった実存主義的なテーマや宗教的モチーフに関してはイングマール・ベルイマンを参考にしたと言っている。『処女の泉』(60年)や『仮面/ペルソナ』(66年)あたりだろうか。そして鳥がざわめく発作の予兆は『鳥』(63年)の影響だという。
トリアー「僕は超能力映画以外にベルイマンも好きだしヒッチコックも大好きなんだよねえ」
節操ねえな。
おまえが好きな映画混ぜただけやないか。
本作に影響を与えた『キャリー』(左上)、『AKIRA』(右上)、『仮面/ペルソナ』(左下)、『鳥』(右上)。まだまだあるぞ。
ではこの映画のオリジナリティはどこにあるのかと言うと、ひとつは同性愛という要素。
キリスト教の両親に自分がレズビアンであることをカミングアウトできないエイリは、大学進学に伴う一人暮らしによって同性愛という自由を手にする。
ところがカヤは異性愛者として描かれており、現にエイリと出会ったときには既にボーイフレンドもいた。そんなカヤがじつに不自然な流れでエイリと両想いになるのだ。なぜ異性愛者のカヤがエイリと結ばれたのか。
その理由はエイリがどのような超能力を持っているのか? という映画後半の絵解きに関わっていて、いわば本作で描かれる「同性愛」は自由の象徴であると同時にミステリーのギミックとしてふたつの機能を有しているのだ。
だから決してLGBTを扱った作品ではない。ヒロインが同性愛者であることには映画的な意味があるのだから(2つも!)。
もうひとつのオリジナリティはユニークな宗教観である。
エイリは両親に禁止されていた酒を煽りながらカヤと一緒にキリスト教の悪口を言う。
「神は悪魔!」
「言えてるね。どっちも似たようなもんだっつーの!」
とはいえ、彼女は本気でキリストを冒涜しているわけではなく、いわば両親に対する反抗なのである。
ところが映画が進むにしたがって、冗談半分で言った「神と悪魔は似たようなもん説」が奇しくも現実のものとなる。悪魔的な能力で周囲の人間を傷つけてしまったエイリが、同じ能力を使ってこの世から消した人間を元通りにしたり、車椅子の母親を歩けるようにするのだ。これぞ神。
なお、エイリがどんな能力を持っているかについては終盤まで明かされないので、本稿でもネタバレを慎しんでおります。
恋人同士のエイリとカヤ。
◆ええ話◆
ホラーとしてパッケージされているので怖がりな人民は敬遠してしまうだろうが、ぜんぜん大丈夫である。恐れる心配はない。
この作品は『レディ・バード』(17年)のようなド直球の青春映画ではなく、むしろ『RAW 少女のめざめ』(16年)のようなキワモノ映画と見せかけて実は普遍的な青春映画。ある意味では直球の青春映画よりもピュアな作品と言えるかもしれない。
そもそもホラーというのは実社会の問題を映す鏡であって、いわば寓話(たとえ話)である。エイリの超能力も決して絵空事ではなく「持て余した資質」の比喩なのだろう。そして彼女は、自らを縛りつける超能力を上手に使うことで真の自分を見出し、自由を手にするのだ。レッツエンジョイ、キャンパスライフ!
なんやこれ。
ええ話やないか。
※だけどラストシーンは見方次第で解釈が変わるので、その辺も楽しんで頂きたいと思います。
この映画をお作りなさったヨアキム・トリアーは躁鬱監督として知られるラース・フォン・トリアーの甥。ラースといえば悲惨な映画ばかり撮るおっさんだが、鬱映画として名高い『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(00年)も見方によっては希望に満ちた映画だし、私はあのラストシーンを極上のハッピーエンドだと考えている。
画運びや映像設計は北欧まるだしといった感じで、剥き出しのノルウェー映画がここには転がっております。いい意味で無感動なショットとシルクのようなフィルムの肌触りが映画から体温を奪っていく。ベルイマンに引きずられてないあたりもいい。
ただし北欧特有の文法で作られた作品なので、久しくノルウェー映画を観ていない私のような自堕落な観客は118分が少々長く感じるかもしれない。それでも最後まで興味を持続できたのは超能力の正体とか物語の落とし前とかよりもエイリ・ハーボーの顔によるものだろう。ファーストシーンとラストシーンとでずいぶん顔つきが変わっているのだが、もちろんこれにも「映画的な意味」がある。
限りなく変化球に見える直球を投げたヨアキム・トリアーをひとまず祝福していい。いい肩しテルマ。
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