シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

エデン、その後

無媒介的なイメージ、その壊乱。

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1970年。アラン・ロブ=グリエ監督。カトリーヌ・ジュールダン、ピエール・ジメール、リシャール・ルドウィック。

 

カフェ・エデンにたむろするパリの大学生たち。退廃的な遊戯や儀式に興ずる彼らの前に、謎の男が姿を現す。男が差し出した麻薬らしき粉末を摂取したバイオレットは、死や性愛をめぐる様々な幻覚に襲われる。(映画.comより)

 

おはウー。昨日むっちゃ寒かったわー。

前回の前書きで、私は世間に先んじて季節を先取りする異能の持ち主なんやで、といったお話をしたけれども、ぜんぜん春はまだだった。春ゼロ番とか俺は未来人みたいな訳のわからないクダを巻いてすみませんでした。

あと、いよいよ明日はてなブログProの期限が切れるのだけど…しょうがないので更新してあげました。目障りな広告とキーワード自動リンクがあると読者が読みにくかろうと思っての勇気の出費、無償の厚情、マザー的テレサ、やさ&しみ。

いっやー、ブロガーとしての器が試されたなぁ。普通であれば「あほくさ」と言ってさっさと無料版に切り替えるところを、なんとこの私は! 快適な利用環境の維持費として! ビタ一文の得にもならないばかりか! 採算のとれぬ出費をして赤字運営に乗り出してみせたんだ!

何らかの形で元が取れるまでこの恩着せがましい説法は繰り返していきます。

まあ、私が勝手にやったことなので読者が恩を感じる道理なんて全くないが、それだとなんか悔しいので、せめて運営元の「株式会社はてな」は私に感謝状を寄こすべきだと思います。「何のメリットもないのにPro版を継続してくれてアリス」つって書いて持ってこい!

とりあえず運営元に対して貸しひとつな。金がどんどんなくなっていく。ひもじい。

そんなわけで本日は『エデン、その後』です。

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◆アラン・ロブ=グリエに関する漸進的長考③◆

アラン・ロブ=グリエ特集第3弾ということで、そろそろ「いい加減に城田優」と叱咤されそうだが、いい加減にはできないのがロブ=グリエ。次で終わるから辛抱しろ!

監督3作目の『嘘をつく男』(68年)を意図的に飛ばした理由は、ロブ=グリエ初のカラー作品となる4作目『エデン、その後』が良くも悪くも彼のフィルモグラフィの結節点となるからである。

色を得た作家は難解になる。

ことに60年代中期以降のヨーロッパ映画に顕著だが、アントニオーニの『欲望』(66年)、ベルトルッチの『分身』(68年)、パゾリーニの『テオレマ』(68年)など、それまでモノクロで撮ってきた作家がカラー作品を手掛けた途端にアート志向が強くなって「チンプンカンプンお手上げだい」という隘路に人を立たせがち。こうした傾向の背景としては当時の欧映画的潮流を無意識化で操作していたゴダールが60年代作家たちを大いに翻弄した映画史的誘惑の事件性が認められたり認められなかったりするのだが、まぁ、この話はいいか。

いずれにせよ本作もゴダールの影響下にあるのは間違いないということで、その証左として主演のカトリーヌ・ジュールダン『勝手にしやがれ』(59年)のジーン・セバーグの相貌にぴたりとおさまること、そして何より『女は女である』(61年)以降のゴダール・カラー作品同様に、赤、青、白のフランス国旗の三色だけで構成された色彩設計がゴダール症候群をズバリと裏付けているわけです。

『女は女である』も近日取り上げるで。

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フランス国旗カラー(画像上)、ジーン・セバーグの相貌(画像下)。

 

もはや内容を気にする人間もいないだろうが一応あらすじ的なものを紹介しておくと、「エデン」というカフェに入り浸るパリの大学生たちが即興演劇を続けるうちに人が死んだり絵が盗まれたりチュニジアの幻想風土に魅せられて頭がメルヘンなったりする…といった相変わらずの内容。

いい加減に城田優といえる。

 

ロブ=グリエの作品はどれもそうだが、まずクレジットタイトルでわけのわからないイメージが2分以上に渡ってババババッと羅列され、やがてそれが後のシーンのワンショットだったと判明する(変則的なフラッシュ・フォワード)。

つまり開幕早々にわれわれは映画全編をダイジェスト的に見通すことになるわけだが、そこには時間も空間も脈絡も展開もないので何らの予断の端緒にもならない。また、そうしたイメージの連射に「エデン、その後」「イメージと光」「モンタージュ」といった何者かのボイスオーバーが乗る。画面上でおこなわれていることを逐一言葉で説明しているのだ。

このゴダール的な手続きは“イメージ”から“意味”を取り除く。したがって、本編が始まるとショットは何を語るでもなく、ただイメージの連鎖として事務的に古いコマから新しいコマへと送られてゆくことになる。

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イメージ、イメージ、イメージ。

 

カフェ・エデンに入り浸る学生たちは演劇を専攻しているらしく、映画冒頭では目隠しをした女がロシアンルーレットで友人を射殺してしまったり、他人のドリンクに毒薬を盛った男がミスってそれを飲んで死んでしまったりするが、のちのシーンではケロッとした顔で画面に復帰している。すべては芝居なのだ。

映画中盤では何者かに大事な絵を盗まれたカトリーヌ・ジュールダンが「恐怖の粉」を吸引したことで舞台がチュニジアに移って絵を取り戻すための怪奇冒険譚が描かれるが、このシーケンスが薬物による夢や妄想の類なのか、はたまたカフェ・エデンでの集団演技の心象なのか…なんて思っていると、途中でチュニジアを右往左往するカトリーヌの映像(本作のフィルム)を映画館で見ている学生たちの様子が映し出される。もはやワケのわからない世界だが、先にも述べたように、すべてはイメージであり芝居なのだ。特に難しいものではない。

たぶん、いちど取り除かれた“意味”を無理やりイメージに接着しようとするからワケがわからなくなるのだろう。

芝居というのは映像に意味を附与する行為であり、映像とは意味を媒介するイメージなのだと思い込む者たちをことごとく罠に掛けていくロブ=グリエにとって、映像とは意味の無媒介的なイメージに過ぎないのかもしれない。

ここまでがんばって本稿を読んで「何が何やらです。せっかく読んだのに、がんばりが無駄になりました」と思う人あらば安心されたい。

私も何が何やらだから。

元気だせよ。

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