シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

快楽の漸進的横滑り

彼女たちの裸は「脱いだ」ものでもなければ「着忘れた」ものでもない。

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1974年。アラン・ロブ=グリエ監督。アニセー・アルビナ、ジャン=ルイ・トランティニャン、マイケル・ロンズデール。

 

ルームメイト殺害の容疑で逮捕された美女アリス。心臓にハサミが突き刺さった被害者の体には、描きかけの聖女の殉教の絵が残されており…。(映画.comより) 

 

おらああああああ! おはよう!

ものすごい勢いで挨拶をすれば全てがうまくいくような気がして。

ついに読者登録が500人に到達しました。400台という数字が何となく気持ち悪かったので「早く500を超えるか、いっそ300人台まで下がるか、どっちかにしてくんないかな」と思っていたので、とっても嬉しいです。

…と、こんなこと書いたときに限って何人かに登録解除されて翌日見たら498人とかになってるんだよな。

解除したらしばくからな!

絶対しばく。

そんなわけで本日は『快楽の漸進的横滑り』。意味はよくわからんがメチャメチャ格好いい邦題であるよな~。

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◆アラン・ロブ=グリエに関する漸進的長考④◆

皆さんを退屈地獄に叩き落したアラン・ロブ=グリエ特集もいよいよ最終回である。ご苦労さんでした。

最後の作品は『快楽の漸進的横滑り』

ルームメイト殺しの容疑で感化院に収監されたアニセー・アルビナが刑事の尋問を巧みにはぐらかし、予審判事、弁護士、牧師、修道女たちを次々と惑わせてはスッポンポンになって赤いペンキを体中に塗りたくる…という例によって困った中身である。

 

物語の舞台は感化院の独房の中だけだが、さまざまな心象風景がサブリミナル的に映し出され、例によって犯人捜しはおこなわれない。アニセーが曖昧な証言ばかりするので捜査は一向に進展しないが、少なくとも曖昧な証言が続く限りフィルムは回り続けるので、誰が犯人であれ、そんなことは何の意味も持たないのだ。

煎じ詰めればミステリ仕立ての映画がやっていることは「犯人捜し」ではなく「犯人捜しによる映画の延長」である。犯人が見つかるまでは映画を続けることが許されるし、観客も画面を見続けてくれる。だからミステリ形式を使ったまでのこと。これがロブ=グリエの映画的詭弁である。

その後、「映画さえ続けば犯人の正体などどうでもいい」とばかりに事態は呆気なく収束する。アニセーが言っていたようにルームメイトを殺した犯人はただの変態野郎だったが、彼女の無実を伝えにきた刑事ジャン=ルイ・トランティニャンは、ルームメイトと顔が瓜二つの女弁護士がアニセーの近くで死んでいるのを見て「やれやれ」とため息をつき、カメラに向かって「最初から全部やり直しだ」と言う。

もはやこうなると、ルームメイト殺しの犯人が変態野郎で、弁護士殺しの犯人がアニセーだという説話的事実など何の意味も持たないし、さらに言うなら二人の被害者がまったく同じ状況で殺された(顔も似ており、映像的にも同一のイメージにおさまっている)ことは説話的事実に反するので、やはりルームメイト殺しの犯人もアニセーということになる。すると、変態が捕まったことで彼女の潔白が証明されたというトランティニャンの言葉が再び矛盾を惹起するわけです。で、このメタ発言ですわ。

最初から全部やり直しだ

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ロブ=グリエ作品の女性はだいたい服を着ていないが、とりわけ『快楽の漸進的横滑り』全裸度の高い作品となっている。

と言ってもその裸形性はエロスやインモラルとは無縁で、そもそもロブ=グリエ的全裸には衣服の着脱的文脈が存在しないのである。つまり彼女たちの裸は「脱いだ」ものでもなければ「着忘れた」ものでもないので、いわば裸であることの前後に衣服という概念が存在しないため、もはや裸にあって裸にあらずという全裸哲学みたいなワケのわからん話になってくるわけであります。

裸体の上に割り落とされた卵の黄身は、まるで身体が服を纏うことを拒否するごとく、なめらかな皮膚の上をむなしく滑り、ぷるんと床に落ちてしまう。ぷりん。

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快楽が漸進的に横滑りしとんなぁ~。

 

もう少し話を続けると、この裸形性はきわめてマネキンに近い。

現に本作にはマネキンが頻出し、人物の代わりに四肢をもがれ、いたぶられる。その一方で、人物もまたマネキンのように無表情で静止している。

人間を模したマネキンを生身の人間が模し返すことで本物と贋物の境界を曖昧にしていくロブ=グリエは、だから「あなたの映画では血がよく出ますね」と言ったインタビュアーに対して「いや、あれはペンキだ」と答えるし、別のインタビューで「『不滅の女』(63年)のフランソワーズ・ブリオンは本当に死んだのですか?」と問われれば「バカな。映画の撮影で女優を殺すはずがない」と答える。

また、ある人はロブ=グリエの画面構成を絵画的だと指摘していた。マネキン同様、実写さながらに模写した絵画を実写で模し返す行為は“ホンモノっぽさ”を裏返すことに等しく、ひいてはマガイモノ感だけが抽出されるのである。ホンモノを使ってマガイモノをやる。ゴダールの血脈は絶えそうにない。

 

しばしばロブ=グリエは「映画を使って遊んでる人」と言われるが、この男の作品は無邪気な遊戯に留まらず、映画を挑発、破壊、愚弄、解体、模索、批判するための大がかりな実験装置なのだろう。しらんけど。

ひとまずはアニセー・アルビナの隙のない可愛さが、この倫理的にして不可解な実験に付き合いきれぬ人々の目をかろうじて画面に留めておくだけの一枚の首の皮となるが、その皮のやたらな厚さは並大抵のことでは切れそうもない。付き合っても切れないロブ=グリエ。

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