シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ハウス・ジャック・ビルド

トリアーという家は我々を囲い込む。

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2018年。ラース・フォン・トリアー監督。マット・ディロン、ブルーノ・ガンツ、ユマ・サーマン。

 

1970年代、ワシントン州。建築家を夢見るハンサムな独身の技師ジャックは、ある出来事をきっかけに、アートを創作するかのように殺人を繰り返すように。そんな彼が「ジャックの家」を建てるまでの12年間の軌跡を、5つのエピソードを通して描き出す。(映画.comより)

 

おはようございます、おまえたち。

メチャクチャ不味そうなメシを作ってしまったときは「シャバ僧入所メシ」と名付けています。

それはそうと、……いや。

「それはそうと」なんて都合のいい言葉で話題をコロコロ変えて読者を振り回すのはもうよそう。

最初に「シャバ僧入所メシ」の話をしたのは私なのだから、話題を変えるにしてもシャバ僧入所メシの話をもう少し掘り下げるか、せめてオチめいた着地点まで導くべきだ。もしこのまま「それはそうと」と言ってまったく違う話題にシフトしてしまうと「えっ、シャバ僧入所メシの話はもう終わり? せっかく面白そうな匂いがしてたのに、もう別の話題にいっちゃうの?」と思われてしまうし、なにより「ああ、このブロガーは思いつきでモノを書くような、バカで、無責任で、たぶんヒゲが生えていて、シャツが汚くて、風呂に入ってもカカトをあまり洗わないような角質ハイボールだ」と思われてしまう。そんなことになったら私の信用が余計に落ちる。ただでさえ前書きなんて書き始めたばっかりに、いつもマヌケを晒しているのだ。こんな前書きシステムなんか無ければ、私はもう少し尊敬を集めていたと思います。

まあ、嘆いていてもしょうがない。前を向いて、希望を抱いて、コロナ情報をよく収集し、明日を夢見て生きていくしかないんだ。

それはそうと、キウイやパイナップルを食べると口の中が痒くなる。友人に相談して「全国共通?」って訊くと「いや、アレルギーでしょ。オマエの」と言われて「ほっほーん」って思った。

そんなわけで本日は『ハウス・ジャック・ビルド』です。分かりやすい解説や評論はすでに出揃っているので、私は言葉の裏側で本作に迫ってみました。要するにわけのわからない文章が続きます。

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◆「一番最後のトリアー作品」が観たい◆

個人的な興味はラース・フォン・トリアー最後の作品にある。

誰が見てもトリアーだと分かるほど記名性の強い超個性派作家と思われながら、じつは技法を取捨しながら次作に持ち越す(つまり全ての作品が一本化されている)トリアーは、未だ映像スタイルが固まっていない作家だ。

セピア、8mm映像、性描写における本番行為、章仕立て、高速度撮影、絵や図を使った解説、カウントされる数字、ボイスオーバーによる雑学の披歴、性器の披歴、人体損壊、児童惨殺、コンピュータグラフィックス。

この中には現在使われていない技法もあるし、今後新たに発見されゆく技法もあるだろう。

自他ともに認める躁鬱の作家ラース・フォン・トリアーは、自ら起こしたデンマークの映画運動「ドグマ95」において「純潔の誓い」という10のルールを制定しながらも真っ先に自分が破ったり、無神論者を豪語しながらもちょっぴりカトリックに入信していた時期があったり、タフコスフキーを私淑しながらも平気で“画面を繋げてしまう”など非一貫的な姿勢を崩さぬことにかけては一貫している。だから作風の変化は今後も続いていくはずだ。

したがって私の興味は『ニンフォマニアック』(13年)の余勢を駆って撮られた『ハウス・ジャック・ビルト』にはなく、この男が最後の最後に撮った遺作(もしくは引退作)にこそ向いているのだ。ちょっと、みんなでイマジンしてみようじゃないか。

トリアー作品って最終的にどうなるんだろ。

 

さて。映画好きを大いに楽しませた本作は、建築家を目指すシリアルキラーが持ち前の強迫性障害に苦しみながらも日々コツコツと罪なき人々を殺して回るという涙ぐましい殺戮回顧録を主内容に持つ。

映画は対話形式のボイスオーバーを通して、主人公のシリアルキラーが謎の男に向けて語った5つのエピソード(全5章)から成っており、随所でストーリーを寸断してシリアルキラーと謎の男が人生観・芸術論・犯罪心理などについて観念的な議論を展開する。

シリアルキラーを演じたのはマット・ディロンだ。『アウトサイダー』(83年)でパトリック・スウェイジ、トム・クルーズ、ロブ・ロウらと同時期に売り出されたアイドル俳優だが瞬く間に低迷。以降『ドラッグストア・カウボーイ』(89年)『ワイルドシングス』(98年)『クラッシュ』(04年)などで記憶に残るクズを好演して皆に褒められた。そして本作では遂に「妻子を射殺する弩クズ」を嬉々として演じ、カンヌ映画祭で100人以上を途中退席させることに成功している。

また、映画終盤でようやく姿を見せた謎の対話者は『ベルリン・天使の詩』(87年)『ヒトラー ~最期の12日間~』(04年)で知られるスイス屈指の遅咲き俳優ブルーノ・ガンツであった。自らの犯行を正当化するディロンを淡々と論破してゆく。とはいえ出演シーンは短く、大部分は画面外からの音声参加なのでやってることは俳優業というより声優業。

小野賢章、宮野真守、ブルーノ・ガンツ。

この並びである。

ディロンの話を静かに聞き、ときに反論するガンツは何者なのか? 神父? 悪魔? 声優? それはいずれ分かる。

f:id:hukadume7272:20200221035131j:plainちなみにウチの母親がマット・ディロンのファンです、という貴重な情報を付け加えておく。

 

映画が始まると、自らを「ミスター・ソフィスティケート」と名乗るディロンがこれまでに殺した60人以上の人間の中から無作為に選んだ5つの事件が時系列を無視して語られてゆく。

第1章では馴れ馴れしく車に乗ってきた女の顔にジャッキを叩き込んで殺害(ビルをキルしたユマ・サーマンを逆にキルする)

第2章では未亡人の家に押し入って絞殺。死体を車で引きずっての路面大根おろしに成功。

第3章では狩りと称して山で妻子を射殺。好きな数字を訊ねてその秒数分だけ逃げる時間を与えるという寛大さを見せつけた。

第4章では胸の大きい恋人を刺殺後、切除した乳房の生皮で小銭入れを制作(利用もする)

そして第5章では、一発のフルメタルジャケット弾で6人同時に殺せるかを試すべく誘拐してきた男たちを一列に固定して貫通力テストをおこなうも、銃弾のパッケージと中身が異なっていたり照準が合わないなどトラブル続発。邪魔する猟師仲間を殺害しながら半ギレでフルメタルジャケット弾を探し求める。

いったい彼は何がしたいのか?

家を建てたいのである!

はぁ?

まあ、そういう映画だ。

f:id:hukadume7272:20200221034848j:plainやっとんなー。

 

◆観客を囲い込む茶番劇◆

ここからは斜に構えたことをひたすら綴っていく。

前章でトリアー作品は一本化されていると述べたが、不幸にも『ニンフォマニアック』という“面白過ぎる映画”を撮ってしまったことで、『ハウス・ジャック・ビルド』は半ば予見された形で必然的な面白さを2018年という未来に確約してしまったより不幸な作品だ。

一般に「映画好き」と呼ばれる人種はセンセーショナルな作品の即物的な消費に励む生き物なので「近年のオゾンやアルモドバルはなるほどセンセーショナルだがいささか過激さが足りない。ハネケも毒を潜めてしまったなー。リンチはそもそも撮らないし」といった解毒されゆくベテラン勢に欲求不満しつつ、若手~中堅のギャスパー・ノエ、ニコラス・ウィンディング・レフン、ヨルゴス・ランティモスらにその捌け口を求めながらも『ニンフォマニアック』以後のトリアーに即物的快楽を期待してしまっていて、一方のトリアーも大衆のニーズを敏感に感じ取っているので『ドッグヴィル』でワッと人を驚かせたあとの『マンダレイ』のように本作を撮った。

ある意味、トリアーにとっては自縄自縛である。ふざけてカバーした「U.S.A.」が空前の大ヒットを記録したDA PUMPが次のシングルに困って桜ソングで安牌を狙ったり再びダンスミュージックを連発したのと根本は同じ。

まるで性別と性癖を変えた『ニンフォマニアック Vol.3を見せられたように「あ~楽しい~」と人を痴呆化させるほどには十分な“おもしろさ”を戦略的に備えた本作は――言い換えれば観客の卑俗な欲望に応えるべくハリウッド馬鹿大作のごときサービス精神で撮りあげた本作は、「大問題作!」や「途中退席者続出!」と囃し立てる人間によって滑稽な茶番と化し、劇中語られる遠大な芸術論は大衆娯楽に回収され、トリアー作品の大きな魅力である見かけ倒しのハッタリは加速度的にいかがわしさを増していく。

 

そのハッタリは、たとえば劇中で目配せされる『ダンテの小舟』『神曲』のアレゴリーであり、時に図解を用いてまでサイコパスの精神構造を説明しまくる饒舌体にほかならない。

ディロンとガンツの対話では、トリアーが過去に起こしたビョークへのセクハラ疑惑やカンヌ映画祭から出禁を喰らったナチス発言にも触れ(もちろん婉曲的にだが)、しかし、こうした論点はディロンの口を借りて詭弁を弄した果てにフェミニズムやポリティカル・コレクトネスに対する問題提起へと音もなくすり替えられていく。

「殺人行為と芸術活動はある意味ではイコールだ」とかいって自らの犯行を正当化するディロンがガンツ御大からコテンパンに言い負かされる構図がおもしろいのは、トリアーがこれまでに巻き起こしてきた数々の論争がジオラマ的に縮図化されているからだろう。挙句、「最高の家を建てるには最高のマテリアル(素材)が必要だ」とか何とか言って死体を使って家を完成させたディロンのように、この映画自体がトリアー論争を素材とした“家”なのである。

f:id:hukadume7272:20200221035838j:plainドラクロワの『ダンテの小舟』をなるたけ再現!(画像上)
鹿の親子の合理的な仕留め方を図を使って解説!(画像下)

 

それにしてもイマジネーションの枯渇よ。

最初の犠牲者ユマ・サーマンが顔にジャッキを叩き込まれるショットや、デヴィッド・ボウイの「Fame」などがこれといった演出効果も持たぬまま自堕落に繰り返される。自作すら素材だと言わんばかりに過去作の映像を挿入したのは面白かったが、たとえばアラン・レネの『夜と霧』(55年)のあまりにそのまんまな引用を生温かく見守るには155分はやや冗漫。

だからこそ、退屈を回避する唯一の方法はディロンの殺戮回顧録を即物的に消費することなのだ!

U.S.A.」ならぬ「H.J.B.」のリズムに踊らされるほかあるまい。

 

…と、このように観客を“囲い込む”本作は実際かなり緻密に設計されている。

怖い物見たさの客を釣り、快楽に誘い込み、引き返せないよう入口を塞く。キル・ユマに始まるタランティーノ的暴力描写ではドス黒い爽快感を抱かせ、潔癖症ゆえに殺害現場から離れられないブニュエル的コントでは時間感覚を取り上げ、妻子射殺ではハネケ的凄惨さで背筋を凍らす…といったように現代の映画ファンがだいたい好きなオカズをこれでもかと詰め込めば人肉幕の内弁当の一丁上がりよ。

絵画、文学、音楽のテクストが黒ゴマとして塗されているよ!

f:id:hukadume7272:20200221040625j:plainハリウッド映画が殺さない子供もトリアー映画ではかくも無防備。

 

◆映画から幽体離脱した映画◆

…と、いっさいの批評を封じられた状態でここまで書いてきたが、実際この映画は『愛のむきだし』(09年)で園子温がやった事とよく似ている。理解や解釈は許すが「批評」は封殺するという論理のゲームが構造化されちょるのだ。

トリアーや園のように観客を相手取った映画って、分かりやすく言えば「勝つ戦い」ではなく「負け筋をつぶす戦い」をしているので、たとえば本作に抗議するには途中退席するしかないのである(だが鑑賞を放棄した者に批判する資格はないので、どのみち批評は封殺されてしまう)。

それに本作は、映画というよりグラフィックノベルならぬモーションノベルと言えるほど言葉にぶら下がった映像作品なので、その意味でも映画としての評価軸が曖昧になっている。こういうことを西洋美術史で初めてやったのがマルセル・デュシャンだが、トリアーのそれは更に戦略的で洗練されている。

「ミスター・ソフィスティケート」はオマエだよ!

あと、この手の映画作家っていかなる自作も「これはコメディだ」という説明で片づけがち。

 

なんというか、映画から幽体離脱したような映画だったな。

肉体としての『ハウス・ジャック・ビルド』は醜く腐乱しているが、魂としての『ハウス・ジャック・ビルド』は知性を湛えている。それが表層的な「殺戮回顧録」深層的な「対話」によって分化されてるわけだが、結局は殺人を悔いながらも次の標的を探さずにはいられないディロンのように、あらゆる二項対立は時に親しくじゃれ合ったり殺し合ったりする。躁と鬱。エロスとタナトス。ロックとクラシック。前方に伸びる影と後方に伸びる影。そういえば本作が引用したゴッホやボウイも分裂症的なアーティストだった。

ここで終わるのも寂しいので、久しぶりに「好きなシーンを3つ挙げよう!」のコーナーをやります。

5つ挙げます

 

第5位 地獄のボルダリング

地獄に落ちたディロンが壁面を伝って現世復帰を試みるラストシーンです。

『クリフハンガー』(93年)のスタローンだったら難なくクリアできたであろう割とイージーな壁面だが、いかんせんディロンは指力(ゆびりょく)よりも人を絞殺する握力だけに長けているので、繊細な指力を要するボルダリングには向かない男だった。

「やばいかもー!」という感じがよかったので5位です。

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第4位 冷凍死体でスペシャルフォト作成

「バカな、これが4位か!」と驚かれた方も多いかもしれません。でも4位です。

ディロンは殺した人間をピザ屋の冷凍倉庫に隠しており、たまにそこから死体を運び出して作品制作に取り組む。今回使ったのは二人の冷凍女で、さまざまなポーズを自在に組み合わせて篠山紀信ばりにシャッターを切る。

本人いわく「本当は殺害直後に現場で撮るのが理想」とのこと。この言葉は食にも通じるね。なるべく冷蔵庫に入れず、その場で熱いうちに食べた方が美味しい。そういうことを言ってるわけです。ディロンは。

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第3位 キル・ユマ

これは人気の高いシーンではないでしょうか。

車の故障で立ち往生していたタカビーのユマ・サーマンが「ジャッキが壊れたから鍛冶屋まで連れてって。こんなゴージャスな私がお願いしてるんだから断る道理はないでしょう?」といって半ば無理やりディロンのワゴンに乗り込んだだけでなく、冗談で「あんた殺人鬼でしょ?」とか「でも殺す度胸ないんでしょッ!」としつこく絡んで観客を苛立たせる。おまえ何様なんだよと思うが、まあ…ユマ・サーマか。

途端、堪忍袋の緒が切れたディロンが「一体おまえは何サーマン!」とばかりにジャッキで顔面を打ち抜いて撲殺。

で、このザーマン。

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第2位 ガンショップにブチギレ抗議

第2位はこれだよ。

せっかく拉致した6人の頭部を一気に撃ち抜きたい気分なのに、ガンショップで買った銃弾のパッケと中身が違ってた!

ディロン「俺はフルメタルジャケット弾が欲しいのだー!」

怯える6人に「悪いけどちょっと待ってて」と謝罪したディロンは、火の玉になってガンショップに赴き「どうなっているんだ。ダマしはやめろ!」と猛クレーム。

これに関しては全面的にディロンが正しい。

だのに店員ときたら「レシートを見せろ」だの「免許を見せろ」だの、挙句の果てには「何に使う気だ?」などと関係ないことをグダグダ聞いてディロンの怒りに油を注ぐ。

このあと、警察に見つかったり照準が合わなかったりと様々なトラブルに見舞われ「なんで皆して僕のこと邪魔すんのおおおおおおおお」と荒れ狂うさまには妙なシンパシーすら感じた。私の日常がそこにはありました。

近所のすき屋が、テイクアウトしたときに付属のタレやワサビをしょっちゅう入れ忘れるので、そのたびにディロン化してるんですよ♪

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第1位 シャボンで着地

「そんな、まさか。第1位がこんな…バカな!」と驚かれた方しかいないと思います、もはや。

聖なるバリアみたいなシャボン玉に包まれたディロンとガンツが奈落に沈んでいってフワリと着地するシーンが第1位に輝きました。デヴィッド・リンチを彷彿させる奇妙な映像感覚もさることながら、なんといってもフワリと着地する二人がかわいい。

なんだろうな、この可愛らしさは。ゆっくり下降していく感じ、何とも言えない二人のポーズ、遠景からのティルト・ダウン。

ウン…かわいいです。

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ちょこんと着地。

 

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