シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

アリー/スター誕生

この映画を観たイーストウッドの本音が知りたい。

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2018年。ブラッドリー・クーパー監督。レディー・ガガ、ブラッドリー・クーパー、サム・エリオット。

 

音楽業界でスターになることを夢見ながらも、自分に自信がなく、周囲からは容姿も否定されるアリーは、小さなバーで細々と歌いながら日々を過ごしていた。そんな彼女はある日、世界的ロックスターのジャクソンに見いだされ、等身大の自分のままでショービジネスの世界に飛び込んでいくが…。(映画.comより)

 

ハロー人生。爆裂ボンレスハム。八つ裂きボンレスハム。

梅雨の季節に聴きたいアルバムはフェア・ウォーニングの『レインメーカー』です。

雨のSEに始まるエクストリームの『ポルノグラフィティ』(そう、「アポロ」でお馴染みのポルノグラフィティの由来になったアルバムです)も名盤だけど、メロハー好きの私は断然フェア・ウォーニングを推していくわけです。

f:id:hukadume7272:20190614062233j:plainフェア・ウォーニングはドイツ出身のハードロック・バンドで、通称メロハー(メロディアス・ハード)に分類される音楽性を持つクールガイ四名。メロディアス・ハードというのは書いて字の如くメロディアスなハードロックなので大変口ずさみやすい。洗濯物を干したり食器洗いをするときって誰でも歌を口ずさむと思うんだけど、そんなときに便利なのがフェア・ウォーニング。

そしてこのアルバムの良さは、キラーチューンと呼べるものが代表曲の「Burning Heart」ぐらいしかないというアルバム構成。一曲一曲の押しの強さよりもアルバム全体を通して大きなグルーヴを作っていくという作品なのであります。

私はベストアルバムというのが大嫌いで、即効性の高いヒット曲をどれだけ寄せ集めようが曲同士の繋がりとか余韻…そうしたケミストリーが生まれなければ「アルバム」ではない、という考えを持っているんだ。つまり曲単位ではなくアルバム単位で音楽を聴いている人間ということになるのかもしれません。大抵のベストアルバムは曲同士が喧嘩していて、アルバムとしての総合力や世界観は無きに等しい。悪いけど、そういうものには作品性を感じないのです。本当の名盤はオリジナル・アルバムにあり。そしてキラーチューンは1、2曲あればよい。そして優れたアルバムのキラーチューンは必ず2曲目に配置されています。まぁ、『レインメーカー』の「Burning Heart」は11曲目なんだけどね。これが唯一の失敗。曲順って大事ですけんね。

音楽談義もほどほどに、本日取り上げる映画は『アリー/ スター誕生』 。結局音楽。

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◆B・クーパーはイーストウッドの後継者? 冗談でしょう?◆

『ハングオーバー!』シリーズや『アメリカン・スナイパー』(14年)で知られる俳優ブラッドリー・クーパーが監督・製作・主演を担い、世界的歌手のレディー・ガガをヒロインに迎えて『A Star Is Born(スタア誕生)』を4度目の映画化。ブラッドリー・クーパーにとってはこれが初監督作となる。

過去に3度も映画化された『A Star Is Born』

オリジナルは1937年の『スタア誕生』。記念すべき第1回アカデミー賞で作品賞をふんだくった『つばさ』(27年)で知られるウィリアム・A・ウェルマンの作品だ。

そのリメイクが1954年の『スタア誕生』。ジョージ・キューカー監督、ジュディ・ガーランド&ジェームズ・メイソン主演という絢爛豪華な布陣で、おそらく同シリーズの中で最も有名な作品かもね。

そして3度目に映画化されたのが1976年の『スター誕生』。バーブラ・ストライサンドとクリス・クリストファーソンという70年代を象徴するスターを配した意欲作である。

すべてのアメリカ人とすべての映画好きにとっては説明不要の有名コンテンツだが、何しろ3作品もあるので紙幅の都合上おさらいや比較論は鮮やかにすっ飛ばす。

ただでさえ本作には語るべきところが多いのだ。初監督作となったブラッドリー・クーパー、初主演作となったレディー・ガガ、そして何よりクリント・イーストウッドの陰。これらを拾遺しながら本来の映画評もせねばならない。なんというマルチタスク。こんなにもワンオペ。ブラック企業ならではの過重労働とはまさにこのこと。

だからごめんな、悪いけど過去作に触れている余裕はないんだ。サクサクいかねばならないんだ、今のおれは。

…と言いつつ、この言い訳だけですでに750文字も使っているのは誰?

うーん、おれ! 照れちゃう!

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なんぼほどスタアが誕生するのか。


いちばん面倒臭いトピックから片付けてしまいましょう。

もともと本作はクリント・イーストウッドがビヨンセ主演で映画化する予定だったが、その相手役として打診されたレオナルド・ディカプリオ、ウィル・スミス、クリスチャン・ベール、トム・クルーズ、ジョニー・デップらがオファーを断ったことで計画は頓挫。天下のイーストウッドが監督するというのに彼らがオファーを断った理由は明確にされていないが、その後報道された「脚本家のウィル・フェッターズは本作の脚本がカート・コバーンに非常に影響されていることを明かした」とあることから類推するに「そりゃあ断るだろうね…」と合点がいく。

『A Star Is Born』をカート・コバーン路線でリメイクするなんてどうかしてるだろ。

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カート・コバーン…27歳でショットガン自殺したニルヴァーナのボーカルです。

 

そんなわけで、ついにイーストウッドも「やめじゃ、やめじゃー!」と監督から外れ、ようやくお鉢が回って来たのがブラッドリー・クーパー。

クーパー旋風を加速させた『世界にひとつのプレイブック』(12年)『アメリカン・ハッスル』(13年)では製作総指揮も務め、初めてイーストウッドとコネクションを結んだ主演作『アメリカン・スナイパー』では製作としても一枚噛んでいることから、もともと監督願望があった俳優なのだろう。

クーパーは『アメリカン・スナイパー』でイーストウッドと組んだだけでなく、本作『アリー/ スター誕生』のわずか3ヶ月前に公開されたイーストウッド最新作『運び屋』(18年)にも出演していることから、しばしば「イーストウッドの意志を受け継いだ~」とか「イーストウッドの愛弟子」などという馬鹿げたクリシェで語られている。

確かに二人の蜜月は論を俟たない事実だ。『アメリカン・スナイパー』『運び屋』でのタッグ、それにイーストウッドが監督を降板した本作をブラッドリーが後任したのだからその彼を「イーストウッドの継承者」と認識するのはきわめて穏当な思考回路だろう。

ただし、この認識=誤認が許されるのは映画を知らない者だけである。

イーストウッド作品を一定数観たことがあり、なおかつ『アリー/ スター誕生』も観た人間は「クーパーはイーストウッドの継承者である」とは口が裂けても言えまい。これを平然と口にしてしまえるのは映画を知らない者…すなわち頭の悪い映画ライターだけ

前々から思っていたが、どうやら我が国は両者の間にいくつかの共通点があるというだけで「愛弟子」だとか「後継者」などと安易に結びつけて嘘八百を並べ立てる三流ライターがネット上に映画評という名の便所のラクガキをまき散らし、それを鵜呑みにした人民が、仲間、恋人、同僚各種に「ブラッドリー・クーパーってイーストウッドの弟子なんだってよ~!」などと我が物顔で吹聴するほど文化水準が落ちているようです。

そんなのアリー?

スター誕生!

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◆クーパーのクーパーによるアップ連発のオレ様映画◆

売れっ子ロックミュージシャンのジャック(ブラッドリー・クーパー)がコンサートのあとに立ち寄ったバーでアリー(レディー・ガガ)の歌声に聴き惚れて早速ナンパ、一夜にして相思相愛になるまでが描かれる開幕30分。

ここでは物語の取っかかりに過ぎない第一幕がやけに緻密に描かれている。アリーの「サクセスストーリー」の序章というより「シンデレラストーリー」の序章に思えるほどロマンスの香りに満ちた艶やかな雰囲気がヘソォ~~っと漂っている。

実際、この映画がショービズの世界で成り上がっていくミュージカルではなくもっぱらロマンス優位の純粋恋愛譚であることは「全編アップショット」が如実に物語っています。

どのシーン、どのショットを見ても二人の顔のアップショット。接写に次ぐ接写。顔、顔、顔!

「見つめ合うと素直にお喋りできにゃい」と歌ったのは桑田佳祐だが、まさに見つめ合う二人の視線の線分にカメラが割って入ることで、われわれは「愛の媒介者」として二人の熱愛関係にインボルブされてしまう。

 

ちなみに私は、目に余るほどアップショットを濫用した近年の映画『レ・ミゼラブル』(12年)『たかが世界の終わり』(16年)『マザー!』(17年)をことごとく酷評してきたが、本作のアップ濫用も快く思っていません!!!

『マザー!』評では「クローズアップを濫用しすぎると画面が窮屈で息苦しくなり芝居依存の自閉した世界に矮小化されてしまう」という私の指摘に対して、ある方から「いや、むしろ観客に息苦しい体験をさせたいからこそ、わざとクローズアップを多様してるのでは?」というコメントを頂いた。

まさにその方がおっしゃる通り、アップショットは被写体の心境を追体験させるには持ってこいの撮影技法である。本作でいえば「抑えがたい恋愛感情」ね。

だからタチが悪いのだ。

そもそも腕のある映画作家なら、わざわざ息苦しい状況を追体験させるために息苦しいクローズアップなど使わずとも別の方法で息苦しさを表現する。ましてや、三流ライターが言うところの「クーパーの師イーストウッド」は絶対にこんな真似はしないし、現にしたこともない。はっきり言ってしまうが、画面を矮小化・単調化させてまでクローズアップを乱発する映画など自堕落の極み。特に『レ・ミゼラブル』は近年稀にみるほど醜悪で傲慢な映画だった。

 

実際「寄りの画が多すぎ!」といってウンザリした観客は私以外にも大勢いるようだが、そりゃあそうでしょう。「同じ役者」の「同じ顔」を「同じサイズ」で延々2時間見せられるのだから。堪ったもんじゃないぜ。

他方、ブラッドリー・クーパーの芝居は圧巻。あまりの表現力にうっかり感情移入して泣きそうになったぐらいだ。

それゆえに本作はオレ様映画になっているのだね。

自分の得意な芝居をして、それをアップショットで撮らせて「オレを見ろ! うまいだろ!?」と観客を脅しつけるクーパー監督。やってることは女子大生の自撮りと大して変わらない。極論、監督・主演を兼任することって自撮りなんですよ。チャップリンやオーソン・ウェルズぐらい「映画の目」を持っていれば別だけど、基本的にはやるもんじゃない…と私なんかは愚考します。アップショットも結局のところはエゴだしね。

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寄りの画がめちゃめちゃ多い。


ところがだなぁ…。

矛盾するようだが、ステージ上で絶唱するアリーのアップショットに関してはアリだと思うのだ。アリーだけに。

監督のクーパーが自ら演じたジャックのアップショットは自作自演ゆえにドヤ感にまみれていたし、そもそも私は愛し合う二人を弩アップで撮ることでその愛の炎に観客を巻き込むこと自体を問題視しているわけだが、アリーのライブパフォーマンスのアップショットにおいては監督のエゴは「リスペクト」に変わり、愛のインボルブは「歌世界への没入」へと姿を変えます。

平たく言えば「寄りの画が多すぎてウザい!」と思った人たちもレディー・ガガの歌唱シーンには素直に感動したでしょう? ということだ。

つまるところ、しょせん映画など「心を動かせるかどうか」がすべて。そのために小難しい映画理論とか撮影技法があれやこれやと存在する。本作のアップショットは基本的には鬱陶しいがミュージカルシーンのダイナミズムを引き出すことには成功している。もちろんその成功因子はアップショットなどではなく、アップに耐えうる情感豊かな貌で魂の歌声を響かせたレディー・ガガの自力にほかならない。

本作を観たあと、酒に酔った私がYouTubeでレディー・ガガのMVを漁りまくったのは言うまでもない。

パァ、パァ、パァ、ポーカーフェイス、パァ、パァ、ポーカーフェイス♪

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パァ、パァ、パァ、ポーカーフェイス、パァ、パァ、ポーカーフェイス。

 

◆ポップス転向をセルアウトとか言うな!◆

二人が結婚した中盤以降では酒と麻薬に溺れるジャックの堕落と反比例するように彼に拾われたアリーはスターダムにのし上がっていく。

魂の音楽を奏でていたアリーは大手レコード会社と契約したことで下品な衣装に身を包んで売れ線のポップ・ミュージックで尻を振る。まだアリーが何者でもなかったころの魂の歌唱に惚れ込んだジャックは「そんなアリー?」と失望して、ついにグラミー賞にノミネートされた現在の妻に「今のキミは醜い。頼むから元のキミに戻ってくれ」と懇願する。

きたきた、音楽映画では定番の谷間だよね。ブレーク→増長→セルアウト→迷走→自分を見失う。

だが本作は違った。

意思堅固なアリーは、たとえジャックから「商業主義に魂を売った下品な歌手!」と思われてもあくまで今の路線を変えることなく、派手な衣装、メイク、舞台装置、そしてより大衆的な音楽と大がかりなプロモーションを展開してスター街道をひた走るのだ。

これはアリーを演じたレディー・ガガそのものではないかしら。

ロックを追求するジャックは「ポップス転向はセルアウト(商業主義に魂を売ること)と考えているが、ガガの3rdアルバム『アートポップ』がその名で示している通り、アリー=ガガはアートとポップの垣根を取り払ってその融合を試みたアーティストなのだ。

現に、本作はガガの自伝的要素が色濃く反映されている。アリーがレコード会社の人間から「曲はいいけど鼻が大きすぎる。整形すればデビューさせてやる」と言われたエピソードはガガの実体験に基づいているし、ガガがスッピンで挑んだ下積み生活のシーケンスも丹念に描き込まれている。レディー・ガガではなくステファニー・ジョアン・アンジェリーナ・ジャーマノッタ(ガガの本名)を曝け出した5thアルバム『ジョアン』のように。

余談だが、音楽家のことを「アーティスト」と呼ぶ風潮が気に入らない私は歌手やバンドのことを「ミュージシャン」と呼んでいるが、レディー・ガガには「アーティスト(芸術家・表現者)」という言葉こそ相応しい。彼女が影響を受けたデヴィッド・ボウイもね。

 

そしてジャックのアルコール依存症が引き起こした最悪の悲劇…。

四度も映画化されて今さらネタバレもヘッタクレもないだろうから言ってしまうが、一向に治らないアルコール依存とアリーへの負い目を苦にして自殺してしまうのだ。

過去三作の『スタア誕生』を知っている者には心の準備はできているが、それでもなお抉られるのはラストシーンのアリーの絶唱。このラストシーンが理屈抜きで心に響くのは撮影の数日前に親友を亡くしたガガが亡き友を想って歌唱したテイクが使われているからだ。

もはや演技ではない。肩を震わせながら絶唱するガガの本物の涙、本物の歌声、空気の振動、音像…。それらを余すところなく収めたアップショットは、やはり例外的にアリーである。スタア誕生!

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それはそうと、感情移入型の観客からは「自業自得のアル中野郎」として大層嫌われているジャック…。それゆえに映画自体の評価もかなり落としてしまっているようだが、「酒とロック」には一定の理解がある私にとっては分からいではないキャラクターです。

そもそも、キャラクターへの理解・無理解だとか感情移入の度合いによって映画の評価がくだされる…というのも不思議な話だよなー。

すべての映画は観客一人ひとりの理解や常識の範囲内で作られねばならないのか? ふざけるな。

そんなことより、私が不満なのはブラッドリー・クーパーの映画術なのです。処女作だからクソミソに貶すことはしないが、やはり今回も俳優がメガホンを取るとロクなことにならないというジンクスにずっぽりハマっちまったようだ。

かなり鬱陶しい話をすると、カバレッジの不足、エスタブリッシングショットの欠落、インサートショットの漏れ…など数えきれないぐらいミスを犯している。ヘタすぎるでしょう、と。

とりわけショットの繋ぎ方が不自然まるだしで、たとえばサム・エリオット扮する兄がジャックの言葉に涙しながら車をバックするシーン。その手前にサムのリアクション・ショット(言葉を受けてから泣き出すまでの表情)を挿入していないので性急な画運びになっちゃってて、ショットが切り替わると既に号泣してるという情緒不安定な奴みたいな見え方がしてしまうのだ。

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泣きながら車をバックさせるサム・エリオット。


このような調子外れの撮影・編集が随所にあって「あー、気持ち悪いわー…」と悪酔いすらしてしまった『アリー/ スター誕生』

アリーの電話相手(前の恋人?)は最後まで出てこず、ジャックとのイチャイチャタイムは果てしなく続き、夫婦生活が翳り始めても互いに理解がありすぎてサクッと問題を乗り越えちゃう。

結局、歌パートが見所になっていて、それって映画としてどうなんでしょう…と思わなくもないが、映画初主演のレディー・ガガとボイストレーニングに半年費やしたブラッドリー・クーパーが互いの職業を入れ替えたというところが一番の面白味なのかも。歌手が役者をやって役者が歌手をやる…という本業エクスチェンジ。

ちなみに、この映画を観た私の本音はこれを観たイーストウッドの本音が知りたいというもの。

お世辞やおべっかはいい。本音だ。

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