シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ルックバック

マンガだけは“自我のマトリョーシカ”から解放される稀有な表現媒体なのかもしれませぬぞよ。


2024年。押山清高監督。アニメーション作品。

マンガ描きの藤野と京本がマンガ描く。


少年~少年~
グ~リグリメガネ拾う~
見えない見えない~見えない物の見える~
あの娘~あの娘~
あの娘の中を覗こう~
グリグリグリグリ~グリグリメガネで覗こ~

わあ!またやってもうた。始まってることに気づかず筋肉少女帯の「少年、グリグリメガネを拾う」歌とてた。
なんで毎回こんなことになんねや。着替えてる途中でカーテンをシャーされるみたいな。不思議でならん。不愉快だ!
ほんでグリグリメガネてなんやねん。
拾うなそんなもん。

って、そんな話はどうでもいいんだよ。
野菜いつまで高いねん。
破壊的な値段しとる。そのせいで売れ残り倒しとるやないか。ええ加減にしさらせよ。
いわんや、キャベツのみならず白菜までよォ~~~~ッ!
おれの冬の主食は鍋料理なんだよ。手軽にパッと鍋すんのが一番ええねん。それをば、キャベツてめえこの野郎。おうちでつくる豚とキャベツのとんこつ風鍋にハマりかけた矢先に高騰しくさってこの滓がっ。
もう最近じゃあ、スーパーの野菜コーナーまで野菜を見に行くんじゃなくて値段を見に行ってるからね。
値段見るためだけに野菜コーナーを冷やかして、キャベツの値段見て「おのれ」とか「うそだろ承太郎」とか「バカがよぉ」とか「とんでもハップン」つってぶつぶつ言いながら激昂するまでがルーティティティーンだよ。今日は何言お、って考えながら。

どうかキャベツの神様。農家の人たちにキャベツよおけ採らしたってください。そんなケチ言わんと、いっぱい採らしたってよぉ。せやないと、鍋でけへんやないの。
白菜の神様もそうよ。白菜、もっと作れよ。ポコポコポコポコ、土の中で作れよ。できるやろ、それくらい。神様やねんから。人々から鍋を奪うな。冬の食卓から鍋を奪うなよ。ダシから逃げるな。
今度スーパー行って、まだ高かったらど突き回すからな。キャベツと白菜の神様を、おれは2人いっぺんにど突き回す。2対1でも上等だ。くるなら来い。おれは白ねぎブレードと星型ニンジンの盾を持ってる。通販で注文してたシイタケの帽子も昨日届いた。負ける要素がない。
ふざけやがって。食物繊維畜生が。

そんなわけで本日は『ルックバック』です。
今回は長丁場ですぞ。いつも通り3章仕立てになってるけど、1章は筋紹介、2章は随筆、3章でようやく作品評というプログラムなので、評だけ読みたい人は3章だけ読むとか、いっそ読まずに画面を閉じるとか、あんじょうやってケロ。



◆「まんが」という字は漢字でなくカタカナ表記したい◆

 マンガを読む習慣を鴨川に捨てて久しいおれに、周囲の人物たちは異口同音に『ルックバック』の話をしてきやがる。
過日。
「そいや、ふかづめさん。『ルックバック』見ました?」
「見てないよ」
「ほなら『チェンソーマン』見てます?」
「なにそれ。悪魔のいけにえ?」
「あ、じゃあいいです。話し相手にならないから、見たひと探しにいこー。ららら♪」
そう言って、奴は風となった。
翌日。別の奴。
「僕ちゃんね、こないだ『ルックバック』見た」と言ってきた知人に「ああそう。どうだった?」と訊ねると「えもかった」と言うので「へえ」と生返事すると「ふかづめさんは見たんか」と聞いてきたので「見てないよ」と返すと「ふかづめさんって昔マンガ描いてたんでしょ? 表現に命燃やしてたんだしょ? だのに『ルックバック』を見ないという選択がどうしてできるのか。理解ができない。何かの七不思議だ」と早口で呟き、風となっておれの前から消え去った。
二日後。また別の奴。
「ふかづめさん、『ルックバー」
『ルックバック』はもうええ!!

どうせまたおれを侮辱して風となるんだろう? どいつもこいつも、すぐ風となって。THE BOOMか、おまえら。
猫も杓子もルックバックルックバック。
大体、リュックサックだかナップサックだか知らんが『ジョーカー』(19年) が流行ればジョーカージョーカーつって、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(17年) が流行ればV8V8つって、『ボヘミアン・ラプソディ』(18年) が流行ればママーウーウーウーつって、そうして流行りに乗っかって凧のように流されて生きるおまえ達ってまるで風のヒューイだね。否。凧のヒューイだね。大地に根を張って樹木のように生きるおれをご覧よ。
…というようなことを三人目の奴にいったら「うるさい」と言われた。
うるさかったのか。

だが先日、YouTubeで日本刀VSトンファーの対決を見ていたら『ルックバック』がアマズンプライムでタダ見できるよーという広告が流れてきて、そうか『ルックバック』がアマズンプライムでタダ見できるんか、と思い、で、観た。
『チェンソーマン』というたいへん有名なマンガの作者であられる藤本タツキが手掛けた読み切りマンガ『ルックバック』を劇場アニメ化した本作。

学校新聞に毎月掲載している4コマ漫画でクラス中から持て囃されている小学4年生の藤野は、周囲の友達から「将来はマンガ家だね」とか「今のうちにサインちょうだい」などと言われて鼻高々のタカビー。
ところがある日、担任教師から不登校児の京本という生徒もマンガを描きたがってるからネタ1本分の掲載枠を譲ってやれと言われ、翌月の学校新聞。猫も杓子もぶったまげた。「放課後の学校」と題されたそれは、人物も起承転結もない風景デッサンだったし、こんなものは到底マンガとは呼べない、ただの鉛筆画だったが、そんなことはどうでもよくなるくらい、どえらい画力だったのである。作者の深い孤独と絵に対する執着がよく伝わる壮絶な筆致。


京本に画力に打ちのめされる藤野。

これに打ちのめされた藤野は、自分より絵が上手い京本が許せず、その日よりデッサンポーズ集とかの本を買ってきて研磨、練習、自己研鑽。だが京本の超越した画力の前ではラクガキ同然。ついに精魂尽き果てた藤野。「やめた」つって絵を捨て、“フツーの女の子”として小学校を卒業する。
卒業式の日。藤野は担任教師から、ほれ、あの、なんちゅうの? 卒業証書の入った筒みたいな、卒業生だけに授けられるンポンポ鳴る伝説のやつを京本ん家まで届けてくれ、なぜならあいつは引きこもりで卒業式さえ欠席したから、と懇願され、いやいや京本ん家まで行って、そこではじめて本人と顔を合わせた。
京本は挙動不審のへちゃむくれで、赤いハンテンを着ていた。顔はもっと赤かった。過度の緊張によるものだろう。下はジャージ履いとった。タカビーな藤野とは対照的に、京本は対人恐怖症のヒクビーであった。
天才京本を前に、幾分ばつが悪そうに例のンポンポを渡す藤野。対する京本は、顔を背けてくにゃくにゃしながら「ああ、あわた、わ、あわ、たた、あ、あわあわた、あわた」と言った。
「ささ3年生のころから藤野先生のマンガ読んでました! わたわたたわたし藤野先生のファンです。サイン下さい!!!」
急に絶叫した。



どうやら京本は藤野の4コマのビッグファンで、勝手に私淑している藤野ガチ勢のようであった。
「藤野先生はマンガの天才です! それなのに、どうして6年生の途中で4コマ描くのやめたんですか?」
さて藤野。普通なら「バカにしないでよ」と山口百恵を歌う局面だよ。ここ。「あんたの方が絵うまいのに私のファンだなんて、よくもいけしゃあしゃあと。嫌味か!」てなもんだが、幸か不幸か、タカビーの性か!?
「…ていうかまぁ? いまマンガの賞に出す話考えてて? ステップアップするためにやめたって感じだけどぉ?」
ま~んざらでもなかった!
雲の上の天才と思っていた京本が、まさか自分をこれほど慕ってくれていたなんて。
その帰り道。雨に唄いながら畦道を駆ける藤野の足取りを人は「スキップ」と呼ぶのだろうが、正確には違う。
「やりーの舞」である。
敵わないと思っていた京本に実は勝っていた喜びと、“もういちどマンガを描く理由”がたった今できたことの胸の昂ぶり。表現者の舞い。
「やりいいいい!」
舞える藤野。降るる雨。ルルル。
そして中学にあがり、共作でマンガを描きはじめた藤野と京本はこれを出版社に投稿、新人賞を総なめにした―…。



◆結局のところ俺がいちばんアホなのかもわからない◆

 思うところは大いにある、濃密な58分だった。
自分はここ10年の、いわゆる“最近のマンガ”にはいっさい興味がなく、また興味があったとしても元々あまりマンガを読まない、というより読めないタチで、なんとなれば自分自身が描く側だったからマンガは読むものというより描くもの、なんてかっくいい言い回しで皆のことをうっとりさせちゃったけど、これはこれで結構つらいというか、読むにせよ描くにせよ純粋にマンガを楽しめないんだよ。
劇中でもよく表現されていたが、マンガを描くという営為は命の消耗と時間の摩滅である。「である」というより「でしかない」のかもしれない。
本来は分業制こそ妥当な作業量を、もちろんアシスタントなどいない新人時代や趣味で描いてる人間は完全家内制手工業で仕上げねばならんが、そんなことをしてると命と時間がいくらあっても足りずに死ぬるので効率を重視して作業を省く。
なにを省くか?
美術性を省くんである。
ほんの一例だが、描くのに手間のかかるデザインをわざと簡素化したり、このコマの背景をもっと描き込みたいが、そうすっと他のコマも描き込まないと釣り合いがとれないのでほどほどの描写に留めおく、といった表現への配慮。美の断捨離。
特に連載マンガのばあい、大事なのは“描く”ことよりも描き“続ける”ことなので、描画のアベレージを限界まで引き下げながらも、その中で生きた線を探し、白紙のうえに世界を広げる、お・し・ご・と。だからマンガ家とは、絶えず“描く”ことの欲求と“描かない”ことの必要の間で宙ぶらりんになっているマリオネットだ。

こんな目にもなる。

…と、ここまで明確に言語化できていたわけではないが、およそこのような考えをうっすらと抱き、当時、自作のマンガを自由帳に描いてはクラスで回し読みされることに藤野さながら愉悦を覚えて「おっほ」とか言っていた小学3~4年生のおれは、しかし「だったらマンガって効率悪いっちゅーか、描けば描くほど損じゃない?」と思うに至れり。
割に合わねーよ。
だからおれさぁ、「マンガ好きです。めちゃんこ読んでます」みたいな人って、なんせいろんなマンガを渉猟しては同時並行的にあれこれ読んでるから必然的に速読気味になるのはわかるんだけど、それにしてもすーごい速さでパラパラパラパラ読んでる姿を見るにつけ「もっと味わって読みィ!」なんて思ってしまうのよ。
おまえは3秒で読めちゃうだろうけど、そのページ描くだけで3時間かかってるから、みたいな。
おっけおっけおっけ。わかってる、わかってる。ここで言う「おまえ」には何の罪もないっていうか、むしろこっちサイドの手前勝手な承認欲求っていうか、Twitterで「私ばっかりこんな苦労してるのに!(だから理解して慰めてイイネして)」みたいな結婚生活の不満ばかり垂れ流してる女みたいで申し訳ないんだけど、でも「おまえ」サイドもマンガが好きならわかるでしょう?
おまえがいま0.2秒で読み流したそのコマには視線誘導とイマジナリーラインの再規定とヒキの効果とカーテンカット(捨てゴマ)としての時間操作の機能があったんだけどもちろんそれらを余所なく理解したからこそ0.2秒で処理したんだよねえ!? なんて京都人まるだしの嫌味をスパークルさせたくもなる。

 逆におれがマンガを読むばあい、絵に見入ってしまい、遅々としてページが進まず、絵を見すぎるあまりセリフや物語が頭に入ってこないから、その都度ページを遡っては何度も読み返すはめになり、なおのこと時間がかかる。1冊読むのに1時間はかかる。
あと、海外はさておき日本のマンガは映画との混血だけど、マンガって映画理論ほど体系化されていない(正確には手塚治虫の時代に体系化されてんだろうけどそれを継受して次代に繋げうる現代のマンガ家があまりいない)ため、とにかく技術面でいちいち引っかかってしまう。「このコマのこのキャラの顔、気持ちわるっ。イマジナリーライン越えてもうてるんちゃうん」とか「人物の装飾は丸ペンで描いてたのに、このページだけGペンになってますやん。もぉ~~」とか。
あと、おれは日本語も好きだから「セリフがつまらん。フォント変えて名言風にしてもむだ」とか「悠長。絵を見ればわかることをわざわざ口にすな」とか、もはやマンガなんか読んでも1ミリも楽しくないわけです。むしろ読めば読むほどイライラする可能性の方が高いから、もう“マンガを読む”という娯楽は人生から捨てて候。
他方、えらいもんで音楽に関しては知識も思想も経験もないから、自分のなかに反撥材がなくて純粋に楽しめるんだよな。


 それでいえば『ルックバック』には“音楽を聴く”シーンがあってもよかったかもしんないナ。藤野はCDもラジオも聞かず、机に向かって黙々とマンガを描いていたけど、あんまいないから。そんな子。
それに、タイトルの『ルックバック』って、オアシスの「Don't Look Back in Anger」でしょ。
原作を知らんし、違ってたら恥ずかしいけど、おれは見つけちゃったよ。エンドロールが流れる4分ぐらいのラストカットの作業部屋の本棚に「in Anger」と書かれた本(レコード?)が挟まれているのを。
てことは、劇中のどこかに「Don't」の文字もあるはずだ! つって探すこと10分(アマズンプライムの再生バーをスイスイした)、まったく見つからず、さすがに全カット見分するのは骨が折れるから諦めて泣くか、と思った矢先、はうあ! 「in Angerの文末がラストカットにあったということは、文頭はファーストカットにあるはずゥ!」という単純なトリックに気づき、改めてファーストシーン、これもまた実家の自部屋でマンガを描き続ける藤野の背中をとらえたロングショットを見分したところ、ウヒヒ、ありましたがな、本棚下段の左側に「Don't」と書かれた背表紙が。
実際、ネタバレこそ避けるが、まさに物語後半は「Don't Look Back in Anger(怒りをもって振り返るな)」といったやるせない展開でね。京アニ放火事件を彷彿させたり。
と同時に、このオアシスの名曲と対応するように、デヴィッド・ボウイの「Look Back In Anger(怒りをこめて振り返れ)」にもうまく掛けてるよね。
おれはボウイマニアだから、最初に「in Anger」をラストシーンで見つけた時点でオアシスより先に「これボウイやん」と思うに至った決定打は、何を隠そう「Look Back In Anger」のMVでボウイが扮しているのが引きこもりの画家だからである。
ほいで、鑑賞後に「この映画のタイトルってオアシスの『Don't Look Back in Anger』だろうけど、ボウイの『Look Back in Anger』の線もあるよね?」つってグーグルしたところ、賢い人が教えてくれはったわ。劇中である凄惨な事件が起きた日がデヴィッド・ボウイの命日と同じ1月10日だってことを。
きゃああああああああ。


オアシス「Don’t Look Back In Anger」

 


デヴィッド・ボウイ「Look Back In Anger」


 事程左様に“考察する余白”を残したからこそ『ルックバック』は多くの人を虜にしたのだろう。余白の残し方にもいやらしさがなくてよい。
実際、わかんねえことはすぐスマホで調べる時代になってからというもの、考察を促す意味深な作品が広く一般にウケ始めたよね。ちょっと難しい映画を見るや否や思考停止で検索する人の多いこと多いこと。かく言うおれもグーグルしたし。あと去年、劇場で『関心領域』(23年) を観たあとの帰りのエスカレーターで、みんながスマホに目を落としていた光景はとびっきり異常だった。天を仰いでいたのはおれだけ。天を仰ぎながら「わかるかぁ!」と居直ってたのはおれだけだったよ。
いい機会だから言わせてほしいんだけど、たまに思うんだよ。
普段、読者に対して大上段からあーだこーだ言ってるおれだけど、結局のところ、おれがいちばんアホなのかもしれません。
基本姿勢として“おれの中のおれ”は「世間の連中はバカばかり」と思っているけれど、じつは世間がバカなんじゃなくて、それを理解できずに「バカ」で片付けようとするおれ自身がバカなのかもしれない、と“おれの外側にいるおれ”は思うわけです。
なんてシステムだ。


自我の釣瓶落とし。
「おれ」の中にはもう一人の「おれ」がいて、その中にもまた別の「おれ」がいるから、結果的におれの自我には「おれマトリョーシカ」みたいな構造が横たわっているのだが、一方で、その外側から「おれマトリョーシカ」を冷めた目で俯瞰している「おれ」もいて、「おれマトリョーシカを冷めた目で俯瞰しているおれ」をさらにその外側から冷めた目で俯瞰している「おれ」もいる。
「おれ」の無限退行であり、無限進行。
だからこうしてブログとか書くとき、果たして「どのおれ」に周波数に合わせて書くべきか? 何個目のマトリョーシカを取り出して、それを「おれ」とみなして書くか? なんてことを毎回考えるし、これってある意味では文学的な自我の在り方で、現に太宰治とか三島由紀夫とかの近代文学はすべからくこの構造を有しており、それでいえば原作者の藤本タツキ自身も谷崎潤一郎を愛読しているらしいし、タレントもそう、画家もそう、音楽なんて最たるもので、ロックスターを演じるあまり自我が崩壊して自殺したミュージシャンが何人いますかって話なのだが、ただひとつ、マンガだけは“自我のマトリョーシカ”から解放される稀有な表現媒体だと思うんだわ。我がの作品を最も客体化する職業ゆえか。
逆に『魂のアソコ』の山田花子なんかは若くして自殺してしまったが。


ほいで、この『ルックバック』。一見するとマンガ家である藤本タツキが作中キャラである藤野や京本に自らを重ね合わせた、なんなら過去の実体験とかも一部取り入れた半自伝的作品なんちゃうん? とも思える内容だが、あにはからんや! べつに逆に意外とそうでもない、とおれの勘は騒いでいるんです。
このタツキちゃん、案外冷めてるというか、照れ屋というか、世間の反応を逆手に取るタイプの天邪鬼な子だと思う。本来もっと赤裸々に掘り下げられるにも関わらず程々のところで蓋をした藤野のキャラクター造形、および記号をまぶして咀嚼しやすいキャラクターに仕上げた京本の一元的な造形から、そう感じとったおれであります。
少なくとも、ここに“本音”はない。
それでこそのマンガであり、それでこそマンガ家。



◆高く清らかな山を押す◆

 ようやっと作品評です。
アニメとしてはほぼ圧巻。
近年稀に見る、ってやつ。
溜息すら出る情感豊かな原画。丁寧さと丁寧な雑さを心得た作画。あんまカラーとか弄ってなさそうなベタッとした色彩は“あえてのマンガ表現”をアニメで、ってことか。
また、模写的なクロッキー風の人体表現。藤野に手を引かれたときの京本の首の角度もステキ。それらを一切崩さず、また変に生命感だのリアリティだのを付与しない声当て。
以上、すべてをテマティックに管理/統合した監督の視座を含め、すべてがビタビタに嵌った「やっとようやく出てきたよ20年代アニメのエポックメーキングがよ」の絶叫に足る傑作。


原作マンガにもあっただろうけど、こりゃもうどうしたってアニメでしか表現できない“雨”と“風”を描き切ったところに「マンガ」と対峙した監督・押山清高が引導を渡す、じゃないけれど、対象なき「アニメ舐めんな」が狂奔していて、おれ自身もさいぜんから藤本タツキ藤本タツキと連呼してきたけど、結局『ルックバック』は押山清高の作品だと思うし、よく見たら押山清高ってすごくいい名前だよね。“高く清らかな山を押す”っつーんだから。
とりわけ“風”の表現は白眉。なんなら4コマがドアの下にスッと吸い込まれる風表現それ自体がストーリーを駆動させる説話装置になってるほどに、風が物語を運んだ作品でありました。個人的にはラストシーンで窓に貼りつけた4コマが夜風にそよぐシーンであやうく泣くところでしたわ。
あと、これは今「アッ!」ってなっただけだから完全に偶然なんだけど、本稿1章の掴みで書いた「奴は風となった」とか「THE BOOMか、おまえら」とか「まるで風のヒューイだね」といった風関連の発言も、なんか…なんかうまいこと収斂したわ。
…してないか。
本作を未見の御仁は、ぜひとも風になびく髪と紙に刮目されたい。活動写真の神は風に宿るのだ。


いまひとつ。手。
手を引く、というモチーフも劇中に散見され、そのほとんどが藤野が京本の手を引いて(というより“引っ張って”)歩く、という場面に活用されるが、このとき京本から見えるのは藤野の背中。先頭を切ってずんずん歩く藤野は、ときおり振り返って京本を導く存在。
ルックバック。
だが、いつしか京本は自立。藤野の背中を追うのではなく、自らの道を歩こうとした矢先―…っていう。


藤野のバックを京本がルックする。

たまらん気持ちになった。
京アニ放火事件の記憶は今でも脳裏に焼きついている。京アニ本社は昔通っていた学校のすぐ近くだったし、事件が起きた第1スタジオは実家の近所だった。
でも、申し訳ないね。長々と書いた文章をぜんぶ消して思うところの8割を割愛したところから話を繋げるけど、事件後、京都の某TSUTAYAに京アニ作品を集めたコーナーが設けられていて、そこで年輩の夫婦が『涼宮ハルヒの憂鬱』とか『らき☆すた』のDVDを眺めていたんだけど、心なしかその顔が悲壮感に満ちていて。気のせいだったらいいんだけどさ。そも、あんまレンタル店のアニメコーナーに老夫婦がいること自体が珍しいから、ことによると被害者の親族なのかも、なんて思うと、もうどうにもやりきれなくて。そんな秋だった。夏だったかもしれない。

湿っぽい話はよそう。
まあ、とはいえ説明的な藤野の独白や、止め画のモンタージュで泣かせにきたクライマックスなどはガッカリするほど卑近だし「これがなけりゃあ…。勿体ねー」つって、アチャーみたいなジェスチャー、通称アチャーを正確に2回したおれではありますが、裏を返せば2アチャーで済むアニメというのも大変に珍しいので、やはりそれだけ質の高い作品ということが言えていくわけです逆に。
でも、よくわかんない点もあったけどね。小学校時代の藤野と京本の画力差はあまりに歴然だったから、共作でマンガを描きだしたとき、てっきり原作藤野で作画京本という“原作付きマンガ”の構えかと思いきや、基本ぜんぶ藤野で背景だけ京本という藤野のマンパワー頼み陣形で「あ、そう!?」つって。小池一夫・池上遼一スタイルじゃなかったんだ、みたいな。
まあ、藤野も絵の練習、しとったしな。


あ。あと危ねえ。忘れるとこだった。
仕事場で黙々と筆を走らせる藤野の背中にクレジットが流れるエンディング。
スタッフの名前から先に流れるんだよね。
感動したッ!!!
座りながらのスタンディングオベーション。心の中では立ってるから。腕を組みながらのサムズアップ。心の指は立ててるから。
長年ずっと思ってたのよ。「なんでアニメのエンドクレジットって声優の名前から先に出すんだよ」って。もちろん声優も立派なお仕事だけど、でもキャラクターあっての声優じゃん。
でもそれで言ったらアレだよ? そろそろ評を締めなきゃいけないのに急にむかつき出してごめんなさいね。声優のお仕事をさして「キャラクターに命を吹き込む云々~」とか言うけど、もちろん声も大事、ビバ声、それを踏まえたうえで言うけど、キャラクターに命を吹き込むのは作画だから。もっと言えばコンテだから。絵と動きだから。
何が言いたいかっちゅーと『ルックバック』はエンドロールまで最高、ちゅこった。
主題歌もよかった。あの聖なる歌ね。誰が歌ととんのかしらんけど。ありがとうな。
すばらしい作品、観さしてもろたわ。しかもタダで。ビバ、アマズン。藤本タツキのマンガ、読もかな。やめとこ。

(C)藤本タツキ/集英社 (C)2024「ルックバック」製作委員会