シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ケイト

メアリー・エリザベス・ウィンステッドは全映画女優の起源 ~メアリーを見つめる会会長、かく語りき~


2021年。セドリック・ニコラス=トロイアン監督。メアリー・エリザベス・ウィンステッド、ウディ・ハレルソン、國村隼。

毒を盛られた余命24時間の女性暗殺者が捨て鉢になってヤクザと戦う中身。 

 

なあなあ、なんで春めいてきたと思った矢先に初夏めいてきたのぉ?
たぶん舐めてるんだろうな、地球温暖化が。僕たちのことを。
近所のはなまるうどんによく行く。はなまるうどんは最高だ。麺がコシコシしている。はなまるうどんを食べるとファイトが出てくる。心のテスト用紙に花丸をつけてくれた気分だ。はなまるうどんは俺を励ますつもりなのだろうか。たぶんそうなんだろう。
でも注文がむずいねん。
むずいというか、毎回ぶち当たってる壁があんねん。
まず、はなまるうどんに入ると、店の入り口でトレイを持って注文カウンターを店奥へと進みながら、セルフでかき揚げ、天ぷら、おでん、磯辺揚げなどを随意にトングで取っていく。その先にメインディッシュであるうどんの注文を承る店員さんが待ち構えており、その店員さんに対して「〇〇うどん!」と任意のうどんを叫べばよいわけだが、ここであと2つ、叫ばねばならんことがある。
サイズの大/中/小と、温/冷である。
たとえば「おろしぶっかけ」が欲しい場合、まず「おろしぶっかけ!」と頼んだあと「サイズは中!」と言い、最後に温かい/冷たいを選べばよいわけだが、俺がぶち当たってる壁こそが、この「温かい/冷たい」を口語でどのように伝えるか、という問題である。
たぶん一般的にっていうか、普通の人は「おろしぶっかけの中サイズを温かい方で」と言ったり、あるいは「温かいおろしぶっかけの中サイズ」と言ったりするのだろうが、コテコテの関西人の俺、自分でもようわからんけど「温かいのん」「冷たいのん」つって「のん」を付けてしまうので、結果「おろしぶっかけの、中サイズの、あったかいのん!」と言ってしまうというか、言わざるをえないというか、言ってしまうんですねええええええ。
む~~ちゃくちゃ子供っぽくない?
すごい恥ずかしいのよ。見ず知らずの店員のお姉さんに「温かいのん!」とか「冷たいのん!」つって。
お母さんに甘える子供さながら。
「あったかいのん!」つって。
4才児まるだし過ぎひん?
温/冷を伝えるときだけ甘えだす奴、みたいになってまうねんな。メニューはクールに言える。サイズもクールに言える。でも温/冷を伝えるときだけ毎回甘えた言い方になってまう。「温玉ぶっかけの、小で、冷たいの~ん!」みたいな。「のん」に宿る甘えというか。
「お母ちゃん、ミロ作って~」
「またミロ飲むん? 今朝も飲んだやないか~。しゃあないなあ。温かいのと冷たいの、どっちがええの!?」
「あったかいの~~ん!」
みたいな。
まあ、「あったかい方で」という言い方もあるだろうけど、それだと少し冷たく聞こえるんぢゃないか、と懸念してしまうあたりが関西人。「あったかい方で」と言うぐらいなら「あったかいのん!」と語尾をあげて言いたい気持ちが、関西の人なら、わかるかな?
だから毎回、注文時だけ4才児になり「あったかいのーん!」とか「ちべたいのーん!」なんつって、うどんを貰い、貰ったうどんをうまうま啜りながら「アホなんかな?」と自問する、春。
ほんで「おいしいの~ん!」ゆうて。
「おうどん、おいしいの~ん」ゆうて。

そんなわけで本日は『ケイト』です。
どんなわけで『ケイト』なのか。



◆最初の顔◆

 おれは「シャーリーズ・セロンやケイト・ベッキンセイルがアクションやるなら必ず見るよの会」会長なので『ケイト』も観た!!
まあ本作の主演はメアリー・エリザベス・ウィンステッドなんだけど、大体いっしょやん、このへん。アクションが似合う美人枠で言うたらシャーリーズ・セロンもケイト・ベッキンセイルもメアリー・エリザベス・ウィンステッドも大体同じ。
もう誤差やんか。
誤差ってことでええやんか。そんなに違わへんやろ。誤差ってしてよ~。それで仲直りしよ。おねがい。

メアリー・エリザベス・ウィンステッドはずっと好きですね。はじめて見たのは『ファイナル・デッドコースター』(06年) だけど、やはり取っておきの代表作はタランティーノの『デス・プルーフ in グラインドハウス』(07年) 。当時のボンクラ映画好きはもれなく夢中になったと思う。
照れなくていい。おれもその限りさ。

『デス・プルーフ』のメアリー。

あと、映画としてはドシャメシャだけど「メアリーを見つめる会」会長としては『遊星からの物体X ファーストコンタクト』(11年)『10 クローバーフィールド・レーン』(16年) も勧めておきたい。メアリー・エリザベス・ウィンステッドについて語る機会なんて次いつあるか分からんからな。
なぜおれはこの女優に惹かれるのだろう?
顔が好き。
答えを出すのに1秒もいらん。
だが自分でも不思議だ。元来、おれの好みはシャープで涼しげで頬骨とかが印象的なクールビューチーなんだ。ケイト・ブランシェット様とかサンドラ・ブロック姐さんとかね。登れそうな顔。おれが全長1mmの小人だったらサンドラ姐さんの顔で登山したい。その場合、山頂がどこになるのかはわからないけどね。頭頂部? 鼻?
そんな「女優の顔を登山する会」会長のおれが、登山をするにはあまりにつるりとした丸顔のケイトが圧倒的に好きな理由。それは卵型の頭にして、目も丸ければ、頬もふっくらとしている、その球体性が、ほかならずコリーン・ムーアや、メアリー・ピックフォード、あるいはドロシー・ギッシュといった“サイレント時代の大女優たちを想起せしむる相貌のイメージの集合体”として、ほとんど映画で構成される我が肉体の血潮に底流しているからではないかとおれはおれ自身を分析すゥ!
つまり映画女優の起源。
映画史開闢以来、最初に愛された、初めての初めて、“最初の顔”にたまたま最も近かったのがメアリー・エリザベス・ウィンステッドだった。
これは超直感だ。間違ってるかもしれん。
彼女は100年の時を超える百年女優だと思う。たぶんサンレント期の映画に親しんでいた世代(とっくに死んでる)が運よく現代に甦ってメアリーを見たら「おお…」と感嘆するに相違ないのとちがうかな。
しねぇかもしんねーけど。


わかるけ。

てなこってNetflix専用映画『ケイト』
メアリー演じる一流の暗殺者ケイトが、「私はケイト。一流の暗殺者」とか言ってるわりには一流なのに東京ヤクザの暗殺に失敗し、一流なのに誤って毒を飲んでしまい24時間後に死ぬことが確定したので「せめて死ぬ前に東京ヤクザを仕留めちゃおう。それが一流の仕事」とかなんとか言って一生懸命がんばるといった中身。
どこが一流やねん。
孤児のメアリーを暗殺者に育て上げた、いわば『レオン』(94年) におけるレオン的立場の師匠役にウディ・ハレルソン。メアリーが仕留め損ねた東京ヤクザ役に國村隼、およびその配下には浅野忠信MIYAVI内山信二など、日本が誇る浮名流し俳優、サムライギタリスト、あっぱれさんま大先生など、まあ~いろんな人が出たはるわ。

◆もっさクションが火をふく◆

 最初にこれだけ言うとくな。
映画としては激ヘボ泥凡作の極致。
もう泥のような凡作。
略して泥。
内容なんて5日後にはほぼ忘れるし、この映画を見ようが見まいがおれたちの明日はなにも変わらず、昇れる太陽と輝く月は依然としてうんざりするほど同じ場所から地球を見下ろし、その下、つまり地上でおれたちは病めるときは病むし健やかなるときは「すこやかー!」と叫ぶだろう。つまり、この映画を見た世界線Aと見なかった世界線Bがあるとして、AもBもまったく同じ。この世に存在してもしなくてもどっちでもいい映画。べつにお腹すいてないときに横で一緒にテレビ見てたオカンから「ホームパイいる?」って言われたときぐらい、どっちでもいい。

開幕10分で、メアリー演じる一流の暗殺者ケイトがどう見ても一流には見えない、というポンコツぶりに「ああ、もうこれは斜に構えて楽しむ映画だな」と『ケイト』リテラシーをインストールしたおれってやっぱり映画の見方を察する勘に長けてるぅ、と自画自賛。
だって、暗殺対象の娘ミク・マーティノーもついでに殺せと命じられたのに「子どもを殺すのはさすがにむり」とか言って情に絆されるし、ホテルのバーで声をかけてきた男と行きずりの関係をもって毒入りカクテルを飲まされるし、挙句シンプルゴミエイムで狙い外して國村隼を仕留め損なうし。
どっ…むちゃくちゃポンコツやんけ!
なにが「私はケイト。一流の暗殺者」か。
どこがやねん。よう言うたな。
全任務失敗しとるやんけコイツよォーッ!
さらに輪をかけてポンコツ映画ぶりを露呈させたのがメアリーのアクション。
動きがもっさい。
けっこう遅いし、キレもいまいちで…シンプルもっさい。ゆえにあまり複雑な技斗もさせられまいという製作側の判断なのか、振り付けも直線的だし、最近流行りの機敏にちょこまかするようなジャッキー・チェン的なアクロバティックなアクションやしゃれた技斗も皆無。
普通そういうときって、もさい感じを少しでも軽減するべくモンタージュの嘘でごまかす、すなわち“カットを割りまくる”という逃げ方=編集技術があるけど、それに頼ることに対してはなぜか不服のようで、あくまでメアリーの動きを線上でしっかり見せたがるという不思議なprideを開陳。
結果、ことさらにシンプルもっさいが浮き彫りになるという、まるでめちゃくちゃ下手なのにしゃしゃり出てギターソロ弾く奴みたいな…。ある意味おれ、「弱味を隠して奇策に走ることなく正々堂々と負けにきてるやん」と謎の感動さえおぼえた。
下手を隠すための技術をかなぐり捨てて、むしろ下手を露出しに来てるやん…みたいな。
何がしてーんだよ。


このもっさいアクション、通称もっさクションに加えて腰砕けなのが東京の描き方ね。
古くでいえば『ブレードランナー』(82年) 、最近でいえば『ジョン・ウィック』(14年) 『ゴースト・イン・ザ・シェル』(17年) でもお馴染みのサイバーパンクを基調としたネオンノワール風のTOKYO。
欧米人からすれば「クール」なんだろうけど、このクールさって“アクションのクールさ”によって担保されてるので、クールなネオンノワールTOKYOでもっさクションなんかしちゃあご破算なわけ。
要は、いかにもキメキメな黄金のジャケットでも、それを着るモデルがちんちくりんのちょんちょこりんのへちゃむくれだと却ってジャケット自体もダサく見えるわけ。あのスパンコールが塗された黄金のジャケットは郷ひろみが着て「サイコ~」ゆうてるから格好いいわけで(格好いいかな?)、浅草の二流芸人が羽織ったところでお笑い草なわけ。
「その服、ドンキで買うたん?」なわけ。


ただ一点、世間に物申す。
本作のように日本を舞台にしたアメリカ映画が作られるたンび、「ハリウッド映画の日本観っておかしい!」、「スシ、ゲイシャ、ニンジャばっかり!」と毎回騒ぐのが恒例行事となって早数十年。
でもね、それって多くの欧米人が日本に抱いてるイメージではなく、多くの欧米人が日本に“求めてる”イメージなのよ。
ニーズなのよ。
そのニーズに応えてるだけ。ウケるからそうしてるだけ。
「実際の日本はこんなんじゃない!」とか言うけれど、いや分かってるわ。分かった上でやっとんねん。
そも、欧米人からしたら関係あれへんがな。「実際」とか「リアル」なんてどうでもええ。ほななにか。“実際の日本のリアル”とやらを描いて? 山梨県の住宅街とか新潟県のなーんにもない田園地帯でロケしたらええんか?
何が楽しいねん。
山梨と新潟のひと、ごめんな。
そんなもん大スクリーンで見て…。日本人でも思うわ。「なんもおもんない」ゆうて。
逆に、それでいえば日本人だって「ハリウッド映画=CG満載、火薬大好き、ラストシーンはキスで締める大味大作」という勝手なイメージを持ってるわけでしょ。でも実際はハリウッド映画といっても色々あるでしょ。そのことをおれ達は知ってるでしょ。
石川さゆりちゃんが毎年紅白で「天城越え」と「津軽海峡・冬景色」ばかりローテーションしてるのはそれしか代表曲がないからではなく、石川さゆりといえばこの2曲のイメージ、つまり“この2曲が求められてる”からローテーションしてるだけ。
ほんと言うたら「暖流」もある、「火の国へ」もある、「命燃やして」も「風の盆恋歌」も「波止場しぐれ」も「大阪つばめ」も「みちゆき博多発」も「あぁ…あんた川」もある。「夫婦善哉」も「飢餓海峡」もある。「砂になりたい」も「沈丁花」も「北の女房」も「うたかた」もある。「滝の白糸」も「恋は天下のまわりもの」だってある。CMでお馴染みの「ウイスキーがお好きでしょ」も『ルパン三世』のアニメでお馴染みの「ちゃんと言わなきゃ愛さない」もある。
なんといっても、おれの一番好きな「酔って候」もあるっ。
でも昨年の紅白歌合戦では21年ぶりに「天城越え」と「津軽海峡・冬景色」のローテーションから抜け出して「能登半島」を歌い上げたというよね。涙ながらに能登半島地震の復興祈願をこめて。
そういうところが大好きなんだよなああああああああおれ石川さゆりちゃんって。


石川さゆり「酔って候」(YouTubeからパクった)。

◆取るに足る映画など、もうない◆

 本作に通底してるのは、梅津泰臣のエロアニメ『A KITE』(98年) やリドリー・スコットの『ブラック・レイン』(89年) あたりだと思うんだけど、たぶん根っこにあるのはリュック・ベッソンだろうね。
所詮、というか結局というか。
それこそ、先にも触れた『レオン』や、設定だけでなく映像面も込みなら『LUCY/ルーシー』(14年) とかも彷彿したけど。
あとシドニー・ポラックの『ザ・ヤクザ』(74年) の和室での殺陣とか、ライブハウスの場面ではBAND-MAIDが出演していて、これは『キル・ビル』におけるThe 5.6.7.8'sの真似事なんでしょうけど、いずれにしても薄っすいのだわ。
「あの映画の〇〇っぽい」の集積だけで組織されてる作品って、一昔前なら“元ネタ探してコラージュを紐解くサブカルチックな楽しみ方”として成立してた(ウォシャウスキー姉妹やガイ・リッチー、またホラー界隈ならイーライ・ロスなどがいた)けど、令和も早7年。あけましておめでとうございましたね。もうその手は通用しない時代だと思うんですよね。
柳の下の鰌の下の鰌つって、いつまでやってるんだと。前時代的なことを。
あまつさえ、もっさクション。
志が低すぎて。
映画としての筋肉を感じないし、新入社員みたいなガッツも感じないし、チャクラとかも感じない。
ただなんとなく「ネオンノワール調のTOKYOを舞台に『レオン』みたいな暗殺者ものをタランティーノ風のアレでやりたーい。ほかにも僕ちゃんの大好きな映画をいろいろ取り入れて元ネタいっぱいのちょっとオシャレなやつやりた~~い」とファッキンデシベルの金切り声で騒いでる映画中学2年生のシャバ僧が夏期講習の時間に頬杖つきつき窓の外を見やりながら耽っている大ダサ妄想を恥ずかしげもなく実現した、今すぐ真夏にキャンプをしているおもんない大学生たちが必死で作った焚き火のなかに放り込むべきフィルムに過ぎない。
シャバいぜ、Baby。
このセドリック・ニコラス=トロイアンとかいう、記憶にも値しないつまらない名前の監督な。大アホ野郎だ。ダチョウに育てられたのかな?
なンにも見えてないわ。

「ネオンノワールTOKYOやらせ~!」

ただ、お目当てのメアリー・エリザベス・ウィンステッド。
おれはこの女優が見たくてこの映画を観たわけだから、最低限メアリーを綺麗に撮れてさえいればおれはニッコリするんだけど、うーん…、さすがは夏期講習の2年生、女優など撮れるはずもなく。
しかも設定が設定でしょう。“24時間後に死ぬ運命の蝕まれゆく肉体”を演じたメアリーは、だから必然的に物語が進むにつれて体内に毒が回り、目は充血、皮膚は爛れ、髪は脂汗でぺっとりしていくという、端的にいって美の減退、醜くなっていくわけです。
この演出って、括弧つきでいう「映画的」には完全に悪手なのよ。
彼女の肉体がボロボロに醜悪化していく演出には時間の経過(死ぬまでのタイムリミット)を観客に伝えるという効果こそあるが、そんなものは「毒死まであと〇時間」みたいなキャプションを挟むなり、一定スパンで描かれる体調不良めいたシーンを段階的に強調していけば「ああ、そろそろヤバいのかな」と伝えることはできる。
にィィィィも関わらず! メアリーに特殊メイクを施してまで見た目を醜悪化させたセドリック・ニコラス=…なんだっけ、トライアスロン? は“説話”を優先するあまり“女優”を殺したクソ野郎と断じざるをえません。
そも、徐々にキャラクターが醜悪化する映画ランキング恐らく上位間違いなしであろうジョン・カサヴェテスの『こわれゆく女』(74年) やデヴィッド・クローネンバーグの『ザ・フライ』(86年) とかって、醜悪化に伴ってサスペンスやホラーが加速し、また醜悪化の現象自体(演技やSFXなど)が見せ場になってるから意味があるのであって、本作のベクトルとは真逆も真逆。
たとえば、もうハッキリこう言ってやる。
「メアリー・エリザベス・ウィンステッドは正しく撮らねばなりません」
この言葉の映画史的な意味でさえ、セラミック・ファンヒーター=ヌクイヤンは見えてないだろうな。アホだから。



唯一よかったのは國村隼VS浅野忠信。
ともに『アウトレイジ』(10年) 『座頭市』(03年) で北野武に殺されたという素敵な共通点を持つふたり(國村隼に関しては『キル・ビル』でルーシー・リューに首を撥ねられてもいる)。
ここだけはハリウッドが茶々を入れることなく、最低限の“東映任俠映画”を最大限の敬意をもって描出してくれました。時間にしたらほんの一瞬だけどね。
また、当初こそ敵対関係にあったケイトと國村が最終的には共闘する週刊少年ジャンプ的展開もほどよくアツく、なんせ國村隼が終始厚遇されていて「本作の主演女優って國村隼だっけ?」って錯覚、おれ、した。


まあ、総評としましては取るに足らない泥凡作だけど、近頃おれは、こうも思うわけ。
映画開闢以来130年。
取るに足る映画なんてもうねえよ。
飽和の令和。取るに足る感動や衝撃なんて、既存の大昔の映画でだいたい味わえるし、最新の映画にそれがあったとしても、しょせんは“テクノロジーへの感動”とか“まだその手があったか!的な発想に対する衝撃”であって、根源的な映画への畏怖…、そのベールはもうほとんど引っ剥がされてしまった。だから、ここ10年の映画は本当につまらないです。
でも、きっとこんなことを80年代の評論家たちも言っていたし、もっと昔の人たちも「映画は死んだ」とか言っていたと思うと、回る、回るよ、時代は回る、別れと出逢いをくり返し、今日は倒れた旅人たちも生まれ変わって歩き出すんかな、なんてこと、思う。
心に希望を、利き手に絶望をもってゴー。
ありがとう、『ケイト』でした♡


國村隼って三角刀だけで彫った版画みたいな顔をしているよね。だからこそステキなのかも。