どっちがユーでどっちがミーか? ~1999年に想いとか馳せて~
2023年。ワンウェーウ&ウェーウワン・ホンウィワット監督。ティティヤー・ジラポーンシン、アントニー・ヴィサレー。
ふたごのユーとミーに惑わされた少年マークが、どっちがユーでどっちがミーかわからなくなってくるくるする中身。
ふたりで~ドアを閉~め~て~
ふたりで~ドアを開~け~て~
ふたりで~もっかいドア閉めて~
開~け~る~だろ~ぉ~
わっあっあっ。始まっとったんかぇ。
てっきりまだや思て、尾崎ピヨ彦のふたりでドア閉めるやつ歌とてた!!
あの曲名いつも思い出されへんのよ。レコード大賞とった、ふたりでドア閉めるやつ。サビになったらすぐふたりでドア閉めたり、なんやして。最後に心が何かを話して。なんて曲名やったかいな。調べたらイッパツなんやろうけど…、調べんとこ♪
あと名前も、本当は尾崎紀世彦だけど、発音しづらいから勝手にピヨ彦いわせてもうてるわ。こっちの方が親しみやすくて、より人気が出ていたことだろうと俺は思う。
もう、曲名も「ふたりでドア閉める」でええやんか。
ふたりでドア閉めて、なんやして、最後に心が何かを話す。なんてグレートフルな曲を尾崎ピヨ彦は歌いあげたんだろう。
そんな話はどうでもいいんだよ。
近所のファミマで働いてる「さぷこた君」の頭に半額シールが貼られていたんだよ。
さぷこた君は外国人で、たぶん留学生なのかな? いつも会計後に「ありがと♪」と言ってくれる店員さんで、そのたびに俺、心のなかで「友達か」と突っ込むんだけど、不思議と厭な気はしません。それがさぷこたのチャーム。
さぷこた君って『ロッキー』の頃のシルベスター・スタローンみたいな髪型をしてるんだけど、その髪にこないだ、なぜか半額シールが貼っ付いてて、本人もそのことに気づいてない様子で、普通にレジして「ありがと」言うとった。
さぷこた君が半額になった、と俺は思った。
でも定価なんぼすん? とも思った。
レジの順番が回ってきたので、俺はさぷこた君に「頭にシール付いてんで」と言ったら、さぷこた君、両手で髪をむしむしして、そこへ至ってようやくシールが付いていたことを知る。
「きゃー!」
照れるさぷこた。真顔の俺。
すると、品出しをしていた別の男性店員「ちゃーみか」が、赤面するさぷこた君を見て「ぱっぱっぱ!」と嗤った。
ちゃーみかァッ!!!
こいつがイタズラしてさぷこた君の頭に半額シールを貼ったであろうドラマはあまりに見え透いた。俺にはわかる。実際、嗤うちゃーみかに、さぷこた君は「やめろやー」みたいなジェスチャーを送っていたからね。
ロクなことせんな、ちゃーみかは。さぷこたをいじめて。さぷこた、いじめんなよ。
ほんでなんやねん「さぷこた」とか「ちゃーみか」とか。
なんで名札ひらがなやねん。
会計後、さぷこた君が「ありがと♪」と言ってくれて、そのタイミングでレジに戻ってきたちゃーみかも礼を言ってくれたんだけどさ。
「ありがとうございました」
ちゃーみかの方が礼儀正しいんかい。
そんなわけで本日は『ふたごのユーとミー』です。非常にかわいらしい映画作品でしたね~。
◆曖昧ミーマインのモコミのチー◆
『ふたごのユーとミー』でも観るか~と思ったのでU-NEXTでポイント払って『ふたごのユーとミー』を観てん。
観てよかったなぁ~『ふたごのユーとミー』。劇場公開されてたときから気にはなりつつも、なんとなく二の足を踏むっていうか…『にのあしフーとムー』だったんだけど、このたび晴れて『ふたごのユーとミー』を、わたくし、フーとカーとヅーとメーが観る運びとなりました。
フーとカーが『ユーとミー』をミーとター。
『ふたごのユーとミー』は、そのあまりに可愛らしく爽やかなポスタービジュアルの前に思わず人を立ち止まらせるチャームをピッピッと放散したタイ映画である。文字通り、一卵性双生児のユーとミーを主人公とした、ひと夏の淡い青春譚が咲き誇っちゃうんだよね。
鑑賞前は、てっきり双子の役者を起用したものかと思いきや、じつはユーもミーもティティヤー・ジラポーンシンという新人役者の一人二役だということに鑑賞中に気づいた。
なんてこっタイ。
だとしたらタイ映画の合成技術、わりに高ぇな。もちろんツーショットの場面は極力少なめで、ロングショットではボディダブルを使ってるんだろうけど、まったく何の違和感もない。何の違和感もないどころか、むしろ一人二役が作劇上のギミックにも使われているのだが、詳しくは後述する。
ユーとミーは一卵性双生児の姉妹ですよ、という物語設定を観客に説明するファーストシーン(セットアップ)から快調。
食べ放題の焼肉店で「残したら罰金ですよ」という店員を無視して肉をドシドシ追加注文したミーが、網のうえの肉をたらふく食べたあとトイレに行って個室をノックする。その合図で腹ぺこのユーが出てきて満腹のミーと交代し、追加注文した肉をユーが食べる。ふふん♪
後日、映画館でチケットを提示したミーが「私ってかわいい?」とスタッフに話しかけて自分のことを印象づけたあと、シアター内に入る。ややあって本編上映直前、今度はユーが同じスタッフのもとへ駆け寄り「トイレでチケットなくしちゃった。映画始まっちゃう!」と縋りつくと「ああ、さっきの娘か。入っていいよ」てな具合でシアター内に入れてもらった。うふふ♪
双子の利点。少し頭を使えば一人分の料金で二人分楽しめちゃう!
ユーとミー(どっちがどっちかは忘れた)。
それでは応用編。ユーが苦手な数学の追試を、得意なミーが代わりに受ける。
試験直前、トイレで名前入りのワイシャツを交換し、色違いの腕時計を入れ替え、ふたりを見分ける唯一の特徴だった“ミーの頬のホクロ”をコンシーラーで消し、ユーの頬にホクロを描く。
なるとく~!
そうして“ユーになりきったミー”が追試を受けたが、肝心の鉛筆を忘れてしまった。
「そんなミーな」
そこにマークなる同級生が現れる。同じく追試組のマークは、自分の鉛筆を真っ二つにへし折り、ユーになりきったミーに鉛筆の芯のある方を与え、自分は先生からナイフを借りて鉛筆の先を削り「困ったときはお互いさマーク」と言った。
ユーになりきったミーはこの行動にいたく感銘を受け、試験中、クイズに苦闘するマークにわざと解答用紙をチラつかせ「ほら答え。ミー(見ぃ)」と言った。
この瞬間、二人は互いに「あ、なんかいいな」と思った。恋の花が咲いたんである。
だが、われわれは留意せねばなりません。マークが恋に落ちた相手は“ユーになりきったミー”ではなく、あくまでユーであることを。
だってマークは二人が入れ替わってることなんて知らないもん(よしんば知っていたとしても見分けはつかない)。つまりマークは、鉛筆を貸した代わりに解答用紙を見せてくれたミーのことをユーと誤解したまま、ユーに惚れてしまうんだ。
これはどっちや…。まあ、ユーかミーです。
そんな折、家庭の事情で姉妹は田舎の祖母の家に身を寄せることに。その先で偶然マークと出会ったのがユーだった。マークからすれば「おれがマークしてたユーがメーの前に!」てなもんで、片やユーの方も、双子ゆえに好みのタイプがミーと同じだったため自然とマークに惹かれていくのだが、ふたりは初対面。あの追試の日、マークが惹かれたのはミーなのよ。ユーになりきったミーね。
いわば、初対面のユーは、ミーが稼いだ“マークからの惚れられポイント”を上限MAXまで引き継いだうえでマークと付き合う寸前のセーブデータをロードした勝ち確状態。
だが、かかる事情は三者全員が知らない。
あれよあれよという間にユーとマークは交際に発展。これまでは何をするにも二人一緒だった双子の仲にマークが加わるも、次第にユーは「彼と二人きりの時間を大切にしたいから、悪いけどミー、今回は遠慮してもうて」とミーを遠ざけるようになり、これにジェラシーしたミー、ついにマークの前で「あの追試の日、あんたが出会ったのはユーじゃなくてミー(私)よ!」と暴露してしまったからサァ大変。マークの頭が大変。
「ぼくが最初に惚れたのはユーとしてのミー!? つまり実体としてはミー? 運命の相手はキミ、否! キ・ミーだったのか! でも、あぁうええ? 実際に交際して、好きであり続けているのはユー。現在進行形でアイラブしてるのはユー! でもそのファースト恋プレッションはミーのおかげ? ミーの変装なくしてユーとの出会いはない? あ、逆だっけ? つまり…あっ! え? ああああどっちがどっちなんだっけええええええええ」の混同地獄。
気付いたころには観客も、マークのように、あるいは冒頭の映画館スタッフのように、どっちがユーでどっちがミーか、曖昧ミーマインのモコミのチーと化す、みたいな区別不能にして識別困難な双子地獄へといざなわれるのであるるるるるる。
曖昧ミーマインのモコミのチー…「曖昧」の上位語「曖昧模糊」の更なる上位語「曖昧模糊のもこみち」をも超える最強上位語。
赤チャック着てへらへらしてるのがマーク。
◆銀幕上のユーとミーをちゃんと見たれ◆
ユーとミーの見分け方は“ほくろ”の有無。
簡単そうに思うだしょ?
だが劇中、ふたりは頻繁にほくろを描いたり消したりして入れ替わるので、その都度「あ、本来ほくろのある方がミーだけど、今は入れ替わってるから、ほくろがない方がミーね。おっけおっけ」と頭で整理するわけだが、しょせん映画など視覚のメディア、いかな頭で理解したとて視覚は理解に優先する。いざほくろがない方が画面に現れると「ほくろがないってことはユー! あ、今は逆だからミーだっけ? むひゅん。どっちだっけ!?」とパニックを起こす。アホみたいな顔して。
つまり“ほくろの有無”など双子を見分ける方法でもなんでもなく、むしろ“ほくろの有無だけで見分けようとするから殊更にどっちがどっちかわからなくなって混乱するという記号論的トリックの術中へと観る者をいざなう映像学的戦略が全編にわたって敷かれている作品なのですよ。
謎の祭りを楽しむ、ナーとゾー。
先述した一人二役のギミックもここにある。
ユーもミーも同じ役者が演じていて、唯一の違いは頬のほくろだけ。だとすれば観客は双子が映るたび、真っ先に頬へ視線を送る。だしょ? 送ってしまう。あればミー、なければユーってね。
だがそれは二人を見ていない。ユーを見ていない。ミーのことも見ていない。
見てるのはほくろだけ。
否。ほくろさえ見てはいないだろう。ただ、ほくろが有るか無いかを確かめてるだけだ。
いいか。映画というのは「こっちがユーだっけ?」などという認識の確認作業として“見る”のではなく、ついぞ知らぬ知見を広げるためにこそ“観る”ものだ。
「どっちがユーかな? こっちがミーかな?」なんてことを気にして、頬のほくろに浅ましく視線を這わせている時点で、しょせんわれわれも劇中のユーとミーに出し抜かれた凡百の脇役と変わらぬ“記号でしか人や物事を識別できない俗物”なのである。死んだ方がマシだ。
また、ほくろの有無など確認せずとも、その時々のシーン、その時々のシーケンスで、どっちがユーでどっちがミーかなんてことは、な~~んとなくわかるように作られたある。
一見混乱しそうな映画だけど、ちゃんとわかるように作られたあるから安心せい。
ほくろなんて記号に囚われず銀幕上のユーとミーをちゃんと見たれや。
これはミー。
◆嗚呼、遥けきY2K問題◆
そんなことより、なんて煌びやかな作品だと『ふたごのユーとミー』はおれに言うんだろう。
ふたりが身を寄せた祖母の家は、タイのイサーン地方と呼ばれる東北部の街ナコーンパノムの郊外にある。これがまた丁度いいロケーションなんだ。街と自然が共生する、程よく不便で程よく便利な、暮らしに最適、観るにも最適なすばらしいロケ地。ナコーンパノムはメコン河を挟んで対岸はラオスの国境の街。
てなこってメコン川沿いの美景ショットに事欠かず、ユーとマークがデートした蓮の花の池(タレ―・ブアデーン)も圧巻の美しさ。
本作を見ながらカオマンガイやトムヤムクンを食べるのも乙かもわからない。まあ、本当にそんなことしてる人がいたら笑うけどね。でも笑われたっていいじゃないよ。人生は一度きり。タイを楽しんでいこうよ。
溶けるアイスクリームや、ちょっとしたダンスシーンなど、演出上の小技も盛り沢山。
また、ちょっぴりノスタルジックなのは1999年という時代設定よね。ノストラダムスの大予言。世の中はY2K問題でもちきり。世界が終わると大騒ぎしていた年。丁度おれが『コロコロコミック』で『サルゲッチュ』というPlayStationのゲームを知り、妹の『りぼん』を借りて『GALS!』を読み、『おジャ魔女どれみ』と『デジモンアドベンチャー』の1作目をブラウン管テレビで見ていた時代だ。
蘇るぜよ、今や泡沫と化した世紀末の香りがよ。あのとき確かにおれは1999年を生きていたんだよな。
蓮の花の池とメコン川沿いの美景。
監督は、本作が長編映画デビューとなるワンウェーウ・ホンウィワット&ウェーウワン・ホンウィワットの二人。
彼女らもまた一卵性双生児の姉妹監督なのだけど、名前まで似せなくてよくない、ってぐらい名前からして既に似てるのでもう「覚えよう」という気さえ堂々放棄させてやまない二人だよね。
ワンウェーウと、ウェーウワンて。
似すぎやろ。文字列として。
読む者泣かせにして、書く者泣かせ。識別せし者泣かせでもあるし、総じて、見分けんとする者泣かせでありすぎる。ワンワンウェーウと泣きたいよ。あるいはウェーウワンワンと泣きたいきもち。
製作・配給を手掛けたのは、タイ版A24と言われる “GDH”。かつて当ブログでも取り上げた『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』(17年) を製作した会社なんだと。今後、日本に入ってくるタイ映画の中でさらに頭角を現してゆくことでしょう。
そして本作で一人二役を務めたティティヤー・ジラポーンシン。この透徹した圧倒的チャームは、芸能業界の中で摩耗されゆくごとに下品に、狡猾に馴致される忌まわしき宿命から守られねばなりません。だが、とかくこういう娘ほどバビロンの生贄になりがち。
耐えてゆけ。
監督のワンウェーウ&ウェーウワン・ホンウィワット(どっちがどっちかは不明)。
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