シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

関心領域

われわれが『関心領域』を見たとき『関心領域』もまたわれわれの方を見ている ~そんなニーチェな~


2023年。ジョナサン・グレイザー監督。クリスティアン・フリーデル、ザンドラ・ヒュラー。

アウシュビッツ強制収容所の隣では、平和な生活を送る一家がいました。


あい、やろやろ。めんどくせっ。
みなさん、暑さと戦っていますか。それとも棄権していますか。棄権すると見せかけて戦っていますか。それとも戦うと見せかけて棄権するんですか。私の敵は私ですか。
あのやぁ~、現在の予報用語では25℃以上を「夏日」といい、30℃以上になると「真夏日」と言うわけだけれども、それを超えると「猛暑」と呼び、さらに40℃以上は「酷暑」なんて言うわけだが、地球温暖化は進む一方で、遅かれ早かれ「酷暑」を超える気温が訪れるのは明々白々のハクビシン。
とあらば「酷暑」の上位概念をなんと命名するか!
この取り組みに取り組まねばならない時期にそろそろ僕たち私たちは差し掛かっていると思うのですよ。
猛暑→酷暑ときて、次はなんでしょう。
ずばり「耐えるっきゃないっ暑」
もうこれでええやろ。決まりや、決まり。耐えるっきゃないっしょ。おしまい、おしまい。俺たちはアスファルトの上のベーコンエッグだよ。地球に料理されて。だから耐えるっきゃない。ありがとうな。

それはそうと、夜間の最低気温25℃以上は「熱帯夜」と言うが、これが30℃以上になると「超熱帯夜」と呼ぶらしい。
…手ぇ抜いてへん?
猛暑からの酷暑はよかったのに、熱帯夜からの超熱帯夜は安直すぎやろ。ラクしすぎやろ。ドラゴンボールすぎやろ。その理屈で言ったら猛暑の上位概念だって超猛暑にならんと辻褄合わんやろ。
俺だったら超猛暑なんてセンスもヘンスもねえ用語にはしないね。
熱帯夜の上位概念だから、そうね…
「眠憐夜」とかどう?
ねむれんや。
あまりに暑すぎて眠れない夜、そのさまは、もはや憐れの域、と書いて「眠憐夜」。流行語大賞だって夢じゃなくね。「眠れんやー!」つって。まあ、眠れないなら夢さえ見れないんだけれども(うま!)。

…なんてつまらんことを、オリンピックで盛り上がってる時期に俺はひとり、俺ンピックをしてるわけだが、オリンピックといえば、こないだピュッとテレビジョンを点けたら、柔道女子48キロ級の角田夏実ちゃんが反則勝ちをおさめて「胸中複雑ではあるがヤッターといえばヤッター」みたいな半端な喜び方をしていた。
あのさぁ…「反則勝ち」って言葉、やめてくれへん?
紛らわしいのよ。
反則して勝ったんかな? って一瞬思てまうのよ。本来の意味は逆なのに。相手が反則したから結果的に勝ったことを「反則勝ち」と言うのに。
ややこし過ぎやろ、この言葉。
「反則負け」はわかるよ。俺みたいなスポーツ興味ゼロ人間にもスッと入ってくる。「反則」という言葉と「負け」という言葉は共にネガティブな言葉とネガティブの言葉なので、これを掛け合わせて「反則したから負けたんだ」と理解できる。
けど「反則勝ち」はさぁ、なまじ「反則」というネガティブな言葉と「勝ち」というポジティブな言葉が絡み合ってるから文法的な従属関係がわかんねーっていうか、どっちがどっちにどう掛かってんの? っていう。
つまり「反則したから勝った」のか「反則されたから勝った」のかが判然としない。直感的に分かりづらい。
例えるなら、そうね、蛇とマングースが戦ってる画像を見て「これ結局どっちが優勢なん?」と思うみたいな。蛇がマングースを喰ってるのか、はたまたマングースが蛇を抑え込んでるのか、決着の寸前にシャッターされたその画像からはどうとでも取れる、勝敗、わかりかねすぎる。
あるいは、イチゴとパクチーのスムージーとかね。ミキサーの中に大量のイチゴと少量のパクチーを入れてスムージーした場合、イチゴの甘さが勝つのかパクチーの臭みが勝つのか。どっちが主で、どっちが従なん? みたいな。
事程左様に反則勝ちという言葉は矛と盾ですよ。紛らわしいですよ。日本語として。「反則」のあとに「したから」と続くのか「されたから」と続くのかによって意味が180°変わりすぎ。受け手の解釈次第すぎ。


俺は思うわけ。
反則行為によって競技が決着した場合、反則して負けた選手を報道する際はこれまで通りに「反則負け」と表現すればよいが、勝った側の選手を報道する場合は「反則勝ち」という表現ではなく「勝ち」だけでよくねえ?
そも、反則行為というのは「した側の問題」であって、された側の問題ではないのだから、そのされた側の判定に「反則」というネガティブな言葉を用いること自体がナンセンスだし、不憫だし、誤解の種だし、火の粉だし、された側にとっても「私、関係あらへんやん。なんか相手が勝手に反則して勝手に負けたのに、ネットニュースやスポーツ新聞に『柔道角田 反則勝ち』とか書かれてますやん、私。せっかく勝ったのに『反則』とかネガティブワードほり込まれたら、ふかづめみたいな馬鹿スポーツが『あれ? この人、反則して勝ったんかな? 最低じゃん。スポーツマンシップの風上にも置けない風下の農村じゃん』と思うじゃん」って角田夏実ちゃんが思うじゃんんんん!!!

俺は角田夏実ちゃんにだけは嫌われたくないと思ってるんだよねぇえええええ。
柔道なんてさっぱり分からんが、前回の東京五輪で日本代表を逃した悔しさを俺はテレビジョンで見ていました。ほんで今回のパリ五輪で、角田選手は金メダルを取りました。
いいよね。
なにがいいって、角田と書いて「かくた」じゃなくて「つのだ」と読ます「あ、訓読みなんだ?」っていう大和言葉がいいよね。柔道が国技なら、角田の読ませ方は国語。
まあ、国語(こくご)という言葉自体が音読みだけどね。
真に日本語を愛するおれは、国語のことを「くにかたり」と読んでいこかな?
やめとこ。
面倒臭いし。やめとこ♪

そんなわけで本日は『関心領域』です。



◆おれの関心領域の中にもはや『関心領域』はありませなんだわ◆

 “音を観る映画”という触れ込みだったので「よーし、音を観るぞー」という心持ちでいったらば、前の席に座ったヤケに落ち着きのないカップル、女の方は上映中にこそこそとカレピに話しかけ、男の方はポップコーンの容器に手をつっこむ際のガサガサという音を無神経に響かせたり「くわあ」と声に出してあくびなぞを繰り返すものだから、自ずと『関心領域』に対するおれの関心領域の中にこいつらが闖入、気がつけば映画よりもこいつらの音ばかりを観ており、まあ、ホロコーストを扱った映画の評でこんな物騒なことを申しあげるのもなんだが、このカップルに対して「ぶち殺そうか?」と思いながらの鑑賞と相成りましたー。

とはいえこの品性乏しきカップルは、本作を批評/概観するための観察対象としては100点満点のリアクションを呈してくれた。というのも映画が進むにつれて露骨に飽きていく反応を示していたのよね。
ちなみにおれが入った回は公開から2週間ほど経っていたにも関わらず動員60名ほどの盛況ぶりで、この手の映画にしては大ヒットといえるよね(通常一桁、ややもするとゼロが常)。
だが、その多くがSNSのクチコミや好奇心を煽る秀逸なトレーラーに惹かれて「なんか怖そうー」、「シュールでオシャレそうー」などと、いわゆるところの怖いもの見たさ、最近で言えば『変な家』(24年) の変なヒットにも近い、SNS時代ならではの右に倣え精神。誰かが「イイ!」と言ったら、それを見た奴らが「イイネ」を押し、さらにそれを見た大衆が「イイに対してイイネがいっぱい押したあるから、ほなイイのか。じゃあイイやん!」とすぐ感化、影響、ほぼ洗脳、然り而して没個性化/無思考化された意思なき現代人は、まるで生前の消費本能からショッピングモールに集う『ゾンビ』(78年) におけるゾンビさながら、映画館に群がっては『関心領域』のシアターに吸い込まれていくのである。
正味の話、あの59名のうち、はたして何名がこの映画を楽しんだのだろう。
上映後は沈鬱とした雰囲気のなか、ほとんどの客が首を傾げたり、呆然としたり、気まずそうにしたり、照れてみたり、連れと「どゆこと?」、「超つまんなかったー」と不満げに感想したり、なにもわからず本当は混乱してるのに自分を大きく見せるために「おれは映画マニアだからわかったけどね」と見え見えの虚勢を張るもんだから段差につまずいて素っ頓狂な声をあげたり、恥も外聞もなくさっそくスマホでレビューサイトや考察サイトをひらく、などしていた。

ははは。アホな奴らだ。

はてさて、このおれ。
いやさ、このおれ様殿。
いやさ、朕!
過去17年にわたって高度な映画批評を世に届け、現代日本の映画リテラシーの底上げに多少なりと貢献、きみは映画を“観て”いるか!?と厳しく問い、過去の酷評回にはその映画の関係者が問い合わせフォームから猛抗議(図星だったから逆上して抗議してきたのだろう)、逆に酷評した映画の関係者が「自分も疑問を抱きながら現場で仕事してました。あの映画ひどいよね」とカミングアウト、はてなブログ登録者数は590人と、まあ総合1位が22477人なので少ないようにも感じるが映画批評に特化したニッチなブログにしては相当多い方っちゅーか実質1位の座に堂々君臨しており、また数を誇ってもしょうがないのだけれども過去の年間鑑賞本数の最多記録は678本、古今東西の映画のシルクロードを踏破しただけでなく、批評を通して独自の映画観や批評言語を開陳することで読む者の鑑賞眼を刺激/啓蒙/教育するなど、もはや無償でやってることがバカらしく思えてくるほどにアカデミックなブログを「収益化してもよいが、目障りな広告をつけると自分にとっても読者にとっても読みづらいブログになるから」という見上げた精神で数々の企業から問い合わせフォームに頂いた「うっとこの広告つけてくれたら小遣い稼ぎできるで」との悪魔の誘惑、亡者のオファーに対してシカトを貫いた、そんな高潔な魂を胸に、今日を、明日を、むしろ昨日まで生きるおれ!


そんなおれはと言うと、まあ映画の中身に関しては何もわからなかったけれども「おれはわかったけどね。他59名の皆はわからなかったのか。ははは。アホな奴らだ」なんて、やたら超然とした顔でシアターを出ましたよ、それは。
そのあと、ふらふらと近くのコンビニに寄って牛乳を見たあと「一旦忘れるか…」と思い、気を取り直して『マッドマックス フュリオサ』(24年) をハシゴ、死ぬほど難しい映画を観たあとに死ぬほど易しい映画を観たもんだから「うれしーい、たのしーい」などとUSJで遊ぶDREAMS COME TRUEの子ども、みたいな態度でこれを満喫、おれの関心領域の中にもはや『関心領域』はありませなんだわ。
だからごめんな。



◆われわれが『関心領域』を見たとき『関心領域』もまたわれわれの方を見ている◆

 とはいえ批評は続行せねばなりません。なんとなれば、おれの後ろには590人もの迷える映画の子羊ちゃんが「メェー。批評を書いてよー」、「メェー。映画を語りなさいよー」とメーメーうるさいからだ。
てなこって『関心領域』。
アウシュヴィッツ強制収容所、その壁一枚隔てた敷地に住むルドルフ・ヘス所長と妻ヘートヴィヒ、およびそのキッズらの“日常”を淡々と素描した105分の作品である。
カメラは一度として“壁の向こう側”を映すことなく、あくまで壁のこちら側、すなわち一家の退屈なまでに何も起きない平穏な生活をただただ見つめるので、先ほど登場したカップルのように映画の見方を毫も知らない一般大衆は「なにも起きないからただただ退屈ー」なんつって苦痛の105分にその身を打ち震わせるわけだが、一方、「甘いね。何も起きず、虐殺シーンも見せないところが本作のミソなのだ。この映画が真に恐ろしいのは大勢のユダヤ人が虐殺されてる収容所のすぐ隣で平然と生活していられる一家の感覚、その異常さに尽きると言っていい。ある意味では最恐のホラーだ」とする、いかにもSNSや考察サイトに蔓延ってそうな陳腐な意見も、まあ、“映画の読み方”としては理に適っちゃいるが、“映画の見方”としては中の下の下。


 本作は映画でありながら“見せる”という使命のほとんどを放棄し、観客の想像に委ねるという、反映画というか半映画、いわば「結末はご想像にお任せします」を全編に渡ってやっているようなもので、読んで楽しい、想像で補完する、たとえば映画がアクセサリーショップだとすれば『関心領域』は手作りアクセサリー教室よろしく、客が身銭をきって自らの意匠と創造力でアクセサリーを作るみたいな、全部こっちでどうにかする映画、「ほっほ。深いですなー」と感銘を受けるか「よし、おれはむかついた。金返せ」と腹を立てるかはこっちの思案/解釈/勘考の程度次第といったカラクリで、畢竟、われわれは『関心領域』を見ていたのではなく『関心領域』の方がわれわれを見ていた、そして試していたといった趣の、なかなかにニーチェ的な、両面の意味から“人間観察”を達成した作品なのである。
現に、冒頭約3分はスクリーンに何も映らず、ただ真っ暗な画面が打ち続くんだからさ。映写トラブルかと思ったわ。

だから、映画を…映画だけを観ていたおれが、中身に関して何もわからなかったのは至極当然の帰結。
次の文章は、落ち着いて、ゆっくり読んだれや。
おれは映画を観るとき、“映画だけ”を観ているのだけれども、だのにスクリーン上で映画と関係ないことをされてしまうと、おれは純然として映画だけを見つめているため、その映画以外の部分に関しては見事なまでに見落としてしまう。
なぜならおれは、映画、を観ているから。
というわけで意味論や解釈論と戦うのは他のブロガーやSNSの皆さんに任せるとして、ウチはウチで映画の話をしましょうね。



◆最も大事なことほど、最も口にしてはなりませんよ◆

 前半は超おもろかったが、後半飽きた。
これが私見のすべて。
おもろいのはショットである。本作はトレーラーが公開されたときから自分も含め多くの映画好きが「よよっ?」と興味を引かれたように、そら寒いほどに独創的なショットを以てブラックホールのごとき求心力なり得ていた。
庭を映したロングショットに見る、キューブリックとはまた異なる一点透視図法の妙味。あるいは“追う”ことの意味が剥離したような、粛々と猫車を運ぶ冒頭のドリー撮影。
だがその精髄は、映画前半部の主舞台となる家の中、そこでこれでもかと畳みかけられる二点透視図法による摩訶不思議な室内のショットである。
室内における二点透視図法。
すなわち部屋の角から室内を映した構図。それがやたらと連発される本作。人物が部屋から廊下に出たとたんにカットが変わると、こんだ廊下の二点透視図法、つまり廊下の角から人物を捉え直す…という風に、絶えずこの必殺技、“角からショット”が連綿と繋げられるのである。
あたりまえの話をするが、通常、角から撮った場合、画面全体のアングルとしては、なんとなーく三角形、まあ俯瞰から撮れば菱形にもなるかもしらんが、基本的には三角形となる。
西洋美術―ことにドワクロワの『民衆を導く自由の女神』とかラファエロの『牧場の聖母』あたりを想像してもらえればいいが、絵画において「三角構図」というモチーフは、なんか知らんけども美と安定をもたらす黄金構図だというんだよねー。

ウジェーヌ・ドラクロワ作『民衆を導く自由の女神』

ラファエロ・サンツィオ作『牧場の聖母』

ところがどっこい、「なんや、三角形にしとったら美と安定感が出るらしいで」ともっぱら噂の三角構図も、とたん、映画になれば真逆の効果を発揮す。
なんとも歪で、奇妙で、不安定な、おれたちの大事な脛をトンファーでシバかれるような鋭い痛みや、わけもなく心にざわざわとした潮騒をおぼえるような、それをオシャレと捉えることも出来るけれどもどっちかっつーと嫌悪感だなこの感情は、みたいな、かすかに不快な感触を自覚してしょうがねえわけだ。
事程左様に、不愉快なアングルで切りとられた何も起きない日常こそが“異常な環境で平常に振舞う一家の無関心の恐ろしさ”を表象しているのだろう。
描かれてること自体は平時平穏そのものだが、その描き方が無気味きわまりないのである。
どうやらこれは監督ジョナサン・グレイザーの狙い通りらしく、本作の撮影には(一昔前に流行った)POV形式のホラー映画よろしく室内に設置された無数の定点カメラを使用したとのこと。
余談だが、各定点カメラの四隅から撮ったショットを4つ繋げると空間の中心を軸にクルクル回るようなモンタージュになるんだ~、というアホみたいな感想も抱いたが、それを言うと「そらせやろ、アホかこいつ」と思われるので書かずにおく。


もう見えるよね、キミには。三角構図が。

ただ、手の内を明かしたあとの後半以降は少し飽きちゃった!
ルドルフ・ヘスが本部に転属した映画後半は、やや無節操なほどに音や映像のストラクチャーが変化する。おれのお気に入りだった“角からショット”も鳴りを潜めるので、すこし寂しいわけです。
なんといってもヘス家で飼われていた、あの黒く美しい賢犬(かしこけん)!
あの犬がいなくなっちゃうんだもん。
ああ、忘れじの賢犬。
ルドルフやヘートヴィヒのあとを健気にちょらちょらと追従するさまがやたら優雅で、それでいて「僕だって生きているんだぞ」といわんばかりに力強く、それがまた“角からショット”によく映えるのよ~。ああいう賢犬(訓練により動線ぐらいは覚えさせられても完璧には操作できない被写体=犬)がいるといないとではえらい違いで、とりわけ本作のようにロングショットから人物の動作を静観し続ける作品では、ともすると映画が“演劇”の側に滑り落ち、ものっそい肩の凝る窮屈で淡味な映像空間へと堕しがちだが、そこに犬がいることによって不可測かつ即興的な動きで観る者の瞳を攪乱、映画を翻弄。演劇に滑り落ちたその予定調和性を緩和するどころか、それまで圧縮された映像空間にポンッと風穴をあけ、なんとも心地よい秋風を運んでくれるのである。ららら。だから賢犬の出番がなくなった映画後半は、少しばかり寂しかった。


 それでもなお飽きさせない工夫というかギミックには満ち満ちていたので、おれはジョナサン・グレイザーを褒めたい。思いっきり関西弁で「自分、やるやん」ちゅて褒めたい。
映画中盤では急にスクリーンが赤一色になって不協和音の劇伴が大音量で流れたり、真夜中の収容所近辺にリンゴを置いて回る謎の少女をサーモグラフィ・カメラで切り取った無文脈的なショットの断片が劇中のそこかしこに配されていたり、極めつけは現代のアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を清掃する職員たちが唐突に映しだされるジャンプ・カット。



ぎりぎり好きだな、おれは。この映画。
自慢するわけではないが―という枕詞がすでに自慢の反語なので、いっそ「今から自慢するが」と言い換えるけれども、だいたいの映画において、おれは次に来るショットがなんとなくわかる。
次に来るショットがわかるから、ごく稀にある“まだ続きそうなのに変なとこでスパッと暗転してエンドロールに入っちゃう『ノーカントリー』(07年) みたいな映画”の終わるタイミングもわかる。
それは、別におれがエスパーでもなければエスパー魔美でもなく、いわんやエスパー伊東の遠い親戚であろうはずもなく、そも映画というのは、D・W・グリフィスやセルゲイ・エイゼンシュテインが120年前に提唱/実践したモンタージュと呼ばれる映像理論に則って構成された組織体系である以上、めいめいが「Don't think, feel」とかふざけたことを言いながら好きなものを好きなように撮ってよいというものではない。むしろ皆々様が思うよりも遥かに規則/法則にきびしく、うるさく、「次は台詞をずり上げながらバストアップで切り返さねばなりませんよ」、「さっきのショットにこのショットを持ってきても繋がりませんよ」などと、あたかも将棋のごとく、その一手一手に正解/不正解が存在する。
したがって、好きの横好きで映像理論をかじったおれみたいな大馬鹿野郎でも、むちゃくちゃに映画を観ていりゃあ、次に来るショットぐらいは予感できる、というか嫌でも予感してしまうので純粋に映画が楽しめない、みたいな不自由に呪縛されてしまうんだああああああ。
いつの間にこんなことになっちまったのか。
今やもう映画を観てて「楽しい」なんて感情は湧かないし、自分はすでに「映画好き」ですらないと思う。
周囲の映画好きとも話が合わない。
そんなわけで、今のおれが心を動かされる映画は“予感の先を穿ったもの”だけ。
すなわち古典か、前衛か。
新しいことをしているという意味では古典と前衛は表裏一体というか、もはや同義語である。といってしかし、ここで言う「新しいこと」というのは“予想を裏切る”という意味合いではなく、先に述べたとおり“予感の先を穿つ”ということなのだが、この言葉の意味するところは教えてあげないこととする。イケズではない。理由は以下の2点。

(1)目下すでに本題から逸れている世迷い言を一刻も早く切りあげてそろそろ評を締めたいと思っているから。

(2)映画評を書く身のジレンマとして「それすなわち〇〇とは△△なのだ!」と演説みたいにキメてしまうと一部読者が「なるほどぉ! 目から龍の鱗が落ちたああああ」などとバチバチに影響を受け、まあそう言ってもらえること自体は大変光栄なのだが、筆者としてはこんなゲロみたいなブログ、通称ゲログなんか鵜呑みにせず、むしろ見下す勢いで、自分の目で映画を観て自分の頭で考えろっていうか、そうしてもらう為の一助になればいいという思いから故意に極論暴論を言ったり読者を子供扱いして挑発しているわけで、さらに言うと「なるほどぉ! じゃねーよ。おまえは何もわかってない。知った気になるな」の感もあって、とりわけ苛立ちを覚えるのが、わかります~系、つまり当ブログに対して「わかります、わかります~。それな。それでしかない。私が思ってたことをぜんぶ言語化してくれてスッキリしました。わかりみ~」みたいなコメントが来るたび、まるでそいつがおれと同じ次元にいる同質/同等のヘヴィ観る者であることを殊更にアピールしてくるかのようでむかつくし、しかもちょっと上から目線っていうか、まるで「正解! この映画を見たときの私の感想、および私が感じた違和感を、遂にあなたは言語化しましたね! みごと私の心を言い当てました!」と言われているようでクイズに正解してひとし君人形をもらったゲストみたいな気持ちになるし、それよりなにより「私が思ってたことをぜんぶ言ってくれた~」って、おれはおまえの腹話術人形じゃねえんだよ、という思いから、当ブログでは“本当に言いたいこと、大事なこと、伝えたいこと”の本質的なテーマを毎回ひとつ設けたうえで“それだけは絶対に書かない”という制約を自身に課している。
これは人生における身近な些事にも通じることかもね。仕事にも恋愛にも。
最も大事なことほど、最も口にしてはなりませんよ。
なんとなれば、本質というのは言葉にした端から意味に転じ、意味というのは頭=論理でしか理解できないものだから、結果として言葉から本質が剥離してしまうという矛盾が生じるためである(まあ、その閾値を埋めるための営みを文学や哲学なんて言うんだろうけどね)。
だから「予感の先を穿ったもの」という言葉の意味を、おれはみんなに教えない。決して教えるわけにはいかないのさ!

はてさて本稿。3日間に渡って泥酔状態でしたためて、現在。
どうしたものでしょう。
久しぶりに書きたいことを心ゆくまま書けたわ。ここまで読んでくれたヴァルハラの戦士たち、ありがとうな。
なんしか『関心領域』は、随所で青臭いペダンチズムを感じながらも、予感の先を穿ったという意味ではギリギリ好きな映画になりました。
あと、タフよね。これは世間の見立てとは真逆の見解だろうけど、変に賢しい映画じゃなくて、意外とまっすぐ力技でねじ伏せてくるマッチョな作品だと感じたよ。剛腕。
監督は、スカーレット・ヨハンソンが全裸になった『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(13年) という、本作にも通底するエッジ/脱臼/シュール系な作品を撮ってますジョナサン・グレイザー。さらに昔にゃあ『記憶の棘』(04年) なんていうニコール・キッドマン主演の、こちらはアホみたいな映画も撮っていたけれども。
そしてジョナサン・グレイザーといえば映画より有名なのが、Z世代以上であれば誰しもが知っているであろうジャミロクワイの代表曲『ヴァーチャル・インサニティ』(96年) のMV。長回しマニア垂涎。あの動く床を駆使したワンシーン・ワンカットによる伝説のMVを作った男であり、その長回しやステディカムの使い方は本作にて円熟を極めているぞよ。
また、やたら寡作な監督としても知られている(いや、寡作だから世間には知られていないのか?)。
多作な監督も好きだけど、寡作な監督って好きよ。1作ごとに重みが出るよね。『ちびまる子ちゃん』の野口さんみたいな。まあ、それで言うたら、おれは饒舌すぎるか。
今度、10文字で映画評書いてみよかな。
「良くも悪くも微妙だた」ゆうて。


ジャミロクワイ「Virtual Insanity」

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