「パルむ、ナメる、消える」のイキリ・コルピ唯一の名作と言われているが…。
1960年。アンリ・コルピ監督。アリダ・ヴァリ、ジョルジュ・ウィルソン。
パリでうらぶれたカフェを営む女の所に、ある日突然現れた浮浪者。驚愕する女主人。彼は戦場に行ったまま行方不明になっていた彼女の夫に瓜二つだったのだ。しかし浮浪者は過去の記憶を全て失っていた…。(Yahoo!映画より)
ハロー、エブリバディ。
近ごろは80~90年代のユッルユルのアメリカ映画を観てはキレまくっています。
どうしてこの頃のアメリカ映画って甘っちょろいものばっかりなんでしょうね。まぁ、疑問形で投げかけてみたけど本当はその答えを僕は知っています。今は言わないけど。
とにかく、作りユッルユル、職業倫理ガッバガバみたいな。ショットひとつ取っても、締まらないことおびただしい。ただ金儲けのためだけに粗製濫造されし商業製品。オリコンチャートの上位10曲を占める使い捨てのヒット曲みたいな、くだらない映画ばかり。
でも実はそういう映画も好きなん・で・す・よ。奥さん!
映画を観ることの30パーセント以上はハリウッドの体制に加担することにほかならないからです。みんな、ハリウッド映画を「大味」とか「CGだけ」とか言いながら、しっかり観てるじゃないかですか。かく言う私も、ゴミみたいなヒット曲で踊るクチですよ。資本主義とはそういうことです。われわれは好むと好まざるとに関わらず踊らされるマリオネットだ。
だけど本日は、そんなハリウッドから遠く離れて1960年のフランス映画をご紹介しましょうね。つうこって『かくも長き不在』です。
◆デジタルリマスターの功罪◆
DVDをつっこんで再生ボタンを押すと、冒頭でこのような注釈が出る。
「本作はフランス国立映画センターの協力により、オリジナル・ネガから4K解像度でデジタル化され、2K解像度で修正が行われた」
いわゆるデジタルリマスターというやつなのだが…
個人的にはやめてほしい。
映像が度を越して綺麗になったことで「時代の空気や香り」が褪色してしまうからだ。
フィルムには60年代なら60年代の空気が、フランスならフランスの匂いが染み込んでおり、それも含めて映画の醍醐味なのだから。
私は、アトランダムに映し出されたある映画のワンショットをパッと見ただけでそれがどの年代にどの国で作られた映画なのかが大体わかる…という、ビビるほど役に立たない特技を持っている。「あぁ、50年代のイタリア映画だろう」みたいな。「で?」って感じだよね(まぁ、「で?」って言われたら「で?」って言い返すしかないのだが)。それぐらいクソの役にも立たねえわ。
なぜこんなことができるのかと言えば、べつに私が神通力を使っているからでも、ズルをして事前に調べたからでもなく、フィルムの空気や香りを手掛かりに推測しているだけのことなのだ。
映像の肌触りは10年単位で少しずつ変わっていく。国や時代によって当時主流のカメラ、レンズ、映像処理、あるいは流行のファッション、街並み、話し方といった風俗はそれぞれに異なる。
そうした「時代の空気や香り」が、あまねく映画には染みついている。映画を観るという営為は人類史を紐解く営為だと言ってもよい。だからわれわれは、映画に異国情緒や郷愁を感じて「ええの~、ええの~」などと阿呆のごとき多幸感に身を震わせるのではないか。違うか?ええ? そうか。違うか。死ね!
だがデジタルリマスターによって「時代の空気や香り」をまとった映像は、時に不必要なほどソフィスティケートされてしまう。野暮ったい映像が魅力なのにやたらと綺麗で洗練された画面になって、「なにこれ、最近の映画? 最近の映画をわざとモノクロで撮ったの?」と思うぐらいナウい映像になっちまうわけだ。
私に言わせればこれもある種の原作レイプである。
反面、デジタルリマスターの恩恵もあるし、カラコレやパラ消しを使った気の遠くなる作業には頭が下がる。もちろんデジタルリマスターの意義が劣化していくフィルムの保護にあることも承知している。
たとえばイングマール・ベルイマンのデジタルリマスターは最高だった。意味は知らんが「マジ卍」と言ってもよい。それぐらい最高だ。リマスターされても50~60年代のスウェーデンの空気や香りがよく出ていたし、そもそもベルイマンは最高度の画質で観なければ意味がない。
だから…、難しい問題だよな。個々の作品によってリマスターすべきかどうかが変わってくるなんて。
だが少なくとも本作『かくも長き不在』とシドニー・ルメットの『質屋』(64年)はオリジナル・ネガで観たかった。なのでこのような文句を1000字以上も使ってぶちまけさせて頂いたというわけだ。
オーライ。評に移る。
◆パルむ、ナメる、消える◆
デジタルリマスターの功罪を問うた時点で本日のエネルギーの40パーセントを使ってしまった上に、どうせ『かくも長き不在』なんて誰も観てないし興味もないだろうから、ショートバージョンでお送りする。
本作は、1961年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドール(最高賞)をゲッチュした。
監督はアンリ・コルピ。なかなか可愛らしい名前の奴である。
もとは編集技師としてアラン・レネの『二十四時間の情事』(59年)やチャップリンの『ニューヨークの王様』(57年)などを手掛けていた編集きちがいだ。
そんなアンリ・コルピが「ぼくも監督やるー」つって監督業に手を出し、易々とパルム・ドールをゲッチュせしめたのだ。当然コルピは「意外とちょろいな」といって映画づくりをナメた。だがその後は鳴かず飛ばずで、「ナメてさーせんしたぁ」などとわめきながら闇に消えていったという。恐ろしい話だ。
まさに「パルむ、ナメる、消える」のイキり黄金パターンの踏襲者だったと言えよう。
アンリ・コルピっていうか、イキリ・コルピですよ。だから。
◆この映画がカンヌ審査員の心を動かした理由◆
さて、物語は至極単純。
カフェを営む女店主が記憶喪失の浮浪者を見て「私の夫だ!」と確信、カフェに招いてディナーを振舞い「本当に何も思い出せないの…?」と訊ねるが、「マジわからん。むり」と言い続けた浮浪者、食うだけ食って店を出て行った。
おわり。
おわってしまった…。
実際マジでそれだけの映画なのだが、パルム・ドール受賞。
個人的に最もレベルが高いと思っている某レビューサイトの猛者たちでさえも「なんというつまらなさ」、「退屈すぎて何度も居眠りしてしまいました」、「フランス映画はよく理解できない」などと白旗ブン振りで批評を放棄するもの続出状態だが、まぁ「ストーリー」というハリウッド脳でフランス映画を観ると大体こういう反撃に遭うわけです。
本作がカンヌ審査員の心を動かしたのは、ストーリーではなく抒情的な映像詩だろう。
女店主アリダ・ヴァリには、ナチス占領下の16年前にゲシュタポに連行されて行方不明になった夫がいた。そんな女店主が、記憶喪失の浮浪者ジョルジュ・ウィルソンを夫だと確信しながらも、最後には彼の記憶が二度と戻らないことを察して他人のふりをしたまま見送る。なんとも切ない。そして店を出た浮浪者が町の人々から名前を呼ばれ、両手を上げて立ち止まるラストシーン。
彼の挙動はホールドアップを意味する。
ナチスの脳外科手術によって記憶を奪われた浮浪者は、顔なじみの町人から名前を呼ばれたことで、忌わしい記憶が蘇ってホールドアップしてしまったのだ。
「直接的な戦争描写はひとつもないのに戦争の悲劇を痛切に描き上げた」
これこそが審査員の心を動かした最大の理由だ。
だが私の心は動かせないぞ!
メシ食ったあとに踊る夫婦。だが男は記憶喪失…。
町人から声をかけられて「ヒィ!」なんつってホールドアップしてしまうラストシーン。
◆無駄に登場人物が多い映画はダメ映画◆
端的にムカついた。
私はダメな映画を見分ける達人だから開幕5分でげんなりしました。
女主人のカフェに常連客がたむろするファーストシーンで、さまざまな人間が互いの名前を呼び合うのだ。
「やぁ、ファヴィエ」
「どうも、ラングロワさん」
「フェルナン」
「おかえりピエール」
「ありがとう、テレーズ」
「ネンチーニは?」
「ファヴィエ、奥さんがお見えだ」
「ネンチーニは?」
開幕早々に連発される「名前」の多さに、観る者は混乱地獄に叩き落とされるだろう。私はこの時点で「あ、もうむり。覚えきれない。死ねクソゴミが」と言ってすべてがどうでもよくなった。そしてはらわたが煮えくり返った。
ちなみにテレーズというのが女主人の名前で、あとは全員ほぼまったく出てこないエキストラ同然の脇役だ。
だったらわざわざ名前を出すな!
今後二度と出てこない奴の名前なんか出すな!
ていうかそもそもエキストラ同然の脇役にいちいち名前なんかつけるな!
特にネンチーニ。
誰やねん、ネンチーニて。
二回も呼ばれてるのに結局出てこねえぞ。だったら呼ぶ必要ねえだろ!
ダメな映画の条件①
観客が把握できないほど不必要に多くのキャラクターを出し入れする(作り手の勝手な都合)
ダメな映画の条件②
その場にいないキャラクターの名前を連呼する(観客の記憶力に依存した振舞い)
皆さんにおかれましても、映画を観ていて「誰が誰だかわかんねえな」と混乱したり「自分の記憶力が悪いのかな…」とブルーになった経験はおありでしょうが、決してあなたが悪いのではありません。あなたは何も悪くない。きみはバカじゃない!
すべて作り手の責任です。
すぐれた監督は不必要な貌なんて撮らないし、不必要に名前を出さない、つけない、与えない!
最低限のキャラクターが最大限の個性を発揮するように映画を演出します。
たとえばマシュー・ヴォーンの『レイヤー・ケーキ』(04年)は「登場人物が多過ぎて話がわからない」と苦情を浴びるぐらいキャラ情報が錯綜している。
ちなみに私は『レイヤー・ケーキ』を観てブチギレすぎたあまり「よろしい、ならば戦争です」と宣言して、紙とペンを用意してもう一度観返し、頻繁に一時停止しながらキャラクター相関図を描きあげた結果、なんとこの映画には総勢28人ものキャラクターがいた。
「28人分の顔と名前と役割」を把握しないと物語理解も満足にできない映画なんざクソ喰らえだ。
しかもキャラの半数以上は別にいなくても差し支えないし。
なめとんか!
マシュー・ヴォーンの『レイヤー・ケーキ』は『スナッチ』(00年)で知られるガイ・リッチーの真似をしているが、そのガイ・リッチーはタランティーノの真似をしている。私に言わせればマシュー・ヴォーンもガイ・リッチーもさもしい亜流。闇に消えろ!
ここからは少し愚痴になるけど、だいたい登場人物の多い映画って嫌いなんですよ。下品でしょう?
無駄なキャラクターをそこかしこに配置して画面を賑わす…というのは映画監督の慢心でしかないし、そんな作り手の都合に振り回されていると思うときわめて業腹だ。
たかだか2時間前後の付き合いなのに顔と名前を覚えるほど観客は寛容ではないし全能でもない。
だいたい一流監督は、仮にすべての役名を「名無し」で通しても物語理解は成立する。余計なキャラクターを登場させないし、無駄に名前を呼ばせたりもしないからだ(フォード、ホークス、ワイルダー、ヒッチコックなど)。
何度でも言うが、顔と名前を覚えないと物語すらまともに理解できない映画なんて作り手の思い上がりであり、そんな映画はクソ、もしくはゴミ、またはクソゴミである。
冷えピタで頭冷やして校庭10周してこい。
というわけで、本作のファーストシーンには口から血ィ出るぐらいイライラしました。
何が「やぁ、ファヴィエ」、「どうも、ラングロワさん」、「おかえりピエール」、「ネンチーニは?」じゃ。
全員、つららが頭に刺さって悲しい思いをしろ!
特にネンチーニ!
◆あと腹立ったこと◆
抒情的な映像詩それ自体は申し分ないのだけど、そこに凭れ掛かってるというか、フランス映画である事をいいことに「説話技法(ストーリーテリング)は放棄します」という態度はいかがなものだろう。少なくとも私はそういう風に感じた。
たとえば、フォードのように脳裏に焼きつくほど強烈なショットや、ホークスのように夢にまで出そうな鮮烈なモンタージュが撮れていれば何の文句もないが、そうした映像技法もきわめて中途半端で。
にも関わらず「説話技法は放棄します。これは映像詩だから(キリッ)」とか言われてしまうと、こちらとしてはイラッとするほかない。
映像詩一本でいくならタルコフスキー並みのショットぐらい撮らんかい、と。
とかく、こういう「おフランス症候群」のマガイモノ監督に多いのはワンシーンが異常に長いこと。本作にしても、浮浪者が送る一日のルーティンをバカみたいに延々見守り続ける女主人や、ジュークボックスでオペラをかけながらバカみたいに延々二人でダンス…など、2分でいいところを5分以上見せ続ける。
私の言葉でいうなら「死に時間」である。
唯一の救いは、女主人を演じたアリダ・ヴァリ。
キャロル・リードの『第三の男』(49年)、ルキノ・ヴィスコンティの『夏の嵐』(54年)、ベルナルド・ベルトルッチ『暗殺のオペラ』(70年)など、錚々たる大巨匠の映画に起用されたわりには意外と映画通の間でもあまり知られていないことでお馴染みの女優なのだが、決してメロドラマには堕さない謙虚な芝居が胸を打つ。
「ショートバージョンでお送りする」などと嘯いたわりには、結局ロングバージョンになって候。陳謝して候。