シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

大砂塵

男と女が逆転した異色西部劇。そしてジョニーはギターを弾く。

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1954年。ニコラス・レイ監督。ジョーン・クロフォード、スターリング・ヘイドン、マーセデス・マッケンブリッジ。

 

1890年代の西部。流浪のギター弾きジョニーがアリゾナの山奥にある賭博場へやって来た。気丈な女主人ヴィエンナはかつての恋人だったが、白昼起きた駅馬車襲撃事件の容疑者キッドを匿っているとして犠牲者の妹エマと保安官たちに嫌がらせを受け、24時間以内の退去を命じられる。疑いをかけられたキッド一味は翌日、銀行を急襲。その場に居合わせたヴィエンナも共犯と見られ、遂に自警団はヴィエンナの店を襲い火をつけた…。(Yahoo!映画より)

 

おはようございます。

一生懸命書いた『サンダーボルト』評が高く評価されました。嬉しいです。

なぜそう判断したのかというと、ハペちゃんが「うひょー」とか「おほー」といった意味不明な感嘆詞を発して騒いでいるとき、あるいは緑色のスターを投げて頂いたときに「あ、評価されたんだな」ということが分かるのであります。緑スターって有限なんでしょう? よくそんな貴重なものをぽいぽい投げますよね。 感謝しています。

また、通常の黄色スターでも記事の質によって投げる数を変えてらっしゃる方もおられる。まずまずの記事には3つ、おもしろかった記事には5つとか。それによってこちらも一喜一憂しているわけです。「今回はひとつも貰えなかった」とか。

そんなわけで発掘シリーズ第四弾、本日取り上げるのは『大砂塵』

経験上わかります。こういう古臭い映画の記事はスターがもらえない。

ていうかそもそも読んでもらえない。

かなしみー。せつなみー。

耳をすませると「興味ナイヨー」という民の声が聞こえてきますね。うんうん、わかるよ。僕も興味ないから。ていうか誰が興味あるんだよ、こんな映画。

この映画は1年半ぐらい前にTSUTAYA発掘良品でリリースされたんだけど「観なきゃなー。でも興味ねえなー」と後回しにしているうちに令和んなっちゃって。でも結局観たボクえらい。

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◆人工的に名作となった映画◆

ニコラス・レイをもうひとつ好きになれないのはカラー映画がやたらに多いからである。

ひとまず巨匠とされているこの男の経歴を振り返るたびに、いつも私は『理由なき反抗』(55年)『暗黒街の女』(58年)がモノクロだったなら…ともどかしさを感じてぐるんぐるんに身悶えるのである。

この『大砂塵』もまた、しっかり、がっつり、ぺっとり色がついている。それゆえに画面が汚かったりセット撮影がまる分かりになってしまっており、極めつけは50歳を迎えたジョーン・クロフォードの老いた顔を克明に記録してしまうというカラーならではの罪科まで重ねているのだ。許せない。


さて、『大砂塵』は映画そのものよりもペギー・リーが歌う主題歌「ジャニー・ギター」の方が有名で、今となっては「曲は知ってるけど映画は観てない」などとのたまう人民がほとんどである。

実際、サイレントからトーキーにかけての大女優だったジョーン・クロフォードは当時すでに人気がずるずるに落ちていて、8年後にようやく勢いを盛り返した『何がジェーンに起ったか?』(62年)を除けば特にこれといったヒット作に恵まれることなく、1970年を迎えると同時に銀幕から去ってその7年後に死去している。

そして現在、『大砂塵』は“過去の映画”として完璧な風化を遂げ、2017年にTSUTAYA発掘良品でリリースされて初めてこの映画を観た人民も「面白いのかつまらないのかよく分からない」と言って麻痺症状を訴えた。たぶん彼らはあまり楽しめなかったのだろう。

面白いのかつまらないのかよく分からない、と感じた映画は大体つまらないもんだ。


にも関わらず、世界中ではこの映画を「名作」とする向きがある。なぜか?

カイエ・デュ・シネマの連中が褒め倒したからである。

説明しよう。『カイエ・デュ・シネマ』というのはフランスの権威ある映画批評誌。そこに批評を寄せてのちに監督デビューした若者たちがヌーヴェルヴァーグ(仏映画運動)を起こしたわけだ。『カイエ・デュ・シネマ』は世界的な影響力を持つ映画雑誌ゆえに、そこでジャン=リュック・ゴダール、エリック・ロメール、フランソワ・トリュフォーなどがこの映画を絶賛したことで『大砂塵』=名作という空気が人工的に作られたのである。

ちなみに本作に対する私の評価は…そんなでもない。

たしかにすぐれた作品ではあるが、この映画の虜になったゴダールやトリュフォーが幾度となく言及したり自作のなかでシーンを引用するほど大袈裟なものだろうかと考えると…そんなでもない。

そもそも奴らは本作に限らずニコラス・レイはだいたい絶賛している。もはや趣味の範疇。低俗な娯楽映画の量産者としてしか認識されていなかったホークスやヒッチコックを正当に評価したことがカイエ・デュ・シネマ最大の功績だが、ニコラス・レイの絶賛ぶりに関してはいささか疑問が残る。

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20~50年代にかけて大大大スターだったジョーン・クロフォード。

かの名画『グランド・ホテル』(32年)では出演者のグレタ・ガルボと牽制し合うあまりワンシーンたりとも共演することなく、『何がジェーンに起ったか?』では共演者のベティ・デイヴィスと毎日喧嘩、ベティのアカデミー主演女優賞ノミネートに対して反対活動を行うほどプライドの高い女優として知られている。


◆女同士が決闘する異色西部劇◆

鉄道工事で山が爆破されるファーストシーン。所変わって砂嵐が吹きすさぶ一軒家の酒場。そこを切り盛りする女主人ヴィエンナ(ジョーン・クロフォード)のまえに流しの男ジョニー・ギターが現れる。

ジョニー・ギター。

名前が恐ろしくダサい。空前絶後のダサさである。

きっと本名はジョニーで、いつもギターを持ち歩いているからジョニー・ギターと呼ばれているのだろうが…、だとしたらあまりに短絡的すぎやしまいか。なまじそれを演じたスターリング・ヘイドンが屈強な強面俳優だけに名前のマヌケさが際立ってしょうがないが…まぁいい。

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ジョニー・ギターさん(恥ずかしくないのだろうか?)。

 

すると間もなくヴィエンナと親交のある無法者一味も店を訪れる。一味を束ねるのは過去にヴィエンナと恋仲だったダンシング・キッドという悪党だ。

ダンシング・キッド。

名前が恐ろしく可愛い。空前絶後の可愛さである。

しかもこいつに関しては本名すらわからん。直訳すると「躍るちびっ子」。だけど躍らない。ダンシングもしなければキッドでもないという裏切り。なまじそれを演じたスコット・ブレイディがかなりの二枚目俳優だけに名前の愛らしさが際立ってしょうがないが…まぁいい。

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ダンシング・キッドさん(恥ずかしくないのだろうか?)。

 

彼らがウォッカを楽しんでいると、そこへ女牧場主のエマが町の地主と保安官を引き連れて荒々しくやって来た。エマは昼間に起きた駅馬車襲撃で兄を失い、その犯人がダンシング・キッドの一味だと決めつけて殴り込みをかけに来たのである。

双方の仲裁に入ったのはジョニー・ギター。得意のギターをぺろんぺろん弾いて場を和ませ、見事に事態を鎮静化した。さすがジョニー・ギター。音楽で場を和ませることにかけては一日の長がある。

すると急にヴィエンナに矛先を向けたエマは立ち退きを要求した。よそ者を嫌う町の住人たちは鉄道開発に猛反発し、駅建設のために土地を売ろうとするヴィエンナを目の敵にしているのだ。あまつさえダンシング・キッドとグルになって駅馬車を襲ったという謂れのない誹りまで受けたヴィエンナは、突如、腰のホルスターから拳銃を抜いて「出て行かないと撃っちゃうよ!」

これに臆したエマは「いつか殺してやる!」と捨て台詞を吐き、地主や保安官ともども蜘蛛の子を散らすように逃げだした。

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「いつでも弾いてやるぞ」という臨戦態勢でダンシング・キッドを睨むジョニー・ギター(右)。


さぁ、ここまでが映画冒頭の15分、いわゆるところのセットアップというやつである。

セットアップという工程では、主人公が誰で、何をする物語で、どのような状況なのか…といった映画の基本情報を10~15分で明示せねばならないわけだが、本作が凄いのはこのわずかな時間のなかにセットアップ以上の情報が詰め込まれている点である。

主人公がジョニー・ギターだと思わせて実はヴィエンナだということを示唆、主要人物が全員出てくる、ダンシング・キッドの一味は悪党だがヴィエンナが戦うべき真の敵はエマ率いる町の自警団であること。

わずか15分のうちにこれだけの情報を提示しただけでも大したものだが、ジョニー・ギターとダンシング・キッドの関係性や、それぞれのエマとの関係性、果てはこの三者とヴィエンナの関係性までもが端的に語られているのだ。そこから読み解ける「セットアップ以上の情報」とは以下の2点。


『大砂塵』は女性同士の決闘を軸とした異色の西部劇である。

 

その中にあって男性キャラクターは無前提的に男性性を剥奪されてしまう。


どういうことか? こういうことだ。

『大砂塵』がヴィエンナとエマの確執を中心化した物語であることは、銃を取り出した唯一の人間がヴィエンナであること、そして「いつか殺してやる!」と殺意を剥き出しにした唯一の人間がエマであることからも明白。

これとは対照的に、本来の西部劇であれば「主人公と敵役」というポジションを陣取って対立構図におさまるはずの男性二人はすっかり去勢されてしまっている。仲裁能力だけが取り柄のジョニー・ギターは銃のかわりにギターを持つような平和主義のマヌケだし、一方のダンシング・キッドも丸腰の女から啖呵を切られてタジタジ。論外である。

どちらも西部劇の男として引くほど情けない。

ヴィエンナとジョニー・ギターが元恋人同士だったことが明かされる映画中盤では、未練タラタラのジョニーが「嘘でもいいから愛してると言ってくれ」といってヴィエンナに追いすがるが、本来これは女性側のセリフ。そして恋の鞘当てを演じるジョニーとキッドの対立はいつの間にやら連帯(奇妙な友情)へとすり替えられてしまう。

事程左様に、『大砂塵』において「ペニスの象徴としての拳銃」の持ち主は斯くも鮮やかに逆転を遂げる。女性でありながら男根を獲得したヴィエンナとエマはラストシーンで派手に撃ち合い、去勢された男二人は女同士の決闘をただ見守るだけの無害な傍観者と化すのだ。

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女性同士が決闘する異色西部劇。

 

◆女ガンマンは階上から見下ろす◆

全編を貫くニコラス・レイの意匠は高所のヴィエンナが低所の人間を見下ろすという構図。

ファーストシーンでは酒場二階の自室から気だるげに現れたヴィエンナが階下のディーラーに「ルーレットを回してちょうだい」と指示し、「でも客はいませんよ?」との反論に「音が聞きたいの」と面倒臭そうに理由を告げる(ベリークール)。ここでは店主と従業員の主従関係が表されている。

そしてエマたちが乗り込んでくる寸前に、それまでカラカラと回っていたルーレットのホイールを止めるよう指示したヴィエンナは、あくまで二階の手すり越しに一同を見下ろし、静かに銃を突きつけて「撃っちゃうよ!」と言う。その身振りの正体が自信にせよ去勢にせよ「見下ろす」という構図が彼女の芯の強さを表しているのだ。

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見下ろす者と見上げる者。

 

あるいは、ヴィエンナが懇意にしている無法者ターキーを酒場に匿うシーンではどうか。

エマ率いる自警団に追われている手負いのターキーをテーブルの下に隠したヴィエンナは、酒場に踏み込んできてターキーの所在を問う自警団に対して涼しげにピアノを弾きながらシラを切る。ピアノはちょっとした板の上に置かれており、ヴィエンナはその段差によって(僅かな角度ではあるが)やはり自警団を見下ろす構図におさまる。

エマと決闘するクライマックスでも「高所のヴィエンナと低所の人々」という構図は変わらない。

強くて気高いヴィエンナは高い場所から愚鈍な連中を見下ろす資格を特権的に有したヒロインなのである。

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ちなみに匿われたターキーは物音を立ててしまったことから囚われの身となり「ダンシング・キッドの隠れ家を言えば命だけは助けてやる」と脅されて口を割ってしまうのだが、このシーンは当時巻き起こっていたマッカーシズムによる赤狩りのメタファーだ。

下院非米活動委員会が共産党員の映画人を炙り出すために疑わしい人物を議会に召喚して共産党シンパと思われる知人の名前を明らかにすることを強要し、尋問を拒否した10人の映画人は「ハリウッド・テン」と呼ばれるブラックリストに載せられ、議会侮辱罪で有罪判決を受けてハリウッドでの仕事を根こそぎ奪われた(『ローマの休日』の脚本家ダルトン・トランボが有名)。

そして本作を手掛けたニコラス・レイも下院非米活動委員会から目をつけられたが、自身が所属するRKOを買収したハワード・ヒューズ*1の口添えによって「ハリウッド・テン」からは免れた。

なお、『波止場』(54年)『エデンの東』(55年)で知られる名匠エリア・カザンは下院非米活動委員会の圧力に屈して仲間を売ったことで密告者のレッテルを貼られたが、誰にカザンを責められよう。そもそも赤狩り自体が思想差別にして人権蹂躙にほからないのだ。

だからターキーが口を割ったのも止む無し。ゆるす!

結局ターキーは絞首刑にされ、ヴィエンナは酒場を焼かれて地下通路を逃げ惑う。高所から見下ろすことを特権としていたヴィエンナが泥だらけで地下を這いずり回るのだ。あくまで一貫する高低差の演出。純白のドレスを身をまとったヴィエンナと黒い喪服に身を包むエマの色彩対比も見逃さずにおきたい。


小憎らしいエマを演じたマーセデス・マッケンブリッジは、デビュー作の『オール・ザ・キングスメン』(49年)でいきなりアカデミー賞とゴールデングローブ賞の助演女優賞を取った名バイプレーヤー。

ちなみに撮影現場では新人のマーセデスが監督やスタッフから芝居を褒めちぎられ、これに嫉妬したジョーン・クロフォードが自身の出番を増やすように脚本を大幅にリライトさせた結果「女同士の対決」という方向に話が転んでいったという逸話がある。まさに大女優ならではのワガママ。しかしそれが功を奏して『大砂塵』は異色の西部劇としてカイエ・デュ・シネマでしこたま絶賛され、今なお私のようなヤングマンにも観られるような「名作」となった。

 

ちなみにジョニー・ギター役のスターリング・ヘイドンは、当ブログでも取り上げた『アスファルト・ジャングル』(50年)の主演。本作に出演したあとはスタンリー・キューブリックの『現金に体を張れ』(55年)『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(63年)に起用され、端役ではあるが『ゴッドファーザー』(72年)にも出演している(ソロッツォと共にレストランでマイケルに射殺される汚職警官役)

ダンシング・キッドの舎弟の一人にアーネスト・ボーグナインがいるあたりにも注目(やっぱりクズ野郎でした)。

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ジョニー・ギターはクールに去るぜ。

 

*1:ハワード・ヒューズ…世界一リッチな映画プロデューサーであり、政界とも太いパイプを持つ20世紀最大の億万長者。マーティン・スコセッシがレオナルド・ディカプリオ主演でヒューズの半生を映画化したものが『アビエイター』(04年)という駄作。