映画史上、最もカッコ悪くてグッダグダな銃撃戦。
2016年。ベン・ウィートリー監督。ブリー・ラーソン、アーミー・ハマー、キリアン・マーフィ、シャールト・コプリー。
1970年代、ボストン。銃の取引のため、寂れた倉庫に2組のギャングがやって来る。しかし交渉はこじれ、口論の末に壮絶な銃撃戦が幕を開ける。曲者ぞろいの悪党たちが罵声を放ちながら銃を撃ちまくる姿を90分間ワンシチュエーションでハイテンションに描く。(映画.com より)
まぁ、『レザボア・ドッグス』である。
仲間同士で疑心暗鬼に陥って、その中に裏切者がいて、大勢いたキャラクターが景気よく死んでいき、その死さえもギャグになっていて、時おり渋カッコイイ音楽が流れる…という。
典型的なタランティーノ・シンドロームだ。
2組のギャングが身に纏う紺や紫のスーツといったレトロファッションは、『レザボア・ドッグス』で強盗6人が互いを呼び合う色名をそのまま可視化しているようだし、タランティーノ映画お決まりの与太話もほぼ全編を貫く(役者が発する台詞のほとんどは与太話か呻き声。建設的な会話は一切ない)。
峻烈な処女作『レザボア・ドッグス』と、次作『パルプ・フィクション』で世界のポップ・カルチャーの記号になったタランティーノには、うんざりするほどフォロワーが多い。
『スナッチ』、『スモーキン・エース/暗殺者がいっぱい』、『アイアン・フィスト』、日本映画なら『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』や『渇き。』など、雨後の筍のように救いようのない亜流作品が作られているが、そんな中でも本作はけっこう楽しめる方だと思う。まさに亜流代表。
本作の時代設定は70年代だが、その理由は、倉庫で撃ち合って仲間の救援を必要とする2組のギャングに携帯電話を使わせないため。
実際、携帯電話がない時代だからこそ、彼らが奪い合う倉庫二階の固定電話がマクガフィンとして機能するわけだが、わざわざ本作が時代設定を70年代にした理由はどうもそれだけではない気がする。
やはりそこには、タランティーノ的な20世紀の泥臭さを志向するアルカイスム(疑古典主義)が、本作を70年代へと逆行させているのだろう。
シャールト・コプリーのモミアゲ感とか、バボー・シーセイの黒人感とか。
あと男性キャラクター全員に共通する口ヒゲ感とか。
まるで70年代ファンク・ミュージックのごとき泥臭さ!
また、物理的に泥臭いのも本作の魅力だ。
倉庫で交渉決裂した2組のギャングが派手に撃ち合い、全員が死なない程度に負傷する(何度撃たれても手とか肩とか足の裏とかどうでもいい箇所ばかり被弾するのでなかなか死なない)。
倉庫には低い遮蔽物が沢山あり、地面に突っ伏したギャングたちは匍匐前進でチョロチョロと移動しながら、罵り合い、撃ち合う。これがまるまる90分続く。
そんな映画。まあ、最高に決まってるよね。
何発撃たれてもなかなか死なないという天丼がシリアスな笑いになっていて、この独特の面白味こそが凡百のタランティーノ・フォロワーとの決定的な差である。
タランティーノ映画の暴力性といえばノーモーションでいきなり人が死ぬというものだが(あと北野武の映画も)、それに対してなかなか死なないというアンチテーゼをギャグとして組み込んだ本作は、単にタランティーノを模倣するだけでなく、むしろ本家を逆行することでオリジナリティを獲得なさっている。おめでとうございます。
この勢いのまま絶賛したいが、残念ながら瑕疵もまた多く。
エスタブリッシング・ショットなさすぎ&イマジナリーライン無視しすぎで誰がどこにいて誰と喋ってるのかがまったく分からず、人物の位置関係が把握できない。
いわゆるマイケル・ベイ現象*1が巻き起こっている。ましてやワンシチュエーションものなら、空間造形の欠如ぶりは致命的。
また、曲がりなりにも密室劇なのだから、周囲を出し抜くために人間関係が変化していくような心理戦の面白さもあっていいはずだが、そんなものはお構いなしで下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるとばかりに無考えでダラッと間延びした銃撃戦と、直情的すぎるキャラクターのテンションだけで押し切ろうとしている。
『ショート・ターム』と『ルーム』で天才の出現を確信させたブリー・ラーソンが一応のところ主演だが、そもそも芝居が求められるような作品ではないからブリー・ラーソンの無駄遣いっぷりがすさまじい(『キングコング 髑髏島の巨神』も然り)。
まぁ、状況設定そのものを楽しむ映画なのでしょう。
映画史上、最もカッコ悪くてグッダグダな銃撃戦。聞こえる音は銃声と無駄口と呻き声だけ。
タラちゃんマニアは、画面の端々にタランティーノっぽさを見つけて「あ、ぽいぽいぽいぽい!」などと大騒ぎすべし。