『レザボア・ドッグス』のかっこ悪い版。
2018年。バート・レイトン監督。エヴァン・ピーターズ、バリー・コーガン、ブレイク・ジェンナー、ジャレッド・アブラハムソン。
ケンタッキー州で退屈な大学生活を送るウォーレンとスペンサーは、くだらない日常に風穴を開け、特別な人間になりたいと焦がれていた。ある日、2人は大学図書館に保管されている時価1200万ドルを超える画集を盗み出す計画を思いつく。2人の友人でFBIを目指す秀才エリック、すでに実業家として成功を収めていたチャズに声をかけ、4人は『レザボア・ドッグス』などの犯罪映画を参考に作戦を練る。作戦決行日、特殊メイクで老人の姿に変装した4人は図書館へと足を踏み入れ…。(映画.comより)
おはよう、日々意欲的に生活しているみんな。
寸劇が入るミュージックビデオが嫌いだ。
曲が始まるまで1分ぐらい掛かったり、途中で音楽が鳴りやんで安いドラマが始まったり。MVをドラマ仕立てにしているつもりなのだろうが、余計なお世話だよ! 音楽なんて聴いた人それぞれが心のなかで情景を浮かべてドラマを紡いでいくものでしょうが、って。
最近では違法ダウンロード対策として寸劇を入れたりオリジナル音源を加工したMVが多いけれど、それに関しては理解できる。私が嫌いなのは演出として寸劇が入るMV、その作品性に他ならないのであるっ。
あとロックコンサートで曲の2番のあとに一度演奏を止めて客に延々合唱させる謎のパフォーマンスな。あれマジでやめろ!
まぁ、バンド側の言い分としては「会場の一体感を生むため」なのだろうけど、あんたらが素晴らしい演奏さえしてくれたら一体感なんて自ずと生まれるよ! 多くのファンは歌う為じゃなくて聴く為にチケット払ってる来てるんだから歌わすなっ。それに声を揃えて連帯を築くって…やってること軍隊じゃねえかよ!
そんなわけで本日は『アメリカン・アニマルズ』じゃあ。評の中でもけっこう怒ってるぞ。なぜオレは何かしらの事でいつも怒ってるんだ! わからない、ムカツク!
◆登坂久留夫 案件◆
2004年にケンタッキー州レキシントンのトランシルヴァニア大学に通う学生4人が図書館から時価1200万ドルのヴィンテージ本を盗んだ事件の映画化である。
劇中には実際の強盗犯が出演しており、インタビュー形式を採りながら事件当時の様子をフラッシュバックで再現する構成となっている。
こいつらが目をつけていたのはダーウィンの『種の起源』やオーデュボンの図鑑『アメリカの鳥類』で、こうした動物関連のワードから『アメリカン・アニマルズ』という題が付けられている。事件当時の犯人たちは分別知り初むるアホな大学生だったのでザルみたいな強盗計画で即行逮捕、7年の刑に服し将来を棒に振った(だがこの映画に出演してビッグマネィを手にした)。
映画はケイパーモノの体裁を取りながらも青春映画の色味が強く、インタビューシーンで語られた犯人たちの自我、将来、世界への不安や苛立ちを尊重して丁寧になぞっていく。
最初に断っておくが、私は本作のような犯人尊重型の犯罪映画があまり好きではない。甘えているからだ。
たとえば本作でも「退屈な人生に意味を見出せない」とか「何かデカいことがしたい」だとか「自分を変えたい」といった若者特有の青臭い動機が彼らを強盗事件へと突き動かし、それをクソ迷惑な愚行ではなく若気の至りみたいな描き方をしているのである。もう少し格好よく言うなら青春の蹉跌だな。
これだけでも「はあ?」という感じで、今わたしは相当トサカに来ているわけだが、さらぬだに本作には私の怒りに火を注ぐ要素がまだ幾つかある。
ひとつは、主人公の男が画家志望にも関わらず画集や科学書のような「創作物」を奪って金に換えようとしたことだ。もしこの事件が銀行強盗とか詐欺の類なら別に何とも思わないが、表現の側にいるはずの画家志望が金銭目的に本を奪うとは…
登坂久留夫!
私に言わせれば1200万ドル相当の本を盗むぐらいならフツーに銀行襲って1200万ドル盗んだ方が遥かにマシだ。
説明しよう。登坂久留夫(とさか くるお)とは私が激昂したときに現れる別人格である。当ブログではあまり怒らないようにしていたが、ついに登坂久留夫が解き放たれてしまいました。
ふたつ目のトサカポイントは図書館でヴィンテージ本を管理している司書のババアを傷つけたことだ。「無関係な人間を傷つけない」というのがケイパーものの暗黙のルールだが、こいつらはガッツリ暴力を行使している。この時点で主人公目線から本作を楽しむことは不可能、ノン、ノンだなぁ。
なお、実際に被害を受けた司書ベティ・ジーン・グーチ(通称BJ)本人もインタビューに応じております。
BJ「自分たちの欲望のために人を傷つけるなんて。今でも彼らのことが理解できないわ…」
理解しなくていいんだぜ、BJ!
理解できないからこそキミはステキなんだぜ、BJ。
老人に扮した4人の学生たち。
また、この4人は強盗計画を立てる際に(素人なので盗みのノウハウが分からず)犯罪映画を観て予習していた。
劇中では『現金に体を張れ』(56年)がテレビに映し出されている。スタンリー・キューブリックのアメリカ進出第1作目だ。その他、山のように積み上げられたビデオの中には『レザボア・ドッグス』(92年)、『スナッチ』(00年)、『オーシャンズ11』(01年)の名前が。ここでの犯人たちの会話にもイライラしてしまいました。
犯人A「こんなので予習しても意味ないよ。現実は映画のようにはいかない」
犯人B「何言ってんだ、映画には人生のヒントが隠されているんだ!」
犯人A「確かにそうだね!」
だったらもっとマシな映画観ろコノヤロ!
犯人C「『レザボア・ドッグス』はタランティーノで一番嫌いだ」
これがダメなら全部ダメじゃねえかコノヤロー!
その後、彼らは『レザボア・ドッグス』に倣って強盗計画を立て、互いの名前を色で呼び合うことにした。
犯人B「俺はミスター・イエローな。 お前はピンクだ!」
犯人C「えー、ピンクは嫌だよ!」
楽しそうじゃねえか、オレも混ぜろコノヤロー!
犯人A「でも『レザボア・ドッグス』って最後に全員死ぬんだよな」
脳内で「Little Green Bag」が流れたあなたは重症。
◆鈍臭い連中を格好よく撮ったとて◆
強盗集団に扮するのは今をときめく若手勢である。
主犯役にはエヴァン・ピーターズ。『キック・アス』(10年)で主人公の友人を演じ、その後『X-MEN: フューチャー&パスト』(14年)のクイックシルバー役でブレイク。
そんなエヴァンにヴィンテージ本の存在を教えた親友役をバリー・コーガン、通称バリ子が務める。『ダンケルク』(17年)で発掘されて『聖なる鹿殺し』(17年)で注目された絶妙ブサ男子の急先鋒といえる。
エヴァン(左)、バリ子(右)。
この2人に勧誘された仲間2人が、リチャード・リンクレイターの『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』(16年)や青春映画の隠れた佳作『スウィート17モンスター』(16年)で頭角を現し始めた若手ブレイク・ジェンナー&とにかく無名で有名なジャレッド・アブラハムソン。
このように若手俳優がメインキャストを務める作品だが、ワンシーンだけウド・キア御大が出演していることを見逃してはなりません。ポップアートの巨匠アンディ・ウォーホールの映画でデビューを飾り、フランケンシュタイン、ドラキュラ、切り裂きジャック、ジキル博士といった物騒なキャラクターを多数演じたドイツ出身の奇面俳優だ。
ウド・キアの親分。
映画が始まると、黒味に映し出された「これは真実を基にした物語である」という一文から「基にした」が抜かれて「これは真実の物語である」という文に書き換えられる。
ファーストシーンでは老人に変装した4人が図書館に向かう決行当日の様子が映し出され、そのあと物語は半年前に遡ってエヴァンとバリ子の出会いから順に語られていく。その合間には実際の犯人たちやその両親のインタビュー映像が挿入され、その時々の心境をべちゃくちゃと喋る。
映像面はなかなか凝った作りになっていて、強奪計画を脳内シミュレーションしたものがそのまま視覚化されたり、一連の立ち回りが長回しで撮られていたり、インタビューを受ける犯人が記憶を確かめる場面ではフィルムが逆再生されるなど数寄を凝らした映像表現の乱打。タランティーノやガイ・リッチーよりも、どことなくキューブリックの『時計じかけのオレンジ』(71年)を思わせるような映像感覚だ。
だがこれをスタイリッシュと呼ぶにはいささか鮮烈さを欠いている。どこかで観た演出とかあの作家が得意な演出のごく控えめな模倣を繰り返しているだけで、本作ならではの映像言語が見当たらないのだ。
第一、強奪計画は終始グダグダで統制もまったく取れていない素人4人がレザボアごっこに戯れるという内容なので「スタイリッシュな映像表現」との食い合わせは最悪。鈍臭い連中を格好よく撮ったところで余計に鈍臭く見えるだけである。
唯一ハッとしたのは、決行当日に車中のバリーが路上に佇む青年と目が合うショットだ。のちにバリ子たちの容疑を決定づける目撃者なのだろうかと思いきや、実はその青年はバリ子のモデルになった実際の犯人スペンサー・ラインハード自身だったのである。
ラストシーンでは、インタビューを終えたスペンサーが自宅を出たところを一台の車とすれ違い、助手席の若者と視線を結ぶ逆打ちショットが挿入される。
つまり現在のスペンサーが今まさに大きな過ちを犯しに行こうとする昔の自分(演バリ子)を複雑な表情で見送るというビターな終幕を視点&時系列を入れ替えて演出しているわけだな。フゥ!
なお、前章で登坂久留夫を召喚せしめた画家志望とはスペンサーのことである。出所した現在、スペンサーは自宅のアトリエで鳥の絵を描き続けている。彼が盗もうとした『アメリカの鳥類』に感銘を受けて。
実際の犯人ラインハード・スペンサー(右)とそれを演じたバリ子。
◆傍迷惑な青春の終わり◆
映画冒頭で「これは真実の物語である」と宣言した本作だが、犯人たちの証言を基に製作されている以上4人の話には大なり小なり齟齬が生じる。
たとえばウド・キア扮するマフィア同然のバイヤーに会うために単身アムステルダムに赴いたエヴァンだが、後のインタビューでは他の3人が「あのエピソードはウソだと思う」と一斉告発。エヴァンのモデルであるウォーレン・リプカは「でも信じるしかないだろ?」と言って不敵な笑みをカメラに向けた。
この映画が興味深いのは、証言の齟齬にあえて整合性を持たせず齟齬を齟齬としてそのまま脚本にしてのけたことだ。辻と褄は駅でバイバイしたっきり二度と出会わない。そんな虚実入り混じる作劇が見所となっております。
つまるところ真実は当人にしか分からない(当人にすら分からないかもしれない)ので、ならばと監督は「映画が面白くなるならウソでもいい」とばかりに胡散臭いエピソードをガシガシ詰め込んでいく。だからこそ「これは真実の物語である」という宣言が詭弁めいた魅力を放つのだ。つまり厳密には「真実を描いた物語」ではなく「彼らにとっての真実を描いた物語」に過ぎないわけだな。
エヴァンは先の見えきった平凡な人生に中指を立て、バリ子は自らを規定しうる何かを探し求めていた。
バカすぎる主犯格エヴァンとあまり計画に乗り気じゃないバリ子がそれぞれに抱えたルサンチマンを共振させたとき、彼らの芝居はどこまでも高まっていく。エヴァン・ピーターズの偉そうな面構えとバリー・コーガンの所在なさげな佇まいは既に強奪計画の失敗を予期していたかのようだ。実際、逃走後に致命的なミスを犯してしまった彼らは「大丈夫だ。捕まりっこないさ」と互いを励まし合いながらも毎晩なにかを諦めたような面持ちで床に就く。
そのあと真夜中に警察隊が突入してくるスローモーションがいいですね。エヴァンは「はいはい」とばかりにホールドアップ、バリーの方も一切抵抗せず「こうなる思たわ」と諦念顔。
斯くしてレザボア・ドッグスたちは呆気なくお縄についた。ジョン・デリンジャーにもクライド・バロウにもルパン三世にもなれなかったバカ4人の傍迷惑な青春は終わりを告げたのだ。
BJ「ざまぁカン!」
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