シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ガラスの城の約束

すべてを圧殺するウディ・ハレルソンの晴れ晴れとしたルソン!

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2017年。デスティン・ダニエル・クレットン監督。ブリー・ラーソン、ウディ・ハレルソン、ナオミ・ワッツ。

 

人気コラムニストのジャネットは、恋人との婚約も決まり、順風満帆な日々を送っていたが、ある日、ホームレスになっていた父親のレックスと再会する。かつて家族のために「ガラスの城」を建てるという夢をもっていた父レックスは、仕事がうまくいかなくなり、次第に酒の量が増え、家で暴れるようになっていった…。(Yahoo!映画より)

 

おいおいーす、おはよう諸君。今朝の私にいえるのは一言だけです。

コーヒーやカフェオレを飲むとお腹が空くんだけど、このシステム頼むからどうにかなれ。

そんなわけで本日は『ガラスの城の約束』です。

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◆「ハレルソン×ワッツ共演作」というパワーイメージ

レックス・ウォールズは世の中の在り方が気に喰わなかったし、なんとなく定職に就いて単調な日々を繰り返すことが我慢ならなかった。だからどこにも定住することなく、家族をつれて車一台で各地を転々とした。彼が行き着いた先が彼の家になったのだ。今にも全壊しそうな廃家、誰かのトラックの荷台、砂漠の真ん中。

多くの場合、故郷や職業がその人間の住む土地を決定する。ゆえに「〇〇に住んでいる」という表現は誤りで、本来は「〇〇に住まわされている」と言うべきなのであって、つまり「血と制度」によって頭の天辺から足の爪先まで社会化されてしまったわれわれに土地を選ぶことなどほとんど不可能なのである。

だがレックス・ウォールズは土地を選んだ。彼には安らぎを約束してくれる故郷もなければ毎朝通わねばならない会社もないし、金もほとんど必要なかった。腹が空けば食べられそうなものを拾ったり漁ったり仕留めたりして随意に腹を満たしたし、天文学や気象学の知恵もあったので災害・遭難の類で死にそうにもなかった。これが生活力である。なんたることだ。

四六時中メディアと結び付き、テレビやパソコンやスマートフォンのような玩具と戯れて「イッツマイライフ」などとしたり顔で呟いてみせる脆弱な現代人とは比ぶべくもない生命力!

 

さて。ファーストシーンでは母のナオミ・ワッツから朝食を作らされた8歳の次女がウインナーを焼いていたときにコンロの火が服に燃え移って火だるまになる。それに気づいたワッツは「What's!?」と叫ぶこともせず、瞬時に拾い上げたキッチンマットで次女をぶっ叩いてこれを鎮火。大火傷した次女はすぐさま病院に担ぎ込まれて手術を受けた。

数日後、家族が車で病院を訪れたが、なぜか車から降りたのは父のウディ・ハレルソンと末っ子だけだった。

「救出してくる」

救出してくる?

病院に乗り込んだハレルソンは「まだしばらく入院が必要ですよ」と言う医者に「貧乏人から搾取するのがお前たちの趣味か!」と突っかかり、末っ子に「痛いよう。苦しいよう」と一芝居を打たせて看護士たちの注意を逸らした隙に次女を抱きかかえ病院から逃亡、ワッツがエンジンをかけて待機させていた車に飛び乗り「医療費払いなさいよーう!」と言って追いかけてきたデブでよろよろのナースを「ビタ一文払ってやんねー!!」とでも言うかのように一笑に付し、次なる土地に向かうのでした。

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ワッツ!

 

レックス・ウォールズと過ごした珍奇な歳月を次女ジャネット・ウォールズが綴ったベストセラー『ガラスの城の約束』を新進気鋭のデスティン・ダニエル・クレットンが映画化した本作。

この原作本は、幼い4人姉弟が各地を転々とするホームレスの両親に育てられたという衝撃の回顧録で、映画ではブリー・ラーソンが語り部となるジャネット役、そして定職に就かず理想を追い求めるさすらいの両親をウディ・ハレルソンとナオミ・ワッツが演じている。

物語は、ニューヨークで成功したコラムニストの次女ブリー・ラーソンが婚約者との将来に悩む1989年の現代パートと両親に振り回された幼少期の回想パートを行ったり来たりしながら進行する。

何はさておき、デスティン・ダニエル・クレットン×ブリー・ラーソンのコンビ再びにイェイである。

はじめて『ショート・ターム』(13年)を観たとき、この日系アメリカ人の新人監督とヤケに顔の丸い新人女優は映画の神に庇護されとる、と感じた。個人の技量や世間の評価に関わらず「映画に愛された人間」というのが一定数いるのだ。たまたま備わっていた作風や、たまたま持って生まれた容姿がぴたりとスクリーンにはまる。そんな先天的な映画人が。

クレットンは次作『黒い司法 0%からの奇跡』(19年)でもラーソンと三度目のタッグを組んでいるので、もはや二人は運命共同体といえる。奇しくも彼がMCU初のアジア系ヒーロー映画『シャン・チー』(21年)の監督に抜擢され、ラーソンは『ルーム』(15年)で早くもオスカーを手にしたあと『キャプテン・マーベル』(19年)の主演に抜擢されたように。

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ブリー・ラーソン。

 

だが、一部の映画ファンを小躍りさせた「クレットン×ラーソンのコンビ作」という魅力的なイメージは「ウディ・ハレルソン×ナオミ・ワッツの共演作」というパワーイメージに凌駕されてしまう。

『現代女優十選』で栄えある1位に選ばれたワッツもすばらしいが、本作のハレルソンはパワーに満ち満ちていた。あのくだらない『ハンガー・ゲーム』シリーズで見せたような曇ルソンではなく正真正銘の晴レルソンなのだ。

よもやウディ・晴レルソンを知らぬ者は自然淘汰の対象なのでこの地球上に存在しないとは思うが一応説明しておこう。今でこそ善人役もこなす晴レルソンだが、このピラニアによく似た俳優は真顔でも怖いし笑顔でも怖いという顔面凶器オブ最終兵器。

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よって映画では「人殺しの役」や「人を殺しかける役」を演じることが多い。代表作は殺戮ロードムービー『ナチュラル・ボーン・キラーズ』(94年)

近年ではそんなに殺すのが得意ならゾンビを殺させたらいいんじゃないかということで『ゾンビランド』(09年)のメインキャストに抜擢されたり、猿を殺させてはどうだろうということで『猿の惑星: 聖戦記』(17年)にも起用された(ちなみに彼の父親はマフィアの下で働いていた本物の殺し屋)。

私は晴レルソンのウィキペディアに書かれた略歴をとても気に入ってるし、何か悲しいことがあったときは何度も読み返している。

 

演技の実力はあるものの、数々の問題行動を起こすことでも有名。1983年、道路で踊り狂い交通渋滞を引き起こした上に警官を殴って逮捕されたのを皮切りに、1996年にマリファナを栽培して逮捕、同じ年には環境保護を訴えてゴールデンゲートブリッジに登り逮捕、2002年にはロンドンでタクシーの後部座席を破壊して逮捕されている。2009年には空港でパパラッチを殴るという事件を起こしたが『パパラッチがゾンビに見えた』と釈明した」Wikipediaより

 

パパラッチがゾンビに見えた男。

そんな晴レルソンが愛する子供たちに生きる術を授けながらもアルコールに溺れて暴力的になっていくパパンを演じた本作。基本的にはハートフル・ホームドラマなのだが、惜しむらくは晴レルソンの眼光が怖い(背筋が凍る)。

映画前半では優しいパパンだった晴レルソンも、後半では酒を飲むなり荒レルソン。人を殺しかねない眼光でハートフル・ホームドラマを台無しにしてゆきます。

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基本的には家族愛についての映画なのよ。

 

事実上の脱獄映画

ブリー・ラーソンとナオミ・ワッツに比べればウディ・晴レルソンなど大根同然のはずなのに、人がこの映画を思い出そうとしたときに浮かび上がる心象は晴レルソンの晴れ晴れとしたルソン(表情)なのである。

表情の幅でいえばパパンに対して愛憎相半ばする次女役の3人(その内の一人がラーソン)の方が遥かに情緒豊かなキャラクターだが、彼女たちによって湿らされた画面を硬骨漢ならではの固い表情で晴らし上げ、たとえそれが娘役であったとしてもメロドラマに加担しようとした者をことごとく圧殺していく晴レルソンは、たとえば類似作の『はじまりへの旅』(16年)におけるヴィゴ・モーテンセンとは真逆のアプローチから物語をキックします。

実際、両作における晴レルソンとモーテンセンのキャラクターには共通点が多い。ともに非文明/反体制を掲げ、大自然の中に家庭を築こうとする家長で、学校教育を拒否して、より実地的な生き方をキッズに学ばせようと自ら人生哲学の教鞭を執る。また、キッズが大怪我を負うことに対してやたら寛容というか、むしろ推奨している。モーテンセンは幼い子供たちに無茶な山登りをさせるし、晴レルソンは子供たちが血まみれになっても全く意に介さず「唾つけときゃ治る」とばかりにいかがわしい民間療法を実践するのだ。

だが、より破天荒なのは晴レルソンの方で、些細な夫婦喧嘩でワッツを殺しかけた直後にベッドになだれ込みメイクラブ(ワッツもワッツで頭がWhat's!?だったのだ)。腹を空かせた家族のために「食糧を取ってくる」と言い残して山に消えたかと思えば、数日後に全身血まみれで帰ってきて「父さんは山に負けた」と言ってのけるワケのわからなさ(しかも手ぶら)。

そんな晴レルソンは「いつかガラスの城を作る」と豪語して毎晩設計図も書いていたが、一向に実現する気配はなく、口先だけの男であることがバレルソンになってしまう。

 

そんなわけで、姉弟たちが大きくなるにつれてパパンへの不信感は募り、長女から順に家を抜け出して都会(文明)に逃げてしまった。こんなホームドラマは初めてだ。子供たちが一人また一人と親元から逃げていくのだから。したがって本作は事実上の脱獄映画である。

現代パートではNYでコラムニストとして成功した次女ラーソンが婚約者とともに上流階級の暮らしを送っており、結婚報告をするべく数年ぶりに両親の家を訪ねるが、すっかり年老いた晴レルソンとワッツは毎日路上でゴミを漁り、恐ろしげな廃墟に棲みついていた。

年をとっても昔となにも変わらず、電柱から電気を盗んだり婚約者を殴りつけたりする晴レルソンをラーソンは心から軽蔑していたが、家族から晴レルソンが体調を崩して心折レルソンになっていることを知らされ、いまいちど父との日々に思いを馳せるのだった。

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結婚報告にハレルソン宅を訪れたラーソンたち。

 

◆晴れルソン、メロドラマを圧殺!(そしてラーソンは男梅に)◆

物語の重心が置かれているのは回想パートだが、ブリー・ラーソンが出てくる現代パートも大変おもしろい。

何がおもしろいって、そりゃ確かに、婚約者と口論した晴レルソンが腕相撲での決着を提案するシーンはおもしろいですよ。はじめこそ二人を制止していたラーソンだが、ワッツが半狂乱になって「いいわよ、あなた。若造の腕をヘシ折っちゃえ!」と晴レルソンを応援するうちに“クレイジーな家に生まれ育った子”としての血が騒ぎ、やおら父の剛腕で圧殺されかけている婚約者に「なに押されてんだボゲッ! 根性見せろクソ坊主! 相手はジジイだろうが! 殺せ! すぐ殺せ!」男梅のごとき形相で怒鳴り、応援とも恫喝ともつかぬ気違い沙汰を演じるのである(凄まじいシーンだった)。

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エキサイトするあまり男梅と化す女。

 

だがそれよりおもしろいのは「現代パートでもまだ両親が生きている」というのが実話に基づいた映画ならではのツイストだということです。

もしこれがフィクションなら、晴レルソンは回想の中だけに生きる死者で、辛うじて余命を保っている母ワッツが“過去と現在を繋ぐ扉”としてラーソンたちに晴レルソンを赦す機会を与えもしただろうが、本作が『エル・スール』(83年)『ライフ・イズ・ビューティフル』(97年)『ビッグ・フィッシュ』(03年)などと決定的に異なるのは腕相撲ができるぐらい現役バリバリ生者としての晴レルソンが「美化に足る過去」を圧殺し尽くしたことである。

とかく死者は美化されがちだし、死にゆく者が善人であればあるほどその愁嘆場は感動的なものになるが、本作の晴レルソンはどうしようもないロクデナシぶりと途方もない生命力で“死が安易におびき寄せるメロドラマ”を力任せに圧殺する。涙の雨は瞬く間に晴れあがり、ラストシーンの食卓は笑いに包まれていた。

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ワッツとの独特の夫婦仲も見所。

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