文明に振り回される現代人の滑稽。
1967年。ジャック・タチ監督。ジャック・タチ、バーバラ・デネック、ジャクリーヌ・ル・コンテ。
ジャック・タチが膨大な時間と製作費をかけて挑んだ野心作で、全編を高画質の70ミリフィルムで撮りあげたフランス映画史上屈指の大作コメディ。半年以上もの時間を費やしてパリ東部に建設した巨大セット「タチ・ビル」の近未来的な都市を舞台に、就職の面接を受けるためにやって来たユロ氏とアメリカ人観光客バーバラのすれ違いや出会いをユーモラスに描く。(映画.com より)
最近バカみたいな映画ばかり取り上げているので、そろそろ反省せねばなりません。
というわけで本日はジャック・タチの作品をガリッと評論。これで一気に映画通っぽくなりましたね。エッヘン。及びウッフン。
ジャック・タチ(1907年-1982年)
北野武やデヴィッド・リンチにも多大な影響を与えたフランスの映画作家。
無機的なナンセンス・コメディをよく撮り、自作では主演も兼ねる。
タチ映画の特徴は、ほとんど台詞がない、ロングショット主体、「おしゃれ」なんて言葉では到底収まらないほどウルトラ・モダンな美的感性など。
文明の利器に依存するあまり、却って不便で非合理的な生活を送る現代人の姿をユーモラスに描き出すことを得意としている。
代表作に『ぼくの伯父さんの休暇』(52年)、『ぼくの伯父さん』(58年)、『プレイタイム』(67年)、『トラフィック』(71年)など。
そんなジャック・タチが、当時のフランス映画史上最高額の製作費を使って超巨大セットを作り、丸2年もの撮影期間を経て撮りあげた本作は、70ミリフィルムで撮った全編ロングショットという前代未聞の怪作である。
就職の面接にやって来たジャック・タチ演じるユロ氏がアポイントメントの担当者を捜し回って高層ビル内を忙しなく動き回るが、すれ違いに次ぐすれ違いが起きて一向に担当者が掴まらないというスラップスティックが約1時間続く。担当者を捜して広いビルの中を延々1時間ウロウロしているのだ。
幾何学的にもほどがあるビルに戸惑いを隠しきれないユロ氏。
このビルの中では新製品の展示会が開かれている。照明付きの掃除機。音がしないドア。そんなわけのわからない商品に群がって「便利ねえ」なんて喜んでいるアホの上流階級たち。
台詞は最小限に留められているが、そもそも二者による対話自体が存在せず、その台詞も社内アナウンスや独り言といった意味が剥離した言葉なので、日本語字幕すら出てこない。
おまけに全編ロングショットで構成されているため、かろうじてグレーのコートを目印にして主役のユロ氏を識別できたとしても、絶えず画面の中を忙しなく動き回る大勢の人間たちは識別不可能。
そもそも、画面の端っこにいる米粒大ぐらいのユロ氏を見つけ出すだけでも大変なのだ。
無言劇としてのナンセンスなスラップスティックそれ自体はジャック・タチ作品の大きな特徴だが、高層ビルという閉ざされた空間の中だけで、括弧付きのシチュエーション・コメディがおこなわれたのは初。
それが1時間も続くものだから、いつまで経っても担当者に会えず、面接がおこなわれないユロ氏の彷徨を見かねて、「おっさんがビルの中をウロウロしているだけで、話が一向に進まない。何なんだ、この映画?」と大いに困惑するレビュアーの気持ちもわからなくはない(この映画にストーリーを求めてしまったレビュアーは理解不能宣言をして低い点数をつけている)。
実際、僕自身もモダンな超巨大セットの精密さと、長回し主体の洗練された画面構成に胸を打たれながらも、やっていることがあまりに長ったらしくて(延々1時間だぞ!)途中で何度も睡魔に襲われそうになったが、そうして飽き始めた頃に、ようやくこの作品の主人公がユロ氏ではなく高層ビルそのものであることに気付いた。
映画の主役は、必ずしも主演俳優(人間)とは限らない。
俳優など被写体の一部に過ぎないのだ。アンドレイ・タルコフスキー作品の主役は水や風だし、ジョン・カサヴェテス作品の主役は過度にクローズアップされた顔そのものなのだ。
遥か彼方の画面奥から面接担当者が歩いて来る。立ち上がろうとするユロ氏に、警備員のお爺さんは「まだだいぶ掛かりますから座っててください」と言う。近代建築をユニークに風刺した素晴らしいシーンだ。
そして後半1時間の舞台は、オープンしたばかりのレストラン。
ようやく高層ビルから出たあとにレストランに迷い込んだユロ氏(この男はよくどこかに迷い込む)が、店内で発生する無数の騒動に巻き込まれるさまを見せる(この男はよく何かに巻き込まれる)。
この長大なシーケンスにおいて、もはやユロ氏の姿は目視不能だ。ここにはコックとウエイターと大勢の客、すなわち「群衆」という記号が渾然一体となって混沌たるギャグを生み出しており、前半1時間の辛うじて目視できていたユロ氏の姿はほとんど綺麗に消えてしまっている(DVDを一時停止してよく探せば見つかるのだが)。
画面の情報量は膨大を極め、ひとつのショットの中で2~3個のギャグが同時平行で発生するという芸の細かさに前後不覚。もはや動体視力が追いつかないほどの情報量である。
まるで音楽を聴きながら本を読みつつメシを食っているときの私のようなマルチタスクっぷり。
まさに狂騒。まさにすし詰め。後半はこの雰囲気が1時間続く。もはやユロ氏を識別することなど不可能だ。
ようやく一人の客が店を出たかと思えば、入り口にむかって指された矢印のネオンサインに誘導され、まるで催眠術にかかったように再びフラフラと店内に入っていく。
ユロ氏が入り口のドアガラスを粉砕したせいで、ドアマンのおじさんはドアの取っ手だけ宙に掲げてまるでドアガラスが存在しているように見せかけ、客の出入りに応じてエアー開閉をおこなうという馬鹿馬鹿しさ。
オーダーの取り違いは5分に1回、華美な照明器具は不調をきたし、床にはめ込まれた大理石は取り付けが甘くてバラバラと外れてゆく。
最終的には店が半壊して、一夜の大騒動を耐えぬいた客たちは、ぐったりしながら夜明けの街に帰っていった。
そしてジャック・タチがラストシーンにカメラを向けるのは、『トラフィック』(71年)の実質的な主役でもあった大渋滞の道路。
道路には無数の矢印が「あっちに行け」、「こっちに行け」と人々を指示している。そんな矢印に操られるように、人々は自動車を運転して渋滞をつくる。その様子は、さながら近代における物質文明の行き詰まりのようだ。
しばしばジャック・タチの映画に出てくる「道路に連なる矢印」と「車の渋滞」は、何も考えずにテクノロジーに飛びついてがんじがらめになった文明人というタチ流のしゃれた皮肉。
『ぼくの伯父さん』(58年)でも我々を大笑いさせてくれた、行き過ぎたテクノロジーに対する風刺。顔が識別できないロングショットには、人間を「群れ」として捉えるジャック・タチのシニカルな眼差しが向けられている。
規則正しく建ち並ぶビルディングと画一化された人々の営み。
『プレイタイム』は素晴らしく滑稽であり、無機的で、でもやっぱりそんな愚かな人間への愛に溢れている。ラブ&モダン。