シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

女は二度生まれる

この上なく刺激に満ちた退屈。そして総ては逆転する。

f:id:hukadume7272:20190725105234j:plain

1961年。川島雄三監督。若尾文子、山村聰、フランキー堺、山茶花究。

 

女は二度生まれる。はじめは女として、二度目は、人間として。芸なし芸者の小えん(若尾文子)は、本能の赴くまま気のむくまま行動する天衣無縫の性格。そんな彼女が初めて知った女の本当の幸せとは?(Amazonより)

 

おはようございます。

私のケータイは未だガラケーで、おまけに半分潰れてます。ボタンを押しても滅多に反応しないのです。

昨夜、そんなケータイにAmazonからイーメールが届いたのだけど、文字化けしていて一個も読めませんでした。がっかりです。Amazonは僕に何を伝えたかったのだろうか。

このケータイはかなりの困ったちゃんで、人から電話がかかってきても通話ボタンがなかなか反応しないので「早く早く…」と焦りながらボタンを連打、着信が鳴っている間にどうにか通話ボタンを反応させねばならないのです。

もはやケータイとしての機能をほとんど果たしていない。おまけに外のカバーが付けられないぐらいバッテリーが膨張している。しょうがないので輪ゴムで縛り付けてます。

唯一便利なことは、人からLINEを訊かれても「ケータイがコレなんで」と言って断れること。

コミュニケーションを遮断することにかけては思わぬ効力を発揮する僕のケータイ。だけどケータイって本来コミュニケーションするための道具だからなぁ。その意味では、もはやケータイとは呼べないのかもしれない。

だとしたら、なんなんだろう、この機械…。

 

そんなわけで本日は 『女は二度生まれる』です。思いきり技術論と映画論に寄せた内容になっているので、興味のない人はそっとページを閉じてくださいね。

※作品の中身にはほとんど触れておりません。

f:id:hukadume7272:20190725213854j:plain

愛人列伝①小金持ち

 

◆世の中が変わっても人間は変わらない◆

川島雄三を知らない。

数える程度しか観ていないし、そのほとんどはかなり以前に川島雄三だと意識せずに観た作品なので、たとえば「『幕末太陽傳』(57年)を観た」とは言えても「川島雄三を観た」とは言えないのである。ちょうどジブリがほとんど全国民から見られているにも関わらず、ほとんど全国民が宮崎駿のことを知らないように。

こういう場合、まず始めにどこからアクセスすべきなのかについていつも考える。川島雄三を知らない私はまず何から観ればよいのか。ひとまず代表作を押さえればいいのか。初期作から観ていけばよいのか。あるいは順番など関係ないのか。

いま私は自問自答のフリをしているだけで、じつは答えを知っています。

「作家性が濃く出た作品」から観ていけばいいのだ。作家主義に立脚して映画を観るならこの方法が最も合理的である。

だが問題は作家性が濃く出ているかどうかなんて観てみないと分からないということで、つまるところ「何を観ればよいのか」という当初の疑問に立ち返ってしまうのである。馬鹿げた議論だ。

映画レビュアーとしては監督を知らずしてその監督作を語ることほど怖いものはないのだが、まぁ、やっていくことにしよう。すでに『しとやかな獣』(62年)をやっているからな。『女は二度生まれる』であります。


不見転芸者の若尾文子がさまざまな男と関係を持つうちに少しずつまともな人間になっていく、といった意味内容の物語である。

と言ってしかし、若尾は根っからのロクデナシというわけではないし、また、まともになると言ってもなにか大きな変化・成長が描かれるわけでもない。

どうも川島雄三の作品には「物語を通して何かが変わっていくさま」が希薄に思える。

通常、「物語」というのは最初と最後で何か(主人公、またはそれを取り巻く状況や環境)が大きく変わることにこそ意義があるわけだが、この映画のふしだらな若尾は終始ふしだらなままであり、深い情で結ばれた愛人・山村聰と死別したことでこれまでの無軌道な生き方を見つめ直すかのような素振りを見せはするものの、それはあくまで「素振り」にすぎない。実際にこれまでの生き方を反省したり、具体的にそれを示すような態度・身の振り方は何ひとつとして描かれないまま映画は唐突に終わってしまうのだ。

最初と最後で何も変わらない。

主人公の人格や精神、周囲の環境、物語の状況は好転することも悪化することもなく、いわんや変容もしない。映画が膠着している。まるで「物語」と「人物」が押しピンで留められたようにその場から動かず、ただその周りで時間だけが流れゆくかのようだ。ちょうど『しとやかな獣』がそうだった。妻は自分が住んでいる団地の屋上から他人が飛び降り自殺したことを家族に伝えず、不変の日常を守り続けたのである。

そんな不変の世界を描いた『女は二度生まれる』だが、たったひとつだけ変わったものがあった。世の中だ。

売春防止法により置屋が営業停止処分を受け、芸者をやめた若尾はキャバレーで働きながら愛人を作りまくる。やっていることは芸者時代と同じ。世の中が変わっても人間は変わらないという川島流の風刺なのであろうか。

f:id:hukadume7272:20190725214601j:plain

愛人列伝②板前見習い


これは余談だが、川島雄三の写真を見ると「天才の顔つき」をしていて大層驚いた。目が完全に死んでいる。言うまでもないが、輝くような目をした人間にいい映画など撮れはしない。

だいたい、天才とか無能というのはえてして顔に出るものだ。鈍臭い映画ばかり撮る三流監督は大概バカみたいな顔をしているし、図に乗った監督は可笑しくもないのに何故かいつもニヤけている。要するに弛んでいるわけだ。表現者としての危機感がなさすぎる。

そういう連中は贅沢ばかりしてぶくぶく太っているので、一度極端な食事制限でもして不健康な痩せ方をするべきだと思う。川島雄三の狂気的なルックスを見習え。ハングリー精神の塊じゃねえか、こんなもん。

f:id:hukadume7272:20190727092339j:plain

川島雄三氏。日本映画の名匠ってだいたい痩せてるよね。

 

◆川島雄三は切り返す◆

銭湯から出た芸者三人がガールズトークに花を咲かせながら路地の階段をパタパタと上っていき、置屋の裏手にいたアイス売りの親父からアイスキャンディーを買い求めてうまうま舐める。やがて日が暮れ、こいつらは座敷に出るのだが、この銭湯の帰り道があまりにも可愛らしいのである。このシーンだけで歌が一曲作れそうなんだ。

若尾文子と倉田マユミあと一人は役名がわからないのでどうにも調べられないのだが、いかにも楽しそうに置屋へと向かう三人娘。アイスキャンディーに束の間の安らぎを見出す三人娘。

郷愁が掻き立てられました。

個人的な話になって申し訳ないが、私の祖父母の家は風呂なしのボロ小屋だったので、家に遊びにいくと必ず近くの銭湯でひとっ風呂浴び、この三人娘みたいに昭和レトロ全開の路地を通って家に帰っていたものだ。もう四半世紀も前の思い出である。

ふとそんなことを思い出させてくれた若尾文子さん、倉田マユミさん、あと名前のわからない誰かさんの三名には賞品としてゲルインクのボールペンが各自一本ずつ贈られます。すてきなシーンだったな。

f:id:hukadume7272:20190725211636j:plain

昭和の銭湯帰りノスタルジー。

 

これほど和やかなシーンに始まった本作だが、このあと若尾が怒涛のごとく男をたぶらかして悪い女になってしまう。驚くことに、それが原因で痴情のもつれや世間のしがらみに苦しむ…といった増村保造的展開はなく、あくまでのらりくらりと男遊びに興じるさまがただ無反省に描かれていくのである。

したがって物語としてはビタイチおもしろくないが、それ以外は滅法おもしろい。

『しとやかな獣』評でも「構図の忍術」という言葉でフレーミングのおもしろさを論じてみたが、本作の見所もやはり撮影である。角度と奥行きを誇張した空間処理は片時たりとも観る者を飽きさせず、単調な物語をわざと大袈裟に飾っている。なんて大胆なショットを撮るんだろう…って驚いちゃった。

中でも大胆なのが構図=逆構図(切り返しショットとも言う)

通常は向き合って会話する二者の顔を切り返す際などに用いられるカッティングだが、この技法を使って人物の顔ではなく空間そのものを切り返すとおよそ次の画像の通りになる。

f:id:hukadume7272:20190725211653j:plain

ダイナミックでしょう。

置屋の和室3つをぶち抜いた奥行き感も手伝って、かなりインパクトのある構図=逆構図となっております。

さらにおもしろいことに、画像上では頬杖をついて考え事をしている若尾(画面前景)の奥で芸者たちがべらべらと喋っており、次のショット(画像下)では女将(画面前景)の奥でそれまで黙っていた若尾が急に話し始めるのだ。つまり画面奥の人物だけが発言権を持つという点において、話者までもが構図=逆構図におさまっているのである。

大丈夫ですか。ついて来てますか。

川島雄三のダイナミズムはとどまるところを知らんで。

この置屋での逆構図で「ちょっと行ってきます」と言った若尾は、板前の愛人・フランキー堺に会いにいく。したがって次のシーンの舞台は寿司屋になるわけだが、なんとここでも構図=逆構図が使われているのだ。2連続で。しつこく。

f:id:hukadume7272:20190725211732j:plain

 さぁ、どうでしょう。

先ほどと同じく、若尾(赤い羽織を着た女)が画面の手前寄りにいて、フランキー堺(画面奥の小太り)をジーッと見つめている。そして次のショットではこの構図が逆転する。

よーく見ると、さっきの置屋での構図=逆構図と比べてひとつだけ違いがあることにお気づきだろうか?

それぞれの画像の二枚目…つまり逆構図を見ると、前景の人物(女将とフランキー)の位置が左右逆転しているのだ。

f:id:hukadume7272:20190725211819j:plain

おもしろいですね。

おもしろくないですか? そうですね、おもしろいですね。

これは切り返す際のカメラ位置(厳密にはイマジナリーライン)を少しずらしたことで左右対称の構図になるわけだが、まぁ、理屈はどうでもいい。

結局なにが言いたいかというとすべてが逆転しているということザッツオールである。

構図、位置、話者、左右…。

このわずか1分そこらの中で出てくる4つのショットだけでもこれだけの要素が逆転しているわけだ。これが川島雄三の映像設計だというのか。誇張そして大胆にして大袈裟!

ストーリーはきわめて単調、端的に言えばつまらんが、おそらく川島自身も「そこはどうでもいいんだよ」というつもりで撮った作品なのだろう、とにかく刺激に満ちたショットの連続体である。

もっとも、たとえ凝った脚本だとしても視覚情報量が氾濫していてストーリーなど追う暇はないのだが。

 

「傑作を撮ること」は必ずしも「良いこと」とは限らない

最後の章では何を語ろうかしら。技術論は疲れたし、内容を深掘りするにはあまりにもストーリーを等閑視していた私であるから、かくなる上は我流の映画論を開陳せねばなりません。

 

まぁ、あれだ。結局のところ映画作家に必要なのは「度胸」と「度胸を通す体力」なのだ。

この映画で川島がやってのけた構図=逆構図の連発を見ていて改めてそう思った(先ほど画像付きで解説したもの以外にも数えきれないぐらい連発しております)。

まともな監督なら絶対にこんな真似はしない。なぜなら従来の映画理論からは大きく逸脱しているからだ。いや、「しない」というか「出来ない」のだ。なぜならこんなことをする発想には到底辿り着かないからである。仮に思いついたとしてもそれを実践する度胸がないだろう。構図=逆構図の連発? なんだそりゃ!

いみじくも私は『しとやかな獣』評のなかで「たぶん頭イカれてますよ、この人」と述べたが、まったく我が意を得たりとはこのことである。

推測は確信に変わった!

川島雄三は頭がイカれている。


大いに結構じゃないか。イカれた人間が文化を発展させ芸術を目覚めさせるのだ。

だいたいな~、私に言わせればヒッチコックもスピルバーグも行儀がよすぎるのだ。巧い、おもしろい、革新的。これは間違いないので高い評価を得て然るべきだし、私自身もヒッチコックとスピルバーグはほとんど絶賛してきた。『救命艇』(43年)『続・激突!/カージャック』(74年)をなめんなよ!

だが「良し悪し」と「好き嫌い」は別腹で、特に私なんかはよほど育ちの悪い映画好きであるから、イカれた作家=邪道を好むタチなんである。

小津、清順、フェリーニ、アルドリッチ、ペキンパー、カサヴェテス、イーストウッド、そして川島雄三…。

一般的な映画理論に照らし合わせれば「ヘタウマ」もしくは「ド下手」もしくは「判定不能」に属する作家たち。意欲的に映画を爆破解体しようと企てる愛すべきリアルクレイジーどもだ。愛嬌があってよろしい。

反面、私、ジョン・フォードやオーソン・ウェルズなんかは完全に「お勉強」として観てしまうタイプね。ロベール・ブレッソンやエリア・カザンなんて傑作が多いけど、それゆえに退屈なのだ。「またこんなつまらない傑作を撮って…」という。

f:id:hukadume7272:20190725214652j:plain

愛人列伝③学生


少し話は逸れるが、「傑作を撮ること」は必ずしも「良いこと」とは限らない。

たとえば、タランティーノの欠点は「巧いこと」である。クロード・シャブロルもまた巧すぎたがために他のヌーヴェルヴァーグ作家たちに差をつけられてしまった。その点、アラン・レネやルイ・マルなんかは実に狡獪で、巧いのか何なのかよくわからないような映画ばかり撮っている。

もちろんヘタな作家は嫌いである。誰だって嫌いだ。俺だって嫌いだ。

だが、先ほど挙げたリアルクレイジーたちは本当は撮れるのに撮らない作家であり、「映画的正統性」よりも「利己的欲求」を優先させるソシオパスなのである。型を身につけた型破り、テクニックを披歴しないテクニシャン、道化を演じる優等生。

そういう作家が撮る映画にはおもしろい・つまらないを超えた趣がある。ことによると、その趣のことを「芸術」と呼ぶのかもしれない。だから人はキューブリックやタルコフスキーのような長ったらしくて退屈な映画にいちいち感動するのである。それがただ単に退屈ではないからだ。

私が見当をつけたところ、川島雄三の映画もたぶん大体が退屈なのだろう。だがそれはただ単に退屈ではない。この上なく刺激に満ちた退屈なのである。要するに死ぬほどおもしろい。

だが死なん。私は映画を観ます。川島雄三をまだ知らないから。

f:id:hukadume7272:20190725214712j:plain

愛人列伝④社長さん

 

(C)KADOKAWA