犬殺しの達人が作った犬映画。
2018年。ウェス・アンダーソン監督。ストップモーション・アニメ。
近未来の日本。メガ崎市で犬インフルエンザが大流行し、犬たちはゴミ処理場の島「犬ヶ島」に隔離されることに。12歳の少年・小林アタリは愛犬スポッツを捜し出すため、たった1人で小型機を盗んで犬ヶ島へと向かう。(映画.com より)
ポップで洒落た映像とオフビートな笑いが妙ちくりんな世界観を生み、日本でも多くのファンを持つウェス・アンダーソンの最新作だ。
もくじ
- ①愛玩動物キラーとしてのウェス・アンダーソン。
- ②日本押しなのに日本人に向かない映画。
- ③水平野郎ウェスが奥行きを獲得するまで。
- ④形式主義を自ら打ち破った総決算的作品。
- ⑤心の中でウェスにストップモーションをかけたくなる。
- ⑥パペットにしかできない映像表現の粋。
ウェス・アンダーソンと可愛い子供たち。
①愛玩動物キラーとしてのウェス・アンダーソン。
ウェス・アンダーソンの新作は、『ファンタスティック Mr.FOX』(09年)から二度目となるストップモーション・アニメだ。キツネの次は犬!
しかし、イルミネーション・エンターテインメントの『ペット』(16年)に胸を躍らせた犬好きが気軽に観ていい作品ではない。なぜならこの監督は犬殺しの達人だからだ。
ウェス・アンダーソンといえばオモチャ箱みたいなポップな映画をよく撮ることから女子ウケもいい監督だが、そのイメージからは想像もつかないほど、とにかく映画の中でめったやたらに犬を殺す。説話的な必然性もなく、ただ思いついたように犬をバンバン死なせるのだ。
前作の『グランド・ブダペスト・ホテル』(14年)ではついに猫まで殺しだす始末。
愛玩動物キラーとしてのウェス・アンダーソンだよ!
だからもちろん本作は動物映画などではない。そもそも犬がぜんぜん可愛くない。むしろ病気で痩せ衰えた見すぼらしい犬しか出てこないのだ。
『犬ヶ島』を観る前から分かりきっていたことだが、愛玩動物キラーの異名を持つウェス・アンダーソンは犬に対する愛情などない。彼の愛情は犬そのものではなく「犬を使ったアニメーション」へと向けられているのである。
では、『犬ヶ島』とはどんな映画なのか?
②日本押しなのに日本人に向かない映画。
この話題は早めに処理してしまいたいから結論だけパッと述べるが、『犬ヶ島』は日本リスペクトに彩られた黒澤明へのオマージュ作品だ。
大筋は『七人の侍』(54年)で、その周辺に『悪い奴ほどよく眠る』(60年)、『野良犬』(49年)、『天国と地獄』(63年)、『どですかでん』(70年)などの小ネタが散りばめられている。
劇中では『七人の侍』の音楽が流れるし、小林市長の顔なんてモロに三船敏郎に似せている。
また、小津安二郎や宮崎駿からの影響も見受けられるが、長くなるので端折ります。
風呂に浸かる三船…小林市長。
そして劇中では日本が前面に押されている。
近未来の日本が舞台なので人々は日本語を話す(渡辺謙、夏木マリ、山田孝之、松田翔太、松田龍平、池田エライザなどが声を当てている。オノ・ヨーコが本人役で声優を務めているのには笑ったが)。
クレジットタイトルには日本語が併記されているし、画面の端々には寿司、相撲、神社、太鼓、丁髷といった日本文化がこれでもかと横溢している。
そしてここがポイントなのだが、日本人キャラが話す日本語には英語字幕が付けられていない。
一方、犬のキャラクターは全員英語を喋る。
声優陣が無駄に豪華で、ビル・マーレイ、リーヴ・シュレイバー、ブライアン・クランストン、エドワード・ノートン、ハーヴェイ・カイテル、 スカーレット・ヨハンソン、ティルダ・スウィントン、フランシス・マクドーマンド、グレタ・ガーウィグなど。
なぜ犬だけが英語を話すのかといえば、本作は英語圏の観客が「犬の目線で観ることを前提とした作品」だからだ。
そして日本語音声に英語字幕が付けられていない理由は、犬にとっては人間が意思疎通のできない相手だからである。
つまり犬と人間の「意思疎通の断絶」を、英語と日本語という「言語の断絶」によって表現した作品なのだ。
だから本作における日本語は、海外の観客にしてみれば「何言ッテルノカ全然ワカラナイヨー」てな具合なのだろうが、それこそがウェス・アンダーソンの狙いというか…、日本語がわからない方が楽しめるように作られているのである(人間の言葉がわからない犬たちと同じ目線に立てるから)。
ところがわれわれ日本語圏の観客には、日本人キャラが話す日本語をごく自然に理解できてしまえる。
だから日本人観客は、ただでさえウェス作品は情報量がごった返しているというのに、英語字幕を読んだり日本語音声を聴きとったりしながら画面も追わねばならない…という複雑な処理を強いられる。マルチタスク映画体験だ。
詳しくは後述するが、これは端的に疲れます。
この問題に関して、Monomaneさんがすばらしい批評をしているので参照してみて丁髷。
③水平野郎ウェスが奥行きを獲得するまで。
さて、真正面から映画論に踏み込んでいくので、ここからはかなり読む人を選ぶ文章になることをお許し願いたい。すまん!
ウェス・アンダーソンの映画といえば「左右対称の画面構成」や「人物が真正面を向いている」などさまざまな特徴があるが、ウェス作品をウェス作品たらしめているのはドリー撮影によって水平に広がる絵巻のような横スクロールの世界だ。
ウェス・アンダーソンの活劇では人物が真横に移動する。
特に『ムーンライズ・キングダム』(12年)までの初期作は、縦の構図がほとんど存在しない。あの横移動キチガイのマリオでさえ天高くジャンプしたり土管を潜るなどして縦の構図を作っていたのに、ウェス作品では決してカメラが上下に動かされることはない。
まるでウェス作品の世界には「垂直」という概念など存在しないとでも言うように。
ウェス・アンダーソンとは横移動が大好きな水平野郎なのだ。
汽車に乗る三人をドリーショットで捉えた横移動のシーン。『ダージリン急行』(07年)。
ところが『犬ヶ島』の前作にあたる『グランド・ブダペスト・ホテル』(14年)では、そんな一元的なウェス作品が「水平世界からの脱出」を試みている。
『グランド・ブダペスト・ホテル』のウェス・アンダーソンは、あれほど大好きだった水平構図を抑制し、ついでに趣味の音楽をがんがん流すことも抑制し、縦の画面と奥行きある構図を組み立てることでウェス・ワールドの本格活劇化を目論んだ。
ホテルの入り口付近に据えられたカメラが中景のロビーや後景のフロントまでの距離感を優雅に映し取る。その不自然なまでに均整のとれた構図から『シャイニング』(80年)の匂いを嗅ぎ取った観客も多いだろう。
レイフ・ファインズが画面手前に歩いてくる様子をカメラが後退しながら映し続ける奥行き感など、まるで『8 1/2』(63年)だ。
繰り返すが、これ以前のウェス作品では「画面奥」とか「画面手前」といった奥行きの概念など存在しなかったのだ。
ついでに言うと、フレームの二重構造化や、画面アスペクト比を三つの時間軸に合わせてビスタ、シネスコ、スタンダードで使い分けるなど、映画の規格そのものをオモチャのように使って遊んだ脱構築ぶりが印象的だった。
前景、中景、後景にそれぞれ人物を配置している(『グランド・ブダペスト・ホテル』)。
ちなみに中景の娘は『レディ・バード』のシアーシャ・ローナン!
④形式主義を自ら打ち破った総決算的作品。
ここでようやく『犬ヶ島』へと話は繋がるが、今回の新作はウェス・アンダーソン的な技法を結集した総決算的作品である。
基本的にはいつも通り、横スクロール主体のウェス絵巻なのだが(文字通り冒頭では絵巻物を使って世界観が語られていく)、どうやらそれだけではないようだ。
タテの垂直構図と前景・後景を活かした奥行きが画面を活性化させている。
たとえば、小型機の落下やロープウェイを使った垂直構図。
たとえば、グラスが恐ろしい速度でバーカウンターの上を滑ってくる奥行き感。
ヘルメットや監視カメラによるフレームの二重構造化も見逃さずにおきたい。
オノ・ヨーコが出没するバー。豊かな奥行きが画面にメリハリをつける。
相変わらずカメラは上下左右にしか動かないのに、驚くほど立体的で豊かな画面が犬どもの冒険活劇に命を吹き込んでいる。
前作『グランド・ブダペスト・ホテル』がオモチャ箱だとすれば、本作はオモチャ箱から飛び出したオモチャそのものだ。ウェス・アンダーソンが作り上げたオモチャ箱という「形式主義」を自ら打ち破った進化の一作と言えるのではないかしら。
⑤心の中でウェスにストップモーションをかけたくなる。
だが進化には代償がつきものだ。
そしてその代償はウェス・アンダーソンではなくわれわれ観客が支払うことになる。
この作品を楽しめた人も楽しめなかった人も、みな等しく「気怠い疲労感」に襲われたことだろう。
もともとウェス作品に疲労感は付き物だが、『犬ヶ島』のそれは従来のウェス作品を遥かに上回る。べつに二ヶ国語音声と二ヶ国語字幕で四方八方から苦しめられる日本語圏の観客でなくとも、だ。
画面の至る所にベタベタと貼りつけられた日本語併記の英語字幕は、もともと役者が全員早口&画面の情報量が多いウェス作品とは相性が悪く、いたずらに煩雑を極めてしまっている。
字幕情報に注意を向けながら音声情報を聞き洩らすことなく、おまけに肝心の視覚情報も仕入れねばならない…という。よほどの五感敏感野郎でもなければストレスフリーな鑑賞は難しいだろう。
優先順位として「読む」→「聴く」→「観る」になってしまっているのが、映画として本末転倒というか。本来この順位は真逆であるべきだ。
また、ウェスお得意のスプリットスクリーン(画面分割)や、コロコロと前後する時系列も本作とは相性が悪い。
「ただでさえ画面情報を処理するだけで一杯いっぱいなのに、画面分割とか時系列入れ替えとか…マジやめてくれよ!」と。喜々として映画を作るウェスに心の中でストップモーションをかけたくなる。
ウェス・アンダーソンは筋運びの人ではなく空間設計の人とは言え、たとえばチーフとスポッツの見た目の相似性とか、犬種の幅のなさ、あるいは「少年侍の昔話、要る?」といったノイズは枚挙に暇がない。
とにかく『犬ヶ島』は疲れる。
ただ、いま挙げた欠点はウェス・アンダーソンの全作品に指摘できるわけで、正直なところ今さら論っても仕方がないという気もしている。
今さら論っても仕方がない欠点を先天的に持った監督というのがこの世の中にはいる。ラス・メイヤーとかマーティン・スコセッシとかね。多くの場合、そうした映画作家たちは欠点も含めて愛されているのだ。
ウェス・アンダーソンもそのうちの一人。しかも全身日本リスペクトの作品ときた。だからこそ、我が国において『犬ヶ島』は過剰なまでに絶賛ムードなのだろう。
⑥パペットにしかできない映像表現の粋。
気が遠くなるほどの手作業とそれに費やした労力を讃えるレビューが目立つが、これにはいささか疑問を感じている(レビュアーに対して)。
観る側が「作り手の努力」などという曖昧なものを評価基準に加えてしまうと、たとえば『レヴェナント: 蘇えりし者』(15年)の大絶賛といった誤審を招いてしまうわけで。
映画は「がんばった大賞」ではない。
私はそういう精神論を抜きにした上で、本作での細緻を極めたパペットとハンドメイドなストップモーション・アニメーションを激賞します!(面倒臭ぇな)
ちなみに私は芸大時代にストップモーション・アニメをほんの少しかじったが、地獄を見たのですぐにやめました。
たった1分間の映像を撮るだけで丸一日かかる。そもそも素材(人形や小物など)を作るだけで丸一日かかる。そのうえ1分間の映像を編集するだけでさらに丸一日かかる。
もちろん、私が当時味わった苦労など『犬ヶ島』に費やしたそれに比べればカスに等しいが、それぐらいストップモーション・アニメは時間と根気と手先の器用さが必要なのだ。
あ…、「精神論を抜きにした上で」とか偉そうなことを言っておきながら、ほかならぬ私が精神論をまくし立てていたわ。恥ずかし。
人形をミリ単位で動かしながら1コマずつ撮影するストップモーション・アニメ。気が遠くなる作業だ。
大体ねぇ、主人公のアタリ少年が頭にボルトが刺さったまま血だらけで飼い犬を捜す…というルック自体がおもしろ過ぎるんだよ。なまじ無表情なパペットなので、頭からボルトを抜いて血が吹きだしてもまったくのノーリアクション。
本来ならデメリットとなる「パペットゆえの感情表現の希薄さ」がシリアスな笑いを生み出していて、パペットにしかできない映像表現の粋に身震いすら覚えたほどだ。
また、喧嘩シーンにしても大きな煙の中で揉み合うという大昔の漫画的記号を大胆に取り入れる度胸もさることながら、タイトル・クレジットや字幕に見られるタイポグラフィの拘りにはただただ頭が下がる(美大時代にタイポグラフィのテキトーさで散々叱られた身として)。
そんなわけで、多くの欠点と多くの進化が見られる『犬ヶ島』は、美大生が観たら今すぐ退学届を出して実家の家業を継ぎたくなるほどストップモーション・アニメのプロフェッショナルたちの創意が結晶化した職人的作品である。
ちなみに、ハワード・ホークスからの影響を1000字に渡って語らなかったのは私の良心だワン!
本当は面倒臭かっただけ。
声をあてた皆さん。ティルティルやグレタ姐さん、野田洋次郎(RADWIMPS)もいるぞ!
探せ、探せ!