シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

アステロイド・シティ

ウェス・アンダーソンのおもしろさは“形式”によって担保されており、彼のつまらなさもまた“形式”によって補填されている以上、その“形式”そのものを俎上に載せねばならない純形式主義的映画を撮ったときこそが彼が正しく裁かれる時―“ギロチンタイム”なのかもしれませんわね。おほほ。


2023年。ウェス・アンダーソン監督。ジェイソン・シュワルツマン、スカーレット・ヨハンソン、エドワード・ノートン、エイドリアン・ブロディ、トム・ハンクス。

砂漠の街アステロイド・シティに宇宙人が来て、慎重に左右をきょろきょろしながら不思議な石を盗んだり返したりする中身。


おいーす。やるしかないなら一丁やるか~。
どら、気の利いた随筆を一本、バラを添えてあなたに届けるぜ。しゅ。

 第1話
過日。近所のしゃれたお店の前を通りがかったとき、そういえばここって何屋さんなのだろうと思い、店に入ると、白い鳥打帽をかぶった若くしゃれた女性店員さん2名がくすくす談笑していたので、そろりと近寄りたるおれ、「ご免ください。ここってなにを商ってるお店なのか、僕に教えてくださいませんか」と希ったところ、それまで菩薩半跏像のようにアルカイックスマイルを浮かべていた2人の表情が一変し、ひとりの店員さんが「おん? なんだてめえ。見てわからねーのかよ。洋菓子専門店に決まっているじゃん。マドレーヌやパウンドケーキ各種を焼き、これを陳列/販売して儲けを得たり、ときに客の要望に合わせてオリジナル洋菓子を創出するなどもするナイスなお店を商っているんじゃん。まあ、なんにせよ、おまえみたいなツブ貝ボーイには縁のないハイブローでエレガンスでトロピカルなお店といえるけどね。うち帰って餅でも食えば?」と敵意交じりに説明をした。これを左田右子と仮名する。それを聞いていたいまひとりの店員さん、まあ名前はなんでもよいのだが、キノー・今日子・アスカ=アサッテカ(仮名)も「あはん。言うじゃない右子。そうだ、カカオ投げちゃいなよ!」と右子に言う。
すさまじい敵愾心を肌に感じた。一見さんお断りの極致であった。
あ、泣いちゃうかも、と予感したおれは「こんな洋菓子店、来年の秋口に潰れちゃえばいいんだ!」と捨て台詞を吐き、泣いてまう前に店のそとに出て、ビャーッと走って逃げた。
まったくよぉー。おれの近所ってこんな店ばっかりなんだよね。人情よりも目先のおしゃれや自尊心ばかりを研ぎ澄ましやがって。ギャル侍みたいに。見栄とプライドの澄まし汁だぜ。
この洋菓子店も然り。外装こそしゃれてはいるが、傍から見ても何屋さんなのか、皆目見当がつかぬわけよ。コンセプトがわからぬわけ。ほいで、それを尋ねようと店に入ったら入ったでカカオを投げつけられる。カカオ投げんな。
“漠然と、ただおしゃれな店”なのだ。

 第2話
おしゃれな店といえば半年ほど前、拙宅から徒歩30秒ばかしのとこに、これまたおしゃれなお店ができた。
餃子屋さんであった。
餃子は好きだが、このお店はなんとなく嫌だ。関西人がよく言う「好かん」という直感に依拠した決めつけではあったが、一応の理由もある。第一に、硝子ばりの店構えは外から店内が丸見えで、通りすがりに一瞥くれたところ、なんかバーみたいになっとんにゃわ。高っかいカウンター席の周りには、高っかいテーブル席。椅子も高っかい高っかいわ。もう脚立やん、みたいな椅子。脚立のうえで電球換えてまんのん?みたいな椅子。なにが悲しゅうて高っかい椅子の上で餃子を食わねばならんのか。
おまけに店内の壁の高いところには、なぜかおしゃれな自転車が張りつけられている。
漕げや。
第一次大戦を生き抜いた元傭兵の寡黙な猟師が激闘の末に仕留めた伝説の鹿、その剥製を壁に飾って冬のロッジでバーボンやりながらそれ見る、みたいなノリで、自転車がまるまる一台、壁に張りつけられていたのだ。
漕いだれや。
張るな。自転車を。
次に客層。これは全き偏見なので、あまりこういうことは言いたくないのだが、バカ多め。二十歳そこらの大学生がバカみたいな顔してレモンサワーを飲み飲み「餃子うんめ」、「ぱねー」、「ニラ生える」、「それな」、「皮つつむ」などと騒ぐ声が、開け放たれたデカい窓から通りに筒抜けなので、夜、その店のまえを通りすぎるたびにかかる喧騒に気分が害される。ただのド近所迷惑である。大体からしてレモンサワーなんてものはバカの飲み物だしね。
そして3つめの理由。価格が高い。
食べログで調べてみたのだが、なんとこの店の餃子は6個で500円もする。
いい冗談だ。
餃子6個で500円。冗談は壁に貼りつけた自転車だけにせい。さらに目を疑ったのが、餃子ほどではないにせよ一応こっちにも力を入れているんだよねーみたいなパワーメニューの、焼きそば。
900円。
バカタレがぁ。
バカにタレつけて食ったろか。完全に気が狂ってやがる。まったく正気のサタデーナイト。焼きそば900円は、もう焼きそばっていうか。バカそばや。こんなものを頼むのはバカだけ。レモンサワー飲んで「ぱねー」言う奴だけ。
ほんでレモンサワーも650円するしな。
どこがサワーやねん。すっきりするかあ!
そも、餃子とおしゃれって、ミスマッチかつトゥーマッチ、それでいて近藤マッチだと思うのよね。ミッドナイト・シャッフルだと思うのよね。おしゃれの中に餃子なし。むしろ町中華に息づく大衆感の中や、屋上の隅っこでこそ、傷ついたその羽を震わせてるのが餃子ってもんじゃあないのかああああああ。
憤りを抑えきれぬおれは、大人なのに「天使のような悪魔の笑顔、この街にあふれているよー!」とかなんとか絶叫しながら帰路に着いたわけであります。
私が、ばかなのかしら。
いいえ。ばかはあなたよ。

 第3話
おしゃれな店といえば、先月ふらっと立ち寄った、立ち飲みもできる日本酒専門の酒屋にて、とんだ恥をかきました。
外装は、事情を知らぬ女子大生が「ここってパンケーキ専門店~? だったらイイナ。うれしいナ。わたしの心が思わず踊るナ♪」と勘違いしかねない洒脱ぶり。酒屋とは思えぬほどしゃれ倒しており、店内には壁一面におびただしい数の日本酒がウフフと飾られ、酒瓶の下のポップは、その酒の価格/地元/粋な寸評/酒のパラメーターなどを詳らかにしている。
そして店の奥には立ち飲み用のカウンターがあった。不安になるぐらい真っ白なカウンターだった。そしてカウンターの向かいには、日本酒に通暁しきった感満載のマスター女将、通称マスミと、そんなマスミに師事してはいるが自身もまた日本酒に通暁してる感を満載したマスター寸前女将、通称マスミ第2、略してマスニが、おれの姿をみとめるや否や「おやおや。勇気があるならこっちへおいでよ、少年ツブ貝。なにも取って食おうってわけじゃないんだ」みたいな半笑いで、まるで何かを試すがごとき視線のレーザービームを浴びせてきた。
その瞬間、あっ、嫌だな、ヘタこいた、怖いな、出よかな、と直感したものの、このまま引き下がると、あとでマスミとマスニに何を陰口されるかわからん。「ははは。視線一発で殺してやったわ。あんなふざけた専用眼鏡かけた発泡スチロール野郎に日本酒なんて2億4千万年はえーよ。日本酒ちゅうのは、まばゆいくらいにエキゾチック・ジャパンなんだよ。うち帰ってママのおっぱいでもしゃぶってるのが似つかわしいのさ」とマスミに、「右に同じ~。私たちは一万年と二千年前から愛してる。日本酒を。八千年すぎた頃からもっと恋しくなったし、一億と二千年あとも愛してる。『創聖のアクエリオン』ならぬ神聖の清酒リオン、ゆうてな。からから。まあまあおもろ」とマスニに陰口叩かれるに決まってるじゃーん。
意を決したおれは、撤退するどころか、よろしいならば戦争です、来るなら来いの精神で店の奥に突撃した。なんでもいいから日本酒を鯨飲して、マスミかマスニ、願わくば双方から「あんちゃん、なかなかイケる口じゃんかいさー。ツブ貝とか発泡スチロールとか言ったあたし達をどうか許しておくれよ。そして心を入れ替えたあたし達に『シネマ一刀両断』のURLを教えておくれ」と言われたかったのだ。
しかし現実は―…。
スターバックスの約4倍ぐらい注文システムが煩雑で、「えーと、それってどういう意味ですか。3種試し飲みの料金体系は1種ごとに各銘柄の料金が加算されるわけではなく、あらかじめ決められた銘柄の中で…ええ? どゆこと」と混乱しては説明を受け、また混乱してはまた説明を受け、そうして何度も説明を乞ううち、目に見えて不機嫌になっていくマスミとマスニの目の前、すなわちカウンター越しに、ようやっと出してもらえた謎の日本酒を「早く帰ってくんねーかな、このバカ」、「まじ、ぶっ殺してえ」という無言のビームを不断に受けながら、脂汗たらたらで飲むはめになりました(京都人は相手が放った無言のビームの意味内容を察する術に長けている)。
おれの隣には、常連客とおぼしきチャーミンでユーミンみたいな女性(推定30代半ば/独身/AB型と思わせて実はB型/趣味はパエリア製作/アジアン雑貨に目がない/すきな音楽はLOVE PSYCHEDELICO/ゆらゆら帝国も昔すきだった/ジブリをほとんど見たことない/アイドルグループには目もくれない/猫がすき/犬もすき/なんならキリンもすき/でもゾウさんの方がもっとすき)が、時おりマスミらと会話しながら一人飲みを楽しんでおり、チラチラとこちらの様子を窺うなど、おれにも話しかけてくれようとする心優しい下町モーションは感じたのだが、いかんせん当方、目の前の悪鬼ふたりにビビりまくりのババちびり寸前沙汰、戦々恐々の面持ちで脂汗を垂らし、さらぬだに半泣きの様相で、しかし目いっぱいの虚勢を張りもって「あー、おいしいなー。余裕だなー。日本酒おいし。なんでこんなに美味しいんだろ、このドリンクって。まじ意味不明っていうか、わけわかんないんですけどー」などと平静を装い、そのために顔面はしっちゃかめっちゃかで喜怒哀楽の闇鍋状態、ピカソの描いたむちゃくちゃな絵よりもむちゃくちゃな有様だったので、たぶん「話しかけんの、やめとこ」と判断したんだと思う、パエリア女は。
30分後、『ろくでなしBLUES』ぐらいマスミにガンガン睨まれながらお会計をしたおれ。ようやく店を出て「なんの味もしなかったが、酔いだけ回ったな」と独り言したのち、ちょっとだけ泣きながら帰路に着き、YouTubeというウェブサイトを開いてゆらゆら帝国の「空洞です」を聴いて、寝た。
アホみたいな人生。

そんなわけで本日は『アステロイド・シティ』です。



◆きゃりーぱみゅぱみゅ、って言いづらくない?◆

 思うところあって、ここ1~2年はほとんど映画を観ていない。
ほとんど? いや。まったく観ていない、と言った方がおれの伝えたい“ほとんど性”が伝わるだろうから「まったく」と言っておく。
数ヶ月ぶりに映画を観た。ウェス・アンダーソン『アステロイド・シティ』です。やれやれだ。リハビリ批評には少々厄介な作品だな。
まあいいだろう、おれが悪いんだ。


おおむね予想どおり、ひどく退屈な映画だった。もっとも、映画を観なくなって久しいおれには“映画の退屈さ”さえも新鮮に感じられたのだが。
今回の評は手短に終えたいので本論だけをガリッと穿っていく。
『ムーンライズ・キングダム』(12年) 以降のウェス・アンダーソンは明らかに頭がおかしくなってます。おかしいだろ明らかに。『グランド・ブダペスト・ホテル』(14年) 『犬ヶ島』(18年) も。
まあ、『グランド・ブダペスト・ホテル』はミーハーなファン層を拡張したヒット作となり、我が国でも“オシャレでかわいくて不思議な世界観をもつ、見ておくだけでちょっとしたステータスとなり友達にも軽く自慢できるファッション映画”として餓えた都会人らに摂取されたようだが、たとえば、10年前に『グランド・ブダペスト・ホテル』を見た連中に「どんな内容だったか?」と訊ねてもロクな説明は返ってくるまい。

スタイルコンシャスに過ぎるんだっ!!


そうなんだ!
勘だけでモノをいう。
『グランド・ブダペスト・ホテル』以降のウェス・アンダーソンは、どこか無理をしながら映画を撮ってる気がして、おれは嫌で、心配で、しかも嫌だ。
自家撞着。ただの勘だが、ほぼ当たってるだろうと確信するほどにはその気配をビンビンに感じています。ンーフ~ン?
デザイナー的空間造形や色彩設計、小津/ゴダール超えの妄執的正面性、水平構図/ドリー主体の絵巻スタイル、俳優の非俳優化=人形化。アンニュイかつオフビートな物語世界…。
唯一無二の世界観をもつ(そう、「唯一無二」とか「世界観」などという言葉はウェス・アンダーソンほど絶対化された独創性を生み出してから使って頂きたい)ウェス作品の虜だったおれが最初に違和感を覚えたのはストップモーション・アニメーション映画の『ファンタスティック Mr.FOX』(09年) だった。「初のコマ撮り人形劇だからかなあ?」、「ヤン・シュヴァンクマイエルあたりに悪い影響を受けたのかなあ?」…それで済ませていた。
その違和は『グランド・ブダペスト・ホテル』で膨れ上がり、ストップモーションアニメ第2弾『犬ヶ島』で確信へと変わり、だから次作の『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(21年) は未だ観ていない。

「映画史における、ほどほどに画期的で、ほどほどに洒落た形式。だがそれらの複合的形式性をアウフヘーベンすると“圧倒的に斬新な絶対世界”ができあがる。この均衡を保たねばならない。なんなら先鋭化させねばならない。おれは頑張らねばなるまい。うおおおおおお。究極的形式性へ―…!」

ま、わかりやすく言うと、こういうこった。
だがウェス・アンダーソンは凡百のファッション糞野郎ではない。糞ファッションモンスターでもない。いわんや、きゃりーうぇすうぇすでもなければ、うぇすーぱみゅぱみゅでもない。その点だけはご理解頂きたい。お願い致します。
どうでもいいけど「きゃりーぱみゅぱみゅ」って発音できないのよね。皆はできるん? おれが舌足らずなのかな。「ぱみゅぱみゅ」が言えないのよ。「ぱんぱみゅ」になっちゃう。一発目の「ぱみゅ」が破裂音に…まあいいか、この話は。
なんしか、この男はシネフィル…というより映画史フリークだろう。だから黒澤明からヴィム・ヴェンダースまで幅広く表象する。だが、近年はそれが表象しきれていない。
スタイル=形式に引っ張られて苦しそうに撮ってるウェス・アンダーソンが“映画少年のウェス・アンダーソン”を喰い殺してるからだ。
それが如実に表れていたのが『アステロイド・シティ』。
どういうことか?
詳しくは説明しない。



◆焦ったベジータは大体負ける◆

 本作の物語はひどく入り組んでいるが、マトリョーシカのように多重構造化されたメタ演劇論についてはあまり付き合う気がないので触れずにおく。
それよりなにより触れねばならないのは、劇中劇「アステロイド・シティ」のパン/ドリー主体の平面的空間造形が、いよいよウェス・アンダーソンの映画から“普通の演劇”として合理的に帰納してしまうことの有用性、ひいては“ウェス・アンダーソン作品特有の横移動の絵巻構図”がテマティックに意味(機能性)を持ってしまうことの身も蓋もなさにほかならないわけ。
そこに意味を持たせちゃダメじゃん。
べつに意味を持たせてもいいけど、意味を持たせたら、どうせ意味に引っ張られちゃうじゃん。
作家性に“意味”が生じることほど、作家を作家たらしめる作家性にとって理不尽なことはあるまい。なぜなら“意味”に還元できうる表現など、突き詰めれば“説明”でしかないのだから。
この説明性こそが『アステロイド・シティ』の弱味なのだろう(と同時に、ウェス・アンダーソンにとっては“形式”を機能化しえた強味でもあるのだろうが)。
非俳優化されゆく俳優たちにも虚しさを覚えるばかりだ。スカーレット・ヨハンソントム・ハンクスティルダ・スウィントンブライアン・クランストンエドワード・ノートンエイドリアン・ブロディマット・ディロンホープ・デイヴィスウィレム・デフォーリーヴ・シュレイバースティーヴ・カレルマーゴット・ロビーほどの超々々豪華キャストを“数いるLEGO人形のひとつ”のように安使いする、大家のごとき思い上がり。今度という今度は単なる悪趣味に思えた。

ウェス・アンダーソンのお家芸は(半ばダイジェスト的に)ファーストシーンに集約されている。パン、ドリー、切り返し、対称構図といった“形式”が相変わらず観る者を闇討ちする一方、ファーストシーンでそのすべてを披歴してしまっては、あとは「ああ、それ知ってる。いいよね」の午睡感覚の去来に耐えるだけの時間。
良くいえば“最初から本気のウェス・アンダーソン”。悪くいえば“序盤で手札全さらしアンダーソン”。短期決戦で勝負を決めんと焦るあまり、最初から持ちうる限りの力と技を出しきって一気に畳みかけようとするベジータみてぇだ!
だいたい負けちゃうんだよな、そういう時のベジータって。本作も然り。テクニックの枯渇を、入れ子構造の難解な筋でごまかそうとするケレン味に付き合わされた…という徒労感だけを覚えました。
畢竟、何が言いたいかというと、ウェス・アンダーソンの作家性は(すでに≒十分に)飽和化しており、本作はそのブレークスルーにはなり得ず、壁にクラッシュして派手に砕け散った“おしゃれ映画”だった、ってことなのかも。
これ以上なにを語れって言うんだ!
ふざけるな!!!



◆恋はスリル、ショック…なんだっけ◆

 17年前から映画批評をしているが、ウェス・アンダーソンの作品を貶したのは今回が初めてだ。なんて日が来たとウェス・アンダーソンはおれに言うんだ!
だが、まあ『ファンタスティック Mr.FOX』を観た日から「いつか貶さねばならない日がくるかもね」とは思っていた。
彼のおもしろさは“形式”によって担保されており、彼のつまらなさもまた“形式”によって補填されている以上、その“形式”そのものを俎上に載せねばならない純形式主義的映画を撮ったときこそが彼が正しく裁かれる時―“ギロチンタイム”なのだ。

おれは普段、あまり謝らない人間ではあるが、ウェス・アンダーソンのファンにはチョット申し訳ない評を書いたな、とは思う。ウェス・アンダーソンって不思議な作家で、たとえ最新作の出来がイマイチだったとしても、わざわざいちいち貶す作家ではないのよね。作品自体が貶させない空気を纏ってるし、それに貶すような映画ファンはそもそもウェス・アンダーソンを好きになってないし。
だから多少、ショッキングな記事ではあったと思うよ。ウェスのファン、通称ウェンにとっては。おれだってそうだもん。まさかウェス・アンダーソンの最新作をこんな糞味噌に貶すとは思ってなかったもん。おれの方が傷ついてるもん。
絶対、そうだもん!!
でも、これって恋の裏返しかもね。
恋はスリル、ショック…やべえ思い出せねぇ。「ハプニング」じゃないよな? 『コナン』のさ。昔の『コナン』の主題歌。恋はスリル、ショック、アマテラスみたいな。
そういうことだと思うよ。
次作がんばれ、ウェス。

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