どう考えても勝手にふるえるしかない、こじらせた傑作である。
OLのヨシカは同期の「ニ」からの突然の告白に「人生で初めて告られた!」とテンションがあがるが、「ニ」との関係にいまいち乗り切れず、中学時代から同級生の「イチ」への思いもいまだに引きずり続けていた。一方的な脳内の片思いとリアルな恋愛の同時進行に、恋愛ド素人のヨシカは「私には彼氏が2人いる」と彼女なりに頭を悩ませていた。そんな中で「一目でいいから、今のイチに会って前のめりに死んでいこう」という奇妙な動機から、ありえない嘘をついて同窓会を計画。やがてヨシカとイチの再会の日が訪れるが…。(映画.com より)
おはようございます。
「おはようございます」と言っておいてなんだけど、私は朝が嫌いだ。
朝が好きな人のことは好きだけど、朝自体は嫌いだ。もとよりこの世界は闇に包まれているし、嘘とか暴力とか粉飾決算で溢れているというのに、なにが朝だ。
「おはようございます」なんて、そんな悠長なことを言ってる場合か。
俺はいつだって夜の味方だ。夜は最高。夜はクール。基本的に社会がストップしているからやかましい人間がいない。それに内省的に物事と向き合える時間帯だし、だいたい涼しいし。
映画を観るのも夜が最適だ。特に真夜中ね。慌ただしい浮世から隔絶された世界で、ひとり静かに映画に身を沈める。深海を漂う謎の魚のように。
そんなわけで『勝手にふるえてろ』です。
このどうでもいい前置き、いつも思うけど「要るかな?」って。
もくじ
①紛うことなき松岡映画の爆誕。
私は『桐島、部活やめるってよ』(12年)で当時駆け出しだった松岡茉優を初めて見て「どえらい新人が出てきたな」と驚愕した。
あれから5年…。待てど暮らせど良い役は回ってこない。テレビドラマやバラエティで活躍する姿には興味はない。『ちはやふる』(16年)でも周囲の若手俳優とは明らかに格が違うことをまざまざと見せつけていたが、松岡映画とは呼べないので非常にもどかしい思いをした(『ちはやふる』は紛うことなきすず映画だ)。
周囲の大人たちが松岡茉優という才能を持て余していたことを如実に物語る歳月だったのだ。
そしてようやく松岡茉優の主演作が作られた。紛うことなき松岡映画の爆誕に震えながらの祝福。
「勝手にふるえてろ」
このパワーワードは、松岡茉優演じるヨシカが、ラストシーンのまさにここしかないという抜群のタイミングで自らに投げかける言葉だ。
②2010年代はこじらせ女子映画全盛!
古代生物マニアのヨシカは、毎晩インターネットで絶滅した動物について調べ、ネット通販で買ったアンモナイトの化石を愛でるようなOL。中学2年生から10年間片想いしているイチ(北村匠海)を今でも脳内に召喚しては妄想恋愛に充足しているこじらせ女子だ。
そんなヨシカに同じ会社の霧島(渡辺大知)が猛アプローチしてきたことで、ヨシカは霧島を「二」と呼び、脳内彼氏・イチと現実の男・二の狭間で揺れることになる…。
全国のこじらせピープルから共感を集めて絶賛されている本作だが、私の中では『川の底からこんにちは』(10年)という魂ブッ貫き級の傑作がこじらせ映画のバロメーターになっていて、それに比定するとやや気持ちが上がりきらない…というのが正直な感想。
それに、ここ10年でこじらせ女子映画は大量に作られてもいる。
『ヤング≒アダルト』(11年)、『フランシス・ハ』(12年)、『エイミー、エイミー、エイミー! こじらせシングルライフの抜け出し方』(15年)、『スウィート17モンスター』(16年)、そして『レディ・バード』(17年)…。
2010年代はこじらせ女子のディケードといってもよい。
そんなこじらせ女子映画全盛の中、『勝手にふるえてろ』はやや後塵を拝した感はある(綿矢りさの原作小説は2010年に発表されているのだが)。
とはいえ、ここからの巻き返しがすごい。
こじらせ女子映画の数々。
③こじらせピープルは世界に向かって常に毒を吐き続ける。
こじらせ女子映画にとって一番大事なのはヒロインのキャラクター造形だ。
奇矯、風変り、ときにはクレイジー寸前の人物設定は映画の求心力たり得てなければならず、それでいて観客からも愛されねばならない。
その点でヨシカというキャラクターは、まるで現代日本の若者たちのこじらせた葛藤や懊悩をすべて吸いこんで世界に向かって吐き出したような、鮮烈なキャラクターだ。
たとえば、ヨシカとは正反対で今どき女子の同僚・来留美(石橋杏奈)が「恋愛なんかにうつつを抜かすなんて…とか思ってるんでしょう?」と言って、ヨシカが「いや、そんなことないって」と半笑いで返す他愛のないやり取り。
たとえば、軽薄な男女が盛り上がる飲み会のノリについていけず、コンパ会場を抜け出したヨシカが外の空気を吸いながら「ファーック! ファーック!」と毒づくさま。
とかくこじらせピープルとは、世界に向かって常に毒を吐き続けることで薄汚れた精神をデトックスしている生き物だ。
私のブログなんてデトックスの最たるものだよ!
ヨシカの場合、その毒は微量ながらも、心のどこかで誰かを蔑むことによってシニカルに物事を捉える自分を確保して「私だけはまともだ」と思い込んでいる(私のようにね。私も常に世界に対して「イカレてるのはおまえらだ!」と思ってます)。
そうしたヨシカの複雑な心理は、「誰彼構わず渾名をつける」という身振りに顕れている。
来留美の彼氏・高杉くんのことを「出木杉くん」と呼んで冷やかす。
いつもオカリナを吹いているアパートの隣人(片桐はいり)を「オカリナ」呼ばわり。
サスペンダーに口髭の上司を「フレディ」と小ばかにする。
極めつけは、ヨシカを好いてくれる霧島のことを「一応、彼氏候補にしといてやるか」という意味を込めて「二」と呼ぶ。
もはや渾名っていうか、ただの序列だよ!
いみじくも来留美に人の名前を覚えないことを指摘されたように、誰彼構わず渾名をつけるヨシカは他人に対して徹底的に無関心だ。
そんな他人への無関心ぶりは、ヨシカが10年ぶりに再会した憧れのイチに「名前、何だっけ…?」と言われてしまったことで見事なまでに我が身に跳ね返る。
④もう若手俳優の中では松岡茉優しか信頼しない。
ヨシカはいつも街の人々と楽しそうに話しているが、中盤の種明かしを待つまでもなく、これがヨシカの妄想によっておこなわれている脳内会話であることがわかる。
現実と妄想を区分けするためのミュージカルシーンは強烈なインパクトを残すものの、説話的にはやや蛇足だったかもしれない。
また、終盤で二度ほど「ここで終わっていれば完璧だった」という映画の着地点を見失ってズルズルと物語が延長戦にもつれ込んでしまったり、始めて二と向き合うことを暗示する卓球シーンがメタファーとしてあまり綺麗におさまってない…といった欠点はある。
だがそれを差し引いても、本作にはユニークな描写や演出が多い(多すぎて情報過多になっている節もあるが)。
なんといっても「視野見」という発明だよね。
中学時代、イチを見ていることを気づかれないためにヨシカが編み出した、視界の端にイチを捉えるという「視野見」!
決してイチに焦点を合わせず、さりげなく視野の中にイチを捉えるという高度な技術を要する片想い術である。ちょうど「見てないようで見てる」というTHE YELLOW MONKEYの曲があるが、それを理論化したものが視野見なんですねぇ。
演出面では、豊かなメタファーの数々。
過去の記憶の中だけで生きるヨシカが古代生物に魅せられるのは必然。子孫が残せず絶滅していった古代生物はヨシカの片想いの行く末そのものだ。
また、螺旋巻きのアンモナイトと同じく、ヨシカの片想いもまた同じところをグルグルと回っている。
赤い付箋、こじ開けられる扉、どしゃ降りの雨、絡み合う釣り糸など、さりげない比喩表現によってキャラクターの内面は奥行きを増し、物語はより立体的にたちあがる。
そして、まさにここしかないという抜群のタイミングでヨシカが自らに投げかける「勝手にふるえてろ」。
どう考えても勝手にふるえるしかない、こじらせた傑作である。
「若手俳優の中では松岡茉優しか信頼しない」という精神の土台は出来上がった。
頼むぜ、松岡茉優。日本映画界にはびこる首がすわらないフニャフニャ映画や、首がすわらないフニャフニャ俳優をなぎ倒してくれ。