ジェニファー・コネリーの転換点となった水漏れ映画。
2005年。ウォルター・サレス監督。ジェニファー・コネリー、アリエル・ゲイド、ジョン・C・ライリー、ティム・ロス。
ニューヨークに住む離婚調停中のダリアと幼い娘セシリアは、マンハッタンから離れたルーズベルト島のアパートに引っ越す。ところが、その部屋の天井からは水が漏れ、周囲で奇妙な出来事が起こる。これは離婚や転居、新たな仕事のストレスを抱えるダリアの妄想なのか?(映画.com より)
Jホラー全盛期に作られた『仄暗い水の底から』(02年)のハリウッド・リメイク。
監督が『モーターサイクル・ダイアリーズ』(04年)のウォルター・サレスなので、いわゆる純ホラー的な表現は期待していなかった(もともと『仄暗い水の底から』自体、「母」を主題とした親子の物語なので)。
「旅」を描くウォルター・サレスにとって、アパートという限定空間を舞台にした本作は大きな挑戦だっただろう。ましてや、そのアパートがあるのはマンハッタンとクイーンズに挟まれた細長い小島(ルーズベルト島)なのだ。
おそらくウォルター・サレスは「この親子が島から抜け出してバイクで南米を横断する話に変えようかな」と撮影中に何度も夢想したはずだ。あるいは、サレス自身がバイクに跨って撮影現場から逃げ出していたかもしれない。
映画作家に限らず、すべての表現者にとって自分にはない作風や真逆のテーマに取り組むのは大事なことだ。慣れないことをするわけだから当然リスクはあるが、失敗しても別に気にしなくていい。この世には「実験作」という便利な言葉があるのだ。
ところが『ダーク・ウォーター』は失敗しなかった。
むしろ、最近『電話で抱きしめて』(00年)や『明日の私に着替えたら』(08年)などうんざりするようなメグ映画ばかり観ていた私にとっては、やっとまともな映画にありつけたと胸を撫で下ろすような良作だった(『明日の私に着替えたら』はあまりに馬鹿らしいのでレビュー書いてません)。
運悪くロクでもない映画ばかり連続的に観てしまうと、次第に映画そのものに対する不信感が募って「映画なんて真っ平だ!」と捨て鉢の気分になってしまう。
そんなささくれ立った心を癒して、私を再びスクリーンへと向かわせてくれるのは、まさに『ダーク・ウォーター』のようなそこそこの良作だ。
度を越した傑作ほど魂を揺さぶることはなく、度を越した駄作ほど激情へと駆り立てることもない。だが、そこそこの良作にはそこそこの良作にしかない効用がある。それは「よし、映画を見続けよう」とそこそこの気概を奮い立たせてくれることにほかならない。
言い忘れていたが、私は過去に『ダーク・ウォーター』を途中まで観たことがあるのだ。
鑑賞中にうっかり熟睡してしまって、目が覚めたらビデオの返却日。イチから観返している猶予はない、というので韋駄天走りをしてビデオを返しに行った。
話は逸れるが(さっきからずっと逸れてるけど)、私はレンタルビデオを延滞する人の気がしれない。どういう精神構造をしていたら何泊も延滞できるのだろうと不思議に思う。まぁ、人生いろいろ、事情はさまざまだろうが、延滞金ほど無駄な出費はない。
無駄な出費を浮かせればその金でほかのビデオを借りられるし、より多くの映画と出会える…という考え方です。私は。
窓越しジェニファー。
さて、ようやく本論。
この映画の主役はアパートそのものだが、これが実によく撮れている。
オリジナルの『仄暗い水の底から』と比較するわけではないけれど、Jホラー的な湿度の高さがへばりつくような気持ち悪さを掻き立てる。
大体において、アメリカン・ホラーは映像自体がカラッとしているし、イタリアン・ホラーは耽美的だ。そこで描かれている内容はどうであれ、映像自体に気味の悪さはあまりない。
その点、Jホラーは傑出している。映像の湿度が高いからだ。たとえば風呂や台所といった水回り。たとえば壁のシミやカビ。あるいは撮影前に水を撒いて濡らしたアスファルトなど。とにかく水気が多い。
不気味なアパートに越してきたジェニファーが、天井から水漏れしていることに気付く。引っ越し初日でこのざま。
ジェニファー「何これ、水漏れ? きったないわねー」
管理人のジョン・C・ライリーと弁護士ティム・ロスも口を揃えて「きったねえなー」と漏らす。
私は、真っ暗な部屋で独りで観た『リング』(98年)にも『呪怨』(03年)にもいっさいの恐怖心を抱くことはなかったけど(別の記事でも言ってるけど、怖くない自慢じゃなくて「怖がれないという業」を背負っているのです)、「気持ち悪いな。イヤだな」という不快感ははっきりと抱いた。それは映像自体がベチャ~っと湿っているからだ。
特に本作は「水漏れ」というモチーフが頻出するので、湿っているどころかずぶ濡れ状態。
「水を撮る」というのはごく一部の監督にしかできないほどの高等技術(世界一水を上手く撮る監督はもちろんアンドレイ・タルコフスキー)だし、実際、この映画での水表現も別に上手いというわけではないのだけど、少なくとも不気味には撮れている。
雨漏り、浸水、そして雨…。
そうした水のイメージは、やがてジェニファー・コネリーが流した一粒の涙へと収斂されていく。派手さこそないが見事な演出だ。
人が『ダーク・ウォーター』を観る理由があるとすれば、それはただひとつ、ジェニファー・コネリーです。
特にジェニファー研究家にとっては欠かせない作品なので、その一論考を開陳いたす。
この映画で彼女が演じた役柄は、イナジナリーフレンドと遊ぶ娘とアパートで起こる不可解な現象に神経を参らせて憔悴していく母親だ。
ここでポイントとなるのは「憔悴」する「母親」という二つの要素。
まずは『レクイエム・フォー・ドリーム』(00年)や『砂と霧の家』(03年)で確立した憔悴演技。本作はその総決算だ。ジェニファーが独自に確立した憔悴メソッドの到達点と言ってもいい。
一方、女優としてのジェニファーの出発点こそが「母親」。
今でこそ母親役ばかり演じるようになったが、『ダーク・ウォーター』はジェニファーが初めて母親を演じた作品である。その後、ジェニファーの母親メソッドは『帰らない日々』(07年)や『アメリカン・バーニング』(16年)へと継受されることになる。
したがって本作は、ジェニファーの母親メソッドの出発点とは言えまいか(言える言える)。
つまり『ダーク・ウォーター』は、女優ジェニファー・コネリーの「出発」と「到達」を同時に予感させる転換期的な作品なのです。
そんなことも知らないでジェニファー・コネリー特集を組んでいたなんて恥ずかしい。
どうもすみません、全世界に約4億人いるであろうジェニファー研究家の皆さん。
今は亡きピート・ポスルスウェイトと!
追記
ジョン・C・ライリー、ティム・ロス、ピート・ポスルスウェイトなど、脇を固める俳優がヤケに豪華なのも特徴。
ただし「ホラー映画」と「豪華キャスト」はすこぶる食い合わせが悪く、却って恐怖感が薄れてしまう…という欠点はある(馴染みのメジャー俳優ばかりだと明るい気持ちになるからね)。