どうも全員ハロー。『シネマ一刀両断』ではなく『シネマ一問一答』のお時間がやって参りました。総合司会は私、ふかづめです。
日常会話やSNSを通して、しばしば映画にまつわる質問を受けることがあります。
それは決して私がみんなから信頼されている映画博士だからではなく、「コイツとまともに会話するには映画の話しかない。だってコイツにはそれしか話の引き出しがないから」と憐れまれた結果、周囲の人々は気を遣って映画の質問をしてくれているだけなのです。
ああ、わかってるよ!
そんなことはオレが一番わかってるよ!
普段あまり会話しない人から話しかけられる場合は、だいたい映画の話題だよ。それは取りも直さず「コイツと接点を持つには映画しかない…」と思われてるからだよ!
気を遣わせちゃってごめんなさいね。
全員死ね!
最後にオレが死ぬから全員死ね!
のっけからヒスを起こしちゃったよ。おはようございます。
とにかく私は年中通して映画にまつわる質問をよく受けるのです(そういう星の下に生まれたのでしょう)。
そこで受けた質問とそれに対する回答を前後編に分けてお送りしようと思っているんだ。
(なぜこんなスペシャル版でお送りしているのかというと、いつもやってる映画評のストックが尽きかけているからです。まぁ、俗に言う時間稼ぎってやつです)
※1を聞かれて10を答えるのスタンスで、皆さんの何気ない質問に対して猛烈に暑苦しい長文でお答えしてますが、実際リアルで質問を受けたときは「本文で示したアンサーの5分の1ぐらいのボリューム」で「もっと角の立たない表現」で答えてます。
つまりこれからお読み頂くアンサーは、実際の回答が20パーセントと「本当はここまで言いたかった」という脳内補完が80パーセントです。
それでは参ります、『シネマ一問一答』。
Q1 最近観た中でおもしろい映画はなんですか。
A.1 最近観た映画が思い出せません。
Q.2 近々、企業の面接を受けます。履歴書の趣味の欄に「映画鑑賞」と書くつもりですが、面接官に趣味の話を振られた際に「こいつ、センスいいな」と思われ、なおかつ誰でも知っていて会話が弾むような作品を教えてください。
ちなみに僕がマジで好きな映画は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84年)ですが「なにそれ?」で終わってしまいそうなので言い出せません。
A.2 ※旧友からの質問です。
わかりました。つまり、あなたは面接での会話をあらかじめ想定して理論武装したいわけですね。なおかつ双方が気持ちのよい言論空間を構築して、あわよくば自分のセンスに唸ってもらいたい、と。
なるほど。要求が多すぎるうえに非常にいやらしい質問ですね。
いいでしょう。ならば徹底的に打算を働かせましょう。
まず、『バッファロー’66』(98年)とか『アメリ』(01年)など、アーティスティックでハイセンスな映画を好きだと意思表示することで自分のステイタスを表明する…というあざといアピールは往々にしてすぐに見抜かれがちなので危険を伴います。
センスのいい映画に対して「好きだ(つまりセンスのいい映画が好きな自分はセンスがいい)」と声高に叫ぶ奴ほどセンスがない…というパラドックスが生じるからです。
かといって、あなたがマジで好きな『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』を挙げたところで、まぁ「なにそれ?」で終わるのが関の山でしょう。
だったら、まずは有名な映画の中からあなたが最も好きな映画を探してください。次に、その対極にある映画を探して、その両方を提示すればいいのです。
たとえば…
王道の映画といちびった映画。
娯楽映画とアート映画。
ハリウッド超大作と自主映画。
『アルプスの少女ハイジ』と『魔女っこ姉妹のヨヨとネネ』。
ディープ・パープルとキャプテン・ビヨンド。
米とキャビア。
百姓と高官。
BMWと乳母車。
情熱と冷静。
月とスッポン。
そのギャップに、人事担当の奴らもギョッとして、あなたに興味を示すでしょう。「振り幅が…。振り幅がすげえ」つって。会話も大盛り上がり。かくして面接は大成功です。よかったですね。
Q.3 映画が好きで、大学で映画の勉強をしています。観るべき映画を教えてください(ただしクラシック映画は不可。苦手なので)。
A.3 「観るべき映画」を狭義として解釈すると、これはすさまじい難問ですね。
「クラシック映画は不可」の時点で、観るべき映画の大半を取りこぼすことになるからです。
極論を言えば、60年代以降の映画(現代映画)は、60年代以前のクラシック映画によって開拓された表現技法を、発展させたり応用したり無視したりブッ壊したり…、という映画の遊戯に過ぎませんから、クラシックをスキップしてしまうと理論的には「何も観なくていい」または「観たいものを観ればいい」という両極端な結論に辿り着いてしまいます。ヒッチコックを押さえずにデ・パルマだけ観てもしょうがないわけですけど、それもひとつの楽しみ方ですからね。
でもそれを言ってしまうと観も蓋もないので、無理くり質問に答えますと、「観るべき映画」を探すよりも「観なくていい映画」をまとめてリストアップして闇に葬り去った方が効率的ではないかと思います。
たとえばウディ・アレン。『アニー・ホール』(77年)だけチェックして「こういうおっさんか」と頭の片隅に留めさえすれば、残りの50作品は観なくていいです。
『勝手にしやがれ』(59年)以外の全てのヌーヴェル・ヴァーグ。
『俺たちに明日はない』(67年)以外の全てのニューシネマ。
アカデミー賞に引っかかった全ての作品。
おすぎが褒めた全ての作品。
21世紀以降の映画は『マトリックス』(99年)だけ観ていれば問題なし。
ニュー・ジャーマン・シネマやイギリス・フリーシネマも、書籍やネットで調べて観た気になれば万事オーケー。
スピルバーグを一本も観なくても、雰囲気でだいたいわかるでしょう。
このようにして「観なくていい映画」をどんどん切り捨てていくのです。
そうすれば最終的に、何も観なくても全てを観た気になった統合失調症的全知全能の神になれます。
羨ましい限りです。
Q.4 好きな名セリフはありますか。
A.4 好きな名セリフは一個もないので、好きな「映画監督の名言」をご紹介させて下さい。
「トーキーは沈黙を発明した」
「私はケーキの断片を映画に撮る」
「ストーリーなんて語らないことが鉄則」
「もしあなたがハッピーエンドを望むなら、それはどこでストーリーを終わらせるかの違いがあるだけだ」
Q.5 「製作総指揮」ってなんですか。
A.5 その映画に出資をしていて、プロデュース権限を握っているお山の大将です。
スピルバーグみたいに有名な人がプロデューサーとして名前を貸すことで作品に箔をつける…という戦略的な狙いも兼ねています。
とりあえず無視しても差し障りありません。
Q.6 子供におすすめのアニメ映画を教えてください。
A.6 やはり『Mr.インクレディブル』(04年)と『平成狸合戦ぽんぽこ』(94年)を見せることが盤石の教育プログラムだと考えています。
ディズニー・ピクサーが贈る『Mr.インクレディブル』は、ヒーロー・ファミリーの物語です。勃起不全になった父親が自信喪失して、再び男性性を獲得してすばらしいセックス・ライフを送るまでを健やかに描いた教育的な作品です。
スタジオジブリが贈る『平成狸合戦ぽんぽこ』は、人間社会と狸社会の血で血を洗う抗争を描いた、子供向けのVシネマです。エロ・グロ・バイオレンスの三拍子が綺麗に揃ったジブリ屈指の教育アニメといえるでしょう。
お子さんがもう少し大きくなれば、ぜひ『千と千尋の神隠し』(01年)を見せてあげてください。10歳の少女・千尋が「千」という源氏名をもらって湯女として売春街で働く、労働についての作品です。
Q.7 私があなたにおすすめ映画を聞いた際に、しばしば「おもしろくはないけど~」と前置きされますが、いったいどういう了見ですか。
A.7 「おもしろい・つまらない」というのは評価の絶対的な主軸ではなく、あくまで映画の在り方のひとつに過ぎないと考えています。
おもしろくはないけど目が離せなかった映画。
おもしろくはないけど心に焼きついた映画。
おもしろくはないけど為になった映画。
「おもしろい・つまらない」という尺度で総ての映画の価値が決定されるなら、これらの映画は無価値ということになりますし、この世の総ての映画はマーケティングを意識した商業映画になってしまいます。マイケル・ベイのようなね。
というか、「おもしろい・つまらない」という二元論的な語彙で単純に要約できるほど、映画の息遣いや表情や肌触りは簡単に知覚できるものではありません。映画とはもっと微妙なもので、さまざまな感情や思索を喚起するものです。
また、微妙であるがゆえに人は単純化したがる。そして単純化とは「おもしろい・つまらない」という二元論的な語彙で価値判断することにほかなりません。
「おもしろい・つまらない」という判断基準は、たとえば絵画に対して「上手い・下手」という尺度で評価してしまうことの頓珍漢っぷりを私に思わせます。ピカソの絵に対して「こんな下手でもいいなら俺にだって描ける」と口を滑らせる非文明人は今でもいるのですから(わぉ!)。
なので私が「おもしろくはないけど~」と前置きするときは、「おもしろさとは別の魅力がある映画だけど…」とか、そもそも「おもしろい・つまらないという単純な尺度で判断すべき映画ではないけど…」といったニュアンスを含んでいます。面倒臭い話をしてすみません。
でも言い訳をするわけではないのだけど、映画とはもともと面倒臭いものなのです。
もともと面倒臭いものを単純化するなんて、ハナから無謀なのかもしれませんね!
Q.8 映画が好きというより、映画スターが好きな連中が周りに多くてむかつきます。
友達がスカーレット・ヨハンソンが好きだというから、「僕は『モンタナの風に抱かれて』(98年)や『私がクマにキレた理由』(07年)のスカヨハが好きだよ」と返したのですが、何のことはない、その友達は『アベンジャーズ』(12年)でしかスカーレット・ヨハンソンを見てなかったのです。それはスカヨハ好きではなくて、ただのブラック・ウィドウ好きだろ!(ブラック・ウィドウ…『アベンジャーズ』におけるスカヨハの役名)
あとはグーグルでスカヨハを画像検索して喜んでるだけ…。
スカヨハが好きなら『アベンジャーズ』以外の映画も観て! と言いたいです。
どう思いますか?
A.8 「どう思いますか」?
そうですねぇ、悲しい話だと思いました。
スター・システムの弊害と嘆くほかありません。
スター・システム、要するに「俳優を使って客を呼ぶ」という経営戦略は、ハリウッド黄金期(1930~50年代)から連綿と受け継がれてきた商業映画のセオリーで、1948年に独占禁止法が施行されるまでは各映画会社が専属契約したお抱えスターが映画の集客力に直結していました。
人民は映画ではなくスターを見るために映画館に足を運んでいたのです。「会いに行けるアイドル」とシステムは同じです。
けれども、あなたが仰るように、今や俳優が出ている作品を観てなくても「石原さとみ可愛い」とか「菅田将暉やばくね!」などといってスターを愛でる時代。映画俳優というものはスクリーンを通じてしか見ることができないのに、現代では俳優の画像だけ見て「かわいい」とか「イケメン」などと平気で値踏みする時代なんですもの。
たぶん、「映画俳優」と「有名人」を一緒くたにしている人が多いのでしょう。事実、映画俳優がくだらない雑誌やCMに出ていることからも、ざっくり「有名人」として括られているのだと思います。かくして俳優神話は滅び去るのです。合掌。
Q.9 映画を観ながらご飯を食べる行為はタブーですか。
A.9 そうは思いません。
「ご飯を食べながら映画を観る行為(ながら見)」はタブーですが「映画を観ながらご飯を食べる行為(ながら食べ)」はセーフだと思います。
要はどちらがメインか? というのが分水嶺になると思うんですよね。
なお、インド映画を観ながらカレーを食う行為は、タブーどころかリスペクトに等しい行いなので推奨されています。
反対に、洋食を食いながら日本映画を観る行為は、その両方に対する冒涜を意味するので天罰が下る確率が気持ち高めになります。
Q.10 友達とよく映画を観に行くのだけど、その友達はミニシアター系が好きみたいで、私と映画の好みが合いません。私はハリウッド映画のような豪華でスカッとする映画が好きなのです(最近だと『ワンダーウーマン』!)。
その友達とは、映画館に行くたびに何を観るかで言い争いになります。解決策を教えろ。
A.10 何が問題なのかよくわかりません。
一緒に映画館に行って別々の映画を観ればいいじゃないですか。私はそうしてますよ。
二人で映画館に行ったからといって必ずしも二人で同じ映画を観なければならない、なんて法はありませんよ。
そもそも、映画というのは原理的に他者と共有できないものです。共有できるのは映画を観た感想だけです。
「みんなと映画を観る喜び」なんて寝ぼけたことを言う人がたまにいらっしゃいますけど、「みんなと映画を観る」なんてできやしませんよ。
スクリーンと向き合うという行為は、自分と映画との間に一対一の関係を結ぶことにほかならないからです。
たとえば友達十人を家に招いてひとつの映画を観たところで、そこには一対一の関係が十通り結ばれるだけです。
話は逸れますが、だから映画デートなんてものは、デートとしては非合理的というか、そもそもデートとして成立し得ないんですよ。
ひとまずデートの定義を「男女が二人で何かをして共通の体験を持つこと」だとすれば、映画デートというのはそもそもが語義矛盾です。一人で映画を観ている人間が二人いるだけのことですから、それはデートじゃなくてただの個人作業×2でしょう?
なので、あなたはハリウッド映画を、その友達はミニシアター系の映画を好き好きに観ればよろしいのとちゃいますか。
趣味とか感性の合致が必ずしも友達の条件ではないのです。むしろ、好みや価値観が違う方が有意義な関係を築けると思います。友達が少ない僕が言うのもなんだけど。
つーか、何を観るかで言い争いしてるときが一番輝いてるよ、おまえら!
Q.11 映画が始まるときに、20世紀フォックスとかパラマウント、なんつって映画会社のロゴが出てくるけど、なんか意味あんの。映画会社によって作風が違うとか?
A.11 意味というか、「俺たちが作ったよ!」っていう猛アピールですよね。あれはね。
ロゴなんてものは自己顕示欲がシンボルになったものに過ぎません。あと、組織力の誇示ですね。
暴力団の代紋、あれだってロゴといえばロゴですよ。ステッカーにして駅前で無料配布すればいいのに。きっと構成員が増えますよ。
また、ダメな組織ほどロゴに凝りたがる傾向があると思います。オウム真理教とかね。
いい組織はロゴがすっきりしてますよ。プーマとか山口組とかね。
せっかくなので映画会社の話を少し。
20世紀フォックス、パラマウント、ソニー、ワーナー、ユニバーサル、ディズニーが「ビッグ6」と呼ばれる大手映画会社です。日本における東映、東宝、松竹みたいなノリです。
1930~40年代には、各社が専属の俳優・スタッフを擁して、あなたが言う通り、それぞれの特色を押し出した個性勝負な部分がありました。その背景には、製作・配給・興行のすべてを一社がコントロールする「スタジオ・システム」という制度による市場競争があったからです。
任天堂ならマリオを、カプコンならストリートファイターを、SEGAならソニックを推しますよね。アレと同じです。
ところがどっこい、司法省が映画業界の縦支配構造を独占禁止法違反として訴訟を起こし、1948年にスタジオ・システムの垂直一貫体制は崩壊。それ以降は、製作・配給・興行の業務部門が切り離され、俳優は映画会社のお抱えではなく、いわば個人事業主として好き好きに活動するようになりました。
つまり、この世は荒野と結論づけることができるわけです。
荒野に咲くバラであれ!
Q.12 かわいい動物がたくさん出てくる映画を教えてほしいのです。どうか頼む。
A.12 『ベイブ』(95年)あたりが丁度よろしいのとちゃいますか。子豚をはじめ、犬、猫、アヒルなど、チャーミングな動物がたくさん登場して参りますよ。
ただ、可愛さ余って憎さ百倍というか、だんだん主人公の豚にイラついてきます。自然にしていれば可愛いものを、わざとかわい子ぶったりするんですよねぇ、この豚が。
なんにせよ、かわいいものだけに価値を置くと、人間、バカになるので『ベイブ』のあとは『ブタがいた教室』(08年)とか観て、ぜひ「豚を食うこと」について考えてみてください。
ただし、先に『ブタがいた教室』を観てしまうと、そのあとの『ベイブ』がぜんぜん楽しめず、ベイブが走る豚肉にしか見えなくなるので注意が必要です。
その辺の前後関係はしっかりしてください。自己責任でたのみます。ブヒ!
Q.13 映画興行ってどういう仕組みになってんすか。俺たちが払ったチケット代はどこにいくんすか。なるべく分かりやすく解説してみ。
A.13 映画興行における金の流れを1分で説明します。
まず、客のあぶく銭がチケット代1800円として「映画館」に入りますよね。
そのあと映画館は、配給収入というものを「配給会社」に支払います(映画館が儲けた興行収入の40~70%)。
そのあと配給会社は、配給収入から宣伝費を差っ引いた配分金というものを「制作会社や出資者」に支払います。
そして「制作会社や出資者」は、搾りカスみたいな配分金を使ってハンバーガーなどを随意に購入してうまうま食います。
つまり俺たちが映画館の窓口で払ったチケット代は、最終的にバーガー代に消えるわけです。
わかりましたね。
Q.14 実写映画についてどう思ってるん。
A.15 まず、実写映画について思うことよりも、実写映画に対して形式的な批判しかできない大衆の愚鈍さについて思うことの方が多いです。
まず、「原作と違う」とか「こんなの〇〇じゃない」という、これまでに百億回ぐらい発声または記述された脳死フレーズ。
「映画化」というのは「原作を映画として再現すること」ではなく「原作を映画として作り変えること」。まずこの「映画化」という日本語すら理解していない人民がけっこういるので、戦後日本の言語教育は失敗だったといえます。パラレルワールドの日本に期待しましょう。
もともと映画でないもの(原作小説なりマンガなり)を映画にするわけですから、もともと表現媒体が異なる原作を完コピすることが「映画化」の目的ではありません(そもそも完コピしようとしたところで物理的に不可能なわけですが)。
にも関わらず、大衆というのはバカの最大公約数ですから、「二次元のキャラクターを三次元の俳優に置き換えること」とか「30巻以上の原作マンガを120分の映画におさめること」に頓着します。そういう話ではないのに。
原作が持っていたマンガ的手法なり小説的手法を、映画的手法を使って映画表現することが「映画化(映画として作り変えること)」なので、むしろすぐれた映画化作品ほど原作とは大きくかけ離れた技法や視座を持っています。
だから「原作と比べてここが違う!」といって比較すること自体が没理論の極致、ナンセンスの極北だと思います。
つけ加えるなら、バカの最大公約数たちは「怖いもの見たさの好奇心」や「貶すために観る」という邪悪な動機で、あれだけ忌み嫌っていた映画化作品になんやかんやで金を落とす。金を落とすからまた作られる。バカのスパイラルですよ。
一方、制作側にも問題はあります。そんなバカ相手に商売してるので、やがて手抜きを覚えはじめるのです。
人気マンガの映画化とあらば、作品の出来がどうであれ、結局は世間からヒステリックに非難されるのは目に見えている。だけど一定数のバカは喰いついてくれる(貶すためにわざわざ観てくれる)ので、まじめに作ろうが手抜きしようが同じこと。だったら手抜きして一定数のバカを確実に釣って儲ける…というサイクルが成立するのです。すてきな商売ですね。
つまり、昨今顕著なマンガの映画化なんて、作り手としては別に「原作ファンを納得させるような良いものを作ろう!」なんてことはさらさら思ってない。むしろ原作ファンが怒ってネットで騒げば騒ぐほど、してやったりと思ってるでしょうね。「釣れたな」と。
だからある意味では炎上商法なんです。
暴走する映画化ブームにガソリンを注いでいるのは、ほかならぬ原作ファン自身。すべての原作ファンが3年ガン無視していれば映画化ブームなんてすぐに収束するんですけど、まぁなかなか難しいようです。
Q.15 10年後どうなってるのか楽しみな女優をランキング形式で教えないと、金輪際あなたとはお喋りしない!
A.15 なおきちさんからの温かいリクエストです。
私は刹那主義および回顧主義で、未来にはまったく興味ないんですよ。そもそも自分が明日生きてるかどうかもわからないので。
でもそんなことを言ってたらなおきちさんとお喋りできなくなってしまうので、想像力を発射して10年後どうなってるのか楽しみな女優を3人挙げてみます。
3位 メリル・ストリープ
「そういうこっちゃない」となおきちさんから叱られてしまいそうです。
や、もちろん分かってますよ。「若手女優から選べ」という含意ぐらいはさすがの私も察してます。
でも、そこであえてのメリル・ストリープ。
これって実は正解なんじゃない? と思ってます。
メリル・ストリープといえば、アカデミー賞を取るたびに「またかよ!」と会場中からつっこまれる69歳の大ベテラン。そんなベテラン・ストリープが、果たして10年後にどこまで行ってるのか…。映画史上類を見ない大女優になってるのか、はたまた死んでるのか…気になりませんか?
2位 ユアン・マクレガー
ユアン・マクレガーの10年後は非常に気になります。
まぁ10年後といってもまだ57歳ですから、現役バリバリでやってるでしょうね。現在のジョニー・デップが55歳ですから。
あ、でも、そう考えると別に気にならなくなってきました。
まぁ、ユアン・マクレガーの名前を出したかっただけ…という節は否めません。許して丁髷。
1位 ケイト・ブランシェット
ケイト様は現在49歳。
私は「このまま順調にいけば15年後には大女優になっている」と踏んでいるので、その予想が当たってるかどうかを確認したいという意味でケイト様を1位に選びました。
ポスト メリル・ストリープに最も近い女優で、特に近年は映画を選ぶ眼が熟成されているので、10年後が本当に楽しみです。
これにて前編は終了です。性懲りもなく最後まで読んでくれた方、お疲れさまでした!
後半はもっと暑苦しいけど、各自熱中症対策などして一緒に乗り越えましょう。水分補給は小まめにね。