ポワチエのナゾ推理力とスタイガーのガム咀嚼力が火を噴く栄光のB級映画!
1967年。ノーマン・ジュイソン監督。シドニー・ポワチエ、ロッド・スタイガー、ウォーレン・オーツ。
南部で発生した殺人事件の容疑者として、駅で列車を待っていた黒人青年ヴァージルの身柄が拘束された。しかし警察の取り調べによって、ヴァージルは殺人課の刑事であることが判明する。警察署長のビルは、ヴァージルに反感を覚えながらも、協力して捜査を進めていくが…。(Yahoo!映画より)
どうもおはよう、非戦闘員の諸君。
先日から記事編集すると画面がガクガクするバグに苦しむあまり私自身がガクガクしているけれども、運営に問い合わせたところ「あーそれな。最近特定のブラウザで確認されたバグやねん。悪いけど復旧の目処が立つまで別のブラウザ使って丁髷」という丁寧なイーメールを頂きました。イーメールを頂くのって嬉しいよね。基本的に。
たしかにブラウザを変えるとバグは発生しなくなったけど、代わりに斜体ボタンが利かなかったり文字色が変えられなかったりと様々なアナザーバグが生じ、なんだか頭までガクガクしちゃう。あちらを立てればこちらが立たず。何のしわ寄せをおれは受けてんねん。
まあ、不便なことには変わりないけど編集自体はできるようになったので、差しあたってはこれまで通り批評活動は続けられそうです。
運営の皆さまにおかれましては、色々とご苦労なことですけど、可及的速やかに問題を解決して今一度わたしの顔に笑みを取り戻して頂きたいと思いますねえ。
そんなわけで本日は『夜の大捜査線』。まあ、私としてはバグの原因を捜査してほしいのだけど。
◆時代のテクスチャーを見事に視覚化。ポワ~チエチエ!◆
第40回アカデミー賞で作品賞を含む5部門に輝いた余栄によるものだろうが、『夜の大捜査線』は“不朽の名作”と目されて「午前十時の映画祭」などでリバイバル上映されるほど人気の高い作品だけれども、私はこういう作品をむやみに神格化することには断固反対で、もっと庶民感覚で親しまれるべき映画として裾野の広さを示していくべきだと思っている。格調高い映画ほど人は敬遠するためである。
そういえば昔、世界史の教科書で『モダン・タイムス』(36年)が紹介されていたけど「学校の教科書に映画なんか載せるな」と思ったし、授業の一環として教室のブラウン管テレビで映画を見せるようなわけのわからないカリキュラムに至っては今すぐにでも破壊した方がいい。なぜなら映画とは“世界を知るための教材”でもなければ“誰かに強いられて見るもの”でもないからだ。そんなカリキュラムは破壊するに限る。
そう、私には夢があるっ。
私の夢! それは、アカデミー賞作品や文部科学省特選、あるいは池上彰の映画解説などによって教材化してしまった作品を解放することです。そして“戦争見つめ直し装置”としてではなく“アニメーション”として『火垂るの墓』(88年)を真っ正面から見つめてみたい。
そんな願いを込めつつ『夜の大捜査線』を論じていくけれども、これは激烈にシブい刑事映画だよ。
ある晩、ミシシッピ州の路地裏で男が殺害され、現場付近にいた黒人男性が誤認逮捕されてしまう。ところがどっこい、その黒人はフィラデルフィア市警の敏腕刑事だった。休暇中にも関わらず「ついでだから手伝ってあげなさい」と上司に任じられた刑事は、差別主義者の白人署長のもとで嫌々ながら捜査に乗り出す。
時は公民権法が制定されて間もない1966年。人種差別の激しいアメリカ南部の田舎町で迫害と侮蔑に晒されながらも名推理を披露するスマートな黒人刑事と、彼が都会派の高給取りであることに屈辱感を覚える白人署長。だが、犯人逮捕という共通の目的に向けて執念を燃やすうち、徐々に二人の足並みはそろい始める。
果たしてこの犬猿コンビは犯人に辿り着くことが出来るのか? 出来ないのか?
そりゃ出来るはずだろう? それとも出来ないというのか!?
でも出来なきゃ映画が終われないだろう? まさか本当に出来ないのか!?
出来るだろう? 出来ないの!?
本当は出来るんでしょう? それとも何け、おまえ、本当に出来ないとでも言うつもりだとでも!?
…といったあらましである。ハイ楽しそうだね。
黒人刑事を演じたのはシドニー・ポワチエ。以前『チエチエの紐』みたいなタイトルの映画でも取り上げたことが記憶に新しいね。人種の壁をぶち破った世界初の黒人映画スターだ。
そして差別主義者の白人署長役がロッド・スタイガー。タフな鬼軍曹からマザコンのオバキラーまで演じ分ける技巧派の名優である。
また、巡査役には「ガルシアの首持ってこい!」で知られるサム・ペキンパー作品常連のウォーレン・オーツ、署長に圧力をかける地元市長役はウィリアム・シャラート、遺族の未亡人役には『探偵物語』(51年)のリー・グラントなど、60年代を駆け抜けた強力な俳優たちがずらりと雁首を揃える。
制作陣もすばらしい。
撮影を手掛けたのは『アメリカン・グラフィティ』(73年)や『カッコーの巣の上で』(75年)のハスケル・ウェクスラーだ。テクニックには乏しいが、同時代的な空気を真空パックする腕だけで名カメラマンにまで上り詰めた男。
脚本は『タワーリング・インフェルノ』(74年)を大ヒットさせたあとに自身のキャリアがインフェルノと化したスターリング・シリファント。音楽は「愛のコリーダ」のディスコ版カバーやマイケル・ジャクソンの『スリラー』を世に送ったジャズ界の大家クインシー・ジョーンズ。
監督は『シンシナティ・キッド』(65年)や『華麗なる賭け』(68年)など、スティーブ・マックイーンの主演作で知られるノーマン・ジュイソン。ノーマンはヤケに息の長い職業監督で、キャリア中期以降はアル・パチーノがジャスティスを振りかざす法廷映画『ジャスティス』(79年)、シェールとニコラス・ケイジが月の輝く夜に結ばれる『月の輝く夜に』(87年)、ロバート・ダウニー・Jrがマリサ・トメイにオンリー・ユーだと囁く『オンリー・ユー』(94年)、デンゼル・ワシントンが冤罪で捕まったボクサー、ルービン・“ハリケーン”・カーターを演じた『ザ・ハリケーン』(99年)など数多くの凡作を残している。
左上から時計回りに、シドニー・ポワチエ、ロッド・スタイガー、ウォーレン・オーツ、リー・グラント。
◆オーツの名推理、スタイガーの神棚要請◆
公民権法が制定された3年後、そしてキング牧師暗殺の1年前に作られた本作は、公民権運動の熱気と緊迫感に包まれた時代のテクスチャーを見事に視覚化している。アラン・パーカーの『ミシシッピー・バーニング』(88年)も当時のアメリカ南部における黒人差別の表皮をひっぺがした力作だが、やはり本作や『アラバマ物語』(62年)に比べるとコスチュームプレイに見えてしまう。
なんと言ってもシドニー・ポワチエへと向けられた嫌悪の眼差しが恐ろしい。署長のスタイガーは明らかに黒人を憎悪している目つきだが、部下たちの方はこれといって偏見や敵愾心こそないものの、上司のスタイガーが(あるいは社会全体が)黒人を見下しているので自分もそれに倣うのが得策だといわんばかりの右顧左眄アイズでポワチエを蔑視。結局のところ差別やいじめを助長するのは、スタイガーのように嫌いなものには「嫌いだ」とはっきり言える人物ではなく、人の意見にヘーコラと付和雷同するような意思軽薄な人間たちなのだ。俺はそう思うけど。
そして、この右顧左眄アイズが呆れるほど醜い視線劇としてポワチエの善意を蝕んでゆく“瞳の物語”。それが『夜の大捜査線』である。
映画は、夜間パトロール中のウォーレン・オーツが死体を発見し、近くの駅のベンチで列車を待っていたポワチエを「黒人だから犯人だ!」という剽軽な理由で誤認逮捕するシーンに始まる。このクレイジーな判断はオーツの名推理として観客の失笑を誘う。
署にしょっ引かれたポワチエは「オーツの名推理」を鵜呑みにしたスタイガー署長から「吐け、黒んぼ。どういう手口で殺したんだ!」と難詰されるも、やれやれという顔で警察手帳を見せ、誤解を解く。ところがである。下手をこいたスタイガーは、べつだん謝るでも恥じ入るでもなく、むしろ黒人だから犯人と思われても致し方ないよねえ、というヌルっとした態度で「おまえ刑事なの? なら手伝えよ」と、上から目線どころか神棚目線から協力要請。これが噂に聞くスタイガーの神棚要請である
この態度にはさすがのポワチエもムッとして「列車で母の家を訪ねるので失礼する!」と吐き捨てて署を出ていこうとしたが、そうもいかない。スタイガーがポワチエの上司に電話して「うちのポワちゃんでよければ協力させよう」と言わしめたのだ。
かくしてポワチエは他州の無関係な殺人事件を調べるはめになってしまう。あまつさえ差別主義者だらけのミシシッピーで。おまけにスタイガー率いる地元警察は無能揃いときた。
この時ばかりはクールでスマートなポワチエも思わずこう叫んだという。
「チエチエ!」
黄色いサングラスで偉そうに神棚要請をするスタイガー(黄色い奴がそう)。
知的な洞察でギュンギュン犯人像を絞っていくポワチエと、その様子をポケーっと眺めながらガムを噛むスタイガーの対照的な態度が印象深い。スタイガーはものすごい速さでガムを噛むのだ。自分に解けない謎をポワチエがスルスル解いていくさまが癪に障るのだろう。
ついにイライラが最高潮に達したスタイガーのアゴは、BPM200の爆速テンポで口内スピードメタルを奏で、ガムを完全をすり潰した。
ポワチエのナゾ推理力とスタイガーのガム咀嚼力が火を噴く。
スタイガーの見所はガムの速噛みにとどまらない。何といっても「パトロールの巡回ルートがいつもと違った」という理由だけで部下のオーツを犯人と決めつけていくスタイガーの名推理。
だが、ポワチエがオーツの潔白を理路整然と証明すると、あっさり言いくるめられたスタイガーは「まあ、そういう読みも可能っちゃ可能」とかモチャモチャ言いながら引き下がるのである。先生…。
また、スタイガー先生は死体から財布を盗んだチンピラのことも犯人と決めつけたが、被害者の傷痕を調べたポワチエが犯人とチンピラとでは利き腕が違うことを理路整然と証明。するとまたしても「そういう読みも可能」とか言ってプライドを死守したまま渋々と引き下がる。ふてぶてしいなぁ。
名探偵ポワチエと未亡人リー・グラント。
◆これは栄光のB級映画だ。アメリカ議会図書館なんかに飾るな!◆
そんなスタイガー先生が徐々にポワチエを認め出すあたりが熱い。
白人ヤンキー集団に襲われたポワチエを庇い、渾身の腹パンでヤンキーを追い返したスタイガー先生!
ポワチエを自宅に招いて「オレは仕事もできないし家族もいない。あるのはこのボロ家だけだ…」と孤独を吐露してちょっぴり泣いちゃうスタイガー先生!
でもその後なり「人は誰でも孤独ポワ」とフォローしたポワチエに「おい貴様。図に乗るなよ!?」と怒りだすことでメロドラマを拒否するスタイガー先生!
スタイガーは最低の差別主義者だが、ポワチエとともに事件を追ううちに“人種”ではなく“能力”を見て人を判断するようになってゆく。かといって差別意識を綺麗さっぱりなくして反省するような絵空事には着地しないし、異人種間連帯などという映画村だけのファンタジーがその場限りの安い感動を誘うこともない。
人はただ、高速のガム消費者 ロッド・スタイガーの憎めない膨れっ面がどのように変容していくかを目で追いながら、ああ、存外この狸にもいいところがあるじゃないかと見方を改めればよい。そしてガムを買いに走り出せばよい。
ガムというガムを噛みつくす男、スタイガー署長。
スタイガーも面白いキャラクターだが、ポワチエはより映画的に面白いキャラクターだ。
結局本作はどんな物語なのかといえばポワチエが列車に乗れない物語なのだ。
誤認逮捕されたことで母のいる故郷へ向かう列車を逃したポワチエは、その後スタイガーと衝突して「街から出ていけ!」と言われるたびに怒って列車に乗ろうとするが、市長からポワチエを引き留めるよう説得されたスタイガーが「その、なんというか、もう少し街に残ったらどうだ…?」と急に態度を変えては、その都度「いいえ、出ていけと言われたのだから列車に乗ります!」、「このオレが頭を下げて頼んでるんだぞ。列車になんて乗るなよ!」と押し問答。結局はポワチエが折れて街に残る…というミニコントが繰り返されるのだ。
だが、乗る乗ると言ってなかなか列車に乗らなかったポワチエが本当に乗ってしまう日がきた。無事に事件を解決したラストシーンだ。駅まで見送りにきたスタイガーがポワチエを呼び止めて言葉をかける。たしかその言葉は「達者でな」とか「ほなね」とか、その程度の挨拶だったが、“その程度の挨拶”すらしなかった男が発したからこそ、人はこのセリフに涙するのだ!
口元に薄く笑みを浮かべて頷いたポワチエは颯爽と列車に乗り込み、母の待つ故郷へと運ばれていった。無用な長台詞が二人の関係性をわざとらしいものにしてしまわぬ内にスッパリ別れた刑事と署長は、ほんの少しだけ互いを認め合い、それぞれの日常に帰っていくのである。
握手してると見せかけてガム渡してた…って描写があれば完璧でした。
最もセンシティブな時期に作られた異人種間刑事ドラマにしてガム大量消費映画の金字塔『夜の大捜査線』は、むせ返るようなアメリカ南部の空気の中で、その骨太なドラマと男たちの哀愁が描き出された栄光のB級映画である。
こんな途方もなくおもしろいだけの映画が「差別撤廃運動の一助になる名画」としてアメリカ議会図書館や国立フィルム登録簿にお行儀よく飾られていることに不満を感じないでもないが、シドニー・ポワチエの人気を支えたものが正にそうしたアメリカ的なお行儀のよさにほかならないことを思えば、映画の教材化が映画を助ける…という皮肉な相互扶助の上に成り立ったハリウッド・バビロンのおかし味も多少は納得できるというもの…なのかな?
PS
やっぱりウォーレン・オーツは口髭があった方がいいね。髭がないと全然サティスファクションしない駄目なミック・ジャガーもしくは心の汚れたミッキーマウスに見える。
なんか…口もぱぐぱぐだし。
当時まだ口ぱぐぱぐだった頃のウォーレン・オーツ(右)。