シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

シネ刀映画対談(後半)

おはようございます、おまえたち。

 おおむね好評でひとまず胸を撫で下ろしている『シネ刀映画対談』、本日はその後半をお送りします。対談ゲストは昨日に引き続き戦争愛好家として知られるやなぎやさん

昨日の『シネ刀映画対談(前半)』ではなにお勉強した気になってんの?とか「そんな今更すぎる教訓を得るために映画を観るの?」など数々のパワーワードを残してくれましたね。

改めて労いたいと思います。ただでさえ家事に育児に仕事、それに映画鑑賞、ブログ活動、猫の世話、ランチ、町内会、スキンケア、和服の着脱、活火山への侵入、裏切り者の粛清、ペガサスの飼育、時空の跳躍、天井裏に隠れた忍者駆除などで忙しいでしょうに、半月以上もDMラリーにお付き合いくださって本当に感謝しております。

ささやかではありますが、やなぎやさんには賞品として忍者の血痕が付いた伝説の十手が贈呈されます。部屋で振り回してください。この度は本当におめでとうございました。

さて。この後半では『ロッキー』シリーズや『エイリアン』シリーズの話題を中心に、リドリー・スコットの悪口、イーストウッドのお話、あと私が生意気な映画論などを語っております。それでは相変わらずダラダラした対談をお楽しみください。

 

◆帽子はどうした? ~ロッキー談義~◆

 

やなぎや じゃあ、いよいよ『ロッキー』(76年)の話に行きましょうか!

私の『ランボー』(82年)贔屓は覚えてもらっていると思うんだけど、とにかくスタローンが好きなので『ロッキー』も大変思い入れのある映画です。

 

ふかづめ 『ロッキー』シリーズは僕も大好きだけど、『ジョーズ』(75年)『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』(77年)と結託してアメリカン・ニューシネマを殺した作品でもあるので、ニューシネマフリークとしてはちょっぴり複雑な思いもあるんですよ。

 

やなぎや 複雑な思いの理由が「これぞシネフィル」で笑う。でも『ランボー』はニューシネマだと思います。

 

ふかづめ 一度死に絶えたニューシネマを80年代に蘇生させた作品なので、私は断然『ランボー』派です。そう考えるとスタローンって単なるアクションスターを超えてアメリカ映画史における重要人物の一人だと思うのですよ。ニューシネマ殺しの片棒を担いだあとにその蘇生を試みた人物だから。

 

やなぎや 『ロッキー』の方は作品自体が素晴らしいのはもちろんのこと、やはりスタローンの苦境から成功までが投影された映画である点がハズせない。

ふかづめさんも以前書いていたけれど、決して血筋がよいとは言えない生まれのスタローンは、外見的にもコンプレックスを抱え、いじめや両親の離婚、困窮生活を経験した苦労人で。俳優として後がない中、モハメド・アリとチャック・ウェブナーの試合をモデルに『ロッキー』の脚本をスタローン自身が書いて撮影したのは有名な話ですね。

あのフィラデルフィア美術館までのトレーニングの道で八百屋のおじさんが果物を投げてくれるシーンは本当にスタローンをボクサーと勘違いしたという楽しいエピソードも。

 

ふかづめ 大事なことは全部やなぎやさんに言われてしまったので技術面の補足をすると、この映画はステディカムが初めて導入された年の作品でもあって。

ステディカムで撮られたショットなんて今でこそ当たり前のように見かけるけど、『ロッキー』と同じ年に作られた『ウディ・ガスリー/わが心のふるさと』(76年)『マラソンマン』(76年)と合わせて、ロッキーがフィラデルフィア美術館の階段を駆け上がるショットで使われたのが史上初。カメラはビュンビュン動いてるのに手ブレはしない…という発明によって逆に手ブレ映像の可能性が広がった…という発明の発明までしている。『死霊のはらわた』(81年)で悪霊が森のなかを突っ走る視感ショットなんて「逆ロッキーか?」っていうぐらい画面ブレまくってますからね。そういう意味では本当に歴史的重要作だと思う。

 

やなぎや 手ブレしないステディカムによって逆に手ブレ映像の可能性が広がったというのはおもしろい話ですね。

そうそう。『ロッキー2』(79年)の最初30分くらいは「なにやってんの!?」状態だった。車買って、ヘンな虎が背に描かれた革ジャンに、時計も買って。家まで買っちゃう。なぜ私たちはロッキーのお買い物をずっと見せられているんだ? と思うのだけど、『ロッキー』で成功を収めたスタローンのはしゃぎっぷりがそのまま映されているんだと思うと、しみじみ観てしまう。

 

ふかづめ 結局これってボクシング映画じゃないんだよね。描いてるのはボクシングじゃなくて負け犬が栄光を手にするまでの普遍的な人生譚。一作目だって、高利貸しの集金屋として日銭を稼いだりエイドリアンとのウブな恋模様を40分ぐらい延々描いてますし。

 

やなぎや そう観ると、社会情勢が色濃く反映されている『ロッキー4/炎の友情』(86年)が異色で。ソ連で試合をした後、アメリカとソ連に向けて「互いに変わることができる」という台詞にスタローンの思いがこもってると思う。

 

ふかづめ ドルフ・ラングレンの妻を役じたブリジット・ニールセンも実際はスタローンと結婚したからね。2年後に離婚したけど。ボクシングでは15ラウンドまで戦い抜いたロッキーも夫婦生活は2ラウンドまででした。

 

やなぎや 終結が近かったとはいえ、冷戦の最中だったことを考えると強いメッセージ性を持った作品。ここは『ランボー』とも通じているのかな。

 

ふかづめ ロッキーでは反戦イムズを打ち出したスタローンだけどランボーでは真逆のことをしてる…ってあたりがおもしろくて(一作目以外)。特に『ランボー 最後の戦場』(08年)。根底にある反戦思想は同じなんだろうけど「反戦反戦言うまえに現実に目を向けろ」っていう。

 

やなぎや 『ランボー 最後の戦場』を出したね? 出したね!?

私、10回以上観ているよ。

 

ふかづめ ごめんなさい、1回しか観てません。

 

やなぎや 1作目はもちろん素晴らしいんだけど、コレが一番好き。日曜洋画劇場では絶対流せないレベルの虐殺描写といい、銃器の破壊力といい、おっしゃる通り「現実を見ろ」よね。グロい、内容が薄いと批判する人もいるんだけど、薄いと感じる理由は一作目との比較なのかなと。『ランボー』の「何も終わっちゃいません、何も」から始まる長台詞で、観客はランボーの心中を知って胸打たれると思うんだよね。アレがなかったらどれだけの人がベトナム戦争の傷を感じとれたのかな?

それに比べて『最後の戦場』は自身の戦争ではないし、ランボー、まあ喋らないから。

 

ふかづめ 内容が薄いのは2作目と3作目なのに。あれは完全に娯楽性に振り切ってて1作目をご破算にしちゃってる。まぁ、好きですけどね。『ランボー3/怒りのアフガン』(88年)なんて「最も人が死ぬ映画」としてギネス認定されてて、わずか101分の上映時間で108人死にますから。毎分死んでる計算だよね、煩悩の数だけ。

最後の戦場』はミャンマーで実際に起きてる市民虐殺をリアリズムの筆致で描いた社会派作品だけど、それでも「薄い」と言う人がいるんですね。

 

やなぎや そうなんですよ。善意や綺麗事で戦争は止められないというボランティア団体に対する皮肉の目線や、子供が殺される場面を真正面から映したところにスタローンの撮りたかったものを感じて頂きたい。ボランティア団体を見捨てないところにランボーのヒーロー性はバッチリ表れてるし、なにより「こんな所にいたい奴はいない。だが俺たちのような男の仕事はここにある」のシーンで十分! シビれるわぁ。

…あれ、いつのまにか『ランボー 最後の戦場』を全力でおススメしている。ふかづめマジック。

 

ふかづめ すぐそうやって僕のせいにする。

 

やなぎや 『ロッキー5/最後のドラマ』(90年)のストリートファイトには賛否あるようなんだけど、私はあれはあれで、地元の観客に囲まれた場にリングを移したのが一線を退いたボクサーらしくて…いいのではと思っております。

 

ふかづめ 1作目ぶりにジョン・G・アヴィルドセンが監督復帰した作品ですよね。とりあえずの終幕を飾るうえでは必要な作品だったことは確かなんでしょうけど、それにしても蛇足感がちょっと…。ストリートファイトなんていうと格好いいけど、要は引退したボクサーが街中で弟子シバき回す映画ですから。哀愁のある作品ですけどね。でもそこはかとなく半笑い感も漂っている。

 

やなぎや ふかづめさんはシリーズの中で、どれが出来がよいとか好きとかある?

この話題に関しては「やべ、まったく覚えてねぇ」は通じませんよ。

 

ふかづめ 僕が好きなのは『ロッキー3』で。1作目で判定負けを喫したアポロに2作目で勝利したロッキーがヘビー級チャンピオンになったあとの物語で…いちばん図に乗っていた頃の作品ですよね。

チャンピオンベルトの上に胡坐をかいてハングリー精神を失ったロッキーがかつての自分みたいにギラギラしている挑戦者クラバーにコテンパンに負けちゃって、控え室で死にかけてるミッキーに「勝ったよ」と嘘をつくシーンはたまらないですよ。ぶざまな負け方をしたうえに死に際の恩師まで騙したロッキーだけど、そのあとようやく原点に立ち返ってハングリー精神を取り戻すまでを描いたワンスアゲインな胸アツ映画!

 

やなぎや ああああ、ミッキーのシーン言われてしまった! 確かにあそこは胸アツだよォォォォ!!

 

ふかづめ やなぎやさんはやっぱり1作目ですか?

 

やなぎや 私は、うん、やはり1作目かしら。ふかづめさんも触れた、エイドリアンとのぎこちなシーンが好き。あと、コーチを申し出たミッキーを追い返しながら激白するところがたまらない。

あとラスト、「エイドリャーン!」が名シーンなのは異論がないと思うんだけど、駆けつけたエイドリアンを見て「帽子はどうした」って言うところがいい! どんなときでも愚直にエイドリアンを見てるんだなって。そりゃあ「愛してるわ」ってなるわ。

 

ふかづめ あと、どうしても言っておきたいのがハードロックとの親和性。

『ロッキー3』ではサバイバーの「Eye of the Tiger」『ロッキー4』では同バンドの「Burning heart」とヨーロッパの「The Final Countdown」が主題歌や劇中歌として映画を盛り上げてくれております。もちろん「ロッキーのテーマ」あってのこの3曲なんですけど。

 

やなぎや さすがに私もこの曲は存じておりますよ。 ヨーロッパの「The Final Countdown」ね!

イエベェベー ひとまずー これーで終幕ー♫

なんとYOSHII LOVINSONの「FINAL COUNTDOWN」ではないというのか。お後がよろしいようで、ひとまず終幕にします?

 

ふかづめ やなぎやさんによる「FINAL COUNTDOWN」の歌唱でした。ニッチなネタをするな。ばか。

 

 

【編集後記】

『シネ刀映画対談(前半)』では私が押され通し、もしくはポカしまくりでしたが、ようやく対等にお話しできたように思います。続編の『ロッキー・ザ・ファイナル』(06年)『クリード チャンプを継ぐ男』(15年)の話が1ミリも出なかったのが印象的でした。

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~ロッキーファミリー~

アポロ(右上)…ロッキーの盟友。『ロッキー4/炎の友情』にてドラゴにシバかれすぎて死亡。

ミッキー(左下)…ロッキーのトレーナー。『ロッキー3』にて心臓発作により死亡。

エイドリアン(右下)…ロッキーの恋人(のちに妻に)。『ロッキー・ザ・ファイナル』の時点で死亡。

ポーリー(左上)…エイドリアンの兄。『クリード チャンプを継ぐ男』の時点で死亡。

そして『クリード チャンプを継ぐ男』では老齢のロッキーに癌が見つかる。なんてこった…。このままいくと全滅じゃないか。

 

◆エイリアンあれこれ◆

 

ふかづめ で、最後の話題は『エイリアン』(79年)なんですけど、なんでこれまた…。エイドリアン繋がり?

先に言っておくと細かい内容まで覚えてませんよ、私。特にこのシリーズって、リドリー・スコット、ジェームズ・キャメロン、デヴィッド・フィンチャー、ジャン=ピエール・ジュネと錚々たるヒットメイカーがそれぞれ4作まで手掛けたシリーズ(前日譚の『プロメテウス』シリーズは一旦無視)ですが、それぞれの作家性で差別化を図りながらも表層的には同じ毛色をまとったシリーズとして統一されてると思うんです。だからごっちゃになってますし、内容も覚えちゃいません。

 

やなぎや 大丈夫! 『エイリアン』シリーズは私も詳細よく覚えてない。ただ、ふかづめさんの言うように色んな監督にバトンタッチされていってそれぞれのカラーが出ているのが面白いなって。

 

ふかづめ やはり根底にあるのはH・R・ギーガーのデザインですよね。2作目以降は関わってないんだけど。『スピーシーズ 種の起源』(95年)『キラーコンドーム』(96年)に携わるぐらいなら『エイリアン』シリーズを終世手掛けていればよかったのに。アルバムジャケットのデザイナーとしても有名ね。プログレなんてほぼ知らない頃に『恐怖の頭脳改革』をジャケ買いしましたもの。

 

やなぎや デザインに悩んでいたリドスコに、脚本のダン・オバノンがギーガーの画集を見せたんですよね。ふかづめさんはもちろん画集を見た事あるんだろうけど、私は無縁だったのでね。でもたしか吉田戦車の漫画で「ギーガー、ギーガー」ってエイリアンそっくりなのが迫ってくる絵があって、それで知ってます。あ、またニッチな話を…。カットされちゃう! カットはやめてぇぇ。

 

ふかづめ ギーガーのインダストリアルな造形美と自身の世界観が見事に調和したのが『エイリアン4』(97年)のジュネだと思うんです。このシリーズを手掛けた4人の監督ってフィンチャー以外の全員がデザイナー気質なんですよね。フィンチャーはイメージの人ですけど、残り3人は人物造形やセットやガジェットを作り込んでグラフィカルな画面に仕上げるのが上手い(SFを撮らないのもフィンチャーだけ)。特に『エイリアン4』の赤茶色の画面は今観るとビデオゲームみたいなんですけど、やっぱり雰囲気ありますよね。

 

やなぎや 『エイリアン4』好きです。何といっても、クローンリプリーがカッコいいよ。絶対的なヒロインだったリプリーの人格を変えたのってすごくない? クローンの失敗作とか、クイーンの巣に集められた人間が溶けかけながら話してるシーンとか、何の映画だ? と思うんだけど、妙なこってり感があって。

 

ふかづめ  次作で『アメリ』(01年)なんて可愛らしい映画を撮ったフランス人ですが、『アメリ』もよく見るとギトギトした油っぽい映像だし…やってる事は『エイリアン4』と変わらない。まさに『アメリアン』とはよく言ったもの。

 

やなぎや 誰も言ってません。

『アメリ』はホラーだよね。基本的にオドレイ・トトゥってウフフって笑いながらなに考えてるのか分からないイメージ。同じジュネとオドレイの『ロング・エンゲージメント』(04年)は、一途な恋愛の話ながら突然カラーに合わない凄惨なショットが入ったりして…なんだこの監督!? と思ったなあ。

 

ふかづめ もしオドレイ・トトゥがリプリーだったらすぐ死んじゃうでしょうけどね。

 

やなぎや 3と4…、特にデヴィッド・フィンチャーの『エイリアン3』(92年)が評判悪いけど、そんなにダメかなー?

ふかづめさん、前に、エイリアンは男性器のメタファーだと書いていたけど、3では囚人の惑星に着いてしまい、飢えた男たちの中に一人…というシュチュエーションが加わったこともあってリプリーが女であることを一番感じる作品だよね。ラストシーンで生まれたエイリアンを身体に押し戻しながら溶鉱炉に落ちていくのも母親を意識させるし、4ではちゃんとそれを引き継いでいて。エイリアンに溶鉱炉の鉛を浴びせるために、廊下を使ってこっちのドア閉めろー、あっち開けろーって誘い込むのも楽しく。

ただ、撮り方のせいなのか編集のせいか、または私の理解力不足かわからんけど、このシーンの位置関係や起こっていることがよくわからない。あ、私けっこうストーリー覚えてる。

 

ふかづめ 『エイリアン3』はびっくりするほど覚えてない。当時MVばかり撮ってたフィンチャーが改稿だらけのシナリオを渡されて数々のトラブルに見舞われながら撮った悲劇の処女作ですよね。たぶん低評価の原因はシナリオ。3作目ともなると誰も映像の革新性なんて気にしちゃいませんから。

それにしてもジェームズ・キャメロンの『エイリアン2』(86年)には驚いたな。あんなもん、完全に戦争映画だよ。一匹こっきりだと思ってたエイリアンが実は量産型で、エイリアン・クイーンとかいう母ちゃんまで出てくる。しまいにはパワーローダーに乗り込んだシガニー・ウィーバーがエイリアン・クイーンと肉弾戦をおこなうという馬鹿馬鹿しさ。『アバター』(09年)でも同じことやってましたけど。

 

やなぎや  たしかに。あそこからクイーンとか、卵からパキパキ出てくるエイリアンの描写が生まれたんだもんね。それでエイリアンが大量に襲ってくるという設定が可能になった訳だ。

 

ふかづめ このシリーズがおもしろいのって、前作をことごとく卓袱台返しするところで。リドスコが作った設定を「知ったことか」とキャメロンが無視して、キャメロンが決定づけた新たな方向性を「もういいから」とフィンチャーが否定して、フィンチャーがお膳立てした話の流れを「うるさい」とジュネがぶった切る。統制とれてなさすぎ。全員がワガママを貫いたシリーズですよね。だからこそ面白いのだけど。

 

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『エイリアン』シリーズ。

 

やなぎや 『エイリアン:コヴェナント』(17年)は映画館に観に行ったの。そしたらアレだもんねー…。嫌な予感が的中。みんなが『エイリアン』シリーズで観たいのはアンドロイドの自我じゃないよーと。

ふかづめさんのレビュー、おもしろかったな。リドスコ爺さんに対する「縁側でやれ」。

 

ふかづめ 神話と哲学でわざと小難しいハナシにして格調を高めよう、そしてワシ自身が神話になる!…っていう大家ならではの思い上がりね。

『プロメテウス』(12年)の時点で「なんか違くない?」って感じた人が半分ぐらいいたけど、もう半分はリドリー・スコットが一流だと思ってる人たちなので信じてついて行くわけですよね。「ワシの神話」に。しかしそんなリドスコ信奉者も『エイリアン コヴェナント』に至って「もうええわ」と。

エイリアンに限らず、散々つつき回されてもはや出涸らし状態のコンテンツってあるじゃない。観ててちょっぴり痛々しいよなぁ。『ロッキー』はまだマシだけど『ターミネーター』とか特にさぁ…、続編商法で晩節汚しまくり。

 

やなぎや 『プレデター』とかもそうだしねえ。 今年アメリカで公開される『ランボー5』(19年)や製作が決まっているという『インディ・ジョーンズ5』、この辺りは老ランボーや老インディを楽しむのも一興だけど、スタローンやハリソン・フォードが引退したらもういじくりまわさないで欲しいわあ。ふかづめさんは『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』(08年)どうだった?

 

ふかづめ 何書いたっけなーと思って過去のレビューを探してみたのだけど…書いてませんでした。ルーカス、ハリソン、スピルバーグの20年越しのリユニオンっていうか、ありていに言っちゃうと同窓会ですよね。内容はまるっきり忘れてしまいました。そもそも私は冒険家が嫌いなんです。

 

やなぎや そうだった。たしか、いい歳したおっさんが目をキラキラさせて冒険しているのがイヤなんだよね。でもそれは『インディ・ジョーンズ』を否定することとは違うんだよね。難しいこと言うわ。

当時、楽しみすぎて映画館に観に行ったんだけど、私もまったく覚えてないや。ケイト様のパッツン頭しか記憶にない…。

 

ふかづめ それにしても、なんだろう。ここ数年のリドスコってロートル感がすごいよね。ボケていくジイさんを世界中が温かく見守ってあげてる感じというか。

 

やなぎや リドスコは壮大、豪華な映画が得意なイメージなんだけど違うかしら。数年前からドン・ウィンズロウという作家の小説『犬の力』を映画化する話があって、よい素材だと思うんだけど『ボーダーライン』系かな)、リドスコ&ディカプリオらしいの。イヤな予感しかしない。製作で参加した『チャイルド44 森に消えた子供たち』(15年)もイマイチな出来だったし、ミステリー主体には向いていないのでは。

ふかづめ  チャイルド44は最低でしたね。「このミステリーがすごい!」に選ばれた小説の映画化って大抵失敗しますから『犬の力』もダメなのとちがいますか?

 

やなぎや  あと、私トニー・スコットは好きなんですよね。『トゥルー・ロマンス』(93年)は最高でしょ?

 

ふかづめ 『トゥルー・ロマンス』は脚本を務めたタランティーノが自ら撮っていれば最高だったろうな…という感じで。

 

やなぎや でもタランティーノが撮っていたらもっとマフィアVSブチキレカップル色の濃いコテコテした映画になっていたよ。わたし的にはこの映画は恋愛映画だし、やっぱりアラバマの「私は一人の男に100%尽くす女よ」がキモなのよ。

デニス・ホッパーとクリストファー・ウォーケンがシシリア人をネタにするやり取りとか、アラバマがホテルの部屋でボッコボコにされるシーンに狂気に満ちた反撃など、タランティーノらしさ爆発で大好きなんだけど、主役は「ピーチみたいな」女だってことを忘れてほしくないわけ。タランティーノの脚本では、最後クリスチャン・スレーターは死ぬことになっていて、トニスコとスレーター自身が死なないラストを提案して頼み込んだというじゃない? そっちで正解だったと思うのよね。夫と子供を得て、アラバマの暴力性はあの ときだけのものに留められたってのがいいんだよねー。

 

ふかづめ デニス・ホッパーとクリストファー・ウォーケンが対面するシーンは鬼気迫ってましたね。『ディア・ハンター』(78年)でデ・ニーロとロシアンルーレットする対面といい、ウォーケンは自分以上の大物俳優と対面したときが最も光ると思う。

『トゥルー・ロマンス』パルプ・フィクション(94年)のパンプキン&ハニー・バニーのカップルにフォーカスを当てて描き直したアナザーストーリー…という見方をすると1.2倍ぐらい楽しめなくもなくもなくもない。

 

やなぎや ただ「じゃあ、それを撮るのはトニー・スコットでなければならなかったか?」って言われたら、そこはわからない。ごめん。

 

ふかづめ ゆるす。

僕の中では『クリムゾン・タイド』(95年)『ザ・ファン』(96年)のシーソーゲームなんだけど、「現場と指令室」というトニスコの作家性が出てきたのってキャリア後期なんですよね。年を取るほどソリッドな演出になってきて、遺作『アンストッパブル』(10年)ではデビュー作以来じつに27年ぶりに90分台の映画を撮った。リドスコも過去に一度だけ90分台の映画を撮ってるけど、多分もう無理ですよ。「140分病」に罹ってますから。

イーストウッドもタイトとは程遠い作家ですけど、かと思えば急に自身初の90分台映画を撮ったりするわけですよね。しかも87歳で。イーストウッドのようにこちらをヒヤヒヤさせるジジイってなかなかいないよなー。

 

やなぎや しかし、そうなるとイーストウッドはやはり変態なんだね。どこまでやってくれるだろう。ふかづめさんの『運び屋』(18年)のレビューはものすごく早かったでしょ。観た人がこぞってレビューを上げ出すのは分かっていたから、いつになく早く書き上げたな!って。イーストウッドへの思い入れは特別なんだなと思いましたよ。

私、イーストウッドは『許されざる者』(92年)以降、飛び飛びなんだけど、なんで皆あの作品を西部劇に終止符を打った作品というの?

 

ふかづめ あの映画のイーストウッドは卑怯で残酷なガンマンですよね。だから『許されざる者』とは彼自身のことでもあるんだけど。これは主人公が善性を担うような従来の西部劇の欺瞞を暴いてそれを真っ向から否定しちゃったので「最後の西部劇」と位置付けられてます。

もっとも、そうした勧善懲悪の拒否はイーストウッド初期のマカロニ・ウェスタン(イタリア製西部劇)では何度も描かれてきたモチーフなんだけど、それをアメリカ製西部劇でやっちゃったというところがミソで。これはジョン・ウェインを全面否認する身振りに他ならないわけです。つまりこの映画は米西部劇の歴史を根本から覆してしまった。あまつさえアカデミー作品賞まで取った『許されざる者』を前に、いったいどんなバカが古きよき西部劇の復権など図るのでしょう?

…てな感じで、イーストウッドはたった一人で西部劇100年史に決着をつけてしまいました。

 

やなぎや うわああー、それで納得。アメリカの精神ジョン・ウェインを全否定し、あまつさえお墨付きを得てしまった、ということなのね。すごくスッキリした。今さらだけど、本当にとんでもない爺さんだよね。

 

ふかづめ ていうか何の話でしたっけ、これ…?

『エイリアン』だよ!!!

どうして宇宙から西部の話になっているのか。

  

やなぎや いいじゃないの、いいじゃないの。あちらこちらへ転がっていくのがおしゃべりの醍醐味じゃないの。

 

 

【編集後記】

トークの蛇行運転がすごい。 『ロッキー』の章でも途中から『ランボー』の話に脱線しちゃったけど…その比ではないですね。

『エイリアン:コヴェナント』を機に始まったリドスコ批判はまだしも、そのあと兄弟繋がりとは言えトニー・スコットの話に振れ、終盤ではもはや全く関係ないイースウッド話に花を咲かせる始末。『許されざる者』とは我々のことでした。

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『許されざる者』

 

◆観てるものが違うからこそ映画は楽しい◆

 

ふかづめ さて、そろそろ終わりを迎えようとしております。滑走路が見えてきました。

 

やなぎや もう帰ってくれと言うのね…。このあと別の女との約束があるのね。いいな、いいな。ヘンな絡み方するなって? ヤダ!!

 

ふかづめ 映画の話だっつってんのに覚えてないことが沢山あってごめんなさいね。 私は物語的にどれだけ重要なシーンでもそこに映ってる役者の貌が弱かったりショットが弛緩してたりすると立ち所に忘れちゃうんですよ。ばかですから。筋やセリフを細かいところまで記憶してる人ってすごいなって。つくづく思うんだよな。

 

やなぎや ふかづめさんのこと、ばかばか言わないでください! あの人はねえ、文章がすごいんですよ。ばかがあんなすごい文章をバカスカ書けるわけないでしょう。

私、だれと話してるんだっけ…。あ、ふかづめさんか。

 

ふかづめ なにをいってるかぜんぜんわからない。

 

やなぎや 映画を観ることは貌とショットを見ることだ、というのは本当にその通りだと思うし、いつも勉強させてもらってます。私はなかなかそこに辿り着かないけど。。。

 

ふかづめ 「ショットを観る」という僕の見方(僕の見方というか…蓮實重彦が提唱した表層批評なんですけど)は、ある意味では最も動物的な態度というか、知性や文明の欠片もないプリミティヴな鑑賞法だと思うのね。意味とか物語といった抽象概念について考えるよりも、まずはスクリーンに映しだされた視覚情報を余すことなく目で見る…という動体視力の問題で。言い方を変えれば頭を使わない見方ですよね。

すべての芸術は「頭」よりも「感覚」が先に立つので、バカにはうってつけなんですよ。頭のいい奴に芸術はわからない!

 

やなぎや なるほどねえ。これ読んで思ったんだけど、人間が一番プリミティヴな…知識が身につく前の動物に近い状態、つまり子供のころが一番クリアに映画を観られるんだろうし、子供のころの映画体験はやっぱり貴重だよね。

あと、ふかづめさんて常に映画史を考えているよね。その作品が映画史の文脈のどこに位置していて、べつの文脈にどんな影響を与えられているのか、または与えているのか…。まるで学者よ。

 

ふかづめ あまねく芸術作品というのはそれ単体だけでは100%楽しめないからなぁ。 キュビスムという概念を知ってるのと知らないのとでは、たとえばピカソの『アビニヨンの娘たち』ってまったく違う見え方がするから。 たしかに作品の背景を知らなければボブ・ディランの音楽もゴダールの映画もまるっきりワケわかんないけど、歴史=文脈を知るだけでびっくりするぐらいサラッと呑み込めちゃう。歴史のうえに人も芸術もある。われわれ人間に故郷があるように、きっと作品にもそれぞれの居場所があるのでしょう…。

…あ、もしかして今いいこと言った!?

 

やなぎや 言いましたね。珍しく遠い目をしてアンニュイな雰囲気だった。

読者の方に伝わるかわからないけど、今回の対談はそんなふかづめさんと設定やシーンだけ観ている私との違いがくっきり出たよね。だから実は会話噛み合ってないんだろうけど、全然違うもの観てるんだなあと感じたり、ちょっと重なるところもあったり。

私は、どうせ話すなら「うんうんわかるー」だけじゃなくて刺激を得たいから、ものすごく楽しかったです。

 

ふかづめ 映画がおもしろいのは「総合芸術だから」という理由に尽きると思うのです。映画が誕生する前の、建築、絵画、彫刻、音楽、文学、舞踏、演劇の要素をすべて摂取していて、だからこそ人によって観ている部分がまったく違うんでしょうね。

 

やなぎや 映画がおもしろいのは「総合芸術だから」か。本当ですよね。

だからこそ共感できるか、感動できるか、どれだけ意外などんでん返しがあるか…だけで観るのはもったいない。

 

ふかづめ もうちょっと喋っていいですか?

そもそも映像を言葉に置き換えること自体が原理的に不可能だよね。映画批評が身を置きうるのは「映画」ではなく「文学」の領域であって、しょせん映画評なんて言葉巧みにそれっぽいことを書いてるだけ。映画はやっぱり観ないことには始まらない。コンビニで新聞買ってサッカーの試合結果だけ見ても「サッカーを見たこと」にはならないでしょう?

 

やなぎや  もちろんです。「スポーツ好き」という、私からしたら不思議な人々が存在するのですね。スポーツニュースを録画しといてハシゴしたりするの。この人たちに同じ目線で話をされるときが実は辛い。ニュース番組で抜かれるハイライトシーンだけを見ることのつまらなさね。何事もそれ単体で解釈するには限界があるってことですね。

ふかづめさんがストーリーで映画を観ることのつまらなさをよく言うけど、ふかづめさんから見て私はどういう風に映画を観てるのかな。自分を客観視することが昔からできないからなんとか色々考えてもらえる? 

 

ふかづめ えぇー知らなー…。やなぎやさんの映画の見方をぼくが知るわけない。

そうねぇ…。多分あなたはロジカルに物語を解体したり組み立てたりしながら映画を咀嚼しているのとちがいますか。少なくとも文章からはそう感じる。「筋を追う」というよりも「筋道を立てながら」物語なり映像なりを丁寧に理解していく、というか。その丁寧さと理解力は僕にはない。

 

やなぎや 知るわけないといいつつ、ちゃんと説明してくれている。ふかづめさん便利だわー。自分の気持ちの整理がつかないときに逐一相談していきたいわー。ふかづめさんのように「映画はショットの積み重ねである」、「素晴らしい映画は音声がなくても理解できる」という観方をするようになりたいんだけどね。

 

 ふかづめ 今回話していて印象的だったのは、やなぎやさんの一本の映画に対する消化能力の高さです。『Yayga!』読者にとっては自明なんでしょうけど、一本の映画を細かく検分して奥歯で磨り潰して、ご自身のなかでドロッドロになるまで消化されてますよね。

 

やなぎや  うわああ〜。イヤだなあ、この見透かされてる感じ! もともと性格がしつっこいんです。だからそういう形でしか吐き出せないんだろうねえ。

 

ふかづめ 私みたいにめったやたらに観る人間は咀嚼回数が少なくて…というかほぼ丸呑み状態ですから、ウンコ(レビュー)しようにもよく便秘になるんですよ。「やべぇ、消化できてない。こうなったら知ったかぶりしてレビュー書くしかねえ」みたいな。

実際、戦争映画はもとより『ブロークバック・マウンテン』『トゥルー・ロマンス』も話を聞くだけで精一杯だったし。どうにか論点をずらして逃げ切りましたけど!

 

やなぎや 『ブロークバック・マウンテン』『トゥルー・ロマンス』は私が挙げた映画に付き合ってもらったわけだし、戦争映画はオレのフィールドじゃないぜ、ってふかづめさん前から言ってるしね。よくお付き合い頂きました!

 

ふかづめ そんなわけで『シネ刀映画対談』、第一回目のゲストはやなぎやさんでした。そろそろ文字数もアレなんで…終わっていいっすか?

 

やなぎや ホントにもう帰らなきゃダメなの? 

 

ふかづめ うん。そろそろ帰れ。

 

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『トゥルー・ロマンス』