「市民・プレイヤー1」が「遺産・取りの」する話。
2018年。スティーブン・スピルバーグ監督。タイ・シェリダン、オリビア・クック、ベン・メンデルソーン。
貧富の格差が激化し、多くの人々が荒廃した街に暮らす2045年。世界中の人々がアクセスするVRの世界「オアシス」に入り、理想の人生を楽しむことが若者たちの唯一の希望だった。そんなある日、オアシスの開発によって巨万の富を築いた大富豪のジェームズ・ハリデーが死去し、オアシスの隠された3つの謎を解明した者に、莫大な遺産とオアシスの運営権を明け渡すというメッセージが発信される。それ以降、世界中の人々が謎解きに躍起になり、17歳の孤独な青年ウェイドもそれに参加していた。そしてある時、謎めいた美女アルテミスと出会ったウェイドは、1つ目の謎を解き明かすことに成功。一躍オアシスの有名人となるが、ハリデーの遺産を狙う巨大企業IOI社の魔の手が迫り…。
ヘイ、ジュード。
お祭り映画って人民がTwitterとかで盛り上がれば盛り上がるほどミョーに冷めてしまうのだけど、本日取り上げる『レディ・プレイヤー1』は自分でもびっくりするぐらい楽しみました。
はっきり言って『レディ・プレイヤー1』はド腐れオタク映画なので、今回はちょっとオタクみたいな書き方になっているかも。なっていないかも。
また、この映画はヴァン・ヘイレンの「JUMP」がテーマ曲に使われているので、ぜひこの曲を聴きながら読んでください。音と文章の融合による画期的なレビュー体験を貴様に!(尊敬語としての「貴様」ね)
「JUMP」はシンセサイザーのリフで有名だけど、基本的にヴァン・ヘイレンには歌メロがないので、カラオケで歌ってもぜんぜん楽しくないことでお馴染みの名曲です!
◆『ポプテピピック』としての『レディ・プレイヤー1』◆
日本における『レディプレ』祭りが何かに似ているなぁと思っていたら、そうそう、『ポプテピピック』ブームとそっくりなのである。小ネタそれ自体が作品そのもののネタで、至る所に散りばめられた小ネタに対してビビッドに反応できる人ほど楽しめるという。
ことに本作は、AKIRA、ガンダム、メカゴジラなど日本のポップカルチャーへの目配せに満ちているため、まぁ『レディプレ』祭りが起こるのもさもありなんという感じで。
もう少し注意深い人であれば、ロックマンやソニックやストリートファイターのキャラクターを画面の隅に見つけだしたり、あるいは映画好きであれば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85年)、『シャイニング』(80年)、『アイアン・ジャイアント』(99年)は基本中の基本として、その外にも『イレイザー』(96年)に出てくる武器や『サイレント・ランニング』(72年)の宇宙船にも気づいたかもしれない(そのほかにも50個ぐらいある)。
いずれにせよ「隅を見る」という能力に長けた日本の観客にとっては、まさに夢の映画でしょう。
「夢の映画」というのは、つまり「オタク根性が剥き出された全編小ネタのサブカル映画」ということだ。
`80sポップカルチャーを中心としたコラージュの嵐に、「わかる人(つまりオタク)」であればあるほど上限なしに気分が高揚するという陽性ノスタルジアの仕掛けにもんどり打ちながらの祝福!
FPSゲーマーにとっては感涙モノの『HALO』をはじめ、キティちゃんや『モータルコンバット』まで登場する始末だが、やはりスピルバーグは映画人なので、映画好きだけが分かる小ネタも満載。
しつこいぐらい名前が上がる『フェイスはある朝突然に』(86年)のジョン・ヒューズ、もちろん劇中アイテムの「ゼメキスキューブ」は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のロバート・ゼメキスからだし、一瞬だけ映るプリムス・フューリーは『クリスティーン』(83年)がモデル(その監督ジョン・カーペンターとスピルバーグは同年代)。
あと、ガンダムに変身した森崎ウィンの鎧武者アバターが誰がどう見ても三船敏郎、とかね。
だいたい、世界一有名な監督が全世界に向けて作った超大作映画の中で「『セイ・エニシング』(89年)や『初体験/リッジモント・ハイ』(82年)はジョン・ヒューズの作品じゃないよ!」なんて、一般層からすればなんのこっちゃなセリフを入れるあたりからして、もうこちらとしては「さすがスピルバーグ…」と嬉ションさえ禁じ得ない始末なのです。
ラジカセを掲げるというネタは『セイ・エニシング』(89年)から。『デッドプール2』(18年)でもパロディにされてました。
◆この映画自体がある種の試練◆
たぶん全人類の99パーセントが勘違いしてるだろうから改めて言うが…
スピルバーグは万人受けする監督ではなく、むしろ1パーセントの人間にしか分からない超絶オタク監督です。
なので本作は、世界一のオタクが1億7000万ドルの資金を使って「好きなものを好きなように詰め込んだ世界」を好きなように撮ったという究極の趣味。
したがって「日本のポップカルチャーを出してくれてありがとう!」とか言っている時点でお門違いも甚だしいというか、そういう話じゃないと思うんですね。もはや。
「日本文化オマージュ」とか「世界中の人に夢を与える映画」とか…そんなものは全部タテマエで、これは完全にスピルバーグの趣味=小宇宙だ。
しかもこの映画のハードルの高さは、映画・アニメ・ゲームという二次元オタクの守備範囲をひとつ飛び越えて「音楽」まで広がっていくあたり。
物語上の重要なキーにもなるヴァン・ヘイレンの「JUMP」をはじめ、ブロンディの「One Way Or Another」、ブルース・スプリングスティーンの「Stand On It」、あとHR/HM好きとしてはトゥイステッド・シスターの「We're Not Gonna Take It」など…、80年代の音楽を知らないと完全には味わい尽くせないという、かなり嫌らしい作りにもなっていて。
ちなみに私はスピルバーグとは微妙に音楽の趣味が合わないらしく、半分ぐらいしか分かりませんでした。くそが。
本作は「主人公がバーチャル・リアリティの世界で3つの試練をクリアする」という内容だけど、ある意味ではこの映画自体がスピルバーグが全世界のオタクに課した「小ネタ探しの試練」なわけだ。
「どこまでついて来れるかな?」というスピルバーグの不敵な声が全編に響き渡ってる状態で。第一の試練で大勢のアバターがレースをしてたけど、どんどん脱落していくレーサーはまさに俺たちだよ。
私なんかは「なにその服。バカルー・バンザイ?」というセリフで「これは分からん!」ってハンドルを切り損ねてクラッシュしちゃいましたけど(コイン出ないっすよ、そんなに)。
「おまえはギレルモ・デル・トロか」って言うほど、スピルバーグもロボや怪獣が大好き!
◆スピルバーグ的「顔」◆
さて、「映画」としても非常にスピルバーグらしくて。
青い逆光、バックミラー、顔のクローズアップなど、良く言えば「これぞスピルバーグ印!」、悪く言えば「手癖の産物じゃん」というほどスピルバーグ・タッチが満載で、個人的にはポップカルチャーの目配せ以上にニヤついてしまった。
撮影や演出面は『マイノリティ・リポート』(02年)の延長という気もするし、近作だと(作品としての毛色はだいぶ違うが)『ブリッジ・オブ・スパイ』(15年)にも通じる最も元素的なスピルバーグ・タッチが無遠慮に跳ね回っているさまが何とも心地よく。
それに、なんと言っても顔だわな!
マーク・ライランスは近作3本連続起用の常連だからいいとして、主演のタイ・シェリダンに目をつけるあたりがいかにもスピルバーグらしい。
スピルバーグ作品に出てくる子役や青年役には「ワンチャン、クラスにいそうな顔」が多い。質素な顔って言うと失礼だけど。
実際、スピルバーグは難民とか下層民がやたらと好きで、しばしば自身の映画で扱っている。『A.I.』(01年)のハーレイ・ジョエル・オスメントくんも紛うことなき難民顔なわけで。
シェリダン坊。『グランド・ジョー』(13年)や『ダーク・プレイス』(15年)などかなり地味な小品に出ていた若手俳優だけど、本作を機にブレークするのかしら?
そしてシェリダン坊と同じく「アンタほんと好きよね、こういう顔…」と思ったのが悪役のベン・メンデルソーン。
誰も読んでないだろうけど、以前に評論した『ウーナ 13歳の欲動』(16年)で変態ロリコンおじさんを意欲的に演じてらっしゃいました。
スピルバーグ作品に出てくる素朴な子役がそのまま大人になった…みたいな、あまりアクが強くない俳優だ。
あと「やっとスピルバーグの映画に出られてよかったね、サイモン・ペグ!」とか。
(『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』は声の出演なのでノーカン!)
サイモン・ペグってすごいよね。
『宇宙人ポール』(11年)ではルーカスやスピルバーグをこよなく愛するボンクラ映画オタクを演じていたけど(演じるっていうか、実際の本人もボンクラ映画オタク)、あれから大躍進だよ。『スター・トレック』には出るわ、『ミッション:インポッシブル』には出るわ、挙句の果てに念願の『スター・ウォーズ』にも出て、今回ようやくスピルバーグも制覇。
全世界のオタクの夢を一人で叶えた男だよ!
ぜんぜん関係ないけど、スピルバーグの『A.I.』やシャマランの『シックス・センス』(99年)などで人気子役だったハーレイ・ジョエル・オスメントくんの変わりように閉口。
難民顔のかわいい少年が裕福層の醜いオヤジに(とはいえ、まだ30歳)。
まじで同一人物かよ。父と子じゃねえか。
◆ケーン丸出し映画◆
はい、いよいよ本題です。
映画好きなら、マーク・ライランス演じるVRゲームの創始者が残した謎が「バラのつぼみ」と喩えられた瞬間にピンときただろうが、この映画のベースにあるのは『市民ケーン』(41年)だ。
もう、ケーン丸出し。
全編に塗された小ネタ同様、スピルバーグが「分かる人にだけ分かってくれればいいかな~」というテキトーな願いを込めて、映像にも台詞にも直接的には言及されない本作最大の大ネタが『市民ケーン』である。
今さら説明するのもアホらしいぐらい名実ともに世界一とされる映画だが、何しろ1941年の映画なので知らない人も多いだろうから一言で要約すると…
新聞王として成功した大富豪ケーンが「バラのつぼみー!」とわけのわからないことを言い残して頓死、一人の記者がケーンの生涯を辿りながらその言葉の意味を探っていく…というミステリー仕立ての作品。
まんま『レディ・プレイヤー1』である。
主人公が試練の謎を解くためにVR創始者の言葉を手掛かりにしてその生涯を辿るのだから。
もう『市民・プレイヤー1』と言っていいのではないだろうか。ダメだろうか。
映画のテクニックがすべて詰まっているので、映画好きであれば押さえておきたい一本。
結論を急ぎます。
新聞王ケーン=本作におけるVRゲームの創始者の正体はスピルバーグ自身でしょう。
仮想現実世界では誰もが好きなものになれる夢の国「オアシス」を作り上げたマーク・ライランスは、スクリーンに自己投影して誰もが好きなものになれる夢の映画を作り上げたスティーブン・スピルバーグそのものだ。
『レディ・プレイヤー1』は、コンピューターゲームをはじめ「さまざまなポップカルチャーの黎明期」と「スピルバーグ自身の隆盛期」である80年代を結節点として、スピルバーグが「王」だった時代のノスタルジアが満艦飾のコンピュータグラフィックスで甦った作品だ。
だから本作は2045年の近未来を舞台に「亡き王」のレガシーを後世に譲るという伝承の物語になっている。
これ、イーストウッドの『グラン・トリノ』(08年)とよく似ているよね。
早い話が、王が作ったゲームの中で『市民・プレイヤー1』が『遺産・取りの』する話ですよ。
それが『レディ・プレイヤー1』ってわけ。
遺産トリノとしての少年と遺産トラレーノとしてのイーストウッド。
ともすると、この『レディ・プレイヤー1』、世間的には底抜けに楽しいお祭り映画として受け取られているし、実際、表層的にはその通りなのだけど、私なんかはちょっと物悲しいスピルバーグの遺言映画として解釈しちゃったんだよな。
『インディ・ジョーンズ』や『ジュラシック・パーク』で築き上げた「オアシス」は次代の映画人に譲るよ、と。
後は任せたぞ、と。
スピルバーグも若くはないし、今回のようなはっちゃけお祭り映画はこれが最後になるかもしれない。これからは70代の巨匠らしく落ち着いた映画を撮りながら死に備えるのかもしれない。
そう思うとちょっぴり泣けてくる。
ガンダム変身魔法が解けちゃった森崎ウィンがメカゴジラの掌の上で中指を立てたり、悪役のメンデルソーンが最後に一瞬だけ取り戻した少年のような微笑みなど、私が泣いたシーンは色々あるけれど、やっぱり一番はスピルバーグ文脈で泣いてしまうわけです。
私も含め、多くの人は「あの頃はよかった」と回顧するが、今だって捨てたもんじゃない。スピルバーグがいる。イーストウッドも健在。ポランスキーもジャームッシュもタランティーノもいるじゃないか。
あと30年もすれば、きっと2018年は「あの頃はよかった」と言われているはずだ。
ていうか言われてないとやってらんねえよ、こんな時代!
クソッタレめが。
そんなわけで『レディ・プレイヤー1』は懐古主義とは真逆の「未来」についての映画なのでした。
オアシスの曲を使わなかったのが偉いし、オアシズの光浦もしくは大久保を起用しなかったのはもっと偉い。