育児映画なのに死の匂いが漂うシュールな一品。
1962年。市川崑監督。山本富士子、船越英二、鈴木博雄。
都内の団地に住むサラリーマンの小川五郎とその妻千代。二人の間に一人息子が生まれ、太郎と名付けられる。太郎は両親の愛情をたっぷり受けて、すくす くと育っていく。やがて三人は郊外へ引っ越すことになり、祖母と同居することになった。(Yahoo!映画より)
おはようございます。
えらいもんで、前回の『最高殊勲夫人』(59年)をもって昭和キネマ特集が20回目となりました。
そろそろ皆さんの中で「いつ終わるんだろう?」という疑問がピュッと芽吹く頃合いかと存じますが、もう山は七合目、三分の二は終わっているので安心してください。
だけど、この特集が終わったあとに海外映画に戻れるのだろうか、果たしてオレは。
ブランクが1ヶ月以上あるからなぁ。昭和の空気が心地よすぎて一向に抜け出せない。一昨年、韓国映画に2ヶ月ハマっていた頃を思い出します。
やはり映画は、興味のある順から個々別々に観ていくよりも体系的に観た方がプラスαの知見に辿り着くので楽しいと思います。国ごとでもいいし、年代ごとでもいい。つまるところ「映画のおもしろさ」とは「作品単体のおもしろさ」を超えたもののことを指すのですからネ。
そんなわけで 本日は『私は二歳』です。どんな映画なのか楽しみですね!!!!!
◆太郎が爆誕したぞ◆
1962年に公開された『私は二歳』は、子育てに追われる夫婦を描いた育児映画の決定版です。
また、J-POP史に燦然と輝く「こんにちは赤ちゃん」が空前の大ヒットを記録したのもこの年でした。この曲のヒットを受けて、日本全国で赤ちゃんという赤ちゃんがぽこぽこ生まれます。時代は核家族化が進む高度経済成長の真っ只中。
おや? またひとつ新たな命がぽこっと生まれたようですね。市川崑の『私は二歳』。はじまり、はじまり。
梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」
映画は団地住まいの三人家族を定点観測した内容です。
ママン役は山本富士子、パパン役は船越英二。『黒い十人の女』(61年)ではギクシャクする夫婦を演じていましたが、こちらではまずまずの円満。そんな二人のあいだに太郎が生まれました(劇中では「たーくん」と呼ばれておりますが、腹が立つので「太郎」と表記します)。
この映画は太郎をめぐるハートウォーミング・ホームドラマなのですが、ただでは済まさん市川崑、かなりシュールな映画となっておりますよ。
なんといっても赤ちゃん視点で描かれるというぶっ飛び設定がよびもの。
太郎がママンのおなかから出てきたファーストシーンは太郎POVで撮られております。新生児は目がしょぼしょぼしているので、新生児室の天井のピンボケショットがひたすら続くのです。
すると急に太郎の独白がはじまりました。言葉をしらないはずなのに、急にこころの声で話しはじめます。その声が妙に大人びていて、「ぼくは、ずっと、低く音を立てて流れる風のなかに浮かんでいたような気がする…」などと妙に詩的な言いまわしで生まれた感想を滔々と述べるのです。
「寒くなったりお腹がすいてくると寂しかった。僕はたった一人ぼっちだということが分かって悲しかった」
太郎は生まれたばかりだというのにやけに達観していました。
この世にはたくさんの育児映画があるけれど、赤ちゃん目線からえがいた作品はかなり珍しいとおもいます。太郎ファーストとはよく言ったもの。
また独白形式によって「親と赤ちゃんの意思疎通の乖離」もユニークに描かれています。
ママンが太郎をあやしながら「あ、笑った!」と言うと「ぼくが笑ったと勝手に決めて喜んでいるこの人がぼくのお母さんです」なんてばかに冷たい独白が流れ、歩く練習をさせていて「またコケたのか。男の子なのにだらしないぞー!」と言うパパンには「この慌て者がぼくの父親らしい。ぼくは人間なんだぞ。男の子だか何だか知らないが、ぼくは人間だ」などと、とてもきぜんとした口調でジェンダーレスをとなえます。
おまえ、本当は何歳なんだよ?
太郎はきゅうそくに成長していきます。
1歳になって「ネジ外し」を会得した太郎は、ベビーサークルを解体して逃走を図ったり、パパンが床に放置したトンカチを振りまわすなどして、ママンとパパンをとても心配させるのです。しかられた太郎はこころの中でこんなことをおもいました。
「ネジ外しには高度な技術がもとめられるんだ。ぼくはそれができるようになったんだ。なぜ素直にほめてくれないのだろう。粗探しばかりするから大人はいつも不幸なんだよ」
核心を突きました。
達観太郎の哲学講座には目をみはるものがあります。あまりにも子供ばなれした心の声は、ときに真理をうがち、妙に納得させられるのです。かしこすぎてゾッとしますね。
こわい子。おそろしい子。
冷めた目線で大人を批評する太郎。
◆やさしいママンとパパンだぞ◆
この映画の原作は松田道雄の育児書なので、一本芯の通ったストーリーというのはありません。オムニバスみたいに単発的なエピソードをまとめた構成になっています。だから短いです。87分です。
そして映画中盤では太郎目線からママン目線に変わり、育児奮闘記にもつれ込んでいきます。夜泣き、迷子、はしかの予防接種、託児所の不足など、世のママさんのお悩みにトリビアを絡めながら「子育てあるある」が紡がれていくのです。私のように子育ての経験がない観客は、太郎目線から「育てられあるある」を楽しむとよいでしょう。このババアの知恵袋みたいな作風は伊丹十三に通じるものがありますね。
それはそうと、ママンを演じた山本富士子が艶めかしくてたまりません。
時代劇ではピシッと着飾っていた女優が、現代劇で生活感を出すと急に色っぽくなるんですよね。京マチ子とか。着物が隠していた肉感的な素地がフワッと出るからでしょうか(反対に男優は時代劇の方がエロティックに映ります)。
また、本作はアップショット多めのスタンダードサイズなので、主演二人の美顔を心ゆくまで堪能することが可能です。山本富士子の顔のよさには溜息が出るばかり。パパンの船越英二も和製マルチェロ・マストロヤンニっぷりをいかんなく発揮していて、いささか庶民役には似つかわしくないほどの美男美女であります。
山本富士子と船越英二です。こんなきれいな両親がいてたまるか。
太郎目線→ママン目線ときたので「パパン目線はないのー?」と疑問におもう読者もおられるでしょうが、パパン目線はないです。なぜなら、このパパンはあまり子育てに積極的ではないからです。
だけど決してわるい父親ではなく、日曜大工でベビーサークルを作ったり動物園に連れていったりしてくれます。ただ、そうした行動のうらには、どこか家族サービスの意識(ぎむ感)が働いているように見えるんですね。まぁ、とかく世の父親なんてそういうものですけれど。
ところが、ママンが二人目がほしいというと「子供はもうごめんだよ。太郎だけでも一苦労なのに!」と本音をぶちまけてしまい、ママンの心を傷つけてしまいます。
船越英二のパパン像がものすごくリアルです。この男は、父親として良い・悪いという以前に、そもそも父親の自覚がない男なのですね。
頼まれれば育児に参加する。でも裏を返せば、頼まなければ参加しない。にくたらしい。
かと思えば、ひとたび太郎の面倒をみると一緒になって夢中で遊ぶ。にくめない。
だけど常日頃からママンと「二人きり」でデートをしたがっている。にくたらしい。
このパパンは、ただ、なんとなくパパンだ。
本当は「パパン」じゃなくて「男」なんだ。 『タリーと私の秘密の時間』(18年)を観ていろいろと身につまされた世のパパさんたちは、たぶん本作を観たらしんでしまいますよ。男性心理をよく研究した和田夏十の脚本が、あまねくメンズハーツをグサリと射抜くんじゃないかなァとおもいます。
太郎をつれて、どうぶつえんにきています。
◆口の悪いばばあだぞ◆
映画後半では、団地をでた一家が、パパンのママン…ようするに祖母と一緒に住むシーケンスがママン目線でたっぷり描かれます。
とうぜん、ここには嫁姑問題が横たわっているわけですが、いかにも性格のねじ曲がったばばあが嫁を苦しめる…といった韓流ドラマみたいな単純なものではありません。むしろ浦辺粂子演じるばばあは、ごく平凡なばばあです。もちろん孫がだいすきで、太郎ファーストの実践者です。ゆえに太郎から見ればいいおばあちゃんなのですが、ママンから見ると太郎を甘やかせる困ったお義母さんなんですね。
パパンにしてもそうですが、この映画に一面的なキャラクターは誰一人としていません。見方や立場によって、いい面と悪い面がミラァボウルのように乱反射するのです。それが人間というものですよね。
ばばあは太郎に代わって庭の花をむしって集め、それを見たママンは「太郎がマネすると困りますわ。花は見て楽しむもの、花にも命があるということを教えないと…」と苦言を呈し、ばばあの花むしりを止めようとします。
ところが、ばばあは太郎に向かって「太郎はきれいなお花が欲しいだけなのに、お母ちゃん怒って…、おかしいね!」と、わざとママンに聞こえるように言ったのです。
ママンは「ぶちころしてやろうかしら、このばばあ」とおもいました。
ママンとばばあは、太郎の教育方針をめぐってしばしば対立していました。
けれども、ある日、パパンが目をはなしているあいだに太郎がポリ袋をかぶって危うく窒息死しかける…という大事件がおき、これをきっかけに足並みを揃えはじめます。ふたりしてパパンを批判することで、はじめて嫁姑のそれぞれの太郎愛が合致したのです。このへんも上手ですね。
ダメ夫を攻撃することで、ママンとばばあは、れんたいを築くんだ。
しかし、ここからが市川崑の本領。太郎の独白のじてんで「この映画、どこか普通じゃないな」とはうすうす思っていたけれど、ついに市川の変態性がそのベールをぬぎます。
まず、日中のシーンなのに室内の照明がグーッと暗くなるんです。『ツィゴイネルワイゼン』(80年)でもおなじ演出がありましたが、これは寓話化の合図です。ほんらい明るいはずの場所が急に暗くなったシーンでは物語内の現実性が保証されず、夢・妄想・精神世界の領域にはいったことが示されます。
ここから映画は、ちょっぴり変な方向にむかっていきました。
部屋の隅で新聞をよんでいたばばあは、若者がバイクの暴走運転で死んだという記事をみとめるや否や、怒りに顔をゆがめてムチャクチャなことを口にします。
「親の気も知らないで、なんていう罰当たりだろうね。こんな奴らはさっさと死ぬべきなんだよ! この国は人間が多すぎるから一人でも多く死ねばいいのさ!」
口わる。
ばばあが思いのほか過激な思想のもちぬしだったことに驚いていると、なんと次のシーンではあれほど「奴らは死ぬべき」とか息巻いていたばばあが突然死してしまうという市川ギャグがくりだされます。
まんまと笑ってしまったんですけど、これは明らかにギャグとして撮られているんですね。だって、のちに夫婦はこんな会話をするんです。
ママン「お義母さんね…。亡くなるまえに、オートバイ飛ばしてて死んだ若者の記事を読んで『日本は人間が多いから一人でも多く死んだ方がいい』って怒ってたのよ」
パパン「それで自ら実践して死んじまったんだな」
「奴らは死ぬべき」と言っていたばばあが真っ先に死んでしまいました。
そのごのラストシーンでは、ばばあの死が映画全体をモヤーっと覆いつくします。
夜、パパンがうたた寝をしていると何処からともなく毛糸玉が転がってきたり、急にママンが「太郎はどこから来たの…? 生まれる前はどこにいたの…?」と言いだしたりして…ちょっと異様なトーンに変わるんですね。怖い…というより、霊験あらたかな雰囲気です。
このシーンで夫婦が交わす「命はどこからきて、どこへいくのか?」という死生観についての話が本作のキーワードだと思いました。
表のテーマは「出産・育児」だけど、その裏では「死」に対する市川の洞察がおりこまれています。
また、よその子がベランダから転落して間一髪でたすかる…というシーンもある。この映画はただ単に育児を題材としたドタバタ喜劇ではなく、フィルムの端々からは絶えず死のにおいが放たれているのです。
映像的にもなかなかシュールで、急に不気味なトーンになったり、途中でアニメーションに変わったりして…、ちょっとついて行けないほど実験的なんですけど、いちばん驚いたのはラストシーンですかね。
ラストシーンでは、太郎の二歳の誕生日がひらかれます(おめでとう!)。
ママンがケイキを用意しているあいだに、ひまを持てあました太郎が窓から月をながめていると、あれれ? 不思議なことがおこりますよ。
月にばばあの顔がコラージュされていました。
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