なぜか原始時代にソーメニーピーポーがいる映画。
1966年。ドン・チャフィ監督。ラクエル・ウェルチ、ジョン・リチャードソン、ロバート・ブラウン。
原始時代。洞穴を住処とする民族の長を父に持つツマクは、ある日、父と衝突したことで追放されてしまう。恐竜など多くの獣たちがうごめく外界をあてもなく彷徨うツマクは、ある時、海辺に居を構えるシェル族と出会った。この時、ツマクが突然現われた巨大な海亀に襲われそうになったシェル族の美しい娘ロアナを助けたことで、彼はシェル族に迎え入れられる。だが、この民族の一人とまたしても衝突し、家族のもとへ戻るツマク。彼に惹かれるロアナも一緒について行くのだが…。(Yahoo!映画より)
おはようございます。むっちゃむちゃ眠いです。
さて。『ひとりアカデミー賞』の執筆に伴い明日からちょっと休みがちになるけれど、どうかブー垂れないでください。
映画ブログなんて腐るほどあるんだからそっち読め!
さぁ、本日語るのは『恐竜100万年』というすてきな映画です。
ぐちゃぐちゃに泥酔して書いたので、いま読み返すとなにをいってるかよくわからない部分もあるけど、まぁこのまま載せます。
◆セクスィー革命◆
人にラクエル・ウェルチを説明するときに『ショーシャンクの空に』(94年)に出てくるポスターの人と言わねばならないのがなんとも悲しい。そこで使われているポスターが本作のウェルチである。なんともセクスィーである。
『恐竜100万年』で披露したビキニ姿は瞬く間にウェルチブームを巻き起こし、これによってウェルチは時代を象徴するセックスシンボルとなった。人々はセクスィー、セクスィーと言って喜んだ。間違えてゼクシィと言う奴もいた。
ちなみに『ショーシャンクの空に』で何度か貼りかえられるポスターは、リタ・ヘイワース、マリリン・モンロー、ラクエル・ウェルチという順番になっていて、この三人は40年代、50年代、60年代のアメリカをそれぞれに代表するセックスシンボルである。
伝説のスチール。ラクエル・ウェルチといえばこの一枚。
その中でもウェルチは最も卑近なセックスシンボルだったと言えよう。
リタ・ヘイワースは一貫してファムファタールを演じ、マリリン・モンローは文芸映画への転向を試みたが、ウェルチだけがセクスィーをまき散らしていた。
いつまで経ってもセクスィーをまき散らすことをやめなかった。乳を半分放り出したり生足を放り出すなどして破廉恥な恰好をこよなく愛した女だった。
したがって女優としての評価は低いが、私はこれに待ったをかけるもの。
ウェルチは人知れずセクスィー革命を起こした人物なのだ。
セクスィーを必要としない映画でセクスィーを披露することによってジャンル映画の融合を試みた唯一の女優なのである。
『ミクロの決死圏』(66年)ではハードSFにセクスィーを絡め、『女ガンマン 皆殺しのメロディ』(71年)では西部劇にセクスィーをまぶしている。科学と西部劇というのはセクスィーなど必要としない「男だけの世界」だが、そこへウェルチが飛び込んで行ってセクスィーをまき散らした。いつまで経ってもセクスィーをまき散らすことをやめなかった。
ウェルチ「SFや西部劇は男のモノって…そんな法があるかよ!」
60年代以降の性革命に寄与したエリザベス・テイラーやジェーン・フォンダの系譜に位置付けるべき、意外と重要な女優といえる。
『ミクロの決死圏』(左)、『女ガンマン 皆殺しのメロディ』(右)。
◆特撮王ハリーハウゼン◆
そんなウェルチがビキニ姿でウロチョロしているのが本作。
時は原始時代。そこら中に恐竜がいるのだが そこら中に人間もいる。
なんで!
なんでこの時代にソーメニーピーポーがいるん。
狩りをして暮らしているソーメニーピーポーは、恐竜と遭遇するたびに「来んな。こっち来んな」とか「あかんあかーん」と騒ぎながら蜘蛛の子を散らすように逃げる。とはいえ言語体系は確立されていないので「あー」とか「うー」といった言葉を暗号のように駆使してコミュニケーションを図っているのだが。まぁ原始人である。
ところが、ウェルチを含む女性陣は化粧をして髪を整えてペンダントまで付けているのだ。なんでや。
すでにファッションという概念が確立されてるの? 原始時代に?
原始時代なのにやけにマブい女たち。
この時点ですでにお気づきのようにデタラメ極まりない作品である。
百歩譲って「人間と恐竜が同居した世界」というのは分かるが、恐竜だけでなく巨大亀、巨大トカゲ、巨大蜘蛛とかも出てきちゃう。なぜか人間以外の動物が巨大化しているのだ。それをやってしまうと話が変わってくるんだけど…。
これ恐竜映画でしょ? なんで他の動物が巨大化するのよ。いらん要素が一個乗っかっとんねん。
巨大亀と戦う男たち。恐竜関係あらへん。
とはいえ、特撮王レイ・ハリーハウゼンによる円転自在のストップモーション・アニメこそが本作の見所。
ハリーハウゼンは『原子怪獣現わる』(53年)や『アルゴ探検隊の大冒険』(63年)などを手掛けた特殊効果の大家であり、ジョージ・ルーカス、ティム・バートン、庵野秀明などに多大な影響を与えただけでなく、彼が特撮を手掛けた『原子怪獣現わる』なくしては『ゴジラ』(54年)はなかったと言っていいほど特撮の基礎を築いた人物である。
また、光学合成を使わずに俳優と人形を「共演」させたダイナメーションという技法を開発した人物でもあり、本作でもここぞとばかりにフル活用されている。
この映画は1966年に作られたものだが、当時の特撮レベルを20年分ぐらい先取りしているので人間と恐竜の決闘シーンが驚くほど瑞々しい。
何はさておき恐竜の可動域と機動力に驚かされるのだが、たとえば槍で牽制された恐竜のリアクションはいちいち細かく、人間を噛み殺すブルータルな表現にも容赦がない。
語弊を怖れずに言えば、ストップモーション・アニメとは「ごっこ遊び」を模倣した微笑ましい遊戯である。
ただのフィギュアに恐竜という役を与えてそれっぽい振舞いをぎこちなく再現する「ごっこ遊び」であり、実際『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(93年)も『悦楽共犯者』(96年)も『ターミネーター』(84年)でさえも微笑ましい映画には変わりないのだが、ハリーハウゼンのそれは遊戯の域を越えている。恐竜の撮り方があまりに超現実的=シュールなのだ。もはや微笑む余地もない。
ストップモーション・アニメの作り手たちは、あくまで「コマ撮り」という方法論に敬意を払いながら1コマ1コマに思いを込めていくものだが、ハリーハウゼンはコマ単位ではなくショット単位で恐竜たちを動かしている。
これはアニメではなく映画の考え方だ。
アニメの最小単位はコマ。マンガの最小単位もコマ。だが映画の最小単位はショット。アニメーターというのはコマを見るわけだが、ハリーハウゼンはショットを見る。したがって彼がやっていることは原理的にはストップモーション・アニメではない。
この映画に驚愕したのはまさにここだ。
アニメーションしないアニメーターがこれほど豊かに恐竜をアニメイトしている。
天才すぎて頭おかしいのかっ。
多分あまりピンとこない話をしているだろうから乱暴にまとめると『恐竜100万年』は特撮を越えた特撮ということだ。当時の特撮レベルを20年分ぐらい先取りした、本当の意味でのSF。
つまり四半世紀も前に『ジュラシック・パーク』(90年)はすでに作られていた、ということが言えると思います。
…乱暴すぎて何言ってるかぜんぜんわかんねえな。論理の飛躍がすげえ。
◆恐竜無視!◆
「ストーリーはあって無いようなもの」とか「話はつまらない」と言われているが、待った、待った、待った!
たしかに物語は一本調子。台詞らしい台詞がまったくない疑似サイレント映画なので、そりゃあ複雑なことはできないでしょうけど、私は物語も楽しんだよ。
酋長の父と喧嘩したことで自身のコミュニティから追われた主人公(ジョン・リチャードソン)が、ラクエル・ウェルチが属する別部族に招かれる。そこでウェルチに片想いしている若き酋長と主人公が恋の鞘当てを演じるのだが、もちろんすべては台詞なしで語られていく。しかも彼らは原始人なので愛や嫉妬といった人間感情を持たない。
つまり役者たちは感情表現が制限された状態で愛憎劇を演じているわけだ。はっきり言って彼らが演じているのはほとんど猿です。
だけど観る者は「あ、この二人がウェルチを取り合ってるんだな」ということが分かる。感情抑制&サイレントという悪条件が物語理解にまったく支障をきたさないのである。これはなかなか凄いことをしてると思います。
そのあと酋長の座をめぐって骨肉の争いへと発展するのだが、この恐竜を無視した人間同士のゴタゴタというブラックユーモアがまた良い。
「いつの時代も人間は醜い」という原始からのメッセージが現代人のわれわれを鋭く撃ち抜きますね。
『ゴジラ』の基になった『原子怪獣現わる』も、怪獣を生み出したのは結局人間というところに行き着くわけだ。つまるところ怪獣映画とは怪獣を使った人間論であって、本作もまさにそんな自虐性と自己反省に満ちたブラックユーモアの怪作なのである。
ちなみに、主人公の属する野蛮な部族は全員黒髪で貧しい生活を送っていて、ラクエル・ウェルチが属する文明的な部族は全員金髪で優雅に暮らしている。
なぜか原始時代にヨーロッパ中心主義という思想が確立されているという、実にむちゃむちゃな作品でございました。