シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

マイラ -むかしマイラは男だった-

タブーに踏み込んだ伝説のカルト映画。マイラはキマイラ!

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1970年。マイケル・サーン監督。ラクエル・ウェルチ、レックス・リード、メイ・ウェスト、ジョン・ヒューストン。

 

映画マニアの青年マイロンは性転換手術を受けて美女マイラに変身した。さっそくマイラは叔父のバックが経営する演技学校に乗り込み、死んだマイロンの妻と名乗って学校の権利を要求するが、バックは弁護士を使ってマイラを追い返そうとする。マイラは対抗して学校の後援者である有閑マダム・レティシアに取り入って学校の教師に就任。ある日、マイラはハンサムな生徒ラスティとその恋人メアリー・アンに同時に恋心を抱く自分を発見し困惑、マイラの相続資格を審査する弁護士たちの前で自分の正体を明かしてしまう…。(Amazonより)

 

お。

わかりますかね。毎回挨拶が面倒臭いので「おはようございます」を略して「お」と言ってるわけであります。汲み取って。おねがい。浸透して。

 

さて、以前の『レッスル!』評の前置きで「探してる映画があります。女性が男性に性転換するお話で、恐らく70年代前後の作品。ブリジット・バルドーだかクラウディア・カルディナーレだかといったセクシー系の女優が主演だったような気がします。なにか思い当たった方はコメント欄なりトゥイッターのDM等で教えて頂ければ嬉しいです。」と皆さまに呼びかけた作品がついに見つかりました。今回取り上げる『マイラ -むかしマイラは男だった-』という映画です。

自己解決できてよかった。ずっと観たかった作品なので、この度ようやく観ることができた私は、たぶん世界で17億7493万8501番目に幸せ者です。胸を高鳴らせると同時に撫で下ろしもした。

 

それにしても、誰からも連絡が来なかったことにひどく悲しんでおります。なんで誰も「それ多分『マイラ』やで」って言ってくれんのん。集合知に失望したっ! これが都会の冷たさだとでも?

まぁ確かに、私の訊き方が不味かったのは否定しないよ。「女性が男性に性転換するお話」って言っちゃったけど…見事なまでに逆でしたな。ははは。『マイラ』は男性が女性に性転換するお話なので。

だけど「70年代前後の映画」「ブリジット・バルドーだかクラウディア・カルディナーレだかといったセクシー系の女優が主演」というのは当たっていたでしょう?

ドンピシャで1970年の映画だし、主演はラクエル・ウェルチ。私の情報提供能力の高さをまざまざと見せつける形となりました。アリス。

そんなわけで『マイラ -むかしマイラは男だった-』。行ったらんかぇ!

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◆俳優養成学校の内幕モノ!◆

『マイラ -むかしマイラは男だった-』

ようやくこの悪名高き問題作を観ることができました。イェイ、ビバ、ハッピネス。

男から女に性転換したヒロイン・マイラがハリウッドの俳優養成学校に潜りこんで不思議な革命を起こす…という内容で、今となってはカルト映画として再評価されているものの公開当時の評判は惨澹たるものだった。

『ジョアンナ』(68年)で知られるマイケル・サーンの長編2作目にあたる『マイラ』は過激な描写をめぐって大論争を巻き起こしたうえに映画はまったくの不入りで、サーンは早くも業界から追放されてしくしく泣いた。

あらすじを読む限りではおもしろそうな映画なんだけどねぇ。説明してあげよっか? オーライ。

 

マイロンはもともと映画評論家の若きゲイだったが、「70年代のアメリカ映画は頽廃している!」という理由からとびきりホットでグラマーな「マイラ」に性転換&全身整形してスケベな叔父が経営する演技学校に教師として忍び込む。

さっそく教鞭をふるうマイラは、俳優の卵たちを前にして「メソッド演技なんてやめるべき」「俳優志望なのに古典映画を観ない奴は死ぬべき」「ロクなことを教えずに授業料だけ巻き上げるこんな学校も今すぐ潰すべき」と学校制度を大いに批判する。

いいぞー、マイラー! だいぶいいぞー。

「やめてくれ。我が校のイメージが下がるゥ」と言って講義に乱入してきた叔父をしたたか殴りつけたマイラは、ざわつく生徒たちに「今のパンチは当ててないのに当てたように見せる高等技術です」と言って速やかに伯父を排除。生徒たちから拍手まで受けちゃう。

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性転換前の「マイロン」と性転換後の「マイラ」。


メソッド演技ほど馬鹿馬鹿しいものはないし、真の名優は演技学校から生まれるものではないと考えている私にとってマイラの暴挙は愉快痛快、まさに胸のすく思いでありました。

だって「みんなで木になりましょう」とか言って大真面目に木の演技とかするんですよ、あいつら。演劇のコーチは「もっと木の気持ちになれ!」と叫び、直立不動で両腕をファサファサさせた生徒は「私はいま光合成しています」などとぬかす。

何の役に立つんだよ、その練習。

ていうか木は喋らないんだよ!

スケベな伯父は毎日のように校長室に風俗嬢を呼んでお楽しみ。この学校のスポンサーを務める映画会社重役の有閑マダムは俳優オーディションと称して活きのいい新人俳優とセックス三昧。

このように、映画業界の胡散臭さや薄汚さを下品に風刺したのが本作なのである。表から見るぶんには華やかな業界だが、その裏側はロクなもんじゃないという内情を穿っている。40年以上も前からMeToo運動を予見していた作品ともいえるのではないかしら。

またこの作品は、マイラが仲良くなったカップルの両方に恋をして性差を乗り越える…というLGBT映画でもある。なんとまぁ今日的なテーマなのか。ジェンダーやカルチャーを巻き込んだマイラの無血革命は40年越しの現実世界でようやく実を結んだのであります。

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「あら、いいお尻!」。マイラはお尻が大好きです。

 

◆なぜ酷評されたのか?◆

『マイラ』は時代に先駆けてジェンダーやアメリカン・カルチャーへの風刺を盛り込んだブラック・コメディだが、本当のおもしろさはメタ的な風刺精神にあり。

各キャラクターを演じた俳優が「ほとんど本人役」なのである。

主役のマイラを演じたのは「20世紀最高のグラマー」と称されるラクウェル・ウェルチ

『恐竜100万年』(66年)『ミクロの決死圏』(66年)で知られるセックスシンボルである。昔から全身整形が噂されている女優であり、まさに整形によって美貌を手にしたマイラそのもの。

また大根役者としても有名だが、そんな大根ウェルチが教鞭を執って演劇論を否定するというイタさたるや…。要するに監督マイケル・サーンは「メソッド演技」と「メソッド演技すらできない大根役者(ラクウェル・ウェルチ)」を同時にからかっているのだ。なんたるイケズ…。

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60年代のセックスシンボル、ラクエル・ウェルチ!

 

さて、そんなマイラの前身―すなわち性転換前のゲイの映画評論家を演じたレックス・リードは実際にゲイで知られる映画評論家である。まんま本人。

そしてマイラの叔父役がジョン・ヒューストン『アスファルト・ジャングル』(50年)を手掛けた無頼派の名匠だが、とにかくこのオヤジは仕事をせずに遊び呆けることで有名(その放埓なエピソードはクリント・イーストウッドが『ホワイトハンター ブラックハート』で描いています)。

男好きの有閑マダムを演じたのはメイ・ウエスト。当時77歳。1930年代に艶笑コメディで一世風靡したフェロモン女優で「セックスしなかった日は一度もない」と豪語するほどの性欲ババアであられる。

また「曲線美は剣よりも強し」などわけのわからない名言をよく吐くことを誰よりも得意とした。

「愛は鼻くそみたいなもの。あなたはどうにかしてほじくり出そうとする。でもようやく手に取ると、あなたはその処分に困ってしまう」

 

ふむ…。

 

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名言製造機としてのメイ・ウエスト(左)。お隣りはラクエル・ウェルチ。

 

このように錚々たる大物が集った豪華キャストだが、見落としてはならないのがゲイのマイラが惚れてしまったオツムの弱い女優志望の女の子。

これを演じているのが無名時代のファラ・フォーセットなのである!!

世界中から愛された70年代のアイコン的女優であり、ご存知『チャーリーズ・エンジェル』(76-80年)におけるチャーリーズ・エンジェル。

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リアルエンジェル、ファラ・フォーセット。


こんなに愉快で豪華な『マイラ』がなぜ酷評されて問題作になったのか?

その理由はいくつかあるが、早い話が時代を先取りしすぎたのだ。

当時まだタブー視されていた性転換や同性愛をコミカルに描いたことが一番の原因だろう。これによって主演俳優のレックス・リードと原作者のゴア・ヴィダルはホモフォビア(同性愛嫌悪者)の猛攻撃に晒されてしくしく泣いた。

そしてカウボーイごっこを楽しむ叔父は「この学校にはアカとホモしかいない」と毒づいて「もしくは黒人」と締めくくるほどのレイシスト。それを言ったのが白人無頼派監督のジョン・ヒューストンなので洒落になっていない。

そして本作を最低映画たらしめた決定打こそがペニスバンドをつけたマイラがファラの恋人を犯すという下品極まりないシーン。このシーンだけでなく、本作にはサイケデリックな映像感覚が蔓延しているので下品かつ難解な映像表現が一層反感を買ったものと思われる。

 

ストーリーも取っ散らかっていて、人物の行動原理が支離滅裂なのだ。

たとえばマイラはファラの恋人に情愛を抱いている反面、男らしさを誇示する彼を憎悪してもいる。したがってマイラがこの男を犯したのは情愛ゆえなのか、凌辱ゆえなのか、はたまたその両方を孕んだ性的倒錯なのか…というモチベーションが不明瞭なのである。

一事が万事この調子。ゆえに原作者のゴア・ヴィダルと著名な衣装デザイナーのイーディス・ヘッドは本作をメタクソにこき下ろした。

「この映画に関わったことは人生最大の汚点です」

現代っ子のわれわれにとっては何がそんなに問題なのかいまいち分からず、むしろ現代を予見した前衛精神に感心すらしてしまうのだが、どうやら当時の人々の目にはただただ低俗な映画に映ったようだ。

ちなみに、公開当時から本作をゴリ推ししていた数少ない著名人こそが我らが師・淀川長治先生。やはりこの人でした。ゲイアンテナをビンビンにおっ立てて映画の本質を見抜いていたのですね。

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ファラの恋人を犯すマイラ。これは宣伝用のスチール写真なので控えめに撮られていますが、本編の映像ではマイラが絶叫しながら腰を振るという品性下劣なシーンがお楽しみ頂けます。

 

◆サンプリング・マシンガン◆

最後の章では、酷評の一因にもなった「サイケデリックな映像表現」について少し。

この映像表現がなかなかすごくて、酷評の一因どころか『マイラ』を怪作たらしめた最たる要因になっているのである。

20世紀フォックスが配給した『マイラ』は、全編に渡ってフォックスが所有する往年の名作群のフィルム断片がサブリミナルのように挿入されているのだ。

その時々のキャラクターの感情や物語のシチュエーションを補足する形で、唐突にまったく無関係な映画のワンショットがバシバシ挟まれるのである。おそらく全編通して50回ぐらいあったのではないかしら。まさに古典映画のサンプリング。なんとその中にはウェルチ主演の『恐竜100万年』のショットも。

考えてみてくださいよ。ひとつの映画を観ているときに別の映画のショットがしょっちゅう挟まれたとき、人はどうなるか?

気が散るわけです。

気が散ってしょうがねえわけです。

特に映画好きなら「あっ、この映画なんだっけ!?」とサンプリング映像の方に気を取られて本筋を見失う、いわば木を見てマイラを見ずみたいな本末転倒なことになって、結果、映画が頭に入ってこない、覚えているのはラクエル・ウェルチのペニスバンドとメイ・ウエストのバケモノじみた笑顔のみ…といった体たらくでエンドロールを迎えるハメになっちゃうわけ。

そりゃあ酷評もされるわいな。

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随所で挟まれる古典映画の数々。『マイラ』関係あらへん。

 

その上さらにタチの悪い実験精神を発揮していて…なんと同一画面にラクエル・ウェルチとレックス・リードが共存しているシーンが多々あるのだ。

この二人は同一人物の「男だった頃」と「女になった後」を演じているわけだが、ラクエルが「女二人で話しましょ♡」と言ってファラとパジャマパーティをしている部屋になぜかレックスまで居るのである。

いわばレックスはペルソナとして現在の主人公(ラクエル)に語りかける自我分裂の片割れとして具現化した存在。ゆえにファラには見えないし声も聞こえない。であるならば、ラクエル演じる現在の主人公はアニマ(男性の無意識人格の女性的な側面)。

まさに自我と自我の合成生物、マイラならぬキマイラなのである。

これを裏付けるかのようにレックス&ラクエルがヘタな踊りでミュージカルを披露するさまがファーストシーンとラストシーンで二度描かれている。ふたつの自我が手を取り合ってダンスするのさ!

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二つの自我が肉体を持ってスクリーンに映し出されます。

 

ここまではどうにか理解できるが、問題は映画最終盤。

ファラに惚れた主人公、つまりラクエルが「やっぱり男に戻りたい」とか「ファラになりたい」(え!?)などと支離滅裂なことをのたまい、再び整形手術(性転換?)をしたっきり、結局なにが何やらよく分からないまま映画が終わってしまうのである。

さらに意味深なことに、この手術シーンだけモノクロで撮られていることからラストシーンが主人公の夢ないしは妄想だった…とも取れる。あるいは、もとより意味などなく「思わせぶりなラストシーン」を目的とした悪ふざけだったとも考えられるのね。

まぁ、私から言えるのはやはりこの一言…。

そりゃあ酷評もされるわいな。

本作が大ブーイングを受けたことで、新鋭監督のマイケル・サーンは長編2作目にして早くも映画業界から追放されてしまいました。

 

まぁ、おもしろい・つまらないに関わらず機会があれば絶対に観ておいた方がいい作品なのは確かでしょう。

つまるところ「カルト映画」というのはそういうもんなのだ。

人は『鮮血の美学』(72年)なんて観る必要はないけれど、たまたま観る機会があったらとりあえず観ておくべきである。なぜならそんな機会は恐らく今後二度と訪れないから。目の前のチャンスをむざむざ逃すな。エレファントカシマシにも「今だ !  テイク・ア・チャンス」という曲があるように。つまりエレカシはカルト映画を見逃すなということを歌っているわけです。わかりましたね。

明日はマイケル・サーンの処女作『ジョアンナ』(68年)を取り上げます。お楽しみに!

…と言ったところで誰が楽しみにしてくれるのだろう。