シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

わたしは光をにぎっている

詩学を通らぬ者のポエムはジャスト・ア・メルヘン寝言にすぎぬ  ~せやろがい!

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2019年。中川龍太郎監督。松本穂香、光石研、渡辺大知。

 

20歳の宮川澪は、両親を早くに亡くし、祖母と2人で長野県の湖畔の民宿を切り盛りしていたが、祖母が入院してしまったことで民宿をたたまざるを得なくなる。父の親友だった涼介を頼りに上京し、涼介が経営する都内の銭湯に身を寄せた澪は、都会での仕事探しに苦戦し、次第に銭湯を手伝うようになる。そして個性的な常連客たちと交流し、徐々に東京での生活に慣れてきたある日、銭湯が区画整理のため閉店しなければならないことを知った澪は、ある決断をする。(Yahoo!映画より)


 アイッス、アイッス。やろけぇ。
そういえば、こないだ知人から「ねえ、ふかづめ。『自己中心型』の対義語って何だと思います?」と訊かれたので「たこ周辺型」と答えたら「たこ? タコって足8本の、食べたら美味しいやつですか?」と言ってきた。
「他己」だよバカ!
ついでに言うと足じゃなくて「腕」な。タコのやつは。あと美味しいかどうかは人による。オマエの主観的意見でタコを定義すな。まずいと感じる人もおる。味覚次第や。辞書支配すんな。タコ殴りにすんぞ。

するとその野郎、「でも自己の反対って他己じゃないですよ」などと口ごたえしてきた。
一応わかってるよバカ。
「たこ周辺型」って響きがなんかいいなーと思ったから言ってみただけや。こちとら意味の正確性より語感を重視した言葉のチョイスを心掛けとんねん。
それにわざと語を誤用するという高等技術はさまざまな局面で活きんにゃで。「あざとい」とかね。若者相手なら間違った意味で使う方が却って伝わりやすいしな。バカだから。

そんなことを思っていたら、野郎、こんだ「じゃあ『他己分析』の対義語って何ですか」などと訊いてきやがる。なんじゃこの質問タイム。

しょうがないから「イカ十把一絡げ」と答えてあげると「イカ? 僕が言った『たこ』は足8本の方のタコじゃないですよ」などと楯突いてきた。
だから分かってるんだよバカ。
分かっててあえてタコとイカで言葉遊びのハーモニー奏でたんじゃなああああああい!?
なんでそんなキチッとするのぉおおおお。なんでちょっとハーモニー奏でようとしたら警笛吹きながらすぐ「違う違う」ってするのおおおおおお!!
べつに罪のない魚介ギャグじゃん。それすら伝わらんのか、こいつには。すぐハーモニー止めて。
…ていうか「イカ十把一絡げ」への評価は?
咄嗟に言ったわりにはええもん出た思うで。


極めつけに野郎、私が溜め息つきながら「そうやって揚げ足ばかり取って…」と呟いたらば「揚げ足。イカだけに?」などと発してきやがった。
こんガキャア!!
しんどくなった私、「ゲソ~」ってやってあげて、現場から逃走。
こんな最低のイカゲームあるか?
アホみたいな海鮮トークをどうもありがとうだよ。クソくだらねえ。…こんな会話しかしないから、こんなブログしか書けないのかな。
ゲソ~☆

そんなわけで本日は『 わたしは光をにぎっている』です。
作品の話はほとんどせずにインディーズ映画への悪口ばっかり書きました
少なくともオレは光なんかにぎってなかった。

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◆バターとBUNMYAKU ~せやろがいが火をふく~

 亡き両親に代わって育ててくれた祖母の入院を機に上京してきた松本穂香は、父の友人である光石研の風呂屋に居候しながら銭湯経営を手伝うことに。
慣れない東京生活にしどろもどろな穂香だったが、やがて商店街の人たちと知り合い、番頭ガールとしての誇りをゲットしていく。今日も朝一番に浴場の掃除を終えた穂香は、湯の中にポチョンと手を突っ込んで小さく呟いた。
「わたしは光をにぎっている…」
いや、お前がにぎってるのは湯だ。
すぐ文学みたいなこと言うな。

 よっしゃ。もう今日はいきなり斬りかかるぞ。
文庫本のカバーデザインとしてはそれなりに人を惹きつけもするポスタービジュアルからして薄々そうではないかと予期していた通り、中川龍太郎『わたしは光をにぎっている』は2010年代あたりから日本映画のムードを覆い続けている“インディーズ思想”をバターナイフでたっぷりと塗りたくった実に抽象的な作品だった。
松本穂香が祖母と肩を並べて桟橋チックなところに佇みながら抽象チックな会話をするファーストシーンの雰囲気チックショット&モッサリ編集チックからして「うわぁ。バターたっぷり~…」っていうチックね。
インディーズ映画という名のバターがナイフにたっぷり~って。これ一気に塗りたくられたらヤだな~…なんて思惟しながら。俺。
すると祖母は、上京が決まった穂香に向かって「見る目、聞く耳。それがあれば大丈夫」と抽象エールを贈る。
で、この超ロング。

f:id:hukadume7272:20211007041240j:plainインディーズ映画という名のバターがナイフにたっぷり。

ベ~ッタァ~塗られたある。

なんとなく分かる人だけがなんとなく分かってくれればいいレヴェルの話を私はしてます。
フィルムという名の食パンがバターまみれになっちゃった。ベッタベタやで、オイ。
私みたいな人間は、このファーストシーンを一口齧っただけで「あ、もうむり…。ご馳走ちゃん」って皿に置いてしまうんだけど、まあ好きな人ならペロリだろうね。
岩井俊二的というのか、河瀬直美的というのか。程度の差こそあれ、今のミニシアター系って大体これなの。

“イメージの映画”

より卑近な言い方をすると“雰囲気だけの映画”。この際「フインキ」と読んでもらいたいほどには、ここで使う「雰囲気」にはありったけの皮肉を込めたいのですよ。

 まず第一に美景ショット好きすぎ体質。
この手のインディーズ映画は、映像の肌理/感覚/空気感を重んじてるっつーか、筋や演出がどーのこーので面白くする気はさらさらない理屈ぶん投げ大会に出場してるので、単に雰囲気よさげな映像の羅列に終始しがちなのよね。
もちろん映画ですから先に立つべきは映像ですよ。だけど“理論に則った映像”ではなく“勘で撮った映像”だから始末に負えない、手に負えない。雰囲気至上主義。わしゃ見ぬくでー。
詩学を通らぬ者のポエムがジャスト・ア・メルヘン寝言であるように、映画理論を通らぬ者の美景ショットの羅列もまたスライドショーでしかないのです。
意味はないけど何となく雰囲気があって、意味はないけど何となくキレイめな映像ばっか繋げて、意味はないけど何となくスクリーンを観続けてるだけの観客を「ほえ~」もしくは「なんかエモいじゃーん」って言わすだけの大会。
だめじゃん。
なんとなーくエレジーな景色を被写界深度深めで撮って、意味ないけど長回しとかしちゃって。朝はハイキー。夜はローキー。昼間はなんかフレアきらきら。それで「映像詩」とか言っちゃってんだからねぇ。
だめじゃんっ。

f:id:hukadume7272:20211007042442j:plainなんとなーくエレジーな景色。


 果たして映画を「美景撮ったら勝つゲーム」か何かだと思ってるのだろうか。思ってるんだろうね~。
だとしたらその発想って”映え”を意識する女子大生だろ。
もはや日本のインディーズ映画は女子のインスタだよ。だって“映える画”だけで成立しちゃうんだろ? じゃあインスタだよ!
 釘を刺しておくと、美景=ショットではないからね。ここ絶対間違わないで。おねがい。
この手の映画でいちばん腹立つのはショット撮ったった感なのよ。インディーズ系の映画監督ほど“ショットはそれのみで映画たりうる自律したフィルムの一片”だと思い込んじゃう傾向があるけど「それのみ」じゃないからね。「それのみ」で成立するのは「映像」だよ。ただの映像。映画たりうるには前後のショットとの緊密な繋がりが必要や。
言い方は様々あろうが「いかに美しくショット間の“繋ぎ目”を見せるかが映画」ともいえる。
逆に考えてみ。ショット単体で映画が評価できるか?  出来んやろがいいいいッ。それが出来たら総ての映画はTikTokで事足りるわ。10秒以内で決着や。だってショット単体でいいものなぁ? おぉ~ん?
せやろがい!
繋がりなんて意識しねー関係ねーってんなら、そりゃもうスライドショーなんだよ。YouTubeなんだよ。結婚式のビデオレターとかも全部映画だわ。教習所の教材映像も映画だよ。短編映画として成立するわ。CMも映画っ!

 無茶してマンガに例えたる。
普段、ぼく達あたす達がマンガを読むとき、右から左へと視線を移してコマを追っていくわな? 視線ピューンして。コマAを見たあとにコマBを見るわな? ほいでコマCを見るわな? 「むちゃむちゃおもろいー」ゆうて。馬鹿垂れみたいな顔して。
ここでなぞなぞ!
おまえがコマBで描かれてる絵やセリフが理解できるのは何でや? ハナシの流れを追えてるのは何でや?
事前にコマAを見てるからやな!?
せや。
コマAを見たからコマBが理解できんにゃな?
せやせや!
コマBを見たらコマCが理解できていくな!?
せやさかい、そゆこっちゃ。
つまりワシらは、絶えず無意識裡に「今見てるコマ」と「1つ前のコマ」との間に文脈(-BUNMYAKU-)を見出しながらマンガを読み進めてるな!?
「前のコマ」を知ってるからこそ「今のコマ」を理解できるんです、俺たちは! ヤッター! おめでとー。さゆりちゃん冬美ちゃん、紅白おつかれー!
でも、これがオメェ…。もしも「あるマンガのあるページのあるコマ」だけをコンビニで拡大印刷して馬鹿でけぇパネルにして「ここ名場面だよね!」って友達に出されても困惑するでしょう? 「そこだけ抽出されても知らんがな」っていうツッコミが活きてくるね? 俄然活きてくるね?
スラムダンク読んでない奴がスラムダンク好きの友達から「三井の『バスケがしたいです』って名言だよねえ!?」って言われても「そのセリフに至るまでの話の流れを知らねぇから別になんとも感じねえよ」としか思わないよねえ。三井とか言われても三井住友銀行を彷彿するだけだよねえ?

せやろGuyyyyyyyyyyy!!

ショットはそれのみで映画たりうるワケではないやろがいィイイイッ!
人がひとりでは生きられないように、ショットもまた前後のショットとの繋がりの中で相関的にショットたりえてる。そこを見誤った人ほど一枚絵としての美景ショットにこだわるのかも。

しかしなんだな…マンガに例えた意味あんまなかったな。
しゃしゃしゃ!

f:id:hukadume7272:20211007042719j:plain松本穂香さんの様子。

 あと、この手の映画は往々にしてロングショットを偏愛するよね。
対話シーンひとつ撮るにしても、いっちいちロング。
ぅいっ…ちいちロング!
それでなくともフルフィギュア。つまり表情を見せない。狙いは感情の被覆。だからボソボソ喋る。で、それがリアルだと思ってる。“劇性を省いた劇映画”をやってるつもりなのかな。たぶんね。そういうのが「今風でクール」と思ってんのかな。たぶんね。でもそういうのは70年代にやり尽くされてるんだよね。既にね。ATG系とかでね。今風どころか退行してることに気付いてないんだろうな。たぶんね!!!

ほいで勿体ぶるようなカットの間。
「いつまで経っても直んない現代日本映画の悪癖ランキング」において堂々の4位を射止めてみせたことでお馴染みの勿体ぶりカットね。
なにさ。故意に間を延ばしても文字通り「間延び」するだけなのにサ。でも手っ取り早くフインキを出すには「間を延ばす」のが一番なんだよね。基本的に、人は故意に作られた間に“意味”を読もうとするので、演劇にせよ漫才にせよ「間を延ばす」だけで何となくフインキが出んだよな。なにさ!
例えばそう…、スケジュールを確認した相手に「大丈夫です!」と即答されたら「よっしゃ、よっしゃ。大丈夫やな」って安心するけど、変な間を置いて「…大丈夫です」とか言われたら「今の返事こそ大丈夫かよ?」って不安になるよな。それと一緒だよ。
一緒じゃねーけど。

f:id:hukadume7272:20211007043512j:plainロングショット依存。

◆番頭ガールのぽやぽやした日常じゃなかったのかよ◆

 あ、やば。
『わたしは光をにぎっている』の話を全然してなかった。
そろそろ光にぎらな。

とにかく刹那的な人間模様のきわめて無論理的なラフスケッチが96分続くわ。
そんな映画。
特に機能性とか考えずにただフインキよさげなインテリアをあちこち置いた室内装飾を思わせる、そんな「とりあえず間接照明ボン! あっちにドン! こっちにバン!」みたいな映画だった。
ところが映画終盤で急に毛色が変わって、松本穂香が手伝っていた銭湯が区画整理により閉店することになり、彼女がよく通っていた商店街も立ち退きを余儀なくされる。ラストシーンでは、ドキュメンタリー映画を自主制作している穂香の友人・渡辺大知が商店街の人々を集めて映画上映会して終わり(商店の人たちの笑顔を順番に映していくだけの謎のドキュメンタリー映画)。

ごっつ変なタイミングでメッセージ性突きつけてくるやん。
バビッた~。
だって、途中までは「番頭ガールのぽやぽやした日常」みたいな話だったのに、終盤で急に「実録! 地域高齢化や都市開発によって失われゆく街の原風景」みたいなNHKじみた地域社会学路線にシフトするんだもの。それではお聴き頂きましょう、中島みゆきで「時代」、みたいな。
なんだこりゃ。
千と千尋のトンネルかよってぐらい入口と出口の辻褄合うてへん。入り口で渡されたガイドマップと全然違うとこに出たけど…ママーッ、ここどこォッ!
区画整理とか言ってるゥー!

鑑賞後に知ったが、どうやら本作のロケがおこなわれた葛飾区立石の商店街は実際に再開発が迫っており、本作に出演した商店街のエキストラも立石のガチ住人なんだって。
「へ~」って思ったけど「…で?」とも思った。

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中島みゆきの「時代」を各自あたまの中でかけること。

(C)2019 WIT STUDIO / Tokyo New Cinema