「No.5」のような薫香を放つアナ・ムグラリス!
2009年。ヤン・クーネン監督。アナ・ムグラリス、マッツ・ミケルセン。
1913年のパリ。シャンゼリゼ劇場でロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーが音楽を手がけるバレエ「春の祭典」を鑑賞したココ・シャネルは、その革新的な音楽に心を打たれる。だが、内容が急進的すぎたため、ストラビンスキーの才能が認められることはなかった。7年後、莫大な富と名声を手にしたシャネルは、難民となったストラビンスキーに別荘を提供する…。(映画.comより)
おはようございます。
唐突にこんなことを言って驚かせてしまったら申し訳ないのだけど…、私は黒が好きです。
私服は全身黒やよ。下はたまにジーンズを履くときもあるけれど、上はほぼ100パーセント黒です。髪色も、パソコンも、眼鏡の縁も全部黒。心だって真っ黒です。
色を選ぶときにいちばん楽なのが黒ですし、汚れも目立たないし、何より落ち着くんですよね。
そんなわけで本日は『シャネル&ストラヴィンスキー』。
珍しく「そんなわけで」という接続詞が文法的に正しく使われております。詳しくは後述するから落ち着いて読んでくれ。はやる気持ちはわかるけど。
◆ブランド論◆
この章は完全なる雑談であるから読み飛ばしてもらっても一向に構わない。
私が『ダウンタウンDX』を見ないのは「スターの私服」というくそみたいなコーナーがあるからだ。
元来、ブランド志向というものが大嫌いで、高級品で身の回りを固める芸能人とか小金持ちを見ると「この人はそういうもので優越を誇示することでしか自己表現できないのだろうか?」と思ってしまう。
ただ単に「服が好き」とか「宝石類を集めたい」といったカラスみたいな習性を持つ人はブランド志向ではなくブランド嗜好、いわば優越のためではなく満足のためにブランド品を集めているだけなので別になんとも思わないのだが、とは言えブランド品というのは可視化されたステータスなので、どうしても下品に感じてしまうのである。
デザイナーが作った服や家具は「芸術」や「作品」と呼ばれるが、店頭に並んだ途端に「商品」という言い方に変わる。摩訶不思議である。
私はデザイナーにせよクリエイターにせよ、あまねく心魂ブチ込んで自己表現する人のことを尊敬してやまないが、それ(作品≒商品)を買い求めようとする人民には浅ましさを感じてしまうのであるよなぁ。金に物を言わせて絵画や骨董品を競り落とそうとするオークション会場の客とかね。「スターの私服」でこれ見よがしにくるりと回転してのける一流芸能人とかね。
物欲の暴走機関車か、と。
どうも私は欲まるだし状態に人間の醜さやさもしさを感じるきらいがあるようだ。
どうでもいい話をしてすまない。
◆ストラヴィンスキー『春の祭典』◆
さて、映画の話をせねばなるまい。
2008年から2009年にかけてはココ・シャネルの伝記映画がバカみたいに作られた。
オドレイ・トトゥが挑んだ『ココ・アヴァン・シャネル』(09年)はココが天下を取る1920年代までを描き、シャーリー・マクレーンが演じた『ココ・シャネル』(08年)ではファッション界に復帰した50年代以降を描いている。
そして本作が扱っているのは1920年から翌21年までのわずか11ヶ月間。その間にココが何をしていたのかといえば不倫をエンジョイしていたわけだ。
お相手はイーゴリ・ストラヴィンスキー。
詳しいことは知らんが、原始主義に基づいた前衛的な楽曲を数多く手掛けたロシアの作曲家らしい。
この男が『春の祭典』というバレエ音楽を作り、美の殿堂ことシャンゼリゼ劇場で初公演を迎えたのが1913年。のちに『春の祭典』は20世紀の近代音楽の傑作に挙げられる作品となるのだが、初公演のときは野次と嘲笑が飛び交い怪我人も出るほどの大騒動となった。なぜか?
あまりに前衛的なダンス&演奏が理解できずにむかついた人民が支持派の人民と殴り合ったからだ。
複雑なリズムと不協和音。ダンサーたちは「あきゃ、あきゃ」とサルのように舞台を駆け回り、気が触れたように痙攣して暴れ狂う。
『春の祭典』。
そんなアバンギャルドの狂気と狂騒は賛否両論を巻き起こし、攻めすぎた男ストラヴィンスキーはすっかり不貞腐れてしまうのだが、たまたま劇場にいたココは『春の祭典』に感銘を受け、7年後にストラヴィンスキーと再会した彼女はパリで家を探すのに困っていたストラヴィンスキーに自分の別荘を一時的に提供する。
結核の妻と二人の子供を連れてシャネル邸にやってきたストラヴィンスキーは、部屋を間借りさせてもらいながら日々創作に打ち込むのだが、次第にココと気持ちを通わせるようになり妻に隠れて一線を越えてしまう…。
ゴリゴリの不倫映画にしてドロドロの愛憎劇の幕開けだぁ!
見事な撮影。パキっとしたレンブラント・ライトが影を際立たせております。
◆色は口ほどに物を言う◆
物語の序幕は1913年、パリの帽子専門店「シャネル・モード」を開業した無名時代のココが恋人のアーサー・カペルといちゃこく真夜中のシーンに始まる。
画面が暗すぎて見えやしねえ。
そのあとにココがシャンゼリゼ劇場に向かって『春の祭典』を目の当たりにするのだが、このシーンもやはり暗く、画面が黒で塗り潰されている。なんてこった。
一口に黒といっても深みがあったり艶があったりとさまざまな黒があるわけだが、ここではまさに塗り潰すといった感じのワントーンの黒がベタッと塗りたくられている。いわゆる「真っ黒」というやつだ。
私はこのシーンを見ながら「なぜこの黒を選んだのだろう?」ということがずっと引っかかっていたのだが、のちにストラヴィンスキー一家を別邸に招いたココがやたらと黒い部屋に夫婦を案内し、「明るい色は好まないの?」と夫人に言われて「黒がある限り」と答えた瞬間に「あっ」と思った。
ファーストシーンを覆い尽くした黒味、それはココ・シャネルが愛した「黒」だったのである。
さまざまな色の中でも、とりわけココはシンプル・エレガンスの基本カラーとして黒色を最も愛したという。ファッションのことなんてまったく分からんが、たしかにシャネルと聞いて真っ先に思い浮かぶ色って黒だよな。
ゆえに本作では「深みある黒」や「艶のある黒」といった映像的な色彩ではなく、もっぱら塗り潰したような黒…すなわち洋服生地の色味で撮られているのである。
劇中ではさまざまな衣装が目を楽しませてくれるが、ただ服を見せた映画だけでなく服のような質感の映像にもなっているわけだ。
いつも黒い服ばかり身にまとうココがストラヴィンスキーと愛し合うようになるにつれて白い服をまとうようになるあたりも面白い。色は口ほどに物を言う。
塗り潰したような背景の黒味がココの服と一体化する。
また、世界一有名な香水「No.5」(俗にいうシャネルの5番)を開発する過程も押さえているのでシャネル好きは必見でありましょう。
他方、匂いというのは視覚化できないという事情からこの世で最も映画に向かないモチーフだが、当然そこを弁えている本作は「No.5」にまつわるエピソードを3分足らずで処理してのける。調香師を主人公にした147分もの香水映画『パフューム ある人殺しの物語』(06年)がいかに愚の骨頂であるかという話でござる。
そうした小ネタが映画のディテールを彩りはするものの、あくまで本作はココの半生を追ったものではなくストラヴィンスキーとの短期の恋愛関係をピックアップした内容なので、私のようなシャネル暗愚でも問題なく楽しめこと請け合いである。
◆目は口ほどに物を言う◆
やはり特筆大書すべきはココを演じたアナ・ムグラリスのしなやかな挙措。
超自然的で霊妙な存在感は見る者の記憶領域にべっとりと絡みつき、シャーロット・ランプリングにも似た睨みの眼と涼しげな顔の余白は同系統のエヴァ・グリーンの色香すら児戯に映るよう。最大の武器はケイト・ブランシェットほど派手ではない頬骨だ。冷静さと表裏一体の欲深さを顕す面長もいい。顔のパーツの一つひとつにフランス女優の矜恃が垣間見える。
そしてほっそりとした手足、蛇のようなぬらぬらした動きは、1秒24コマのフィルムの原理に愛された運命の所作。猫のように予測不能な立ち回りでストラヴィンスキーを骨抜きにする身のこなし。その甘くて熱い息遣いに心がざわつく!!
『そして、デブノーの森へ』(04年)を観たときから熱烈なファンなのだが、ムグラリスの鋭敏な感覚と妖美な生々しさは、これまで決して描かれることのなかった女としてのココ・シャネルを頑迷なまでの力強さで体現している。
見た目の相似性としてはオドレイ・トトゥやシャーリー・マクレーンに軍配が上がるが、「本人に似てるから」などという寄る辺ない理由で軍配など上げなくてよろしい。
ムグラリスが真に素晴らしいのは、ココ・シャネルの「再現」ではなく「再構築」をしてのけたからにほかならないのだ。それに彼女はシャネルのモデルでもあるのでココへの理解は決して俄仕込みではないだろう。
まさに「No.5」のような薫香を放つ畢生の名演!
ストラヴィンスキー役のマッツ・ミケルセンもステキな芝居を披露しています。マッツといえばガーゴイルのような中世の神秘を身にまとった俳優である。
攻めた天才作曲家でありながら『春の祭典』がブーイングの嵐を受ければ人並みに不貞腐れたり傷ついてみせるような繊細な一面も持ち、それゆえにココとの情事に溺れてしまう…という「芸術家の弱さ」を的確に表現している。
ちなみに不肖ふかづめ、未だにこの俳優の名前を記銘していない。マッツ・ミケルセンだったかミッツ・マケルセンだったか分からなくなってしまうのである。
マツコ・デラックスとミッツ・マングローブのせいで「マッツ」と「ミッツ」を取り違えてしまうのだ。
ココはストラヴィンスキーの楽曲に恋をして、ストラヴィンスキーの方はスランプの自分に手を差し伸べてくれたココの優しさに惹かれていく。
愛し合う二人が力点と支点なら、その作用点となるのはストラヴィンスキーの妻だ(エレーナ・モロゾヴァ)。
不幸にも夫と一緒にココの別邸に腰を落ち着けたのが苦難の始まり。
早々に夫の裏切りを察した夫人は、しかし決して二人の不倫現場に威勢よく踏み込んだり、事が終わったあとに夫を問い質すことはせず、沸き上がる怒りと悲しみを心のうちに抑え込むのみ。
夫人は自分が芸術家の妻であることの意味を理解していて、それゆえに芸術家同士の愛に立ち入ることができないのだ。
同じ世界を見ている天才二人に対して、いわば凡人の妻は蚊帳の外。「不倫やめてよ!」などという常識的モラルを説いたところで何の意味もないのである。そしてそのことを妻自身が承知しているだけに居た堪れない。ただでさえ結核で弱り果てているというのに!
三者の気まずい視線劇がやけにサスペンスフルで、心がドキドキします。
「ココさん。あなたがウチの夫と毎晩何してるか、あたい知ってんのよ!」
「やべえぞココ。これ完全にバレてるわ…」
「バレててもシラを切り通すしかなさそうね…」
目は口ほどに物を言うとはよくいったもので、上っ面の会話の水面下で密やかにおこなわれるアイコンタクトがビュンビュン飛び交う。目から放たれる愛憎劇のレーザービームに焼かれっ放しの映画後半。
私は丸焦げです。
夫の不倫を知りながらも平静を装う妻。
ていうかシャネルの内装がすげえ。