シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

NOPE/ノープ

難解映画発作男プレゼンツ、考察カツアゲ映画。

2022年。ジョーダン・ピール監督。ダニエル・カルーヤ、キキ・パーマー、スティーヴン・ユァン。

Gジャンが風船吸って破裂する話。

 

確かにさぁ。
そりゃあ俺だって数年前までは斜に構えていたが、最近というか、ここ1~2年は鷹揚に構えすぎて、それはそれで危機感を覚えてるわけよ。
たとえばTwitterでよく見かける以下のパワーツイートに対して、昔のおれと今のおれとでは感じ方がまるっきり違うわけ。
鷹揚っていうか、もう「無」よ。
もう、な~んの感情にもならん。
ちょっと比較してみるわな。

「映画の鑑賞本数でマウントを取ってくる人いや!」

昔のおれ→マウントを取るのはよくないけど、実際問題、鑑賞本数は大事ですよ。
むしろ「沢山見ること」を否定することで「少ししか見てない自分」を肯定する身振りこそ、実は「数」に対してマウントを取っていることを自ずから傍証してしまっている…って発想はユニークすぎる?

今のおれ→せやな。おっけおっけ。

「メジャーな映画が好きだというと鼻で嗤ってくる映画好きがいや!」

昔のおれ→それはどの分野にも言えることだし、実際問題、そういう心理はあなたにもあるでしょう? 俺なんて「旅行してみたい国は?」と訊かれるたびにアメリカと答えて「べた!」っていつも嗤われるよ。
そういうときは、メジャーな回答を嗤ってくるヤツがぐうの音も出ない「理由」で理論武装すればいいだけなの。幸い映画はハッタリが利く。今度から、メジャーな映画を挙げて嗤ってきたヤツに対しては「あすこのモンタージュがいいよね!!」とか「あすこのスウィッシュ・パンでゾクッとするんだわあ!!」みたいに、簡単な専門用語を放り込んでみたら? たぶん、メジャーな映画が好きだといって鼻で嗤ってくるようなレベルの連中はモンタージュ理論やスウィッシュ・パンすら知らないと思うから、煙に撒けると思うよ。
煙に撒いちゃお☆

今のおれ→あー確かに。いややな。おん。

「◯◯を見てないと映画好きとは言えない、とか言ってくる人いや!」

昔のおれ→確かにそんなことを言うのはよくないけど、実際問題、◯◯を見てないと基礎教養が形成されないのは事実ですよ。悲しい話だけど「映画を見ること・語ること」とは記憶と経験と感性、そして教養です。いちいちTwitterで「◯◯を見てないと映画好きとは言えない、とか言ってくる人いや!」とか愚痴ってる暇があったら映画見ましょう。SNSなんかすんな。スマホを閉じればそんな嫌味を言ってくる人だっていなくなりますよ。映画見ろって。

今のおれ→おーよっしゃよっしゃ。次。


「〇〇を上げるために△△を貶す言い方はよくない!」

昔のおれ→〇〇を上げるために△△を貶してるんじゃなくて、△△の問題点を明確化するために〇〇を相対的に評価してるだけかも…って論理的思考はまずしてみたぁ?
もしかしてキミって、自分の子どもが足が遅くて徒競走でいつも負けちゃうから「比べる」ことにやたら敏感になって運動会のリレー廃止論を高らかに叫ぶママぁ?

今のおれ→せやな。おっけ。次。

「映画に対してあれこれ批判してる人って何様なん。批評家気取り? 娯楽なんだから楽しめばいいのに。人生損してる」

昔のおれ→世界中がオマエみたいな人間だけだったらさぞハッピーだろうよ。文化も文明も発展せず、涎垂らして「あうー」ゆうて、原始時代みたいに動物追い回して、石で殺して肉食うて。「うまああ!」ゆうて。「何これファミチキ?」ゆうて、ひとしきりグループで騒いで。
あのな、いまオマエが暖かい部屋でスマホいじったり股間いじったり電子レンジのツマミいじって衣食住の恩恵に浴してるのは、先人たちの「批判精神」の祝祭的累積の上に成り立っててな。
「エジソンはん、エジソンはん! ここに電極つけたらビリビリ来るんちゃうけ?」、「そこじゃだめえ! なんべん言わすんじゃ、バカかこの野郎! ココやのうて、ココおおおおおお」、「エジソンはん、感電してぴくぴくしてる! 大丈夫ですか」、「ばか! 感電してるワシに触るとオマエまで…」、「あばばばば」、「りゅぶぶぶぶ」。
一方その頃―…
「ライト兄、ええ感じで飛んどるで。翼の角度調整が功を奏したあ」、「だがライト弟よ。さっきから心配になるぐらい右翼がブルブルゆうてる。あっ、ぶっ壊れて飛んでった!」、「えらいこっちゃ。左翼だけ…。ブリーンなってる!」、「す~ごい片肺飛行! わけわからん飛び方してトップガンみたいになってる!」、「ほんまや、ライト兄! デンジャーゾーン流れな帳尻合わんぐらいわけわからん飛び方してる。あっ…墜落…」、「もうだめええ」、「ありがと~」。

今のおれ→人生損してるな。ありがとう。


牙抜かれたなー。もう最近はピクリともしないもん。
「あー、また映画好きな子たちが一生懸命モノ申してるなー。これがこの子なりの精いっぱい考えた末のパワーツイートなんだろうな。伸びるといいね」つって、ひゅーって読み飛ばして。
いやいや、ほんとに。皮肉でも何でもなく。
昔はいちいちイラついて、6~7通りの脳内反論を用意するのが意外と快感だったりもしたんだけど、いつしか、いつから? 不感症になってしもたな。
ことによると、映画を観て、映画を考え、映画を批評し続けるうち、自分でも気づかないまま「脅かされる側」から「脅かす側」へと変わってしまったのかもわからない。あと「勝手に達観してるフリ」ね。そうした余裕と思い込みがあるのかもわからない!
あかんな。反省しよ。でも反省したくないから、一旦わすれて来年反省しよ。「来年反省する」っていう逃げ口上で責務を先送りしよ。そうしよ。


てなこって年内最後のシネトゥは、なんとびっくりの『NOPE/ノープ』で締めてゆく!
今年も閲覧してくれたり、閲覧した画面を閉じてくれた人民たちよ、おおきに。たまにコメントしてくれたモノノフたち、恐れおののいてコメントしなかったオノノフたちも、おおきにな。
あんま寒い寒い言わんと、部屋ぬくうして、あんじょうやり。お餅くうてな。「うまああ!」ゆうてな。



◆ツイストの効いた怪作◆

 人は『ゲット・アウト』(17年) がアカデミー賞脚本賞に輝き、鳴り物入りで監督転身したジョーダン・ピールをいささか持て囃しすぎだ。
黒人差別に鋭く切り込んだ『ゲット・アウト』と次作『アス』(19年) の成功によりポリコレ系風刺ホラー作家という唯一無二のポジションを確立したことは感心するし、こういう作家が一人いるだけで映画業界はおもしろくなる、という意味ではかけがえのない男(オンリーワン男)なのは間違いなかろうし、実際、私から見ればお行儀よくさえ映る映画術は、ひとまず世間の声をして「うまい」と言わしめるに十分な技量に達している(達し男)。少なくともモーガン・フリーマンやフォレスト・ウィテカーの形態模写をしていたコメディアンとは思えないぐらいショットが見えてる男だと思う(見え男)。

とはいえ私が前2作に不満を抱いたのは、ともすれば衒学的なまでにテマティックな作風と、物語が進むごとに失速していく勿体ぶったテリングである。
難解映画発作男。
これがなければ『ゲット・アウト』『アス』は単純火力の高い痛快作として、私にゴキゲンな批評を書かせたとおもう。
まずは、観る者を深読みや考察へとアジテートするような意味深長な表現はやめて頂きたい。ある程度までは許容範囲だが、ピール作品は明らかに過剰どころか、もうそれのみで成立してしまってるきらいすらある(きらい男)。
もうね、「少しでも難解に」って、劇中ず~っと発作起きてる。
早い話が、パンチの効いた映画よりもツイストの効いた映画…、つまり「快作」でなく「怪作」を作ろうと躍起になってるタイプだ。
「世界中のみんな、ぼくの映画で議論して~」という自己顕示欲がミエミエなのよね。同じ難解映画でもキューブリック御大やリンチ先生には自己顕示欲がないでしょう。その差だわ。
ちなみにピール系の真逆がコーエン兄弟みたいなタイプね
ツイストよりパンチ。しゅっ、しゅっ!


『ゲット・アウト』『アス』


そんなジョーダン・ピールの最新作『NOPE/ノープ』のトレーラーを見たとき「単純におもしろそうじゃん。少しは素直になったかな?」と思った。「単純に」というのがミソで、もっと単純になればピール作品は格段に進歩すると俺は思ってるわけ。
そんなこって、半ば祈りにも似た願いを胸に「単純たれ単純たれ…」と呪詛のごとく呟きながらの鑑賞と相成った『NOPE/ノープ』

怪作狙いまくりの意味深長大作でした。

難解映画発作でず~っとぶるぶるしてる…!
「行間読ませ」と「メタファー感じさせ」と「引用元考えさせ」を見る者に強いる、考察カツアゲ映画のフルコース。
ジョーダンじゃねえぞ。ええ? ピール。
こいつの難解映画病を許すことは…
NOPE!
(無理だっ)



◆右から僕のノープ論! 左から私のノープ論! SNSに飛び交う「俺のノープ論」◆

 内容を15字で要約するとGジャンが風船吸って破裂するといった意味深な中身です。
見ぬ者にとっては意味深どころか全ワード意味不明だろうが、実際、言葉通りの中身だからなあ。
ある日、ハリウッドで唯一の黒人調教師の牧場にUFOが現れる。亡き父に代わって牧場を経営しているダニエル・カルーヤとその妹キキ・パーマーは「そんなジョーダンな」と戦慄いたが、UFO動画で一攫千金を狙うべく大量の撮影機材を購入…。
筋だけ聞くとバカ映画だが、各キャラクターに難解映画特有のめんどくさ設定が施されていて。


まずダニエルは、亡き父に代わってハリウッドスタジオに馬の提供と乗馬指導を行っており、映画スターに「目を合わせるな」と馬の扱い方を伝授している。気だるげな人物だが、UFOの証拠映像を撮影してメディアに売るというキキ提案の計画には意外と乗り気。UFOがアブダクション攻撃を仕掛けてくる物語後半では「こちらが見ると襲ってくる」という法則性を発見。UFOを「Gジャン」とも命名した。
同じくハリウッドの裏方として働く妹キキは、映画の起源はリュミエール兄弟の『工場の出口』(1895年) ではなく写真家エドワード・マイブリッジが撮影した『動く馬』(1878年) であり、これに触発されたトーマス・エジソンがキネトスコープを発明したのだと持論を展開。かつ『動く馬』の騎手は自分の曾々々祖父だと主張して「黒人は映画の濫觴期を支えていたが、その後の歴史から抹消された。ドアホ!」と憤る。
次に、西部劇をコンセプトにしたテーマパークを経営し、「UFOを呼び寄せる奇術」を得意とする韓国系アメリカ人のスティーヴン・ユァン(その奇術のために最期はGジャンにアブダクションされてしまう)。幼少期は人気子役としてチンパンジーが登場するシットコム番組『ゴーディ 家に帰る』のレギュラー俳優だったが、ある回の撮影時にチンパンジーが暴れだし共演者をフルボッコにしたが、なぜかテーブルクロス越しに目が合ったスティーヴンだけはボコられなかった。
最後は、Gジャン撮影に行き詰った兄妹が招聘したトンデモ映像専門の撮影技師マイケル・ウィンコット。手回し式に改造したIMAXカメラをぶん回してGジャン激撮計画に協力する。

『ゴーディ 家に帰る』のチンパン。

さて。これらの設定から色々と見えてくるモノがありました。
・ショウビズ風刺
・西部劇への郷愁
・映画史への回帰
・“見る”ことの多重構造化
・“撮る”ということ

さらに映画冒頭では、難解と思われたがってる映画がやりがちな聖書の引用がある。

“私はあなたに汚物をかけ、あなたを辱め、あなたを見世物にする”
旧約聖書 ナホム書3-6章

勘のいい人なら大体わかるだろうか。
こっから絵解きするのは映画批評ではなく物語批評の領域=映画関係ないから時間のムダなので、あとはお察しってことで。気になる者はググればいいんじゃない。「ノープ 考察」とかで検索して。
まさにソコなのよ。
「ええ、どういう映画ぁ?」と人の気を引き、一部の考察隊がブログやSNSで「俺のノープ論」を呟き、映画高校3年生ぐらいの男が交際10ヶ月のチンプンカンノジョに「あのシーンの意味はね…」と字引学問した説を引用するってサイクルの上に成立せんとしてる映画というか。
この手の作品は“観ること”よりも“考えること”が好きな、括弧付きの「映画マニア」の餌食となる。皮肉にも“見た者”を次々と捕食していくGジャンそのものの生態といえるよな。
案の定、Twitterなどは「俺のノープ論」で溢れ返っており、誰ひとり“映画の話”などせず物語論や解釈論と戯れてるだけ。ただ、そういう連中に対して雲の上から人間を見下ろすGジャンの気分で「どこまで愚かなのかしら」なんて思ってる俺も、そろそろ映画の話をしないと同じ穴のムジナってわけえ…?


ダニエルとキキの兄妹。

◆映画についての映画 ~そしてカマキリ~◆

 前述の通り、裏テーマの小細工と勿体ぶったテリングが人を苛立たせもする『NOPE/ノープ』は、考察厨どものディナーとして提供された毎度お馴染みのピール作品だったし、単純な話をわざと複雑にするような身振りにつきあうには130分はいささか冗長でもあったが、映画としての本作はむしろ好調、テーマやメタファーやサブテキストを控えれば「次代のジョン・カーペンター」と思わず口を滑らせてしまうほどにはよく出来た映画だったのだけれどなあ!


私が気に入ったのは兄妹のテンション対比。ロウな兄とハイな妹。ダニエル・カルーヤのIMAXに耐えるアップショットとキキ・パーマーの粗い身体性によってひとまず担保された広大な画面。そしてことごとく逃げていく馬。
ショットのおもしろさに関しては過去最高ではないか。ただ、お行儀がよすぎて慇懃無礼に感じることもあるが、こりゃもう作家性として受け入れた方が容易いか。
また、本作は「ストレス」を主題とした物語であり、必然的にキャラクターや動物間の上下関係を視覚化した構図がとられているが、われわれ観客もまた“雲越しにUFOを見上げるスーパーアオリ構図”の連続にストレスを受けながらも、クライマックスで気前よく姿を現したGジャンとの対決を“見世物”として楽しみ、そのアホらしささえ織り込み済みだと言わんばかりの滑稽な風船人形がGジャン撃退の兵器として“映画的に”活用されるさまを見届けるのだ。

キキの身体性(やたら宙に飛ばされる)。

あるいは、屋根に取りつけられた監視カメラがGジャン激撮の決定的瞬間を逃す原因となったカマキリ!
このカマキリは、見たいときに限って肝心なところで見えない(見せない)という映画=見世物の根本を体現する者であり、たまたま監視カメラのレンズに張り付いて動かない…なんて取って付けたようなメタ描写も込みで最高。苛立ちながら屋根に登ったキキがキャンディを投げつけてカマキリをどかそうとするのだが、そのシーンの日本語字幕も味わい深いのよ。
「このカマキリ野郎! キャンディはお好きかい!?」


「見世物」がキーワードになってる時点で“映画についての映画”なのは間違いないが、その割には鷹揚に構えてるというか、ヘンな筋肉にヘンな力が入ってないあたりがピール作品を安心して観ていられる理由かもしらん。
ノーランほどIMAXカメラをぶん回すこともなければ、タランティーノほど饒舌になることもなく、スコセッシほど幸せに弛緩しているわけでもない。クライマックスの大迫力は、もちろんIMAX効果もあろうが、最も裨益したのはカメラアングルだ。少数派の意見として唾棄してもらっても構わんが、『ノープ』は構図の映画だろう。バカみたいに何もない荒野で、額縁上映で観てさえだだっ広い画面を効果的に支配した、魔のアングル。
べつにGジャンがUFOでなくともよい。極論、布団でもいいわけだ。布団が空から落ちてくる恐怖。
「布団なのに~!?」
そうだ。魔のアングルにかかれば布団でも怖い。


豊穣なイメージにも心を打たれた。血の大雨が降る家、Gジャンを見上げるスティーヴン・ユァン、『2001年宇宙の旅』(68年) を思わせるチンパンとの『E.T.』(82年) ごっこ、そして直立する靴。
かつて『ゴーディ 家に帰る』の撮影時にチンパンにやられたと思しき映画女優(顔に深い傷)がスティーヴンのショーの来場者として現れるさり気ないショットも「うわっ」と思わせるし、何より印象的だったのは音楽の使い方。挿入歌に「This Is The Lost Generation」「Exuma, The Obeah Man」などの曲が使われてるが、飛来したGジャンはすべての電子機器を狂わせるため、キキが大音量でかけた音楽が停電により歪みながら消えていく…という演出がパターン化されている。あらかじめ鳴り止むために鳴らされた音楽というか、消えることで効果を生む音の活用というか。


そんなわけで『NOPE/ノープ』。評もいよいよ3章終わりなので結論するが、めっちゃめちゃ面白いよ~。
読む者「せんど文句言ってた1章と2章の立場はぁ~~?」
だからそれは言ってんじゃん。「もっと単純になればピール作品は格段に進歩する」とか、「こういう作家が一人いるだけで映画業界はおもしろくなる、という意味ではかけがえのない男」とか。
ひとまずピールよ、難解映画発作だけどうにかせえ。
現状、ジョーダン・ピールは真っ正面から観るべきであって、斜めから見るとこじらせ街道一直線って感じの、ある意味キューブリックの現代版ともいえるリトマス試験紙野郎と化している。
だからピールよぉ。頼むから素直に映画撮ってくれ。たのむ。

ピール「NOPE」

この野郎!
飛ばすぞ!!!

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