主演二人のパブリックイメージを逆手に取った不思議系サスペンス。
2018年。ポール・フェイグ監督。アナ・ケンドリック、ブレイク・ライブリー、ヘンリー・ゴールディング。
ニューヨーク郊外に住むシングルマザーのステファニーは、同じクラスに息子を通わせるエミリーと親しくなる。事故で夫を失い、保険金を切り崩しながら子育てをしている気立ての良いステファニーと、スランプに陥っている作家の夫との仲もむつまじく、華やかなファッション業界で働くどこかミステリアスなエミリー。2人は何もかも対照的だったが、お互いの秘密を打ち解けあうほど親密になっていく。そんなある日、エミリーが突然失踪してしまい、ステファニーは彼女の行方を追うが…。(映画.comより)
どうもおはようございます。
はてブ登録をしていない方にはあまり関係のないお話なのだけど、前々から疑問で仕方なかったスター機能を外すことにしました。これまで沢山のスターを投げてくださった方々に黄金のアリスを捧げちゃう(持ちうる限りの緑スターを全弾『シネ刀』に投げるという暴挙に出た方もいるので、今後わたくしの緑スターをそちらに投げてお返しできればと思います)。
スター、ブクマ、コメント欄、あと私の場合はTwitterや問い合わせフォームも含めて書き手と読者の交流点が多すぎると判断したため、これらを少しずつ整理していきたいという動機からこの度の愚行に至ったわけであります。加えて、スターの数は執筆のモチベーションにも影響するので(好い影響も沢山あるけれど)、書きたいことを書く為にあらゆる影響から身を引き離したいといった秘かな思いもあります。
皆様から頂いたスターは消えたわけではないので、お腹が空いたときにそれを私、食べます。
というわけで本日は『シンプル・フェイバー』。ネタバレに気を付けた結果 未見者の方には何のことやら…な文章に仕上がっておりますよ。
◆シマリス女と退屈顔◆
アナ・ケンドリックとブレイク・ライブリーを主演に据えたコンゲーム(騙し合い)である。
非常にツイストの利いた脚本で物語が目まぐるしく二転三転するが、この作品のおもしろさはトリッキーなシナリオではなくアナ・ケンドリックとブレイク・ライブリーの配役自体がトリックになっているあたり。今さり気なく大事なことを言いましたよ。
料理専門のビデオブログで生計を立てる未亡人のアナと、煌びやかなファッション業界で働くライブリーには同じ小学校に通う息子がいて、子供たちを一緒に遊ばせるうちに二人は親友同士になるが、ある日ライブリーが息子をアナに預けたまま忽然と姿を消す。警察に捜索願を出したアナは、彼女の夫ヘンリー・ゴールディングやビデオブログの視聴者とも連携をとりながら消えたライブリーの行方を捜す…。
まぁ「へえ」って感じである。ヒッチコック以降散々やり尽くされたミッシングモノなので特に目新しさはないのだが、先ほども申しあげた通り、この映画のキモは主演二人の配役。
アナ・ケンドリックはシマリスみたいな顔をした掌サイズの女優である。なんというか、隣のクラスにいる放送委員の女子みたいなもんだな。
『トワイライト』シリーズや『ピッチ・パーフェクト』シリーズなどロクでもないシリーズを代表作を持つが、『マイレージ、マイライフ』(09年)、『バッド・バディ! 私と彼の暗殺デート』(15年)、『ザ・コンサルタント』(16年)など結構いい作品にも沢山出ている。ちなみに私は『美女と野獣』(17年)の主演はエマ・ワトソンではなくアナケンこそ適役だった説を提唱しております。
そんな私の考えるアナケン代表作は…
『ピッチ・パーフェクト』(12年)でカップを楽器に見立ててパカパカするシーンをオリジナルMVにした「Cups」!
もはや映画ですらないという裏ぎり。レストランの客どもがカップを使って演奏し、そこにアナケンがシマリスのような歌声を乗せている。アナケンサンバである。長回しマニアは必見(途中1回カット割ってるけど)。
現在この動画のYouTube再生回数は4億8000万回を突破し、アナケンはカップ使いの名を欲しいままにしておられます。いいなー、アナケンばっかり。
アナ・ケンドリック「Cups (Pitch Perfect’s “When I’m Gone”) 」。長回しは1分8秒から。
対するブレイク・ライブリーはズベ公を中心に人気をさらった海外ドラマ『ゴシップガール』で一躍セレブの仲間入りを果たしてレオナルド・ディカプリオとも交際したリアルゴシップガールである。
当ブログでは過去に『アデライン、100年目の恋』(15年)をメタメタに酷評したが、その中で私はライブリー嬢を何者でもない顔と評しております。個性なきセレブ女優。その「没個性な顔」をどのように扱うかが女優としての分かれ道なのだと。
そんな私のイチャモンが本人の耳に届いたのか、『かごの中の瞳』(16年)では物語が進むにしたがって「退屈な顔」がどんどん変容し、何者でもない女が記銘性を獲得するまでの精神的変化を描いた作品に仕上がっていた。
そして今回の『シンプル・フェイバー』。手前味噌ではありますが、またしても私の論考を裏付けるものとなっておりました。イェイ。ネタバレしちゃうと元も子もないので詳しい話はできないが、「没個性な顔」をミスリードに利用しているのです。
もともとあまり好きな女優ではなかったが、自身のウィークポイントを見事に逆張りした近年のライブリー嬢はきわめてグーだと思う。
ブレイク・ライブリーのブレイクスルーとなった作品です。
◆パブリックイメージが裏返るるるる◆
開幕30分ではアナとライブリーが親密になる様子がしつっこく描き込まれる。
アナは口数の多い剽軽者で、頼み事を断れずになんでも安請け合いしてしまう八方美人。いつも仕事で忙しいライブリーから「息子を学校まで迎えに行ってほしい」とお願いされれば引き受けるのが友情だと思い込んで見事に便利使いされてしまう。そんなわけでライブリーからは「いい人」と評されるが、言葉を変えれば「お人好し」。アナ・ケンドリックは他の出演作でもやや鼻につく優等生キャラをよく演じる女優である。愛嬌はあるけど外面ばかり取り繕うキャラというか。
ライブリーが失踪したあとも彼女の夫ヘンリーのロンリーハーツをケアしたり、彼らの息子を家に泊まらせるなど里親同然のやさしみ(ともすればお節介)を見せつけていきます。
一方のライブリーはすべてが謎に包まれている。
過去を詮索されることや写真を撮られることを極度に嫌うゴシップお断りガールで、マティーニを作る腕にかけては他の追随を許さない女だった。洗練されたファッションに身を包み、いつも仕事の電話をしているようなキャリアウーマンだ。
そんな彼女が突如行方をくらまし、数日後に水死体が湖で発見された。アナとヘンリーは互いの寂しさを埋めようと肉体関係を持つようになり、ヘンリー邸で同棲することになったアナは生前のライブリーが大事にしていたドレスや靴のコレクションをまるっと頂戴する。
だがある日、死んだはずのライブリーから電話が掛かってきた。手紙も届いた。二人の子供たちもライブリーを見たと言う。困惑したアナは「どうなっちゃってんだい」と呟いてくるくるしました。いったい何がどうなっているんだい。
アナケンとライブリーの奇妙な友情。
ヒッチコックの『レベッカ』(40年)と『めまい』(58年)をガッチャンコしたようなミステリである。死んだはずのライブリーがなぜ生きているのか。亡霊なのか? はたまたマティーニの妖精?
このトリックがおもしろいのはライブリーの「没個性な顔」がミステリのギミックになっていることだ。たしかにライブリーは美人だが、ともすれば別人と見間違えそうなほどありふれた顔。その罠に絡めとられていく顔面ミステリが『シンプル・フェイバー』なのである。
そしてお人好しのアナは「シンプル・フェイバー(ささやかな頼み)」に応えてしまったことで事件に巻き込まれていくが、めくるめくコンゲームの中で心境や環境の変化があり、次第にアナとライブリーのキャラクターがガラッと一変するさまがおもしろい。
一変するキャラクター…。まさにこれこそが配役の妙、本作の肝で、優等生女優のアナ・ケンドリックとセレブ女優のブレイク・ライブリーが自身のパブリックイメージを逆手に取り、思いもかけない正体が明かされたり予想だにしない行動を取っていく。
つまり、物語前半では「そうそう、アナケンとライブリーってこんな女優だよね。イメージ通り!」と我々がよく知るアナケン像&ライブリー像をあえて守り続けて、物語後半でゴロッと反転、パブリックイメージから脱皮した美しき蝶は予測不能の闇の中へ解き放たれる!
まぁ、裏を返せばアナケンとライブリーをまったく知らない人が観てもあんま意味ないです、この映画。
監督のポール・フェイグは2010年代に最も活躍した監督かもしれない。
『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』(11年)、『デンジャラス・バディ』(13年)、『SPY/スパイ』(15年)、『ゴーストバスターズ』(16年)など、いずれも「女性キャスト」と「コメディ要素」をメインに据えた女性映画の急先鋒で、本作でも女同士の友情とその決裂がブラックユーモアたっぷりに描かれております。
アナ・ケンドリック(左)、ブレイク・ライブリー(右)。リアルではまず友達同士にならないであろう、タイプの異なる二人。
◆主演二人の好奇心のアンテナを祝福◆
私には読者の気持ちがよくわかる。恐らくキミは今「ここまで読んだけど一向に話が見えてこない。結局どういう映画なのよ? 釈然としない!」と思って軽くイライラしていることだろう。
だがな…
それが言えないから困っているんだよコノヤロー!
失踪したライブリーの水死体が発見された。言えるのはここまでだ。その先のネタを割ってしまうと意味がないのだ。空を掴むようなもどかしい気持ちにさせて申し訳ないとは思っているよ。ああ、反省はしているさ。
だがな…
イライラしているのはこっちも同じだよ、こなくそー!
等価だ。オレとキミのイライラは等価。
こんな書っきづれえ映画をレビューするハメになっちまった我が運命を呪うよ! なんだよオレの運命、人生、血統! 書きづらいなりに最良の選択をして書いたつもりなのに結局読者にイライラされて。本来であればこんなまどろっこしい映画を作ったポール・フェイグが受けるべき誹り・咎め・皺寄せをオレが一身に受けて。スケープゴートとしてのふかづめをどうぞよろしくだよ!
少し取り乱してしまった。まぁ、そんなわけだから…ごめんな。
で、また空を掴むような評に戻ると、本作は主演二人だけでなく映画そのものが観客の先入観を逆手に取った構造を持っていて、ちょうどコーエン兄弟やダニー・ボイルを観るときのような「頭の柔らかさ」を必要とする類の作品かもしれない。
類型的なサスペンスやミステリと思わせておいて自らそこをバキバキ解体していくので、とりわけジャンル映画を期待した人民にとっては釈然としない映画に思えちゃうかもしんない。ラストシーンなんてほぼドリフみたいな爆笑コントだし。
ちなみに私は「頭が柔らかい」どころかダイヤも砕く石頭なのだが、幸い期待も予想もしないことを映画鑑賞時の基本姿勢としているので、この手の映画は問題なく楽しめる。洋食屋に入って和食を出されても「そっか」と言ってペロッと完食してしまえるのだ(ただし料理自体がマズいと地獄の果てまで文句を言い続ける)。
事程左様にとても強気な映画であった。一歩間違えるとチグハグな出来になっていただろうに。撮影・編集に気になる点が多々あるが、こういうナマイキな跳ねっ返り精神は現在の映画界では非常に珍しいのでひとまず忘れることにする。
また、劇中登場する数々のファッションも見もの。ストライプの白ジャケットに髑髏付きステッキを持ったライブリーなんて完全にジョジョ。内面的変化に伴ってアナの身なりが派手になっていくのもいいし、ビデオブログも説話装置として終始活用されている。簡にして要を得る回想シーンと脇役の慎ましさも好ましい。
何より本作のオファーを受けたアナ・ケンドリックとブレイク・ライブリー、その好奇心のアンテナをこそ賞賛したい。アナは元々こういう変化球みたいな映画を好む女優だが、意外だったのはライブリー嬢だ。
コテンパンに酷評した『アデライン』以降のオファー選定が素晴らしくて、『ロスト・バケーション』(16年)、『カフェ・ソサエティ』(16年)、『かごの中の瞳』(16年)、そして『シンプル・フェイバー』と、嬢の隠された聡明さがメキメキ顕在化しております。自分の強味と弱味を理解した役者の高度な頭脳プレーを見るようで俄然応援したくなってきた。ライブリー論争を仕掛けたjijicattanさんに申し訳が立たない。すみませんでした。
都会派おしゃれ映画です。だけど家の間取りがいちいち腹立つ。
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