シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

幸福(しあわせ)

幸せな映画なのかと思いきや映画史上最凶クラスの悪役が出てきて背筋凍ったわ。

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1965年。アニエス・ヴァルダ監督。ジャン=クロード・ドルオー、クレール・ドルオー、マリー=フランス・ボワイエ。

 

フランソワは美しい妻テレーズや可愛い子どもたちに囲まれ、平穏で幸せな毎日を送っていた。ある日、近くの町へ出かけたフランソワは、郵便局で働く女性エミリーと出会い、恋に落ちてしまう。その一方で、フランソワは妻テレーズのことも心から愛していた。ある日、家族を連れてピクニックに出かけたフランソワは、テレーズに不倫の事実を打ち明けるが…。(Yahoo!映画より)

 

おはよう神様。信じてないけど。

それはそうと、はらたつ。こないだ髪を切ったばかりなのに、またモヘアになった。

モヘア…もっさりヘアー

ちくしょう、切った端から伸びてきやがって。

これはもうアレなのか、連続ブログ小説モヘアさん』の続きを執筆しろっていう、天からのそういうアレなのか。いっそ自費出版したろか。おい毛ぇ。そっちがその気ならこっちはこの気じゃ。髪の毛がもっさりする苛立ちを作品にぶつけて文学にまで昇華したんぞ。

なあ、毛根たちよ。頼むさかい、あんまグングン伸びてくんな。愚連隊じゃあるまいしよ。もう少し落ちついた暮らしの中にささやかな幸せを見出せ。オレに『モヘアさん2』を書かせるな。

我が毛根に釘を刺したところで本日は『幸福(しあわせ)』です。

※結末に触れないと語れないタイプの映画なのでネタ割ってます。

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◆単なる不倫映画…なのか?◆

「町山智浩のアメリカ映画特電」というポッドキャストをIpodに落としてひねもす聴き浸っていたのがもう12年前とは。

そこで紹介された映画を、ビデオ屋を方々巡って探し当てては固唾を呑んで鑑賞していたのがもう12年前とはっ!

『不意打ち』(64年)『裸のジャングル』(66年)『マドモアゼル』(66年)『ある戦慄』(67年)『華麗なる週末』(69年)『小さな悪の華』70年)『フォロー・ミー』72年)『ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー』(81年)…。

ふぉおおおおおおおおおおおおう。

「アメリカ映画特電」で紹介された映画はことごとく私の好みだった。今となってはどれも大事な映画である。ありがとう町山さん(ここ数年Twitterで人と喧嘩ばかりしてるけど特電更新してください)。

そんな中、未だに観れてない映画もいくつかあり、その内の一本が『幸福(しあわせ)』だったのだが、このたびAmazonプライムビデオチャンネルの「シネフィルWOWOWプラス」に転がっていたのを見つけて「思わぬところに幸せが転がっていた!」と叫びたる私、一も二もなくこれに飛びついた。俺はなんて幸福(しあわせ)なんだ。

せっかくだし、もう一度叫んでおこうかな。

ふぉおおおおおおおおおおおおう。

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「町山智浩のアメリカ映画特電」で紹介された素晴らしき映画たち。

 

本作はヌーヴェルヴァーグ左岸派のアニエス・ヴァルダ『5時から7時までのクレオ』(61年)の4年後に撮った作品である。『5時から7時までのクレオ』は真面目に批評すると難文を書かざるを得ない厄介な映画だったのであえて鼎談形式を取ったが、今回はラフに語れそうです。

さて、『幸福(しあわせ)』はある夫婦の不思議な愛にまつわる幸福論についての映画だ。

家具職人のジャン=クロード・ドルオーには愛する妻クレール・ドルオーと2人の幼いキッズがおり、休日は山へピクニックに出かけるという絵に描いたような幸福な家庭を築いていた。撮影技法がおもしろく、まるで印象派画家のように、文字通り絵に描いたような淡いタッチで家族の幸福が描写されている。

オープニングの長回しでは、あたり一面に咲き誇るひまわりが4人をバックにきもちよく風に揺れている。だがその途中でひまわりの接写がサブリミナルのように挿入され、美しかった音楽が突如として不協和音に揺れ始める。ひまわりもよく見ると緩やかに項垂れていく…。

きゃあ、何なのこの映画!

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『ブルーベルベット』(86年)のごとく幸せいっぱいの風景に影を落とす開幕を経て、映画はジャンとクレールの仲睦まじい夫婦生活を見つめてゆくので、観る者はひまわりに感じた凶兆が思い過ごしに違いないと予断しかけたまさにその時、ジャンは仕事で立ち寄った郵便局の受付嬢マリー=フランス・ボワイエに一目惚れしてしまうのだ。アチャチャのチャである。

カフェでまずそうなコーヒーを飲む二人は、このあと一線を越えてしまうことが分かっていただけに過度な緊張状態に身を置いていた。妙にそわそわした視線がお互いの後ろにいた通行人へ注がれたり、相手の顔を半分捉え逃したりもする。恋愛初期の気まずさと期待感にゆれる者独特の視界を表現した絶妙なシャロー・フォーカス!

このなまなましい視感ショットは、ジャンが視線を滑らせた先の街の看板に書かれたLA TENTATION(誘惑)」LE MYSTERE(秘め事)」といった示唆的なテキストを捉えたことでついにヌーヴェルヴァーグの岸を越境した。つまりゴダールの映画術をわかりやすく置換した“親切な演出”なのだが、不思議と奇妙な感覚に襲われるンである。そりゃそうだろう。ゴダールをどれだけマイルドにしようとも、そもそもゴダール映画術というもの自体がフィルムの異常な再組織にほかならないので、異常なものを分かりやすくしたところで正常には還元せず、むしろその異常性がよりビビッドに立ち現れるだけザッツオールなのだ。

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その緊張感はジャンが初めてマリーのアパートを訪れたことで最高潮に高まるが、ここでのシーンがおもしろいのは互いの顔の豪速カットや視感ショットの剛腕インサートといった「やっていいのか、そんなこと…」という変態モンタージュの数々である。編集によって無理やりサスペンスを醸成する荒業に関心しながらの閉口。

このように不倫パートではヌーヴェルヴァーグ的畸形演出が炸裂する一方で、妻クレールとの家庭パートではあえて凝った技法を放棄することで、呼吸するフィルムの動的リズム(不倫パート)と静的リズム(家庭パート)を分化、つまりジャンの二重生活が対比されている。

とは言いつつもアニエス・ヴァルダの悪戯心がピョッと出たのが、「ブリジット・バルドーとジャンヌ・モロー、どっちが好き?」とクレールに訊かれたジャンが「おまえさ」と答えた直後に仕事場のロッカーに貼られたバルドー&モローのスナップ写真が大写しになる場面である。

男のウソを容赦なく画面一杯に晒しあげていくアニエス・ヴァルダ。

恐ろしいぞ、この女!

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◆理解を超えしジャンという男◆

えらいもんで、ジャンはクレールとマリーを等しく愛した。

この男は不倫に対して背徳感を抱いてないどころか、不倫をしている自覚もなく、さらに言えば不倫をしてはいけないという社会道徳すら欠落していた。ダンスパーティの場面ではジャンがクレールと踊っていると一瞬視界が木に遮られ、再びジャンを捉えたかと思うと相手がマリーに変わっている…といったユニークな撮影法で愛の等価性を演出している。

町山氏は「アメリカ映画特電」における解説の中でジャンのことを「知恵の実を食う前のアダム(イノセンス)」と称したが、そのあと普通にバカと呼んでいたように、まあバカなのだろう。ジャンはウソがつけない性格なので、マリーの前で自分がどれだけ妻を愛してるかを滔々と語り続ける。やっぱりバカじゃねえか。

ジャンは大人しいクレールを植物に、情熱的なマリーを動物に例えた。花を愛でる一方で鳥を愛おしむ男。やかましいわ。

「愛が2つも! 僕はなんて幸せなんだ!」

本当に幸せな奴である。

夫婦役のジャン=クロード・ドルオーとクレール・ドルオーが実際の夫婦でもあるためか、物を渡す/受けとる挙措から歩き方に至るまでピッタリ息が合っており、生活の瑞々しさにも溢れていた(2人のキッズもドルオー夫妻の実の子たちである)。対するマリーとの情事は引越したばかりの荷解きしていないアパートの無機質な空間の中でおこなわれる。『ラストタンゴ・イン・パリ』(72年)のように。

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その後、ファーストシーンと同じように家族でピクニックに訪れたジャンは、そこで不意にクレールから「あなた、もしかして浮気してるの?」と問い詰められ「ウン!」と首肯。屈託なく首肯すな。

悲しんだクレールが地面を転げ回ってすんすん泣きだすと、ジャンはありったけの詭弁を弄して妻のブロークンハートの回復を試みた。

「想像してごらん。僕たちは区切られたリンゴ畑の中にいる。でも畑の外にもリンゴはある。その木も同じように実を作り、増えて、一緒になる。言ってること分かるだろ?」

なにをいってるかぜんぜんわからない。

一緒にならないために畑を区切ってんでしょうが。モラルという境界線でな。そもそも妻がいるのにリンゴ(他の女)を食うなよ。なんたる不倫擁護論。詭弁がすごいよ。

ジャンはさらなる詭弁…というかジャーゴン(わけのわからない言葉)を妻のブロークンハートにそっと添えた。

「僕はキミを愛してる。キミが僕をもっと愛してくれたなら、すべてが上手くいくだろう。キミならできる。もっと僕を愛してほしい。できますね!?」

どういうことなん。

裏切られて傷ついた妻を裏切った側の夫が励ますという謎の応援構図に前後不覚。ジャンの精神構造が知りたいとおもった。

ジャンのあまりに難解なロジックという名のトリックに翻弄されたクレールは「ええ、できると思うわ…」と言って涙を拭き、「やったー!」と大喜びしたジャンと抱き合って「じゃあセックスしようよ!」という異次元の提案を快く受け入れてしまった。

会話の文脈がもう…。

キッズを寝かしつけての青姦に満足してその場で居眠りしたジャンは、しばらくして娘に揺り起こされ、クレールがいないことに気付く。キッズを連れてあちこちクレールを捜し回ったジャンが目にしたものは、なんと川から引き上げられた彼女の溺死体だった。

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やはりあのとき、幸せだったのはジャンだけだったのだ。涙を拭いたクレールのなかでは幸福が音を立てて崩れ去り、ジャンのあまりに理解を超えた愛への諦めが入水自殺という道を選ばせたのである。

町山氏のポッドキャストを聞いてハッとしたのは、慟哭したジャンが妻の水死体を抱き上げる動作がジャッキー・チェン映画のハイライトシーンみたいに何度も何度も繰り返される編集が『赤い影』(73年)のファーストシーンで丸ごと再現されているという氏の指摘ではなく、その最中に妻が溺れてるイメージが不意に挿入されたことの意図、および解釈である。

つまり映像の流れとしては、(1)ジャンが妻の遺体を抱き上げる→(2)妻が溺れてるイメージが唐突に挿入→(3)遺体を抱きしめて慟哭するジャン…となる。

仮にこの(2)のイメージが客観的事実だとしたら妻は溺死したと理解すべきだが、どうもその後の葬儀シーンに至ってもジャンは自責の念に苛まれている風でもなく、あっけらかんと「男やもめでござい!」てな顔をしているではないか。…何この子?

となると、慟哭の最中に挿し込まれた溺死のイメージは客観的事実ではなくジャンの主観的解釈、つまりこの男は「妻は事故で死んだ」と思い込んでいるのだ。

ジャンの精神構造が知りたいとおもった!!!

どこまでも幸せな男である。もう理解できないよ…。

妻は自分が不倫したせいで自殺したのかも…とは露ほども考えず、ただ“妻が死んだ”という事実だけを一元的に理解してさめざめ泣いている。ジャンの道徳観念の欠如ぶりには背筋すら凍り始めた。無垢とはかくも残酷であるよなぁ。

この後、さらにジャンはわれわれの理解を超えていきます。クレールの葬儀を終えたあと、ジャンは沈鬱な面持ちでマリーのアパートを訪ね、てっきり別れを切り出すのかと思いきや「結婚しよう」と言って熱いキスをかましたのである。

 

問1. このとき私がどんな反応をしたか、正しいものを次のうちから選べ。

(1)怒髪天を衝いた

(2)呆気にとられた

(3)混乱地獄に叩き落された

(4)「りゃぶぶぶぶ」って言った

 

ハイ、正解は(5)背筋が凍りきったでした。正解者には投げキッス3発分相当の1発が放たれます。つまり1発。ちゅ。

再びジャンに幸せが訪れた怒涛のクライマックスは、私が知りうるどんな恐怖映画よりもゾッとする。クレールの死によって途切れた夫婦生活はマリーにすげ替えたことで続行され、この新妻マリーは生前のクレールと同じようにアイロンをかけ、キッズを幼稚園まで迎えに行き、ジャンとベッドで抱き合ったのだ。2人のキッズもあっという間にクレールのことを忘れ去り、マリーを新しい母親として迎え入れた。

まるで始めからクレールなどいなかったかのように、かつての幸福が完璧に復元したのである。

そして幸せいっぱいの一家は山へピクニックに出かけるのだ。ひまわりは死に絶え、秋の枯葉が風に舞っていた。

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◆透き通った暴力◆

この映画を分かりやすい言葉で勧めるなら「ミヒャエル・ハネケやラース・フォン・トリアーのような毒性映画を好む人ならまず観ておいた方がよいっ」となるが、アニエス・ヴァルダが問いかけた幸福論の毒々しさはハネケやトリアーのそれを遥かに超え、あまりに峻烈だった。

ここで描かれているのは、不要になったものは都合よく忘却の彼方に押しやり、あるいは記憶を改竄してまでこれを廃棄し、まるで古い電球を捨てて新しい電球に付け替えるようにいくらでも交換可能な幸福のあまりの残酷さ。

それでいて交換者に罪の意識がないだけでなく、「そもそも何が罪なのか?」と問われると思わず言い淀んでしまうほど“無垢”があらゆる善悪の判断を無効化し、何事にも抵触することなく倫理を犯しきった暴力の透明性にほかならないのです。

したがって観る者はものすげぇ残酷なものを見せられたような気分になるが、何がどうだから残酷なのか…という道徳の筋道が立てられないので不快な気分にすらなれない、という宙吊りの刑に処されることになる。たまったもんじゃねぇ。

 

おそらくジャンは『眼には眼を』(57年)のヴァルテル医師や『死の追跡』(73年)のキルパトリック保安官のような無自覚の悪、あるいは『ノーカントリー』(07年)のシガーや『ダークナイト』(08年)のジョーカーよりも純粋悪の本質に接近した映画史上最凶クラスの悪役なのだが、悪を悪たらしめる“倫理観”の欠如ゆえに、もはや悪からも解放されたキャラクター(もはやキャラというより“現象”)なのである。

そも、悪役というのは非道徳的なキャラクターのことである、というのが世間一般の貧しい理解だが、これは誤り。悪役とは、むしろ正義漢よりも健康的な道徳観を備えたキャラクターのことである(だからこそ道徳に背けるのだ)。

だがジャンには背くに足る道徳すらなく、妻が自らの死をもって発したメッセージにも気づかぬまま、マリーへの「結婚しよう」というたった一言だけで失われた家庭を即座に復元し、なおかつ観る者の批判を弾き返す“無垢のベール”に守られたまま永遠の幸福を手にしてしまったのだ。背筋が凍らなくて何が凍る。三色ゼリーか。三色ゼリーが凍るのか?

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不倫相手と同等に妻を愛す男。

 

総評としては、すさまじく難解なことがとてつもなく平易に語られた映画だった。“ヌーヴェルヴァーグであること”と“ヌーヴェルヴァーグでないこと”の間にはわれわれが身構えるような線分などない、ということがよく分かる好例だ。

どれくらい分かりやすいかという話は前章の演出論で少し触れたが、もうひとつ付け加えるなら、クレールは暖色を、マリーは寒色の服をまとっているが、二人に対するジャンの愛情が逆転する映画後半では服の色も逆転するぐらい分かりやすい。

 

追記

本作は私に、ちょうどこれクラスの映画ばかり漁っていた12年前の映画体験の興奮と幸福を久しぶりに呼び覚ましてくれました。

テキトーな映画に即物的な快楽を求めるのも愉しいが、そんなものは2週間もすれば忘れてしまうし、とどのつまりは何百本観ようがあとに残るものがなければ何も観てないのと同じなのだ。

反面、みぞおちを射抜くようなボディブローの鋭い感覚は死ぬまで覚えてるし、完膚なきまでに打ち負かされたことの感動や、薄れゆく意識のなかで観た幻影はイメージとなって生涯脳裏に焼き付くだろう。それが映画を観ることの幸福(しあわせ)です。

わりあい綺麗に終われた。

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