私が疑惑を抱いたのは桃井かおりではなくこの映画の出来。されど志麻ラー垂涎の作。
1982年。野村芳太郎監督。桃井かおり、岩下志麻。
殺人容疑者の女性と彼女を弁護することになった女性弁護士の感情のぶつかり合いを軸に描く。富山県新港湾埠頭で車が海中に転落、乗っていた地元の財閥、白河福太郎は死亡したが、後妻の球磨子はかすり傷ひとつ負わずに助かる。やがて、夫に3億円の保険金がかけられていることが判明、球磨子は逮捕される。球磨子の弁護人として佐原律子が選ばれるが、二人はことあるごとに衝突した…。(Yahoo!映画より)
ニイハオ、コンチャス。
『ドラゴン怒りの鉄拳』(71年)に始まった旧作強化キャンペーンですが…まっだまだ続きます。
しかも本日からは日本映画に傾斜して参りますので、さらに読む人を選ぶ魔のタームに入ったと言わざるを得ません。
読者諸兄にとっては苦しい戦いになってきますよ。
もはや、この旧作強化キャンペーンが終わるまで『シネ刀』には当分アクセスしない、というのもひとつの手かもわからないね。どうか賢く生きてほしい。一度きりの人生だから。
そんなわけで本日は『疑惑』であります。
◆志麻ラーだから観たんだよ◆
私は、松本清張しかり横溝正史しかり、50~70年代にブームを巻き起こした推理小説の映画化にはロクにはものがない、という偏見を持っている。
物語がどれだけ面白くても映画のルックを持っていないからだ。撮影、編集、美術、芝居、音楽…どれを取ってもテレビ規格で、野暮ったいことこの上ないのだ。まるで火曜サスペンス劇場のような安い造作(角川映画や一部のプログラム・ピクチャーも然り)。そんなものを「ハイ、映画です」と目の前に置かれても「いや、どちらかといえばドラマです」と言って突き返したくなるのだ。
そこへ輪をかけるように「ミステリ映画」という難題がつきまとう。
ミステリが息づくのはフィルムの表皮ではなく脚本の中だけ!
ミステリというのは「ひたすら物語を前に推し進めて論理的帰結を目指す」という脚本を拠り所とした物語類型なので、とかく作り手も「映画の緊張感」と「物語の緊張感」を履き違えがち。もともと文字媒体に適しているからこそ推理小説は映画よりも前に誕生したのだし、そもそも「ミステリ映画」などというものは言葉こそ存在すれどその実態は依然不明。本来的に映画が保有しうる性質はミステリではなくサスペンスなのだから。
「ミステリ映画」など原理的に存在しないし成立もしないジャーゴンなのである!
ジャーゴン…わけのわからない言葉。
と、このような七面倒臭いことを思惟するあまり推理小説の映画化にはバイアスめちゃ掛け野郎となってしまう私なのであるが、そんな私がどんな風の吹き回しでこんな映画を観たのかと言うと…
そうだね、岩下志麻ちゃんが出てるからだね。
『女の一生』(67年)の評を読んでくれた方は「そういえば、こいつ…」なんつって思い出してくれたかもしれない。私が志麻ラーだということを。
私こそが、かの名曲「崖の上のポニョ」の替え歌「岩の下の志麻」の歌い手だということを!!
以下に引用するのは『女の一生』評で私が引き起こした志麻騒ぎのごく一部である。
「岩下志麻という奇跡にもんどり打ちながらの祝福」
「斜め45度から見たときの志麻ちゃんは絶世級に美しい。これを志麻角度*1と呼ぶ」
「お肌ツヤツヤやん」
「志麻ちゃああああん」
うん、まぁ、恥多き人生です。
岩の下の志麻ちゃん。その若き頃。
そんな志麻ちゃんがバツイチ子持ちのエリート弁護士を演じたのが本作。当時41歳。のちに代表作となる『極道の妻たち』(86年-98年)にも通じる凛然たる雰囲気を身にまとい始めた爛熟期前夜の作品と言えましょう。
監督は清張作品をやたらめったら映画化することでお馴染みの野村芳太郎。はっきり言って三流です。先に言っておくと、この『疑惑』という映画も三流です。「火サスでやれ」。この一言に集約される、そういった映画になっております。
さて、そんな志麻ちゃんが弁護することになったのは夫殺しの疑惑をかけられた桃井かおり。ご存知、肌のハリにかけては他の追随をあんまり許さないことでお馴染みのSK-II女優である。
この女がとんだ阿婆擦れで、水商売をする素行不良の擦れっ枯らしなのだ。亡き夫に近づいたのも遺産目当て。そんな彼女が夫とのドライブ中に車ごと海に落ちて自分だけ助かったのだから、警察やマスコミは「事故死に見せかけて殺したんでしょう!?」とぐんぐんに詰め寄る。これに対してSK-II桃井が「推測だけでモノ言ってんじゃないわよ、タコたち!」と悪態をついたことで世論まで敵に回し、弁護士たちは「勝っても負けてもイメージが下がる」と尻込みして次々と逃げていく。
そこに白羽の矢が立った…というか貧乏くじを引かされたのが民事専門の志麻ちゃんというわけだ。
SK-II桃井「あんた、嫌な目してるわね…。嫌いな顔だわ。まるで何でもお見通しよ、ってな目つきしちゃってサ!」
志麻ちゃん「私もあなたみたいな下品な人種は大嫌いよ」
かくして女二人は反目し合いながらも無罪をもぎ取るために二人三脚を余儀なくされたのであります。SK-IIにかけられた疑惑の真相とはいかに?
『疑惑』であります!
SK-IIと志麻ちゃんは犬猿の仲。
◆すべてのショットが物語理解を促すための「説明」◆
ミステリとしては滅法おもしろいので、もしこれがテレビドラマなら言葉の限りを尽くして褒め倒しもしただろうが、ドッコイこれは映画。映画として褒めるのは相当に苦しい作品だった。
これは「映画」と「テレビドラマ」の決定的な違いでもあるのだが、本作の場合はすべてのショットが物語理解を促すための「説明」でしかなく、それを超えた情感や緊張感がごっそり抜け落ちているのである。つまり物語の展開に驚くことはあっても画面を見ていてハッとする瞬間がどこにもない。
テレビドラマというのは効率よく物語を伝えるための簡素な媒体だから説明に特化すればするほど美しいわけだが、映画でこれをやられてしまうとどうにもまいっちんぐなのである。
例を出せばキリがないが、志麻ちゃんがくゆらせる煙草はただ煙草として無目的に画面情報の一部を担っているに過ぎず、たとえば煙草をすすめられたSK-IIが「要らないわよ」と断ることで両者の不仲を視覚化するといった心遣いはない。
留置所での接見シーンはどうだろう。まずSK-IIが長回しでひたすら毒づくバストショットがあり、そのあと黙って話を聞いているポーカーフェイス志麻ちゃんのアップショットへと繋げているのだが、画面サイズ間違えてない?
バストショットのSK-IIとアップショットの志麻ちゃん。本来逆では?
長台詞で熱演するSK-IIをアップショットで捉え、それを無感動に聞く志麻ちゃんをバストショットに収めるのが定石だろう。
アップショットは感情を引き出すためのサイズ。だが観客にとって興味の対象は無罪を訴えながらも限りなくクロに見えるSK-II。であるならばアップショットに収まる権利は当然SK-IIにある。あまつさえSK-IIは闘鶏のように感情的な女、対して志麻ちゃんは機械のように無感動な女というキャラクターなのだ。
極めつけに全編通してロケーションが貧しすぎる。
被害者の息子・むねはる君が事件解決の鍵を握っていると踏んだ志麻ちゃんが証言台に立つよう説得するシーンで使われた川に架かる橋の鈍臭い事といったら! 何もこんなつまらない所で撮らなくてもいいじゃないか。
鈍臭いロケーション(だが志麻ちゃんの笑顔は輝ける太陽)。
このように、チグハグ丸出しの映画術には疑惑が尽きないが、そのなかでストーリーだけが流麗に語られていく。
もいっちょ不満を言わせてもらうと…志麻ちゃんが出てくるまでが遅い!
事件発生からSK-IIの身柄が拘束され、そのあとは新聞社の柄本明の暗躍がひたすら描かれる。ようやく志麻ちゃんが留置所でSK-IIと接見するのは映画開始から35分を過ぎたあたり。
まぁ、物語的には自然な流れに思えるので小説版では何の違和感もないのだろうが(原作未読です)、ドッコイこれは映画、画的に退屈である。志麻ちゃんが出てくるまで画が動かない。これは志麻ラーならではの感情論とかではなく、単純に弁護人と被告人が揃わないことには映画が始まらないという意味だ。小説になくて映画にあるのは被写体=肉体ですから、これが物理的に動かないというのは映画にとっての死に時間にほかならんのである。
最後にもうひとつだけ貶さなきゃならないのはお芝居です。これがまずい。
この映画は清張ミステリのおもしろさ以上に「二大女優の激突」、「火花散らす演技合戦!」といったクリシェで主要キャストの名演技が絶賛されているのだが…、嘘でしょう? と思ってしまうほど酷いのであります。
何をもってSK-IIこと桃井かおりが絶賛されているのかは知らんが、身体の使い方がぎこちない。元カレをして「ときに少女のように涙を流す」と言わしめた秘教の純性も結局なんだったのかと思うほど見えてこない。
あのアンニュイな口調とふとした時に見せる色気はよかったのだけど。
SK-IIこと桃井かおりです。始末に負えないズベ公を演じてらっしゃるよ。
志麻ちゃんも叱ったらなあかん。
志麻ラーだけにケチをつけるのは心苦しいのだが、ツンツンした弁護士を表現するために「えらくキビキビした所作」を一貫するという愚直なまでの正攻法ゆえの退屈さがありましたな。底のしれない天才弁護士の深みはあまり出ていなかった。
それに、感情が希薄なキャラクターを演じるときに多くの役者がよくやる「瞬きをしない」という演技プランも実践しているが…よく見るとちょっぴり瞬きをしている。目が乾いてしまったんだね。
ああ、こんな難癖をつけちゃって…。
ゼッタイ志麻ちゃんに嫌われた。
人生は地獄だ。
だけどSK-IIに向かってセクシーポーズを決めるショットは実にファンタスチックでした。なんてサービスが行き届いたショットなんだ! 顧客満足度No1!
セクシーポーズで観る者を悩殺する志麻ちゃん(これも志麻角度ですね)。
◆あなたに今夜はワインをふりかけ◆
このろくでもない映画に辛うじて箔を付けたのは脇を固めるキャスト。SK-IIのヒモを演じた鹿賀丈史、それに検事役の小林稔侍らが「映画」に代わって画面に厚みを持たせております。
なにより山田五十鈴と丹波哲郎の特別出演に吃驚仰天!
丹波は映画序盤でSK-IIの弁護を断った敏腕弁護士として、山田は検察側の証人となったクラブ経営者のママ役。わずか3分そこらの出演となるが、ほとんど即興に近い挙措でレジェンドの貫禄を見せつけた。
SK-II&志麻ちゃんの「演技合戦」とやらはこの二人のたった3分に負けていた…と言っても過言ではないほど山田と丹波がいかつい。
これが特別出演のおもしろさであるよな。二人の主演作を見るより、こういう形で端役芝居を見た方が本当の上手さがわかるというものだ。ちがいますか。
レジェンド、山田五十鈴&丹波哲郎。今となってはお二方とも大霊界へ…。
とはいえ、やはり本作はSK-IIと志麻ちゃんの物語である。
SK-IIは自らの凋落人生を陰で悔やみ、別れた夫に娘の親権を取られた志麻ちゃんは愛も家族も失って仕事の鬼と化す。生き方も性格もまるで相容れない二人だが、どうやら共に悲しみを抱えた因果な女であるらしい。
そんな二人がクラブで酒を交わすラストシーン。色々あってようやくここまで辿り着いたのだから多少なりとも距離が縮まりそうなものだが、夫の保険金が支払われないことを知ったSK-IIは図に乗って「どうにかしてよぉ~」と懇願し、「無理ね」と一蹴した志麻ちゃんを役立たず呼ばわり。
挙げ句、SK-IIはボトルワインを志麻ちゃんのスーツにドボドボこぼしながら「あんた、やっぱり嫌いだナ」と毒づけば、負けじと志麻ちゃんも吸っていた煙草を灰皿に置いてグラスワインをSK-IIの顔にかける!
SK-IIの顔からSK-IIが落ちていく。
一触即発の緊迫したシーンだが、なぜか志麻ちゃんがやり返した瞬間にテンテケテケテケ♪ といったバカげた音楽が流れてコミカルなムードに一変するのである。まるで「二人は最後まで犬猿の仲でした。ちゃんちゃん!」とでも言うかのように。
正気を疑う野村芳太郎の演出に前後不覚。なんやねんこれ。
ジュリーの隠れた名曲「あなたに今夜はワインをふりかけ」が思い出されます。
清張自身が脚色したこともあってか、台詞や台詞回しにはたいへん気が配られております。鋭い社会風刺の名言や丁々発止の質疑応答、とりわけ検察側証人として志麻ちゃんをピシャリと喝破したクラブママ・山田五十鈴の迫力たるや!
「女が金目当てに男をたらすのは当たり前だろう? 男だってそれを承知で遊びに来るんだよ。騙すも騙されるも紙一重。そんなことも知らないでよく弁護士がやってられんねェ!」
山田砲をモロに受けた志麻ちゃんが「尋問を終わりますっ」と言ってブスっと拗ねる様子がじつに可愛いンである。
そしてSK-IIはまったく反省の色なしで「男たらして死ぬまでしっかり生きてみせるわよ」とニヤつきながら志麻ちゃんのスーツにワインをかける。
志麻ちゃん、踏んだり蹴ったりやないか。
山田のばばあに喝破されるわ、SK-IIにはワインかけられるわ…。
そんな志麻ちゃんの名言は映画最終盤。
証言台で発言を拒む被害者の息子・むねはる君に「さぁ、言ってちょうだい。むねはる君?」とか「法廷で隠し事するのはよくないと思うナ、むねはる君?」と優しく語りかけていたが、それでもダンマリを通すむねはる君にとうとう痺れを切らして一喝する。
「むねはる君っ!!」
むねはる君は「はっ…はぅあ!」と驚いて少量のオシッコをちびり、ついにおずおずと証言した。このアメとムチの使い分け。岩下志麻であります。
また、「志麻角度」もよく撮れておりましたね。やたら細長い煙草をくゆらせながらの流し目に少量のオシッコをちびりながらの祝福。そのオールバック姿は もうほとんど『極妻』でありました。
志麻角度と流し目のコンビネーション!
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*1:志麻角度…岩下志麻は斜め45度のアングルが最も美しい、と感じた私によって提唱された新概念。滝川クリステルがなんぼのもんじゃい。