シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

リチャード・ジュエル

俺をナメんなっていう中身。そしてイーストウッドは小津化する。

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2019年。クリント・イーストウッド監督。ポール・ウォルター・ハウザー、サム・ロックウェル、キャシー・ベイツ。

 

96年、五輪開催中のアトランタで警備員のリチャード・ジュエルが公園で不審なバッグを発見する。その中身は無数の釘が仕込まれたパイプ爆弾だった。多くの人々の命を救い一時は英雄視されるジュエルだったが、その裏でFBIはジュエルを第一容疑者として捜査を開始。それを現地の新聞社とテレビ局が実名報道したことでジュエルを取り巻く状況は一転。FBIは徹底的な捜査を行い、メディアによる連日の加熱報道でジュエルの人格は全国民の前で貶められていく。そんな状況に異を唱えるべく、ジュエルと旧知の弁護士ブライアントが立ち上がる。ジュエルの母ボビも息子の無実を訴え続けるが…。(映画.comより)

 

おはようございます。

こないだ道を歩いていたら、背後からミニセグウェイに乗った男がものっそい速度でビュ――ンと私を追い越したので「あかんやん」と思ったが、近くにいたサラリーマンたちは「引くほど速いやん…!」とドン引きなさっていた。より正確には、ドン引きしながらもちょっと喜ぶ、みたいなテンションで。

その後サラリーマンたちは「最近のセグウェイってあんな速度出んの?」、「近未来すぎて引いたわ。でも俺も欲しい」と速度に関する話しかしてなかったけど、速度云々以前に道路交通法違反だからね。公道で走るなよ。

それにしてもあのセグウェイは速かった。改造してるとしか思えないほど速かった…。

ていうか、セグウェイを10台ぐらい並べて固定してその上に寝そべったら『ジョジョ』のハーヴェストみたいに寝たままの姿勢で移動できるんだろうか。まあ、よしんば出来たとしても誰もしないだろうけど。

そんなわけで「続・昭和キネマ特集」が終わった後ここぞとばかりにサボっていたので10日ぶりの映画評、再始動です。本日はクリンティング・イースティングの『リチャーディング・ジュエルディング』ですねー。

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◆続 ブラッド・ワーク

クリント・イーストウッドの最新作は、1996年のアトランタオリンピックで起きた爆破事件の映画化である。

例によって『アメリカン・スナイパー』(14年)『ハドソン川の奇跡』(16年)『15時17分、パリ行き』(17年)の系譜に連なる「実録アメリカンヒーローもの」で、センテニアル・オリンピック公園で爆弾を発見した警備員リチャード・ジュエルが英雄から一転、FBIによって容疑者に仕立て上げられた世紀の冤罪事件を描く。

FBI内部から捜査内容がリークされたことで新聞社に実名報道されたリチャードは爆破犯の濡れ衣を着せられ謂れのない誹りを受けた。味方は旧知の弁護士と老いた母親だけだが、国家とメディアの双方からプライバシーを蹂躙されたリチャードは“ある方法”で潔白を主張する…。

おっほーん。国家権力とジャーナリズムによる暴力を痛烈に批判した本作はわかりやすくテマティックな作品で、いわば「情報社会」とか「加熱報道」とか「誹謗中傷」といったワードを適当に並べていればそれなりに見栄えのする感想文ができあがるような社会派映画である。

流麗なストーリーテリング、論理的に紡がれていくテーマ、それに誰の目にも明らかなメッセージ性。少なくとも『インビクタス/負けざる者たち』(09年)『ヒア アフター』(10年)のような曖昧さ、あるいは『ハドソン川の奇跡』『15時17分、パリ行き』に見られるトリッキーな“映画的変態性”は影を潜め、もっぱらテーマ主義だけにポイントを絞って効率よく作られた語られたがっている映画であることは確かだろう。

実際、方々のレビューサイトでも「扇動的なメディアが真実の価値をドータラ」だとか「この悲劇は誰の身にも起こりうることでコータラ」といったテーマについてのお話が氾濫してるし、アメリカでは本作に登場した実在の女性記者の描き方を巡るボイコット運動まで巻き起こっているようだ。その意味ではイーストウッドのここ10年の作品の中では最も“見えづらい映画”かもしれない。物語やテーマばかり前に出てきて映画が見えづらい。

 

だが腐ってもイーストウッド。根本的にはやはりおかしい映画なのだ。

いくら実際のリチャード・ジュエルに外見を寄せるためとはいえ、たとえばサイコスリラー映画とかだと真っ先にシリアルキラーにぶっ殺されるパトロール中の警察官、といった風貌のポール・ウォルター・ハウザーを主演に据えることもあるまい。ごく控えめにいってもデブと形容するほかないポールに4500万ドルつぎ込んだ映画の主演が務まるとは思えず、まともな神経をした人間ならせめて弁護士役のサム・ロックウェルの視点から同事件を描いたはずだが、この御年90歳の大家はあくまで暑苦しい肥満体にカメラを向ける。

そんなわけで興行的には当然のごとくバカコケ。しかしイーストウッドが1968年に設立したマルパソ・プロダクションズで作られた本作は、まるで2002年の『ブラッド・ワーク』ぶりに赤字を叩き出すことを予見していたかのように、やたらと誇らしげな相貌を湛えていた。

f:id:hukadume7272:20200607090409j:plainこれが主演。(ポール・ウォルター・ハウザー!)

 

ちなみに本作と『ブラッド・ワーク』制作費およびそれを下回る興収の利益率がほぼ一致しているほかにも“心臓”という共通点がある。

『ブラッド・ワーク』はFBIのイーストウッドが犯人追跡中に心臓発作でぶっ倒れるという話だが、本作でもポール・ウォルター・ハウザーが劇中何度も「うっぐ」とかいって胸の痛みに耐える描写がある。それでも病身を顧みず警備の仕事に行ったからこそ爆破テロの被害を最小限に抑えることができたのである(そして冤罪に巻き込まれた)。

これは実際のリチャード・ジュエルが糖尿病による心臓発作で後年亡くなっているのでその前兆を描いているわけだが、映画では爆破テロが起きたあとも胸を痛がる描写が執拗に繰り返される。なんか変だぞ…。物語は爆破テロが起きた1996年7月からリチャードの容疑が晴れた同年10月までを扱い、真犯人が逮捕された2003年のエピローグで締め括っているが、実際のリチャードが亡くなったのは(映画では描かれない)2007年なのだ。

つまり本作ではリチャードが心臓発作に倒れる11年も前から死の前兆を描いていることになる。

これは映画演出として全くのナンセンスである。リチャードの死は描かれないのにその前兆だけが絶えずスクリーンをこわばらせているので、映画を観終えた観客は「あの主人公、やたら胸を痛がってたけど、アレなんだったんだろ…」とMOYAMOYAしたままその日の夕食と向き合うことになります。

しかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁし。

とかくイーストウッド作品においては死や苦痛のイメージが不断にフィルムを浸蝕することを忘れてはいけませんよ。それは悪夢であったり聖痕であったり、また時には発砲されないライフルまでもが禍々しく画面に映り込んでは観る者をイヤな気持ちにさせるのだ

この「胸を痛がる」という思わせぶりな所作が意味もなく繰り返されることの気持ち悪さ。ここが本作の“調子”になってます。全編に敷き詰められたなんかずっと体調悪そうだけど大丈夫なのサスペンスが観る者に気疲れと困惑を強いること請け合いの『リチャード・ジュエル』

今回もクリンティング・イースティングしてるなぁ。

f:id:hukadume7272:20200607090439j:plainFBIから不当な取り調べを受けるポール。

 

◆ナメられたら終わりやで!◆

『リチャード・ジュエル』はキャラクター劇として滅法おもしろい。

ポール扮する主人公は法執行官に憧れるあまり、自分が疑われているにも関わらず横柄なFBIの不当捜査に進んで協力し、その媚びた態度に苛立っている弁護士サム・ロックウェルは(いつも通りの傍若無人なキャラクターで)FBI捜査官のジョン・ハムを牽制する。

いわば法執行官を無条件でリスペクトしているポールはFBIにとって実に都合のいい存在で、捜査令状もミランダ警告もなしに誘導尋問をおこない、その横暴なやり方をお目付け役のサムが阻止する…という構図なのである。

「なんでもかんでもペラペラ喋るな!」とサムに叱られ「わかったよ。もう何も喋らないよ」と言った次の瞬間には家の中の物を押収するFBI捜査官に向かって「その本はいいよ」などとペラペラ喋りはじめるポールがどうしようもなくアホの子で。

しかもその本というのが『O・J・シンプソンが無罪になった理由』。

ますます怪しまれるばかり。

ママン役のキャシー・ベイツは、その厚い脂肪でどんな攻撃でも跳ね返すおばさん役がよく似合う女優だが、本作では愛する息子が犯罪者扱いされる悲しさから次第に憔悴。タッパーや掃除機まで押収していくFBIに激憤したり、自部屋に猟銃をたんまり隠し持っていた息子に「私はアホの子を育ててしまった」と呆れ返ったりなど冤罪被害者の母親を色彩豊かに演じていた。とりわけ記者会見での涙のスピーチはキャシー・ベイツ史、通称 キャ史ーに残るベストアクトだろう。

ポールが容疑者にされてしまう映画中盤は家の周りをマスコミに囲まれて自宅から一歩も出られないという状況が続くが、1LDKの平屋の中にはずんぐりむっくりしたポール&キャシー親子のほか、弁護士サムと秘書のニーナ・アリアンダがほぼ24時間一緒にいるので画面の圧迫感がすごい。密です。

f:id:hukadume7272:20200607090911j:plain暑苦しいほどの三密映画。

 

映画終盤ではポールとサムがFBI本部に乗り込んで身の潔白を証明すべく舌戦を繰り広げるという『ハドソン川の奇跡』方式でカタをつけるわけだが、最終的にポールが潔白を証明しえた決め手が「僕が犯人だという証拠はあるんですか!?」ということを毅然とした態度で言うというもの。

…えぇ?

人が変わったように強い眼差しでハキハキ喋るポール。その毅然とした態度に怖気づいたジョンは「あうあうあうあう」としどろもどろになってポールを捜査対象から外したのだ。

態度の問題なん!?

容疑を晴らした決定打が「アリバイを立証する」とか「世論を味方につける」とかじゃなくて…

態度の問題なん!?

そう、すべては態度の問題なのである。

要するに、これまでのポールはNOと言えないアメリカ人だったのだ。自分は警察ではなく一介の警備員に過ぎないという劣等感、それに世のため人のために働く法執行官を心から尊敬するあまりに卑劣なジョンから完全にナメられていて、そのためにFBIの不当捜査をなんとなく許容してきたわけだが、ついにサムから「あいつらは尊敬に値するような連中じゃない。ただのクソだ。ナメられっ放しでいいのか!?」と叱咤激励されたことで、初めてジョンと対等に話す勇気が持てたのである。

ナメられない気持ちが大事なのだと本作は説く!!

 

とどのつまり本作は人にナメられてる男がナメられない気持ちを獲得するまでの自己啓発映画なのだ。

したがって映画のテーマは「真実の価値がドータラ」とか「誰の身にも起こりうることでコータラ」といったご大層なものではなく、もっとシンプルに「俺をナメんな」ということだ。

ヘラヘラ笑って媚びるな。はっきり意思を示せ。毅然とした態度で受け答えしろ。ナメられたら終わりだぞ!

f:id:hukadume7272:20200607090506j:plainもちろん人をナメるのもよくないと本作は説く!!

 

◆小津化するイーストウッド◆

まさかナメに関する映画だとは思いもしなかったが、とはいえ弁護士なのに精神論で全部解決したサム・ロックウェル先生がすこぶる格好よく。思わず好物のスニッカーズを献上したくなるレヴェルだった。

さぁ、ここからは批評のお時間です。

イーストウッド作品を手掛けてきたカメラマンといえばブルース・サーティース、ジャック・N・グリーン、トム・スターンの3人だが、『ブラッド・ワーク』から『15時17分、パリ行き』までの全作品を撮り散らかしてきたトム・スターンがなぜか前作『運び屋』(18年)で急に外されたので、本作は新任したイヴ・ベランジェにとって2作目のイーストウッド作品となる。

『わたしはロランス』(12年)『ダラス・バイヤーズクラブ』(13年)『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』(15年)『ブルックリン』(15年)などで近ごろ引く手あまたのベランジェは温かい映像と色幅の広さが強味の撮影監督だが、なぜか本作ではジジ臭い茶色系統の冷たい画面ばかり撮らされている。ちょうど『チェンジリング』(08年)『J・エドガー』(11年)みたいな感じだな。

つまり前任カメラマンであるスターンの「得意な画調」を模倣させられてるわけ。

なんでそんな事さすーん。

何のために長年一緒にやってきたスターンを切ったのか分からないほど、新任カメラマン・ベランジェの個性を全否定して「スターンのように撮れ」と不可解な指令を出す男、クリント・イーストウッド。

ベランジェにしてみれば「ほな今まで通りスターンに撮らせたらよろしいですやん」てな具合だが、その破綻のない画面と分かりやすいレイアウトは良くも悪くも“不自然でなんぼのイーストウッド作品”を簡素にトリートメントしていて、まあ89歳の監督作とは思えないほど明朗快活な仕上がりに。

f:id:hukadume7272:20200607091148j:plain「スターンっぽい画」をベランジェに撮らせている。

 

また、犯人が犯行予告に使った公衆電話から事件現場までの距離を測ってポールの無実を確信するシーンが二度繰り返される。一度目はサムとニーナが、二度目はアトランタジャーナルに勤める女性記者オリヴィア・ワイルドが独自調査するわけだが、この二つのシーンはやってることも同じなら見せ方も同じ。おまけに時間帯まで同じ(夜間)。

あるいは記者オリヴィアとFBI捜査官ジョンの結託と決裂はどうか。やはり同じバーでの同じ構図におさまっている。キャシー宅から押収されたタッパーや掃除機はどうか。冤罪が証明されたあと全て綺麗に返却されている。

そしてファーストシーン、大学の警備員をしていたポールが寮のドアを力強くノックして不良学生の部屋に勇み足で入っていく場面はどうか。FBI本部で毅然とした態度を見せつけたあとに晴れがましくドアから出て行くラストシーンの身振りによってやはり反復されているのである。

何度も繰り返される同一イメージは人物のフォルムにも顕著で、ポール親子の(言い方は悪いが)デブとデブ、あるいはサムとニーナの相似性もおもしろいが、やはり忘れがたいのはファーストシーンで“サムのオフィスに現れたポール”がラストシーンでは“ポールのオフィスを訪れたサム”という形で押韻されている点であろう。

この「小津か? 小津なのか? いよいよイーストウッドは小津なのか?」と妄言のひとつでも吐きたくなるあたりが本作の底知れぬ狂気なのだ。えらいことになったなぁ。10年前からその気はあったが、そうか、ついに小津に完全変態したのだな…。

ちなみにポールとサムが肩で風を切りながらFBI本部を去るラストシーンでは、閉じたドアに描かれたFBIの紋章に室内のジョンら捜査官の影が重なる演出が“トドメ”になっていた。いつもならこういうトドメや見得がないからイーストウッド作品は曖昧なのだが、その点『リチャード・ジュエル』は相当にシンプルである。テーマだけで語るにはあまりに勿体ない。

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