難解ではなく、ただもつれて絡まってるだけ。
1997年。アトム・エゴヤン監督。イアン・ホルム、サラ・ポーリー、ブルース・グリーンウッド。
スクールバスの転落事故が発生、町の多くの親たちが子供を失う。彼らの代理として集団訴訟の手続きを行うことになった弁護士のスティーブンが町を訪れ、被害者に有利な条件で訴訟をまとめてゆく。だが、事故の唯一の生存者ニコルの証言によって、事件は意外な展開を見せる。(Yahoo!映画より)
皆さま、おはようございます。ふかづめ人生相談室のお時間です。
第三回目のゲスト……ゲストっていうかお悩み相談者は鳥取県にお住まいの「忍者トットリくん」です。
Q. ふかづめさん、おはようございます。いつも胸が高鳴るレビューを書いてくれて胸が高鳴っています。
僕の悩みは、まぁ悩みというほどのものでもないのですが、片想いで悩んでます。僕は中学生です。中学2年生なんですけど、教室にいる佐伯さんのことがとても気になります。佐伯さんはいつも教室にいませんが、それでも気になります。どうしてかと言うと、佐伯さんと目が合うと胸が高鳴るからです。胸が高鳴るから佐伯さんと目が合うんです。確率的に言っても。
給食の時間は4つの机を1つの机にするので、佐伯さんとよく目が合います。確率的に。佐伯さんは教室にいます。給食を食べてるわけです。胸が高鳴りながら僕も給食を食べるんですけど、机が1つになってるので目が合って、それで片想いで悩んでるんです。僕は中学生です。いつも教室にいます。恋の確率は何パーセントですか。
A. 熱意のこもったメッセージをありがとうございます。日本語が上達したらまた相談してください。
というわけで本日は『スウィート ヒアアフター』です。
◆アトム映画はめんどくさい◆
あ~~、めんどくさい映画観たわー。
贅沢なキャスティングのわりには焦点ボケまくりのエロティック・サスペンス『秘密のかけら』(05年)を機に、『CHLOE/クロエ』(09年)、『デビルズ・ノット』(13年)、『白い沈黙』(14年)、『手紙は憶えている』(15年)などでもそれなりのスターを使ってはいるが、どことなく場末感の漂う映画を提供し続けるアトム・エゴヤン。
空を越えて ラララ 星のかなた
ゆくぞ アトム ジェットの限り
こころやさし ラララ 科学の子
十万馬力だ 鉄腕アトム
この鉄腕監督は、顔の上半分は不機嫌なのに下半分は上機嫌みたいなモンタージュ写真のごとき不自然な人相を持つエジプト生まれの59歳で、隙あらば焦点のボケた映画ばかり撮ろうとする困ったちゃんである。自ら脚本も手掛け、自作では「罪」の所在をめぐる道徳的テーマを好んで扱う。
そんなアトムの代表作『スウィート ヒアアフター』も、他の作品同様に罪についての物語で、とにかく焦点がボケている。一言でいえばめんどくさい映画である。
鉄腕監督アトム。
物語の骨子は至ってシンプル。
カナダの田舎町を舞台に、スクールバスの転落事故で子供を失った親たちのもとに弁護士のイアン・ホルムが現れて集団訴訟を起こさないかと持ちかける。バスの製造メーカーや運営会社を相手取って損害賠償をふんだくろうと言うのだ。
だがここからが激烈にめんどくさい。物語的なややこしさと構成的な複雑さと演出的な紛らわしさが同時に襲ってくる上に、ボサーっと見ていると「これは何についての映画なのか? 彼らは何を問題としているのか?」といった物語の趣旨すら掴めぬまま置き去りにされてしまうのである。乗り遅れたバスのようにね!
それでは、アトム映画の真骨頂ともいえるめんどくさ味を弾丸列挙します。
(1)不思議な町人たち
子供を失った町の親たちは訴訟に対してどことなく消極的だった。
この小さな町のしきたりは「助け合い」であり、たしかに彼らの心は事故によって深く傷ついたが、そこには彼らなりの癒し方がある。そこへ弁護士のホルム爺さんが訴訟の話を持ちかけ、強引に町人を扇動したことでコミュニティのバランスが少しずつ崩れ始める。
たとえばバス整備士の男はモーテル経営者の妻と浮気していたが、訴訟が始まると身辺を調査され浮気が露呈してしまうので訴訟を取り下げるよう仲間を説得するが、ホルム爺さんに絆された仲間たちは訴訟は起こすと言い張り、次第に反目してゆく。
(2)事故の原因
バスは雪道をスリップして湖に転落したが、必ずしもその原因がバスや道路の安全管理の不手際にあったとは限らない。かと言って、運転手や整備士の落ち度が指摘されてしまうと原告側の不利になるので、ホルム爺さんはバス運転手のおばさんに過失はないと断言する。だが彼女は「私が法定速度を守っていた事をどう証明するの?」と不安がった。
結局のところ、事故の原因は誰にもわからないのである。
(3)アンビュランス・チェイサー
ホルム爺さんは、訴訟を起こそうとする理由を「世のため、遺族のため、犠牲者のため!」と叫んでやたらな正義を振りかざすが、この男は典型的なアンビュランス・チェイサー(救急車を追いかけて病院に行き事故被害者に訴訟を持ちかけるような弁護士)であり、他人の不幸を嗅ぎつけては遺族の復讐心を煽って訴訟を起こさせ、損害賠償の3分の1を成功報酬として受け取るような弁護士なのだ。
バス会社や製造メーカーを訴えようとしており、そのためヒューマンエラーと考えうる可能性を片っ端から揉み消していく。
(4)唯一の生存者
ただひとり事故を生き延びて車椅子生活を余儀なくされたサラ・ポーリーは父に溺愛されていたギター少女である。「ハーメルンの笛吹き」を妹弟に読み聞かせる心優しい少女で、ホルム爺さんのいかがわしさを誰よりも鋭く感じ取っていた。
来るべき審問の場では、ホルム爺さんとの打ち合わせも虚しく「バスは法定速度を超えていた」と証言したことで訴訟計画はぶち壊し。ホルム爺さんを「あじゃぱー」と鳴かせた。
そして最も意味深なのは、事故前のサラが毎晩父親に抱かれていたことだ。近親相姦。このディテールは何を意味するのだろうか?
(5)ハーメルンの笛吹き
劇中では「ハーメルンの笛吹き」が何度も引用される。ネズミ退治の報酬が支払われなかったことに腹を立てた笛吹き男が村の子供たちを笛でいざなって洞穴の中に消えた…という有名な伝承である。
この伝承の中には足が不自由だったために難を逃れた子供がいるが、それに当たるキャラクターがサラである。したがってハーメルンの笛吹きとは町人たちを集団訴訟に誘導したホルム爺さんにほかならない。
また、この伝承はバス転落事故のメタファーとしても二重に作用している(笛吹き男に連れて行かれた子供たちは転落事故の犠牲者たちでもある)。
(6)麻薬中毒の娘
最も厄介なのがホルム爺さんのサイドストーリーである。
この男には金を無心してくる麻薬中毒の娘がいる。どうしようもないクズだとは思いつつも仕送りを続けてきたホルム爺さんは、娘のいるNYに向かうべく乗り込んだ飛行機の中でかつての娘の親友と再会し、その親友に向かってどことなく秘密めいた自らの親子関係を打ち明けるのだ。
なぜこれが厄介なのかという言うと、この機内パートは集団訴訟が失敗に終わったあとの出来事なのだが、劇中ではコロコロと時間軸が前後して訴訟パートと機内パートが激しく去来、さらにいえば訴訟パートの中でも時系列が細かく前後しているからである。
めんどくせえわ。
『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのホビット役でお馴染みのイアン・ホルム(左)と、『死ぬまでにしたい10のこと』(03年)や『ドーン・オブ・ザ・デッド』(04年)で知られる才女サラ・ポーリー(右)。
◆どんなクソゲーでもクリアすれば一応の達成感はある◆
この映画が描こうとしているのは、事故の責任を問う話でもなければ遺族たちの魂の救済でもなく、町人を従えようとする“笛吹き男”とそれに抗う足の不自由な少女の経済戦争である。
人の死を金に換えようとするホルム爺さんとそれに追従する町人を、たった一人の少女が「助け合い」という町のしきたりに逆らってまで妨害する物語だ。だから笛吹き男に“ネズミ退治”の報酬が支払われることはない。彼自身がネズミにも劣る卑しい心を持っていたためだろう。
こうして要約すると思ったより簡単な話だが、たったこれしきのことが恐ろしく持って回ったストーリーテリングで訥々と語られていくのだ。キャラクターの心情は滲んで見えず、話の輪郭は一向に浮かび上がってこず、時系列はあっちゃこっちゃと交錯する。そして物語全体がまるっと「ハーメルンの笛吹き」に喩えられている。クソややこしんだって。
よし、反撃タイムだ。
本作はカンヌ映画祭審査員特別グランプリを受賞したが、いかにも奴らが好みそうな映画と言えます(カンヌ審査員は人が好まぬような難解な映画を好むのだ)。
だが本作は決して難解ではない。
難解さを弄くりすぎたが故にただもつれて絡まってるだけ。
「秘密めいた人物造形」や「時制との戯れ」、あるいは「伝承による寓意」や「経済化された不幸への眼差し」といったアトム的主題/手法は、もっぱら複雑な美しさではなく煩雑な醜さとしてフィルムの全域にぶち撒かれている。物語のテーマはその脆弱さを知られまいとするかのように隠蔽され、蓋を開けたら実は大したことなど描かれてなかったと気づかれる前に意味深なハッタリをカマし切ってとっとと幕を引いてしまう。
父との近親相姦にひそかな歓びを感じていたサラが、事故によって「愛の対象」から「介護の対象」になり、また父が損害賠償金の使い道にまんざらでもない表情で思案をめぐらせたことが彼女に嘘の証言をさせた…というところまでは理解できるし、結果的にサラの嘘はホルム爺さんの笛の催眠から町人たちを救うことにもなったわけだが、映画はその遥か手前に発生しているホルム爺さんの職業倫理の是非、この町の精神風土、それに何と言ってもサラと父の近親相姦に対するわれわれのごく素朴な疑問には答えようとしない。
観る者「ホルム爺さんって誠実な弁護士とは言えないよね。それなのに娘とのエピソードではやけに観客の同情を引こうとしてるんだけど…無理じゃない?」
アトム「娘を持つようになればわかります」
観る者「あんた、いないでしょ。あとこの町って結局何なの? ボヤッと描かれてていまいちわかんない」
アトム「想像力が足りないだけです」
観る者「それに近親相姦って何なの。サラの家庭やばくない? 訴訟以前の問題じゃん」
アトム「それは重要なことではないので気にしないで下さい」
観る者「いや、むしろ本題よりそっちの方が気になるんだけど…」
アトム「あんまりしつこいと十万馬力で殴りますよ」
観る者「すみませんでした」
とどのつまり近親相姦に関しては、物語終盤でサラと父と反目させるためだけに拵えた設定なのだ。
同じように、ホルム爺さんとヤク中の娘の関係性なども大変どうでもよく話をこねくり回すための攪乱材料でしかない。
夜な夜な父に抱かれるサラ。訴訟云々よりこっちの方が気になるわ。
個人的に難解映画は大好物だが、その一方で見れば見るほど知能低下を起こす有害な映画でもあると思っているんだよ。もちろん作品によるけどね。
難解映画というのは、難しい内容ゆえに解が見つかれば喜びもひとしおだが、とかく映画としての評価がその一点に集中しがちなのだ。
たとえば本作の場合、「バスは法定速度を超えていた」というサラの証言が嘘であると看破した観客はそこにおもしろさを感じ、嘘をついたワケを「笛を吹く弁護士とそれについて行った父への反発心から訴訟をぶち壊そうとした」というところまで推察できれば更なるおもしろさを感じて「すっげえ脚本だー!」などと口走る。
どんなクソゲーでも全てクリアすれば一応の達成感はあるように、どんな謎だろうが解さえ見つかれば一定の満足感を覚えるもの。
たとえカメラが映画的な一瞬を撮り逃そうとも、愚直な演出がサスペンスを生殺しにしようとも、解に辿り着きさえすれば脳は自動的に「おもしろい」と感じる。その甘い錯覚が持続している間に審査員特別グランプリがアトム・エゴヤンの手に贈られただけのことだ。どうもおめでとうございますねぇ。
なので脚本家を目指してる人はアトムのように話の焦点をボカして執拗に弄くり回すといい。時系列をシャッフルすることでより考察し甲斐のあるシナリオとなるだろう。撮影なんてテキトーな人間に任せなさい。誰も映画なんて観ちゃいないんだから。頭の中で謎解きごっこに興じてるだけなのさ。
たったいま、アトム・エゴヤンが描いてるものは人間のエゴやん、という低級ギャグを思いついたが、すでに何人かのギャガーが使っていたので記事の締め方を見失っちった。