イザベラちゃんこそ太陽。
2017年。スティーブン・チョボスキー監督。ジェイコブ・トレンブレイ、ジュリア・ロバーツ、オーウェン・ウィルソン、イザベラ・ヴィドヴィッチ。
ごく普通の10歳の少年オギーは、生まれつきの障害により人とは違う顔をもっていた。幼い頃からずっと母イザベルと自宅学習をしてきた彼は、小学5年生になって初めて学校へ通うことに。はじめのうちは同級生たちからじろじろ眺められたり避けられたりするオギーだったが、オギーの行動によって同級生たちは少しずつ変わっていく。(映画.comより)
おはようございます。
「時計の針は巻き戻せなくても、明日に向かって針を進めることはできる」という名言をいま思いついたから映画とかマンガ作ってる人はパクってもいいよ。「明日に向かって針を進めること」がどういうことかは全くわからんが。
もう一個名言を考えてみますね。思いつきました。
「キミが泣いた数だけビニールプールに涙が溜まる。子供たちがそこで泳ぐ」
これはちょっとファンシーかつナンセンスな名言ですね。そもそも名言ですらないのかもしれない。でも、深刻な顔して低いトーンで言った言葉ってだいたい名言っぽく聞こえるんですよ。もし愛する人を泣かせてしまったときは、ぜひこの言葉を囁いてあげてください。安心して寝ると思います。
しょうがないのでもうひとつ名言を考えてあげます。出血サァビスですよ。
「津田さんの葬式行ってくるから8チャン録画しといて」
これは汎用性が高いと思います。前日に言えるといいですね。
映画の話をしなきゃいけないので名言講座はこれにて終了です。このような心に刺さる深い名言を使って頂ければあなたの人生はより良いものとなるでしょう。
ハイ、こんなこって今日は 『ワンダー 君は太陽』ね。もう行っちゃいましょう。社長。
◆涙の恫喝◆
『ワンダー 君は太陽』という邦題を「ワンダーくんは太陽」と誤読していたことを白状しておかねばなるまい。
「君」と書いて「きみ」って読むパターンね。てっきり主人公の名前が「ワンダーくん」だとばかり思っていたから、開幕早々に「僕の名前はオギー!」と言った主人公に「ワンダーちゃうんかい、おまえ」と毒づいてしまいました。まったく。ややこしい邦題を付けてオレを惑わせやがって。オレを惑わせることがそんなに楽しいのか、日本の配給会社よ。何かよからぬモノを配給してやろうか!
さて。本作は『ウォールフラワー』(12年)で突如映画界に現れたスティーブン・チョボスキーの長編二作目である。
このおっさんは大学時代に映画脚本を学んでいたが、そのあと物書きに転向して『ウォールフラワー』の原作小説を発表。その本が予想外に売れてベストセラーになり、「この勢いで映画も作っちゃおう」と調子ぶっこいて自ら映画化した人物であられる。
かつてmixiレビューで批評活動をしていた私は100本に1本ぐらいしか星5点(満点)をつけないほど激烈にシビアに映画を評価していたが、そんな超うるさ型の私が5点を献上したのが『ウォールフラワー』であります。手放しに絶賛すべき作品ではないことなど重々承知だったが、やっぱり持っていかれてしまったのよねー。心が。魂が。
だもんで『ワンダーくんは太陽』(もうこの呼び方でいきますよ)のトレーラーを見たときは「ようやくチョボスキーの新作がきたか」という喜びを感じたのだが、その一方で大いなる不安を抱いたのもまた事実。
だって見るからに涙の恫喝じゃん。
奇形児として生まれた少年が学校でいじめを受けながらも徐々に周囲の人々を変えていく…って。
『パウダー』(95年)じゃん。
パウダー、ワンダー、泣けるんだー、っていうゴミみたいなギャグを考えてしまうぐらい似ているではないか。
もしくは『フェノミナン』(96年)だよ。
懐かしいな。超能力を持った角刈りのジョン・トラボルタが街の人々から奇異の目に晒されながらも持ち前の人柄のよさで愛されキャラになっていく…みたいな下町情緒SF角刈り映画ね。
まぁなんにせよ、若者のリアルな苦悩を美しく、そして残酷に描いた『ウォールフラワー』に胸を打たれた身としては、露骨に泣きを狙いにいった本作に「あ。チョボスキー、そっちに行っちゃうんだ…」という感じでどうも観る気が起きなかったのだけど、だからこそあえて観たよ。
青春映画のエバーグリーン『ウォールフラワー』。
◆「君は太陽」の「キミ」とはイザベラちゃんのこと◆
主演のジェイコブ・トレンブレイくんは『ルーム』(15年)で注目を集めたゲロかわ少年だが、本作では顔に障害を持った主人公を演じるために特殊メイクを施しているので識別不能。そのうえコンプレックスの顔を隠すためにヘルメットをよく被っているのでさらに識別不能。
ちなみにジェイコブくんは『ザ・プレデター』(18年)でもヘルメットを装着していることから今後はヘルメット俳優として立派に成長していくはずだ。
人とは違う見た目のジェイコブくんはずっと自宅学習をしてきたが、小学5年生になって初めて学校に通いはじめる。
将来の夢は宇宙飛行士で『スター・ウォーズ』のビッグファン。小学5年生にしては落ち着いた性格だが、心を許した相手にはよくジョークを言う。私とはまるっきり正反対の穏やかな少年である。私がその歳のころは暴力的なマンガを描いたり奇声を発しながら校庭を走り回っていたわ。邪鬼のごとく。
ゲロかわ少年、ジェイコブ・トレンブレイくん。
そんなジェイコブくんにはステキな家族がいます。母親のジュリア・ロバーツ。父はオーウェン・ウィルソン。お姉ちゃんのイザベラ・ヴィドヴィッチ。そして弱りかけの犬。
そんな温かい家族からメチャメチャ愛されているジェイコブくんが、学校でイジメを受けたり偏見を受けたりドッジボールで集中砲火を受けたりしながらも、少しずつクラスに馴染んで友達が増えはじめ、いつしか彼を中心とした奇妙なグループが出来上がり、しまいには「おまえこそワンダー」といって校長先生から謎の賞を受賞するまでがハートフルに描かれた本作。
美しいストーリーですね。涙が止まりませんね。心がおでんみたいに温かくなりますね。
ジュリア・ロバーツとオーウェン・ウィルソン。ちなみに本作を観た木村拓哉は「オーウェン・ウィルソンっていつも同じ髪型じゃね?」と指摘してました。確かに…!(キムタクも髪型評論家だったか)
本作は章仕立てになっていて、第一章ではジェイコブくんのスクールライフが描かれるのだが、次の章では別のキャラクターの視点から第一章が語り直される。つまりこの映画はジェイコブくんを主人公とした物語ではない。
群像劇だ。
同じ時系列の中でいろんな人物がいろんな思いを抱えていて、その悲喜こもごもを多角的に見つめていく…という疑似オムニバス形式をとっているのである。だから映画はジェイコブくんを「特別扱い」しない。奇しくも校長先生がいじめっ子の気持ちもいじめられっ子の気持ちもすべて察している「神の視点」の持ち主であるように、登場人物全員をやさしく見守る作品となっていますねぇ。心があったかいですねぇ。
私のお気に入りは映画後半の第三章で、ここでは姉のイザベラちゃんにスポットを当てている。両親がジェイコブくんに付きっきりで少し寂しい思いをしているイザベラちゃんのロンリーハーツをおセンチに描いた絶品の章なのである。
「手のかからない子」ゆえに親に構ってもらえないイザベラちゃんは一家団欒の場でも透明人間だ。ジュリア・ママーツと父さんウィルソンは「学校はどうだった?」とジェイコブくんに話しかけ、「ゴリクソに虐められたわい!」と叫んで部屋に駆けて行くジェイコブくんを追って食卓から離れる。ひとりその場に残されたイザベラちゃんは「私にも聞いてよ…」と寂しそうに呟くが、その声は誰にも届かない…。
イザベラちゃああああん!
手のかからない子ゆえに寂しい思いをしているイザベラちゃああああん!!
それでも弟を憎まず、毎晩自分の部屋に行くときに必ずジェイコブくんの部屋の方を見てニッコリ微笑むイィィィザベラちゃああああん!!
きっと心の中で大好きな弟に「おやすみ」って言ってるんだよね。オレには聞こえるよ。キミの内なる声、その優しさがああああああぁ。
彼女のエピソードが徹頭徹尾せつないんだよね。祖母だけがイザベラちゃんのことを一番に可愛がっていたが数年前に死んじまって、唯一の理解者だった大親友(ダニエル・ローズ・ラッセル)も高校デビューしてギャルになってしまい、すっかり疎遠に…。
だけど家族には祖母の死を引きずっていることや親友と疎遠になったことを隠して「手のかからない子」を演じている。ただでさえ両親はジェイコブくんの面倒を見ることで手一杯だから…。
イィィィィィィィィィィィィ!!
なんといじらしい娘よ。観る者はただロンリーハーツ・イザベラの穢れなき魂に哀憫の涙を浮かべることだろう。この映画がむしり取った全観客の涙のうちの約89パーセントはイザベラちゃんのために流されたものである。統計学的に言って。
イザベラちゃん(私イチオシのキャラクター)。
そんなイザベラちゃん、高校の演劇部で出会ったユニークな男子ナジ・ジーターと交流を重ねるようになるが、どうもナジはイザベラちゃんに気があるご様子。気をつけてね、イザベラちゃん。こういうユニークな奴が一番危ないんだよ。
こいつマシンガン持ってるからね!
(※マシンガンが入ってそうな楽器ケースを持ち歩いている)
ナジは演劇の稽古を口実にしょっちゅうイザベラちゃんを誘い出し、とうとう「キスがしたい」などとふざけたことをぬかしてキスに発展。
イィィィザベラちゃああああん!!
これまで弟の陰に隠れていたイザベラちゃんが…ついに人生のヒロインに!!
滂沱たる涙に頬を湿らせながらの祝福。
それはそうと…おいナジ、てめぇ!
これからはテメェがイザベラちゃんを引き立たせる脇役だからな。幸せにしないと許さないからな、このマシンガンボーイがぁぁぁぁぁぁ。おしゃれなマフラーを首から掛けやがってクソがぁぁぁぁぁぁぁぁどこで買ったんじゃオラぁぁぁぁニッセンかぁぁぁぁ?
そして疎遠になった親友ローズが劇の主役をイザベラちゃんに譲るクライマックスで、ついに彼女は文字通り「映画のヒロイン」としてスクリーンを支配し、喝采を浴びる。これによってローズとの関係を修復し、ジュリア・ママーツはほとんど構ってやれなかった娘の晴れ舞台を見て大粒の涙をこぼすのだ。イザベラちゃんの孤独や悲しみがまとめて浄化されゆく本作最大の見せ場である。
『ワンダー 君は太陽』の「キミ」とはイザベラちゃんのこと!
おしゃれなマフラーを首から掛けるマシンガンボーイと結ばれたイザベラちゃん。父親気分で複雑な思いを持て余すわたくしめであります。
◆甘い映画だがウソはない◆
あっ…。もしかしてアレけ? イザベラちゃんの話しかしてないけ?
そいつはまずいな。最後ぐらいちゃんとした映画評を書かねば。
周囲から浮いた主人公が世界との関係性を築いていく…という点では『ウォールフラワー』と軌を一にしたテーマで、『スター・ウォーズ』や『オズの魔法使』(39年)といった他作品の引用も『ウォールフラワー』に通じる。
ボイスオーバーやセリフ回しの妙には言葉を扱うチョボスキーならではの強みが出ているし、音楽の入れ方やスローモーションの使い方も情感豊か。学校と家庭内での色調の対比もいい。
なんといってもジェイコブくんの親友を演じたノア・ジュプくん(『クワイエット・プレイス』で花火ぶち上げてた息子)をはじめ子役たちの芝居がとても活き活きしている。それだけでお兄さんウルッときちゃうな。
他方、ショットや演出の引き出しは極端に少ない。
とてつもなく単純な映像言語で作られているが、まぁ、それは『ウォールフラワー』もそうだったし、もともとチョボスキーは小説とか脚本とかそっち系(文系)の人で、こちらとしてもチョボスキーの作品に「映画」は求めていないので特に問題視する必要はなかろう。
ただ、やはりノイズになるのは過剰な説明台詞だろうか。
全員が思ったことをべらべら喋っちゃってて、まるで映画のメッセージを押しつけられてるような鬱陶しさが興趣を削ぐ。あまつさえ両親以外の主要キャラクター(自分の章を持ったキャラクター)はボイスオーバーという必殺技を持っているので心の声ぶちまけ放題。
ジェイコブくんの言う「僕はハロウィンが大好きなんだ。なぜって皆が仮装するから誰もボクの顔を見て笑わないんだ!」とかさ…、そんなこといちいち説明されなくたってこっちで察するよ!っていう。
また、祖母や犬をめったやたらに死なせることで涙をむしり取っていくストロングスタイルは実に日本映画的。殺すよね~。愛犬を失って一人で泣いてるオーウェン・ウィルソンなんて「あれ? 『マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと』(08年)の続編を観てるのかな?」と錯覚したほど(ちなみにこの父ちゃん、何の仕事してるのか一切わかりません)。
とにかく役者陣がよく泣く。観る側もそれにもらい泣きしちゃってる状態で、果たしてどこまでが「感動による涙」で、どこからが「タダのもらい泣き」なのかという問題はあると思うんだよな。
泣いてる人を見て思わずもらい泣きしてしまうのは至極当然のこと。それただのミラーニューロンですから。ことにジュリア・ロバーツに関しては登場シーンの三分の一は目に涙浮かべてるからね。「ジュリアの涙」というオリジナル目薬が作れるよ。ロート製薬から新発売だよ。
逆にいえば、手っ取り早く観客を泣かせようと思えば役者が先に泣いちゃえばいいわけね。それにつられて勝手に泣いて「泣ける映画」とか言ってくれますから、観客は。バカだから。
『ワンダー 君は太陽』は性善説ありきのファンタジーである。映画として甘っちょろい部分もある。もらい泣き作戦という小賢しいことも陰でやってる。
だけどここで描かれるコミュニケーションには妙な多幸感があって、作り手の側にウソが見えない。つまるところチョボスキーの魅力はこれに尽きるのではないかしら。血の通った被写体、しかも映画に体温がある。
そしてイザベラちゃんがいる。
この娘は推していくでぇ~~。
最高の家族写真(犬は死んでおります)。
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