シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

それから

愛人に間違われたキム・ミニがえらい災難を被る不倫コメディ(漱石ほぼ関係なし)。

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2017年。ホン・サンス監督。クォン・ヘヒョ、キム・ミニ。

 

小さな出版社で働きはじめた女性アルム。社長は妻に浮気を疑われており、アルムの出社初日に社長夫人がやって来て彼女を夫の愛人だと決めつける。その夜、社長の本当の愛人である前任者がひょっこり戻ってきたことから、事態は思わぬ方向へ転がっていく。(映画.comより)

 

おはようございます。

昨日、友達からハンカチをプレゼントしてもらったので有難く雑巾として使っています。

かなりどうでもいいけど、ハンカチのことをハンケチと呼ぶ人がいるよね。芥川龍之介とか。あなたはどっち派? 一応聞いたけど教えてくれなくていいよ。かなりどうでもいいから。

本日は「ダラッとホン・サンス週間」第三弾ですね。昨日のアクセス数はいい感じに下がっておりました。そろそろ飽きて始めてる読者が大部分だとオレは読むね。だが考慮しない。読者の顔色を窺うような書き手などカスである、と常々オレは思っているんだ。常々な。

てなこって『それから』。こんなレビューなんて読まなくていいからとにかく見てほしい、というタイプの映画です。気張っていこーう。

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◆物語らないホン・サンスが洒落たプロットを物語る!◆

眠い映画を撮ることでお馴染みのホン・サンス『それから』はバキバキのモノクロ映画である。

ただでさえ眠い映画なのに、ふざけるんじゃない。

なお、タイトルは夏目漱石の同名小説から取られているが映画の内容とは何の関連性もない。ふざけるんじゃない。

物語は、文芸評論家でもある出版社社長(クォン・ヘヒョ)のドタバタ不倫劇が中心になっていて、彼がラストシーンでキム・ミニ演じる女性社員に漱石の本を譲るまでをコミカルに描いた内容となっている。いち漱石ファンとしては「ほぼ関係ねえじゃねえか!」てなもんなのだが、冷静に考えるとホン・サンスが漱石の映画化などするはずがないのだ。


本作はホン・サンスの過去作のなかでも最も劇映画性に彩られたたいへん見やすい作品である。有難いことだ。劇映画性に彩られているというのは、すなわち一本筋の通った「お話」が存在するということ。有難いことだ。

ホン・サンスといえば、煙草を吸いながらカフェや居酒屋でクダを巻き続ける男女をジーッと捉え続けた長回し主体の「何も起きない映画」の量産者だが、そんな彼がついに「お話」という概念を獲得した記念すべき作品なのである。

ホン・サンスと「お話」の結婚。

もともとホン・サンスは脚本やストーリーといったものよりも「空気」とか「手法」を味わうべき作家なのでストーリーを説明したところでまったく意味がないわけだが、本作には明確なストーリーラインが存在し、筋を追う楽しみを保証してくれる。なんたる親切設計。なんたるホン・サンス入門。まるでジョン・カサヴェテスの『グロリア』(80年)だ。


映画は、クォン・ヘヒョ演じる出版社の社長が「女ができたの?」と妻に問い詰められるシーンに始まる。果たしてクォンには同じ会社に愛人がいたわけだが、やがて愛人は別れ話を切り出し、会社を辞めて姿を消してしまう。そこへキム・ミニ扮する新入社員が現れる。クォンはミニを昼食に誘い、軽食屋で「愛と信仰」にまつわる哲学談義を延々続けるのだが(ホン・サンス丸出しのシーン)、会社に乗り込んできた妻がミニを浮気相手だと勘違いしてしまって…というのが主なストーリー。

なんだこれは。まるでビリー・ワイルダーのロマンティックコメディみたいな筋書きじゃねえか!

果たして「物語らないホン・サンス」がこんな洒落たプロットを物語ることができるのだろうか…?

できてた。

相変わらずワンシーン・ワンショットの長回しを多用してはいるが、ストーリーはしっかりとテリングされ、物語は心地よい緊張感を保ちながら然るべき結末に向かってスィンスィン…と推移していく。最高だ。

語りのうまい映画は実に快感である。ワイルダー、ホークス、ヒッチコック…。

そしてホン・サンス。

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クォン社長の妻(右)に浮気相手だと決めつけられたミニ(左手前)。


多少の違和感はあれど話を追うぶんには何の支障もない

クォンの妻に「アンタが夫を寝取ったのね。許さねぇ~~」と誤解されて顔面をしこたまシバかれたミニ(とばっちりがスゲェ)は「会社を辞めます…」と言ったが、クォンは彼女を必死で引き留める。

そのあと、クォンの前にフラッと愛人が戻ってきて「もう一度あなたとやり直したい」と言い出したのでその愛人を再雇用せねばならなくなり、そのためにはやっとの思いで辞職を思い留まらせたミニに辞職してもらわねばならないという、ひどくややこしい事態に発展する。クォンの出版社はカスみたいに小さい会社なので一人しか雇えないわけ。

クォンとしては愛人と元の鞘に納まったのでミニには辞職してもらいたいわけだが、ミニとしてはクォンの妻からあらぬ誤解を受けて暴力を受けたうえ、愛人騒動のために会社まで辞めさせられるのは納得がいかない。

両者一歩も譲らず押し問答を繰り返すのだが、このワンシーン・ワンショットはホン・サンスの「精髄と挑戦」が詰まった素晴らしいショットだと思う。

男女がひたすら話し続ける…という長回しはホン・サンス作品ではよくある光景だが、ここで二人が発している言葉は毎度恒例の「取り留めのない会話」ではなく「ロジカルな舌戦」なのである。

ロジカルというのがポイントで、これは従来のホン・サンス作品にはなかった要素だ。ホン・サンス作品に出てくるキャラクターは、まるでストーリーから逃避するように無意味な言葉しか口にしない。タランティーノ映画のように。

ところが本作では、文芸評論家のクォンと文学に精通したミニが高度なレトリックを駆使して「辞職の正当性」を争い合ったり「愛と信仰」にまつわる哲学議論を展開するのだ。サロンかよ。

そして激論の末、ミニに言い負かされたクォンがぽろぽろ泣きだす。

倍近くも歳の離れた女性にバッサリ論破されて泣きだす中年親父(しかも浮気性のクズ)。

サンス作品の男はいつも情けない。言い訳がましく保身に走るスケベ野郎ばかりだ。クォンもそんなサンス的男性で、このつまらない不倫劇に運悪く巻き込まれてしまったミニの視点を通して「男の滑稽さ」がじわじわと炙り出されていくのである。


例によってこの主人公もサンスの分身であり、ミニとの不倫スキャンダルを自虐的にルポタージュした半自伝映画となっている。

だとすれば、ミニが愛人役ではなく「不倫劇に巻き込まれる新入社員役」を演じているのは一見辻褄が合わないように見えるが、ここにはひとつトリックがあって…。

特定のショットだけミニと愛人の見分けがつかないという不思議な撮り方がされているのだ。

さらに不思議なのは、無事に辞職したはずのミニが次のショットではなぜか普段通りに会社で働いていたり、明け方とも夕暮れともつかぬ街をランニングするクォンの服装が次のショットではまるっきり別の服と入れ替わり、そのうえ脈絡もなく泣き始めるのである(よく泣くな、こいつ)。そして極めつけは、同じようなシーンが二度繰り返される。デジャブ。

何がどうなってるのかよく分からない撮り方がされているわけだが、ゴダールほど滅裂ではないので、一瞬「今のなに?」と感じてもひとまずスルーして話を追うことはできるが…それにしても何がどうなってるんだ?

この映画、どうやら時系列をシャッフルしているようなのよね。

それと同時に、ミニと愛人の見た目の類似性から「二人は同一人物ではないのか?」とか「どこかのタイミングで二人が入れ替わったのでは?」といったさまざまな可能性も示唆されている。

そう聞くとひどくややこしそうな映画に思えるだろうが、先ほども述べたように多少の違和感はあれど話を追うぶんには何の支障もないという絶妙な物語設計になっているあたりに感心してしまう。時系列をガンガン入れ替えてるのに、表面上は「一本筋の通った物語」がくっきりと像を結ぶ。まるで逆さ絵みたいな映画だ。

じつにホン・サンス。

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クォン社長と愛人が抱き合っているところを偶然目撃してしまうミニ。気まずい。


◆月と太陽を無視した映画◆

映像面では、フィリップ・ガレルの近作を思わせる疑似モノクロ映像が豊かな味わいを醸している(と言っても白飛び寸前のメチャクチャな撮影なのだが)。

近ごろの映画は雰囲気だけでモノクロを選んでるような浅慮も甚だしいファッキン・スノッブ・ムービーが多いが、サンスがあえてモノクロを選んだ理由のひとつは明け方と夕暮れを混濁させたかったからだろう。

劇中の時間帯を把握させない、というミスリードの上にこそ時系列シャッフルによる混乱の誘いは成り立つのである。だから画面が白く飛んでいて、われわれは朝か夜かも分からない無時間性のなかに放り込まれてしまうのだ。

本作に限らず、サンス作品には「時間の流れ」というものが存在しない。

コインを裏返すようにパタッと朝から夜に変わる。朝が朝である必要もなければ、夜だからこその映画の艶めきもない。サンスにとっては月も太陽も等しく無価値であり、どっちがどっちだろうと構わないのだ。大概はカフェか居酒屋が主舞台なので、外の景色がどうなっていようと知ったこっちゃないのである。


この「計算高さ」と「デタラメさ」が結婚した世界において、タイトなジーンズを履きこなすキム・ミニがよく映える。まぁ映える!

『夜の浜辺でひとり』(18年)『正しい日 間違えた日』(18年)の評ではあえて触れなかったがキム・ミニがバカみたいにチャーミングなのである。

クォンとの長台詞の応酬の隙間にティーカップを弄んだり首をすくめたり…といった何気ない所作がパッと画面を明るくしていて、観る者はただ「いいなぁ、いいなぁ…」と呟きながら痴呆老人のごとき眼差しを向け続けるのみ。クォンの妻からバシバシ殴られるうちに結んだ髪が少しずつ解けていくさまなどほとんど奇跡の光景といっていい。

一方のクォン・ヘヒョは相変わらずアゴがしゃくれていた。

「何をそんなしゃくれる事があるん?」と思うほどバッチリしゃくれていた。

夏目漱石に無理くり紐づけた、しゃくれオヤジのドタバタ不倫劇(ミニ付き)。大いに推したい一本でございます。

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