見たまんまのゾンビ映画。
1956年。小津安二郎監督。淡島千景、池部良、岸恵子。
サラリーマン杉山正二と妻の昌子は、子供に死なれて以来、冷え切った関係にある。通勤仲間のOL千代と深い関係になる正二。先の見えない会社生活に不満を隠さない彼だったが、友人の死と地方への左遷を機に千代と別れ、昌子との再出発を誓う。 (キネマ旬報社データベースより)
はーい、ポケモン剣盾ユーザーのみんな。
最近配信された追加コンテンツ「鎧の孤島」を遊んでる? 私は数回リセットして5Vのダクマをゲットしましたよ。進化先は迷ったけど、ミミッキュ対策として「一撃の型」よりも「連撃の型」にしました。
あとヨロイ島では後ろからポケモンがちょこちょこ付いてきて、その可愛さに参ってる。私がダッシュすると後ろから一生懸命走ってくるんだ。そんな短い足で…。
いじらしいとはこのこと(このあと野生のピカチュウはころしました)。
はぅあ! そんなことより映画評やらんと!
当くそブログは、目下「続・昭和キネマ特集」のシメとして小津映画5連発をしていて、今日はその3連発目にあたるわけだが、これが全部終わったら映画とは何の関係もない随筆をいくつか載せていこうと思ってる。
しかも数年前にmixiで載せた随筆を使い回す形でな。
なぜこんなセコい真似をするのかと言うとレビューストックが減りつつあるからだ! こっちの事情もちょっとは汲め、ばか! 映画ブログだからといって映画の記事ばかり上がると思ったら大間違いだぞ! それは読者のエゴ! 驕り! 君たち一人ひとりがこの国をダメにしている! これは皆で考えていかなきゃいけない問題!
今日のまなび:映画ブログなのに過去に書いた映画とは全く関係ない随筆を時間稼ぎのために使い回しするのは筆者の問題ではなく日本国民全員の問題。
わかりましたね。皆さん一人ひとりの意識の問題なんですよ。まぁ、わかったらいいんです。ゆるす。俺はお前たちを許していく。
そんなわけで本日は『早春』です。
◆小津らしからぬ不倫劇◆
戦後小津映画は家庭内でのちょっとした騒動をユーモラスに、あるいはセンチメンタルに描いたホームドラマが大部分を占めるが、『東京物語』(53年)の次に撮られた『早春』はゴリゴリの不倫映画である。まじめな妻に飽きた夫が同僚の女と一夜をキメて窮地に追い込まれていく…という他の小津作品では考えられないほど不良性が高く、また夫をたぶらかした同僚というのが好き者の悪女で、どうにも参っちゃうんである。どことなく成瀬*1の本を小津が撮ったようなピッタリこない感じに戸惑ってしまうが、小津自身があまり気に入ってない『東京物語』が思いがけず世界的評価を受けたことである種の叛逆精神を見せたのか、“古きよき日本の家庭”はここにはない。
夫婦役を池部良と淡島千景が演じており、池部の不倫相手が岸恵子である。豪華なんだ。豪華なんだが、やはりピッタリこないんだ。
開幕、蒲田に長屋住まいをしているサラリーマンの池部が同僚たちとハイキングの計画を立てる。
同僚の一人の岸恵子は、金魚みたいに目が大きく、煮ても焼いても食えないことから「キンギョ」と渾名されており、ハイキングではヒッチハイクをして池部とトラックの荷台に乗り同僚たちを追い越してしまうズルい女なのである。また池部に飴ちゃんを分け与えて秘密の味を共有したりもする。
そんなキンギョ、池部や高橋貞二らが麻雀をしている所に現れてはいろんな男にさり気なくボディタッチをして回る仕草など実に狡猾だ。男たちとの親交を築きながら池部にやきもちを焼かせて自分に意識を向けさせるという一挙両得の作戦である。他方、男たちも彼女の性質を判っているからこそ「キンギョ」と呼んでいるのだ。愛想はいいし美人だが、好きになると痛い目を見る。煮ても焼いても金魚は食えない。
キンギョ役の岸恵子は、全3部作の超大作『君の名は』(53年)で一躍スターダムに上り詰め、この『早春』の翌年にフランスに移住した日本映画界の女帝である。当ブログでは『黒い十人の女』(61年)を扱っており、そちらでも男を惑わすヴァンプを涼やかに演じていた。
「空飛ぶマダム」の異名を欲しいままにした岸恵子。
池部は食えない金魚を食った愚者だ。
家では恐妻家の千景におびえ、会社では総務部長にペコペコしながら雀の涙ほどのサラリィを得る毎日。満たされぬ家庭と会社の往還にパッと現れて微笑んでくれたのがキンギョだったので、ついグラリと揺れた男心はキンギョの待つ料亭へと池部を向かわせ、しなだれかかる彼女のキスを受け入れた。旅館に泊まった翌朝は後ろめたさから不機嫌になりキンギョを置いて先に帰ってしまう。
不倫よりも最悪なのは「昨夜どこへ行ってらしたの?」と詰め寄る千景に「病気で退職した同僚の見舞いだ」と嘘をついたことである。会社をやめた増田順二が病床に伏しているのは事実だが、皆で見舞いに行こうと話していた同僚たちに嘘をついてキンギョと逢引き、家に帰れば見舞いに行っていたと妻に嘘をつくのだ。
小津が東宝から借りてきたハンサムスター・池部良は、『青い山脈』(49年)で原節子と共演し、高倉健の『昭和残侠伝』シリーズではレギュラーを務めた東宝の宝刀!
東宝のリーサルウェポン、池部。
そして妻の千景。
生後間もなく死んだベビーのことをすっかり忘れた夫に日頃から苛立ちを募らせていたが、輪をかけるように今度の浮気発覚、そのうえ泥酔した戦友2人を真夜中に家に連れてきて二階でドンチャン騒ぎ。それが原因で翌朝ベビーの墓参りに寝坊した池部には怒りを通し越して呆れ返っている様子。
小津組は3回目の慣れっこちゃん、淡島千景。代表作は小津の『麦秋』(51年)、市川崑『日本橋』(56年)、成瀬の『妻として女として』(61年)などさまざま。ちなみに私は自他ともに認めるチカゲーである。現代劇では何とも思わなかったのに、時代劇での髷姿の美しさにアッと驚き、爾来チカゲーを自称するようになったのだ。
チカゲー…淡島千景に魅せられし者のこと。
◆ゾンビ夫婦◆
小津映画はよく見ると不気味だが、とりわけ『早春』は群を抜いて不気味である。
映画が始まると早朝の蒲田の風景が3つ続いたあと、夫婦が暮らす長屋の中。横向きで猫のように背を丸める池部の隣りでは千景が仰向けで寝ているが、カメラは二人を足元から捉えているので早速気味が悪いのである。
仰向けに横臥している人間を足元から捉えるのは死者を映す構図であり、あまつさえ早朝なので室内は薄暗い。固唾を呑んで次のショットを待っていると眠る千景の横顔である(それはもう綺麗な横顔)。
『晩春』(49年)の原節子と笠智衆の角度のついた横顔ではなく完全なる真横。おまけに手は胸のうえで組まれているのである。
思いっきりお通夜の遺体。
この横臥=死のイメージは、映画後半で病死した池部の同僚・増田が身をもって表象してもいた。
死者の構図にすっぽりおさまる千景。
直後、目覚まし時計がジリリと鳴ると「おまえが止めろよ…」と言うかのように池部がモソモソと寝がえりを打ち、不意に手だけ動かしてこれを止めた千景、目を閉じたまま機械のように上半身を起こしたところでカットが入り、次のショットでは朝日の逆行で顔だけ黒く塗り潰されたままウーンと伸びをして、髪を整え、立ち上がってカーテンを開けるが、その間も顔だけは黒いシルエットに象られたまま…。
まるでゾンビじゃん。
ゴミ出しのときに家の前を掃除していたご近所さん(杉村春子)と笑顔で挨拶する場面に至ってはじめて顔にライトが当たったことで、ようやく人はこの“ゾンビ”が淡島千景なのだと識別する。
まあ、巧いんだよ。家の中では死人のように専業主婦をこなし、外に出づれば笑顔で挨拶する「抑圧された妻」を、起床→ゴミ出しまでの僅か1分(4カット)だけで描き上げる小津は、やはり巧いのだ。
でもそれ以上に怖いのだ。
顔が塗り潰されて表情芝居ができないのに、身体の動きだけで千景ちゃんの抑圧、忍耐、苛立、辟易をひしと感じる「死んだ妻ぶり」がウンと怖いのだ。
ゾンビなのだ。
やめてほしいのだ。
怖い怖い怖い怖い。
観る者を不安に掻き立てずにおかない更なる不気味はサラリーマンの出勤シーンである。ここは『早春』の悪夢ともいえる小津屈指の迷場面。
池部を含むサラリーマンたちがいざ働かんとして続々と家を出て会社に出勤する。カットが変わるたびに人数が増えていき、最終的にはサラリーマンのパレードみたいな様相を呈するのだが、このシーンが不気味なのは、みなが同じ歩調で同じ方向に歩んでいく…その思考停止の行進ぶりなのである。ぞろぞろとフレームインしては、まるで宇宙人に洗脳された民衆が夢遊病のように一所に集まるがごとき通勤スタイルの不気味さ。
尤も、ここには画一化されたサラリーマンへの皮肉と同情が込められているのだろうが、それにしてもじゃん。それにしても、これほど大勢の人間が街を歩きながら、さも全員が同一企業の一員でございといった足取りで同じ方角に向かって進行する違和感は奇妙美という急拵えの造語で表現するほかなく、そのあまりに統制の取れすぎたショットは「現象として奇妙」でありながら、それ以上に「映像として奇妙」を感じさせてやまぬのである。ウンと奇妙なのである。
やめてほしいのである。
集団催眠にかかったように同じ歩調、同じ方角で出勤する人々の不気味。
早い話がこの夫婦はゾンビなのだな。
毎朝目覚ましを止めて起き上がり無感情で主婦業をこなす千景が家庭のゾンビだとすれば、毎朝みんなと同じ方角・同じ歩調で出勤する池部は社会のゾンビ。
ハイキングの場面も然り。殺風景かつ無機的なセット撮影で描かれたこの場面は、さきほどの出勤シーンと同じように一方向&同歩調でペタペタと歩くサラリーマンたちが描かれており、同僚の高橋貞二は「ハイキングってあんまり面白くねえな」と身も蓋もないことを言う(会社勤めへの倦怠を表すダブルミーニング)。
だから同僚たちとのハイキングでキンギョに誘われトラックに乗った池部は「おーい」と追ってくる同僚たちに笑顔でキンギョと手を振り、ゾンビから解放されたのである。トラックに乗るという“ズル”はハイキング(真面目なサラリーマン生活)の棄却であり、キンギョとの不貞行為そのものでもあったのだ。
キンギョ「あの車、停めて二人で乗っちゃおうか?」
背徳のヒッチハイカーたるキンギョは、池部とズルの共犯関係を結ぶことで彼を“人間”に戻してくれた。その代償は高くついたものの、「おーい、待てよー」と追ってくる同僚たちのやはりゾンビのような奇妙なようすに比べれば遥かに人間的だ。キンギョだけが劇中ただひとり活き活きしており、希望と生命に満ちたキャラクターとして特権的に光彩を放っていた。
キンギョと共にゾンビからいち抜けする池部。
さすればゾンビ妻はどこで“人間”に戻るのか。
夫の不倫を問い質した千景は家を飛び出し、友人・中北千枝子のアパートに身を寄せる。千枝子が仕事から帰ってくると千景が晩酌の準備をしており、二人で酒を飲みながら浮気男の悪口を言う。
千枝子「ご亭主の帰りがちょいちょい遅くなるようなら警戒警報よ。歴史は夜作られる」
ちゃぶ台の前にどっかと座って酒をあおる千枝子と、せかせかと動く千景は夫婦そのものだ。思えば池部と千景の夫婦生活には小津映画の代名詞であるちゃぶ台での食事風景がなく、唯一それがみとめられたのがこの場面なのである。
したがって千景は、実生活で築けなかった池部との楽しい夫婦生活を千枝子との疑似夫婦の間に形成することで「死んだ妻」から甦っていくのだ。
ソウルメイトの千枝子。
◆団扇とおでん◆
結局のところ『早春』とはどんな映画なのかというとあおぐ映画に違いないのだ。真の主役は淡島千景でも池部良でも岸恵子でもなく団扇なのである。きっと本当なんだ!
『早春』という題にも関わらず季節は夏。どのキャストよりも団扇が画面に映っている時間の方が長く、さまざまな人物がパタパタと団扇をあおぐが、中でもヘビーユーザーなのが千景。まるで夫への怒りを冷ますようにほとんどのシーケンスで団扇をあおぎ続けている。いかにも風流だなア。並みの監督ならぶっきらぼうに家事をさせてみたり貧乏揺すりをさせることで主婦の苛立ちを表現するのだろうが、小津は一見優雅にすら見える「団扇をあおぐ」という運動によって「怒りを自制する妻」を描く。やはりスナップの利いた手首と忙しなく動く団扇は画面に目立ち、それが妻のささくれ立つ心境を美事に可視化させている。
夫婦和解のラストシーンに至ってようやく千景は団扇を手放すが、代わりに握りしめたものは手ぬぐい。
握った手ぬぐいは抑圧や忍耐を表象する小道具であり、「小津映画の女性たち」は怒ったときに手ぬぐいや衣服を投げつける癖があるが(浮気を問い質す場面では口紅のついたシャツを池部に投げつけている)、ラストシーンの千景は手ぬぐいを弄ぶばかりで決して投げることはない。和解こそすれ到底ハッピーエンドには思えない『早春』が微妙な余韻を残すのは、ギュッと握りしめた手ぬぐいが結局は妻が堪え、許し、受け入れることでしか丸く収まらないことへの内なる苛立ちが未だ残存したまま映画が終わっていくからにほかならぬ。
思えば小津映画の結末はどれもそうだった。双方納得ずくの大団円など夢のまた夢で、大抵は誰かが折れることで何となく丸く収まるのだ。本作の千景を「ひたすら怖い」、「こんな妻は嫌だ」、「旦那が浮気するのも無理からぬこと」という論調で語った映画ブログがあったが、何をか言わんや。彼女が耐え忍んだからこそ一応のハッピーエンドに帰結したンじゃんか。「あおがれた団扇」と「投げられなかった手ぬぐい」について今一度再考されたい!
団扇をあおぐ千景。
『秋刀魚の味』(62年)で巻き尺を弄っていた岩下志麻を例に出すまでもなく、団扇や手ぬぐいのように「モノを持つ・弄る」という主題も小津映画の要点で、特にそれが顕著な本作では笠智衆のマッチ箱、池部の腕時計、キンギョのパイプなど、さまざまな人物がさまざまなモノを弄るが、私の印象に残ったのは千景の実家で小料理屋を営む母・浦辺粂子の菜箸である。おでんを煮込む腕にかけては他の追随を許さぬ浦辺は、夫の文句を言うためにやってきた千景におでんを勧める。
「おまえ、帰りにおでん持ってかないかい? よく煮えてるよ。池部さん、コンニャク好きだったろう?」
最初は「いいわよ」と断っていた千景だが、帰り際に「コンニャク、本当に持ってかないかい?」と言われて「貰ってこうかしら」と気分を変えるあたりが実にシャジツ的なのだ。母親というやつは何でもすぐに持って帰らせようとする生き物だし、子供は一度断りながらも急に欲しくなって結局持って帰っちゃう生き物なんだよね。しかも浦辺ときたら「バクダンも入れちゃうよ」とか言って余計なモノまで持って帰らせようとする。お節介という名の親心。
またこの場面の千景が浦辺の飼っている猫ミーコを抱いているのが印象深い。夫の好物のコンニャクと、失った子供の代わりに抱かれたミーコ…。
だが夫の浮気が発覚したあと別のシーケンスで再び小料理屋を訪れた千景は、またぞろ「今日もおでん持ってくかい?」と勧められたが「持ってかないわよ!」と半ギレで断った。すごい勢いで団扇があおがれております。
おでん作りの浦辺(上)、猫撫での千景(下)。
小津はむやみやたらにゾンビ感が出るのを嫌ったためか、役者陣に当てられたキャッチライトの鮮烈さは小津映画の中でも群を抜いている。あまつさえ『早春』は他作品よりローキーなので、そのぶん瞳の輝きが強調されるのだ。
池部と千景はなんだかんだで問題のある夫婦だが、ラストシーンでは夕陽を眺めながら同じフォルムにおさまり、小津の相似美を画面いっぱいに撒き散らしていた。
不倫が物語のテーマなので全体的に暗いトーンの作品だが、次作の『東京暮色』(57年)に比べれば遥かにマシなのでぜひご覧になられたい。なお『東京暮色』はトラウマ映画なので取り上げないこととする。
*1:成瀬己喜男…日本映画四天王のひとり。『稲妻』(52年)や『浮雲』(55年)などで不倫を扱った女性映画の名手。