シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ROMA/ローマ

脱ルベツキに成功した17年ぶりのキュアロン作品。

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2018年。アルフォンソ・キュアロン監督。ヤリッツァ・アパリシオ、マリーナ・デ・タビラ、マルコ・グラフ。

 

70年代初頭のメキシコシティ。医者の夫アントニオと妻ソフィア、彼らの4人の子どもたちと祖母が暮らす中産階級の家で家政婦として働く若い女性クレオは、子どもたちの世話や家事に追われる日々を送っていた。そんな中、クレオは同僚の恋人の従兄弟である青年フェルミンと恋に落ちる。一方、アントニオは長期の海外出張へ行くことになり…。(映画.comより)

 

おはようございます。

近ごろは私生活でてんやわんやしているけれど、皆さんの方は大丈夫ですか。静かな暮らしを味わってらっしゃるでしょうか。素朴な毎日こそが美しいんだ。波乱万丈の人生なんてアホらしいですよ。むしろそんな慌ただしい人生を歩まなくても済むように映画や小説が存在するのと違いますか。鉄砲が撃たれるのは映画の中だけで十分です。それがラブ&ピースってもんじゃあありませんか? レノンの魂じゃあありませんか?

 

そんなわけで昨日に引き続きNetflixオリジナル映画の『ROMA/ローマ』を取り上げますね。

今回は開けた評論ではなく、私の頭のなかをダラダラと文章化しただけの閉じた評論になっておるですね。覗きたい奴だけ覗け、といったふてこい文章です。

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◆キュアロンは打算の人である◆

『トゥモロー・ワールド』(06年)『ゼロ・グラビティ』(13年)で知られるアルフォンソ・キュアロンの最新作は70年代メキシコを舞台にある一家と家政婦の関係性を描いた自伝映画である。

本作は昨年12月にNetflixで配信されたあと、日本では今年3月に劇場公開が始まるという先後関係ムチャムチャの上映形態が話題を呼んでいる。Netflixオリジナル映画の本作が今年のアカデミー賞で最多ノミネートを達成したことで慌てて劇場公開に漕ぎつけたのだろうか。

いずれにせよ配信コンテンツが劇場で一般公開されることの奇妙さは「どこまでが動画でどこからが映画なんだ?」と頭を悩ませるKONMA08さんのような悲劇の男を生んでしまったわけだ。

いま映画の形が変わりつつあるのか…?

 

どうでもよー。

かく言う私はまったくの無関心で、『アバター』(09年)に始まった3D映画ブームも「今後映画の概念は根本から変わっていく!」みたいな騒がれ方をしたけど結局ぐっずぐずになって10年も持たずに衰退したからねぇ(こうなることは簡単に予想できたので私は一度も3D映画を観ませんでした。まったくアホらしいブームだったよ。3Dメガネに合掌)。

なのでNetflixが出資・配給していようが配信先行だろうが「映画は映画である」ことには変わりないため、まぁ好きにやってケロという感じで。本質は現象に先んじる。


さて。どうでもいい話は措くとして、本作はアホみたいに絶賛されている。この騒がれ方はちょっと異常だと思う。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(15年)『バーフバリ』(15年)のような大衆映画ならではの「参加しやすいお祭り」とは一線を画していて、映画に対してもうちょっとクールでマニアックな層が我を忘れてツバ飛ばしながら激賞していて、その磁場に吸い寄せられた一般層までもが本作を観ちゃう…みたいな珍しいお祭りが開かれております。

とことん地味なヒューマンドラマ、全編モノクロ、眠気を誘う長回し主体、しかもメキシコ映画…といった非ハリウッド要素が却って映画好きの矜持を焚きつけていて、こういう事をさせるとアルフォンソ・キュアロンは天下一品だと思う。良くも悪くも打算の人。

キュアロンは映画通にほど好まれやすい作家ではあるが、実は当代きってのヒットメイカーでもあるんだよな。あえて大仰な言い方をすればキューブリックとスピルバーグの混血的異才といったところか。

で、この『ROMA/ローマ』。パソコンやタブレットで映画を観るのはあまり好きじゃないので観に行ってきましたよ。次章ではその雑感を綴っております。

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◆エモいタイミングに満ちた映画◆

学生運動や経済格差で分裂するメキシコシティ、あるいはそこに根差した一家の暮らしをイタリア映画のような午睡感覚で綴った静かなる映画だ。

『ROMA/ローマ』というタイトルはメキシコにあるローマ地区のこと。また「ROMA」と「AMOR(“愛”を意味するスペイン語)」で倒語になっていたりして遊び心に満ちたタイトルなのだが、深読み癖のある私は「じつはイタリアのローマも掛かってるんじゃないか」などとつまらない邪推をしてしまうわけである。

「イタリア映画のような午睡感覚」と述べたように、本作にはまるでメキシコを舞台にしたイタリア映画のような趣がある。ヤリッツァ・アパリシオ演じる家政婦の視点から70年代スペインを揺るがせた市民暴動や階級問題といった当時の世相が炙り出されていて、そこで描かれる社会問題の数々がネオレアリズモと符合するのである。

まぁ、私の深読みに過ぎないんだけどね。

ネオレアリズモ(新現実主義)…1940~50年代に隆盛を極めたイタリア映画のムーブメント。イタリア社会の暗部に焦点を当てた作品が多く、代表作に『無防備都市』(45年)『自転車泥棒』(48年)など。


犬のフンの始末、家政婦のデート、フリチン武道…といった何ということはない退屈なエピソードを淡々と重ねていて、私の周りでも「居眠りしちゃいましたァ」などと言う奴がチラホラいたのだが、映画好きにとってはこの淡味な映像がすばらしくエモーショナルだったようで。

なぜ『ROMA/ローマ』は退屈なのにエモーショナルなのか?

「タイミング」がエモさの泉源になっているからだ。

まるで長回しで捉えた日常風景を切り裂くように、たとえば飛行機が映り込むタイミングだったり燃え盛る木が倒れてくるタイミングに思わずハッとさせられる瞬間が至るところにあって、それが極点に達するのが海辺で抱き合う家族のラストシーン(ポスターに使われているショット)。溺れた幼子を救って浜辺に引っ張りあげる家政婦と慌てて走ってきた母親が衝突するように抱きあうその後ろでは、完璧なタイミングで二人の真ん中に位置した夕陽が後光を発する。

激エモ!

この本作屈指といえるキラーショットのポイントは夕陽をバックにした家族が逆光で潰れていない」こと。

要するに、きわめて光学的な計算のもとに構成されたショットだということだ。

本作は水、雹、炎、太陽といったモチーフが充実していてロケシーンも多いが、実はものすごく人工的な映画だと思うんだよな。キュアロンって元々そういう人で、2つのショットをうまく繋げてワンシーン・ワンショットであるかのように見せたり、CGを使って足したり消したりするようなデジタル人間。ゆえにものすごいタイミングで飛行機が映り込んでも「CGじゃないの?」と思っちゃったりもするんだけど。

いずれにせよ「計算されたタイミング」であることには違いないので、その瞬間的エモーショナルとキュアロンの計算性がもはやサスペンス足り得ているのが本作最大の特徴でありましょう。

そのへんを楽しめるかどうかが居眠りする人間と眠らない人間をわける分水嶺になっているのでは。

ちなみに私はむちゃむちゃ居眠りした(Netflixで観返したよ)

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ポスターにも使われているショット。厳密にはスチールだけど。


ルベツキ色に染まる前のキュアロン、その素直さ

この映画、簡単に言えばテレンス・マリック、ポール・トーマス・アンダーソン、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、クリストファー・ノーランあたりが好きな奴はとりあえず観ておけという作品で、ここら辺の作家に批判的なわたくしは「ふーん」といった連れない素振りで本作を観続けておりました(そしてたまに居眠りをする)。

要するに…あんま興味ないわ、この映画。


とはいえメキシコの景色をおさめていく長回しはフィックスのパン(固定したカメラを左右に振るだけのカメラワーク)主体で、その技巧の放棄が却って映画の没入感を高めているあたりが本作の強味、すてき味、すばらし味である。

キュアロン作品と切っても切り離せないのがエマニュエル・ルベツキ(撮影監督)だが、本作ではスケジュールの都合で「ばいなら」といって離脱し、代わりにキュアロン自身がカメラをブン回している。おまえはスティーブン・ソダーバーグか?

わたくしはルベツキの撮影をまったく評価していないので、キュアロン自身がカメラを持ったことはとても喜ばしく思う。

そもそも私がキュアロン作品に懐疑的な理由は撮影技法の看過しきれぬ下品な披瀝によるもので、それすなわちルベツキのこれ見よがしな「どや、すごいカメラワークやろ! 真似できるけ!?」というあからさまな技術主義に漂うスノッブな態度。

キュアロンの初期作『天国の口、終りの楽園。』(01年)はなかなか良かったのに、同監督の『トゥモロー・ワールド』からルベツキにが芽生え始めたことで「このカメラマン、自分の撮影テクに酔ってるな」と警戒し始めたのだが、それ以降の作品がルベツキの自己陶酔ぶりを雄弁に物語っているのでザッとご紹介。

テレンス・マリックの『ツリー・オブ・ライフ』(11年)『トゥ・ザ・ワンダー』(12年)『聖杯たちの騎士』(15年)。それにアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(14年)『レヴェナント: 蘇えりし者』(15年)

もうあからさますぎて逆にすごいと思えない。映画のための撮影ではなく撮影のための撮影

そんなわけでルベツキを擁するキュアロン作品(『トゥモロー・ワールド』『ゼロ・グラビティ』)はまったく評価していないのだけど、『ROMA/ローマ』ではようやく物理的にも精神的にも「キュアロンがやりたいこと」が100パーセントの純度を保ったまま映像化されていたので、私のなかで本作は『天国の口、終りの楽園。』以来17年ぶりのキュアロン作品である。

 

また、『ROMA/ローマ』の大絶賛に裨益したのは65mmフィルムのALEXA65(ていうカメラ)。これが勝利の鍵。

クラシック映画を素通りしてきた現代人は彩度の高いモノクロ映画を観るとすぐ映像美と口にするが、そこも含めてキュアロンの打算。

画面の奥までバキッとピントが合ったディープフォーカスと、やや過剰に差した眩いほどの陽光。ソダーバーグの『さらば、ベルリン』(06年)やタル・ベーラの『ニーチェの馬』(11年)でも使われていた裏技「モノクロが苦手な人でも見ていられるモノクロ映像」を照明ではなく彩度にポイントを絞って実現した超イマ風の映像にショックを受けた。キュアロン流映像革命という点では『ゼロ・グラビティ』を超える躍進ぶりでしょ、これ。

水の用法とか後光のような陽射しといった細かい演出はこの際どうでもいい。ひとまずは「何を映すか」よりも「いかに映すか」というテーマに対してALEXA65を叩きつけたこと自体を「キュアロンらしい回答」として祝福すべきなのかもしれん。


ちょっとマジメな話が続いておりますね。ていうか独り言の域に達しておりますね。まぁいいか。どうせ誰も読んでねえだろ、ここまでくりゃあ。

本作は内容的にも撮影的にも『天国の口、終りの楽園。』に最も近い作品で、それすなわちルベツキ色に染まる前のキュアロン、その素直さみたいなものが全面に出た会心の一作となっております。

尤も、異常なほど過大評価されている点だけが違和感を残すが、前述した通りそこも含めてキュアロンの計算というか、セルフプロデュースの手腕なのだろう。

長回し主体、パン多用、アップショットなし…という共通点からホン・サンスとの類似性を論じることも可能だが、無意味なのでやめておく。

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Netflixオリジナル映画『ROME/ローマ』より。