シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ウトヤ島、7月22日

長回しは頑張った大賞ではない。

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2018年。エリック・ ポッペ監督。アンドレア・バーンツェン、エリ・リアノン・ミュラー・オズボーン、ジェニ・スベネビク。

 

2011年7月22日午後3時17分、ノルウェーの首都オスロ政府庁舎爆破事件が起き、8人が死亡する。さらに同日の午後5時過ぎ、オスロから40キロの距離にあるウトヤ島で銃乱射事件が発生し、32歳のノルウェー人アンネシュ・ベーリング・ブレイビクがサマーキャンプに参加していた10代の若者たちを次々と殺害する。(Yahoo!映画より)

 

 おはよう、都市生活者たち。

 久しぶりにTwitterのタイムラインというやつを眺めていたら「技術がどうこうではなく心に響く映画が好き。大事なのは技術じゃない。心に響くかどうかなんだ」みたいな美しいことを仰っている人がいて「それこそ技術の賜物だけどね」って思いました。あなたの心に響いたシーンはしっかり技術で出来てますよ!

また、数年前に交流のあった某映画好きに至っては、観た映画に必ず80点以上の点数をつけ、決して批判をなさらない方でした。

速やかに絶縁を申し込みました(速やかに受理して頂きました)

この国には心優しい映画好きがたくさんいます。なんて素晴らしいことなんだ。イライラが止まりません。

 というわけで本日はイライラしながらの『ウトヤ島、7月22日』です。実際に起きたある凄惨な事件を扱った映画なのだけど、わたくしは俗に言ういらちなので、事件に対する沸々たる怒りを抑えながら執筆するのが大変でした。でも、我ながらクールな批評ができたと思っている。アンガーマネジメントの上級者にぼくは遂になったのだな!

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◆地獄の72分を追体験できるで◆

映画の起源は『工場の出口』(1895年)『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1895年)のような1分足らずの記録映像である。カットの概念がなかった時代なので事実上ワンテイクの長回しで撮影されている。

その後『月世界旅行』(1902年)のジョルジュ・メリエスや『大列車強盗』(1903年)のエドウィン・ポーターがワンシーン・ワンショットを定着させたことでカットの概念が確立する。よく「ショット」と「カット」を混同している映画好きがいるが、カットとはフィルムを切って繋ぎ合わせる編集工程のことである。この編集工程をモンタージュ理論(複数のショットを組み合わせる技法)として体系化したのがD・W・グリフィスとセルゲイ・エイゼンシュテイン。

爾来、映画は「撮って、切って、繋げるモノ」として今日まで認知されているが、その100年以上にわたる歴史のなかで逆説的に発展を遂げてきたのが長回しである。

一口に長回しと言ってもショットの持続時間はさまざまで、数十秒の場合もあれば10分を超える場合もある。あるいは映画全編がほぼワンテイクの長回しになっているものまで存在する。近年の作品で言えば『サイレント・ハウス』(11年)『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(14年)『ヴィクトリア』(15年)など。その嚆矢は言うまでもなくヒッチコックの『ロープ』(48年)なのであるが。

※カットの境界を暗転やデジタル処理で隠して長回しっぽく見せている場合も多い。

さて。 ウトヤ島銃乱射事件を映画化した本作は全編のうち72分間をワンカットで撮影した意欲作だと言うじゃないか。ちなみに私は長回しマニアなので、まるで蛍光灯に集まる我のごとく本作に飛びついた。誰が我やねん。

 

2011年7月22日、ノルウェーの首都オスロの政府庁舎前で約950キロの爆弾が起爆した。その1時間半後にオスロから40キロ離れたウトヤ島で銃乱射事件が発生。狙われたのはノルウェー労働党青年部のサマーキャンプに参加していた10代のヤングマン約700人だった。

取り押さえられた犯人は、政府の移民政策に異を唱えるアンネシュ・ベーリング・ブレイビクという茹蛸みたいな顔したビチグソ野郎で、「ノルウェーを多文化主義やイスラム系移民から守るための犯行」として与党・労働党を狙ったと自供。政府庁舎前の爆弾で8人、ウトヤ島の銃乱射では69人のヤングが犠牲になり、ブレイビクは単独犯として史上最多となる77人の命を奪った。

 

映画は、事件の経緯をザッと字幕で説明したあとにオスロ政府庁舎爆破事件の実際の映像が流され、その後ウトヤ島に舞台を移して銃乱射事件の顛末を長回しでおさめていく。

この映画は生存者たちの証言をもとに作られているが、とはいえ勿論フィクションなので主人公が存在する。キャンプ先で妹と仲違いしてしまったアンドレア・バーンツェンは仲間との談笑の最中に銃声が聞こえて建物内に避難、仲間とともに森の中に移動するが、妹を捜すために単独行動に出る。

カメラは常にアンドレアの背中を追いかけるので彼女の一人称視点から映画は進行する。よって犯人の姿もほとんど映されないため、我々観客は「逃げ惑うヤングたち」と「不断に鳴り響く銃声」から事件当時の恐怖を追体験するはめになる。

実際に乱射事件が続いた72分の地獄をリアルタイム化し、犯人が撃ち続けた540発の銃弾も540回の銃声として徹底再現されていて、それらをワンテイクの一発撮りで仕上げた作品が『ウトヤ島、7月22日』である。それでは、お手並み拝見といきましょう。

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然るべき演出効果を孕んでなければ長回しの意味などこれっぽっちも無い

アホな感想をポロリと呟くならバーチャル・リアリティ感がすげえ。まるでこのサマーキャンプに放り込まれたような臨場感である。

何よりリアルなのが犯人の姿が見えないこと、あるいは逃げ惑うヤングたちが射殺される瞬間を見せないことである。

ウトヤ島は面積わずか10.6ヘクタール(東京ディズニーランドの5分の1程度)の小島なので、一度くらい犯人とニアミスすることはあってもハッキリと視界に入るほど接近・対面する確率はきわめて低い。ただでさえアンドレアたちは息を潜めてジッと隠れているのだ。したがって犯人が画面に映り込むことはほとんどない。

加えて、単独犯に対して700人もの人間が散り散りに逃げているので、カメラは彼らが撃たれる決定的瞬間を捉えることはない。POV映画、またはそれに準ずる映画において衝撃映像はリアリティを欠くという理由からあえて一切見せない場合が多いわな。よって本作でも、地面に転がった負傷者や死亡者すらほとんど見せない。

銃乱射事件と聞いて人が想像するような「凄惨な現場」など現実には無い、ということがよく分かる作品ザッツオールといえる。

戦争は非日常だが、今回のような無差別殺人は日常の延長線上にあり、だからこそいつ起きるか分からない恐ろしさがある。

最初の銃声を聞いた若者たちは「花火でもやってんの?」、「俺もやりたい。俺は花火が好きなんだ」、「キミといえば花火だよね」などとバカ丸出しの談笑に耽っていたが、悲鳴を上げながら逃げ惑う人々を見て「なになになになに。これなんかヤバいんじゃない…?」とひとまず避難、だが鳴りまくる銃声に怯えながらも「きっと何かの訓練しょ!」などと依然状況が理解できずに楽観視していたが、服に返り血を浴びた知人から「頭のおかしい奴が銃を撃ちまくってるぞ!」と聞いてようやく事態を把握するまでの流れが実に生々しかった。

日常の延長線が真っ黒に染まっていく過程である。

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銃声を聞いて逃げだすヤングたち。

 

ただし、そのために長回しという選択が果たして正しかったのかといえばノンと答えざるを得ない。

そも、長回しとは画面内に生起した「日常性」や「緊張感」を持続させるための撮影法だが、それには入念な計画と高度な計算がもとめられる。あと予行演習も。動線、画角、照明、録音、芝居、演出。それら全てが完璧に調和するタイミングも計らねばならない。

だが本作の長回しはそういうテクニカルな部分があまりに稚拙で「ただ72分カメラ回し続けました」という域を出ないので緊張感に乏しい。換言すれば(多くのレビュアーが口を揃えて言うように)退屈なのである。

木の陰に隠れているだけのアンドレアの無意味な接写。リアリティだか何だか知らないが無暗やたらに揺れ動くハンディカムの手ブレ。なによりゼェゼェ言いながらアンドレアを追うカメラマンのモタつき。

および足の絡まり。

途中でカメラマンが木の根に蹴躓いてブッ倒れるんじゃないかと心配になった(こいつがブッ倒れたら何もかも終わり)。

また、映画冒頭ではカメラを左右にブンブン振ることで対話する二者を交互に捉える…という死ぬほど観づらい映像が続く。

そうならないために切り返しショットがあるんだけど。

だが、なぜか本作は「意地でもカットは割らん。俺たちは長回しで勝負がしたいのや!」と息巻いて、あくまで切り返しを拒否する。なんで。

このように、とかく長回しを謳った映画には手段と目的をはき違えた愚作が多い。

また、長回しはそれ自体が高度な撮影法であると勘違いしている映画好きも多い。しかし、たとえ動きも台詞もトチることなく72分間カメラを回し続けたところで然るべき演出効果を孕んでなければ長回しの意味などこれっぽっちも無いのである。ただ退屈で観づらいだけなら最初から長回しなんかするな。長回しは頑張った大賞ではないぞ。

斯くして、ウェルズの『黒い罠』(58年)の冒頭3分20秒のロングテイクの前に本作の72分間は失効する。闇に消えろ。

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◆撮影者の存在が終始ノイズ◆

次に斬らねばならないのはPOV問題です。

先に述べたように、カメラはアンドレアの背中を追いかけるので彼女の一人称視点から映画は進行する。いわばPOV方式が導入されているわけだが、これが自壊を招いたそもそもの元凶。

カメラを回しているのは本作のカメラマン、マルティン・オッテルベック。もちろん出演者ではないので映画の外側にいる黒子的存在だ。決して物語世界には干渉できず、劇中のキャラクターからも認識されていない不在の存在である。

ところが、常にアンドレアに密着して行動を共にすることで、あたかも我々は映画内の登場人物がカメラを回しているような印象を受けてしまう(勿論そうではないのだが)。

いずれにせよ撮影者の存在が終始ノイズになるということだ。

「撮影してるスタッフがくっついてるってヒシヒシと画面から伝わってきちゃう」といった某レビュアーの意見の通り、なまじPOV方式で撮影したことによって本来「いないこと」とされているカメラマンの存在がメタ的に立ち現れて悪目立ちしてしまうのだ。

だから観る者の感覚からすれば、アンドレアが単独行動しているはずのシーンなのに二人いるという風に見えてしまうのね。アンドレアと撮影者だ。彼女が木の陰に隠れていても「撮影者」は陰からモロにハミ出ているので「おいおい、そんな所にいたら犯人に見つかるぞ(撮影者が)」とあらぬ心配をしてしまうわけ!

不在のカメラに存在性を附与するPOV特有の性質が裏目に出てしまったパータンね。

これを回避する方法は実にカンタン。カメラがアンドレアから距離を取ればいいだけだ。彼女を客体化する=ある程度離れた場所から撮影するだけで、かかる問題はいとも容易く氷解します。長回し映像も幾分おもしろくなっただろう。

 

映画冒頭で知り合った軟派男と雑談に耽る最終盤で、アンドレアがシンディ・ローパーの「True Colors」を歌うシーンにはちょっと笑った。軟派男はアンドレアの恐怖心を少しでも和らげようとしてあえてつまらない話を振る。この雑談シーンは10分以上あってかなりダルいのだが、ただただ悲惨でしかない本作に於いて、ほんのちょっぴりだけ心が軽くなる好いシーンだと思う。

読む人が読めばモロにネタバレになってしまうが、カメラがアンドレアを離れて軟派男に付くラストシーンは是非の判断に迷う。映画理論から言えば明らかな反則行為だが、救助ボートに乗り合わせた軟派男と「ある人物」のラストショットを見るにつけ理論なんてどうでもいい気もする。

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見るべきところが全くないわけではないけれど、人がこの映画に賞賛の声を寄せることにいささかの抵抗感を抱くのは『静かなる叫び』(09年)というあまりによくできた前例に対して既に賞賛の言葉を撃ち尽くしたためである(今や『ボーダーライン』『ブレードランナー2049』で売れっ子になったドゥニ・ヴィルヌーヴが監督したモントリオール理工科大学虐殺事件の映画化)。

事程左様に、褒めるのは難しい。だが少なくとも「長回し(あるいはPOV)とは何か?」について再考を促すことには成功しているようだし、何よりこの忌わしいノルウェー連続テロ事件を改めて世に問う契機になったことだけは確かだろう。

犯人のブレイビクは逮捕され、刑務所の中でプレイステーション2を遊び倒しているとのこと(プレイステーション3に換えるよう待遇改善を求めたらしい)

あかん…、そろそろ評を締め括ろうとしたのに…腹立ってきた。

プレイステーション3に換えろだ? 随分ナメた口を利く野郎だな、茹蛸みたいな顔しやがって。今さらビデオゲームなんかしなくてもテメェはすでに史上最悪のゲームをしたじゃねえか。540発の弾丸と950キロの爆弾のことだよ。なぁ、思い出せよ。

この茹蛸野郎は2015年にオスロ大学に入学を認められ、服役先から政治学を学ぶに至り(どの面さげて政治学だよ)、2017年にはフィヨトルフ・ハンセンという洒落た名前に改名した。

なおノルウェーには死刑制度がない。立派なもんだよな。

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ⓒ2018 Paradox